第26話 選択と意思
それがセエラに必要なもの。
かつて神がいた時代の話など、様々な伝説、与太話、教訓話や噂話、戯曲に子守唄と、語っていけばきりがない。
その中から更に信憑性のあるものを選りすぐるには人の一生など短すぎる。
だから、現状をもとに決める必要がある。
彼女の目の前にあるのは事実だけ。
彼女が迫られている決断は一つだけ。
「ラウフデルに入るのか?」
金髪の軍人、いや脱走したため元軍人と呼ぶべきかもしれない青年に問われ、セエラは返答に詰まる。
眼前にはラウフデルの巨大な都市壁。
背後には果てしない不毛の大地。
片や、教会に反するものは粛清される死の都。
片や、生きて帰った者はいない絶望の荒野。
手中にあるのは腰に巻いた小さい鞄に入ったごくわずかな硬貨と応急手当に使う布や薬。
「俺はラウフデルに入る」
クロスタがそう宣言する。
「少し歩いた場所に海岸線があった。遠くまで見渡せたが、街の反対側に他の人間の姿はなかった」
彼はラウフデルを見据える。
「キエルを捜す」
彼の言葉に一切の迷いはない、セエラにはそう感じられた。
セエラにだって他の人間の行き先は気になる。デニア、ヤシュー、ラディ、海賊達、キエル、老婦人、溜まり場の人々。
それに両軍の他の船だって竜巻には巻き込まれていたはずだ。街の反対側に何もないなら、すべて街か海かのどちらかに落下したはずだ。
それも、全員無傷で落下するなんてことあり得るだろうか。セエラとクロスタに目立った外傷がないのが不思議なくらいだ。
現在の街の中は、突発的な災害とともに様々な立場の人間が訪れ、住民も海にいた人々もかなりの数が負傷し、混乱の最中にあると推測できる。
そのような中に乗り込んでいくなど自殺行為だが、セエラ達が逃亡して厳戒体制が敷かれていた時よりは、いくらか警備に隙ができているかもしれない。
されど、セエラは教会、いや一般市民にとっても最優先で確保すべき人物のはずだ。教会の判断によっては即日処刑だって予想の範疇だ。
「いきたくない、私……入らない……」
「そうか」
「これ返す」
「必要ない」
セエラが差し出したコートを受け取らず、彼は背を向けて歩き出した。
ちくりとした胸の痛みを感じながら、セエラは小さく口にする。
「大丈夫、私は頑張れる」
そうだ、また一人になった。
一人になっただけだ。それがどうした。
胸を張って進もう。私はあんなに頑張れたんだ。
これからもきっと大丈夫。大丈夫じゃなくても切り抜けてやる。
今までの私じゃない。何もできなかった私じゃない。どこだって生きていける。
荒野がなんだ。誰も帰らないのがなんだ。
行った先が楽園かもしれないじゃない。生きる可能性が低くても、殺される理由がないだけラウフデルよりずっとマシだ。
脚が、腕が重い。それでも引きずって進もう。
太陽が闇に変わらないうちに。雨雲が訪れないうちに。
早く、早くここから立ち去ろう。
これでいい、これでいいから。
--本当に?
「頑張れ」
このまま頑張れる?
「無事でよかった」
そうだ、今私は無事だ。あなたは?
「前だけ見てて」
あなたは、どこにいて何を見ている?
「諦めな」
そう、生きるためならなんだって諦められる。これでいい。これでいい。
--本当に?
「卑怯者か」
そう、そうなの。私は卑怯なの。だってしょうがないじゃない!
「どうして私達だったの?」
知らないよ。どうして私がこの立場になってしまったのかだってわからないのに、そんなこと知るわけないよ。
「みんないるから」
誰もいないじゃない。誰にも頼れないし、誰のことも助けられないよ。
「人を思いやれる子だって」
そんなわけない。自分を良く見せたかっただけなんだよ。優しくしてもらう資格なんて、助けてもらう資格なんて本当はなかったのに。
「許さない」
地獄の果てまで許されない。
死ぬ気なら、許されない。
私は死ぬ気じゃないもの。あなたとはもう会わない。それで正しい。
でも、ああ、違う。
こんなのは違う。
こんなのじゃ頑張れない。
私しか助けられないような私のために、頑張ることなんかできない。
そんな空しい私なんか、照りつける太陽の下に置いていってしまえ!
「どういうつもりだ」
後方から近付く足音に、クロスタは振り返らず話し掛けた。
「私も行く」
彼が理由を訊くことはなかった。
「俺は俺の目的のために行く」
少しだけ歩調が緩む。
「お前に同行するつもりはない」
「それでいい」
「お前は俺の守る相手ではない」
「何があっても守らなくていい」
クロスタは、一度も振り返らなかった。
セエラも、彼の顔を見る必要などなかった。
前に。ひたすら前に歩みを進めた。
そして、都市門まで辿り着いた。
コヘレト、別名ソロモン。




