第13話 フォーマルハウト
みなみのうお座、低い空
社会から逸脱した、いや、打ち捨てられた人間の集う場。
この街では怨敵となる人物の存在。
それを規律に厳しい軍人が見つけたら、どうなるだろう?
クロスタの姿を認めた瞬間、セエラの意識はまた絶望の渦に引きずり戻された。全身の血液が凍るような心地で後ずさった。
違う。
私がここにいると、目の前の老婦人は、歌姫は。
きっと私が仕留められるまで……。
そんな最悪の展開がセエラの頭をよぎる。
もうどのみち逃げ場などない。
観念し、一歩踏み出そうとした時、彼もまたこちらにまっすぐ歩み寄ってきていた。
だが--
「どういうことだ」
彼はまっすぐ相手を見据え正面から問い掛けた。
セエラではなく、キエルの。
「明日の予定だっただろう」
「私に言われても知らないわよ。おおかたどこかでボロを出したか、男に裏切られたんでしょう」
「最終確認ができていない」
「あんたのお友達はみんな撒いたんでしょう?じゃあ今日でも同じよ」
「何故よりにもよってこんな曇りの夜なんだ」
「今から真っ昼間まで待たせたいの?」
キエルにそう言われ、初めてクロスタはセエラの方をちらりと見る。
「それはない」
そう断言し、彼はまたキエルに向かい合う。
厳格な口調は変わらないながらも、今まで見られなかった戸惑いが言葉の端々、いや表情にまでに出ているクロスタ。
気怠げに、どこか厭世的な雰囲気さえ出しながらもクロスタの言葉を次から次へと打ち返すキエル。
そして、クロスタにとって問題でもないかのように、ここに存在していることを見過ごされているセエラ。
それはセエラにとって、いや客観的に見ても異様な光景だっただろう。
目の前の決して交わらないはずの要素を持った二人が、明らかに親しい間柄で。
追い立てられるはずの自分が、歯牙にもかけられていなくて。
この二人はどういう関係なんだろう。自分と何も関係ないはずの疑問が浮かんでいたが、口を挟める様子でもない。
キエルとしばらく言葉を交わした後、クロスタは深い溜息を吐きセエラの方に向き直った。
「えっと……その」
「これでも被っておけ」
クロスタは着ていたコートをセエラに頭から被せた。
背の高い彼のコートは、それでも少し引きずるくらいの長さだった。
「お前の赤い髪は目立つ」
セエラが彼の言葉の真意をよく理解できず、黙ってただ彼の顔を眺めていると、彼はゆっくりと簡潔に告げた。
「今から逃げる。俺が案内する」
どうして。
どうして彼が。
どうして彼が私を。
全く意味がわからずセエラは立ち尽くすしかなかった。
しかし
「ついてこい」
有無を言わせぬ口調でそう言われ、もう歩き出している彼を急いで追いかけるしかないようだ。
「クロスタ」
キエルの声に彼は一瞬、動きを止める。
「ヘマしたら殺すわ」
「しない」
そして二人は再び地上に戻った。
「南の山岳方面に軍が向かうようにしてある」
淡々と説明し、彼は海の方向に歩き出す。
こんな夜遅くに出ている船などなく、港の近くは確かに閑散としているようだ。
「港には兵がいる」
そう言い、彼は草が生い茂っている場所にずんずん分け入っていく。
「ねえ、クロスタ」
「無駄口を叩くな」
先を行く彼の顔は見えず、雲が厚くまともに前も見えない。見失ったら終わりだ。わずかに慣れた目を凝らし、彼から距離が空かないように、時折小走りになりながらついて行った。
そして、開けた場所に出た。
そこには古そうな小型の漁船が一隻、近くの切り株にくくりつけられた状態で海に浮いていた。
「燃料は入れてある。故障箇所はないはずだ。操縦については前進と旋回だけ説明してやる。覚えろ」
「あの、停止は」
「アイルマセリアあたりの貨物船にでもぶつかって救助要請しろ」
そんな無茶な。明らかに無理がある。しかし、この船に乗る以外の選択肢はないようだ。
「ねえ、クロスタ」
「無駄口を叩くな」
「どうして私を殺さないの」
遮られても、知らなくてはいけないことだ。そうセエラは思った。
フィナ自身や、ギウスから伝え聞いたフィナの言葉を繋ぎ合わせると、家族を殺された彼はその主犯への復讐を望んでいる。
いや、復讐しなければならない。
そうでなくても、かつての虐殺に関わる人間は拘束し、しかるべき処分をしなければならないはずだ。
なのに、目の前の彼は、当たり前のように逃亡を幇助している。明らかに不自然なこの状況で、疑問を口にせずにいる方が難しかった。
「憎くないの」
彼は少しだけ目を伏せ、そして再び目線を合わせた。
「憎い」
淡々とした声で彼は話し始める。
「敵は、憎い」
潮騒と彼の声だけが聞こえる。
「俺の育ての親が幸せになれない世界のすべてが、今の俺の敵だ」
噛み締めるように彼は話し続ける。誰のことを指しているのかは、セエラには名前を聞かなくてもわかった。
「どこまでも殺して殺されて、また殺し返さないといけないなら、世界中の人間に居場所などない」
ようやく途切れた雲の隙間からささやかに漏れる月光が差し込む。
「最初に奪われるのは、いつだって弱い立場の人間だ。それも、味方から奪われる」
いつも無表情ゆえに恐怖感さえ与える、その彫刻のように整った顔は今、静謐な怒りを湛えているというのに。
「お前は俺にそれを、連鎖させろと言うのか」
淡い光に照らされて、まるで。
「ここでなくても、俺にでなくても、それを理由に殺されようとするのなら許さない」
天使のようだ。
「地獄の果てでも捕まえてやる」
そう、彼女は思った。
それで彼は話し終わったようで、早く乗り込むように彼女を急かす。
そのまま起動するよう指示され、言われるがままにすると船はゆっくりと動き出す。
セエラは今までいた岸の方を振り返る。クロスタが静かに佇んでいる。どんどん距離が空いていく。
「クロスタ!」
おそらく大声を出すのは不適切かもしれないが、叫ばずにはいられなかった。
「絶対、絶対だよ!?絶対幸せにしてあげて!あなたの家族を!」
言い終わる頃にはまた月が翳り、彼の顔はほとんど見えなくなっていたけれど。
「当然だ」
そう口が動いた気がした。
きっとそれは気のせい。気のせいかもしれないが。
彼女は確信してしまった。
こんなにも暗い空の下で、星を見つけてしまったなら。
生涯忘れることなどできないと。
出逢ってしまった話なんだよ。




