01. 見知らぬ部屋
死に瀕した際、人は走馬灯を見ると言われている。
今までの人生の様々な情景が代わる代わる脳裏に現れては消え、現れては消える臨死体験。
そしてここに1人、今まさに死の淵に立たされている男がいた。
男の名前は長谷川秋史。
秋史は走馬灯の存在を信じていたが、結論から言うと彼がそれを見ることはなかった。
代わりに見たものと言えば、どこまでも果てしなく続く地平線の上、空も大地も存在しないただっ広い空間。そこに今までの人生で関わりのあった人物、友人や職場の同僚などといった人たちが、秋史を中心とした円状に一堂に会している一枚絵。
そこに集まった人たちは何をするでもなく、ただただ秋史のことを見つめていた。
中にはもう10年以上も会っていない小学校の同窓生や、最近髪を切ってより一層可愛くなった、お気に入りのコンビニ店員の子の姿も見える。
何人か見当のつかない人もいたが、彼らともどこかで会ったのだろうか。
ぼんやりとした頭で記憶を反芻する秋史は、徐々に意識が遠のいていくのを感じる。
抗おうにも抗えない強烈な眠気は、赤子の手を捻るがごとく、いとも簡単に彼の意識を奪い取ったーー。
ーーここはどこだ。
二日酔いの朝、あるいは何度も繰り返し二度寝を貪った、休日の午後にも似た気怠さの中で秋史は目を覚ます。
壁に背を寄りかけるようにして、座ったままの体勢で眠ってしまったらしい。
自室とは明らかに異なる風景に戸惑いながらも、前日の自らの足取りを思い返す。
確かいつもの店で日本酒を飲んだあと、酔い覚ましも兼ねて2駅分を歩いて帰ったはずだった。
徒歩で帰っている途中、えっと、その途中で…
駄目だ。思い出すことが出来ない。
辺りを見回すと、明らかに女の子の部屋であることが分かる。
手のひらサイズのものから人間と変わらない大きさのものまで、西洋風の人形が所狭しと並べられていたからだ。
人形の他には犬やウサギ、熊といった動物をモチーフにした、大小様々なぬいぐるみも数多く見受けられる。
その中でも特に秋史の目を引いたのは、一体の女の子の人形。
マチルダボブに整えられた白金色の髪、閉じた瞼からくるりと伸びる長い睫毛、つんと尖った薄い唇。
秋史の背丈と変わらないほど大きなその人形は、気味が悪いくらい美しく、そして精巧な出来だった。
ここまでくると、人形というよりは人造人間かホムンクルスと表現した方が良い気さえする。
ゆっくりと立ち上がった秋史は、改めて部屋の中を見渡す。
高い天井、両開きの重厚な扉、天蓋の付いたベッド。人形に着せられた衣類に触ってみると、素材にはシルクが使われているようだ。
どうやらこの部屋の持ち主はかなりのお金持ちらしい。けれど彼の知り合いに思い当たる人物はいない。
「これは…もしかすると何かやらかしてしまったのか……?」
秋史は酒好きだったが、節操のない人間ではなかった。
実際、今まで酒が原因の迷惑を人様にかけたこともない。
現状から言うと、歩いて自宅に帰ったという記憶は間違っていると言わざるを得なかった。
すると、飲み屋で仲良くなった女の子の家に上がり込んでしまった可能性もある気がしてくる。
「いやいや。まさか、ね…」
自分で思い当たっておきながら即座にそう否定してしまう辺り、普段の彼の生活が如何に女っ気のないものであるかが伺える。
しかしこの状況を説明するためには、そのくらい突破も無い妄想を必要とするのもまた事実だ。
とは言え、秋史は今年で26歳になる立派な大人である。
相手だってお酒が提供される場で知り合った大人の女性なのだから、こういう出会いをきっかけに恋愛関係に発展したとしても何ら問題はない。
問題があるとすれば、この部屋の主である女性の名前はおろか、昨晩の記憶が途中からすっぽりと抜け落ちていることの方だ。
特別な感情がなかったら見ず知らずの男を家に上げたりしないだろう。
秋史にしても、例え酔っていたからと言って、好きでもない女の家の敷居をずかずか跨ぐほど見境いのない人間ではないつもりだ。
ということは、お互いに好意を抱くようなやり取りがあった上での成り行きな訳でーー。
それを「昨日の記憶が一切ないんだけど、おれ何かしちゃいました?」なんて言ってしまった日には、相手からすれば人生ワースト1位の、最低最悪な思い出にしかならない。
それだけは避けたいと秋史は切に思う。
結果、部屋の外に出る訳にもいかず、うーんうーんと唸りながら必死に記憶を手繰っていた時だった。
先ほど目に付いた女の子の人形が、視界の端で僅かに動いた気がしたのはーー。
思いもよらぬ事態に硬直した秋史はその人形を凝視する。
(…気のせいか?)
ピクリともしない人形に、一先ずそう結論付けると大きく息を吐く。
しかし緊張を解いて視線を外した瞬間、人形がいる方から小さい呻き声が聞こえた。
反射的に振り返った秋史の目に、今度は蕩けた瞼を右手で擦っている人形の姿が映る。
映って、叫んだ。
「うわぁ!!」
「きゃあ!」
秋史の悲鳴に釣られてか、その人形もまた叫び声を上げる。
こうなるとお互いパニックである。
何が何だか分からない秋史は、一先ず距離を取るために天蓋付きのベッドの陰に身を隠す。
「え…?私、どうして……ここは…?」
呆然とした様子でそう呟いた女の子の人形は、先ほど秋史がしたように部屋の中をぐるりと見渡した。
その表情には明らかな戸惑いの色が見て伺える。
何が起きているのだろう。
秋史は一度頭の中を整理する。
昨晩は飲み過ぎてしまったらしく記憶が殆どないが、どうやら意気投合したお金持ちの女性の家に上がり込んでしまったみたいだ。
部屋は人形やぬいぐるみといった類の玩具で埋め尽くされており、何故か突然その内の一体が動き出した。
動き出した人形が人間でないことに関しては確信が持てる。それはどんなに精巧に作られた人形であっても決して人間に見えないのと同じで、ともすれば精巧であればあるほど、根本的な生物と無生物の差に気味の悪さを感じてしまうものだからだ。
確信と呼ぶには根拠が薄いと言われるかも知れないが、これは紛れもない確信だ。
彼女が人形であることは、少なくともさっきまで人形だったことはまず間違いない。
(いや、最後の方はかなりおかしなことを言っているな…)
「あの…」
ベッドの陰に隠れている秋史に女の子の人形が呼びかけた。
「な、何でしょう」
「ここは一体どこなんですか…?」
先ほどから見せている動揺した姿から察しはついていたが、彼女もまた自らが置かれている状況を理解していないようだった。
「いや…おれも起きたらこの部屋にいたんだけど…それより君は……」
何者なんだ。
そう言葉を続けようとして言い淀む。
こうして実際に動いて喋っている以上、彼女がただの人間であることに疑いの余地はなかった。
科学技術が日進月歩の目覚ましい発展を遂げているからといって、ここまで精巧なロボットをどこかの国が開発したという話も聞いたことがない。
「君は…何ですか……?」
「いや…ごめん。忘れてくれ。えっと…昨日の記憶が途中からどうしても思い出せなくて、本当に気が付いたらこの部屋にいたんだ」
「…昨日の記憶……」
「お酒を飲んだあと、確か歩いて帰ったはずなんだけど…」
「…もしかして、日本酒を飲まれましたか?」
「なんで知ってるの?!」
少女に言い当てられた秋史は目を見開いて驚いた。しかし、彼女からの返答はない。
何か思い当たることでもあるのだろうか、そのまま両手を口元に寄せると考え込んでしまう。
その深刻そうな顔付きに秋史が声を掛けられずにいると、少女が重い口を開く。
「あの…私、昨日の夜は近所の野良猫に餌をあげに行ってて…それで、私の記憶が確かなら……」
一旦言葉を区切った少女の顔から血の気が引いていく。
「私の記憶が確かなら…私たちは昨日ーー」
ガギィィン!!
それは突如鳴り響いた。
巨大な質量を持った金属と金属がぶつかり合うような音によって、少女の言葉は遮られてしまう。
その後も立て続けに、規則的に聞こえてくる金属の衝突音は、段々とその大きさを増していく。
いや、そうじゃない。この部屋に近付いているようだった。
(これって、もしかして足音か?)
秋史は自分でも何故そんなことを思ったのか分からない。
仮にこの"巨大な鉄製のハンマーで鉄筋を叩いている様な音"が足音だとしたら、どれだけの巨漢が、どれほどの力で床を踏みつけながら歩いているというのだろう。
「そんなの、あり得ないだろ…」
自らにそう言い聞かせるようにそう呟いた。
正体不明の音が近づくに連れて、少女の表情に濃い不安の色が滲んでいく。
そしてその視線は、縋るように秋史へと向けられていた。
一瞬戸惑う秋史だったが、短いやり取りとは言え彼女はもう知らない子ではなかった。
手招きをしてこちらへ来るよう促すと、小走りにベッドを迂回した少女が秋史の側にやって来る。
もう認めてしまおう、足音だと。
ゆっくりとした歩みだが、この部屋に到着するまでそう時間はかからないだろう。
諦め半分の秋史がそう腹を括った時だった。肩が触れたのをきっかけに、隣に立つ少女が震えていることに気付く。
恐怖を和らげる言葉の一つでもかけるべきかと、彼女の表情を間近で見た秋史は改めて思う。
(やっぱり、どこからどう見ても中高生くらいの女の子にしか見えない…)
動き始めた当初はあれほど気味が悪かったというのに、今ではどうして最初に彼女を人形だと思ったのか、秋史は思い出せないほどだった。
ガギィン!!
金属音が止まった。
どうやら足音の主はすでに部屋の前にいるらしい。
天蓋付きのベッドを指差した秋史は、その下に隠れるようジェスチャーで彼女に伝える。
言う通りにベッドの下へ潜る少女に続いて秋史もしゃがむと、彼女の履いているスカートが捲れてその下の布が露わになっていた(この時、思わずベッドの底に頭を打ち付けてしまったのは秘密だ)。
慌てて立ち上がった秋史は、他に隠れる場所がないかと必死に部屋を見回す。
その直後、油の切れた蝶番の軋む音が聞こえてきた。
部屋の扉が開いたのだ。
こんにちは、作者の誼です。
今作は僕の初投稿作品になります。
この小説を読んでいる間の皆さんの時間が心動かされるものになることを願うと同時に、そんな時間を提供できるよう精一杯がんばります。
割と長いお付き合いになるかと思いますので、今後とも「お母さんは魔王妃様!」を宜しくお願い致します。