2 生
結婚して一年半が過ぎ、妻の妊娠が明らかとなる。三ヶ月目らしい。安定期はまだ先だが、医者によると特に問題はないようだ。大変だが、愉しい日々が続くことになるだろう。
妻が妊娠を喜んでいることが、ぼくには嬉しい。子供が嫌いな女性は世の中に大勢いるからだ。当初、自分では気づかなくても、いざ、そういった状況に陥り、気づいてしまう。そんなケースもある。
親に嫌われた子供は不幸だ。所詮ぼくには他人事だが、何人かの友人を見れば良くわかる。彼らは親を恨んでいる。口では言わなくても、それが伝わる。ぼくは親に愛されて育ったから、彼らにかける言葉がない。一緒に親を罵ることもできないのだ。
ああ、つい、ネガティブな方向に考えてしまったな。ぼくの悪い癖だ。いつも明るい方を向いていなければ……。それが、ぼくと妻と将来生まれる子供にとって何よりなのだ。
仕事は忙しいが、家事は手伝う。ぼくは一人暮らしが長かったから料理もできる。掃除は苦手だ。が、妻のためと思えば辛さがは半減する。
『わたしは専業主婦なのだから、それくらいはやるから……』
妻は言うが、ぼくは手伝う。本来怠け者のぼくだから、一度サボれば癖になる。そうなってしまってからでは遅いのだ。だから、ぼくは疲れていても家事をする。まあ、ほんのちょっぴり、手抜きをすることもあるが……。
『あんまり一生懸命だと途中で厭になるから……』
妻はそう言うが、それは事実だろう。だから適当なところで家事を休み、妻に甘える。子供ができたら、彼女に甘える役は子供になるだろう。だから、今のうちに甘えておくしかない。
ぼくの考えは可笑しいだろうか。だけど可笑しくてもいいんだ。ぼくは、ぼくの判断で妻に甘える。幸せを身体いっぱいに感じながら……。
そんな新婚生活が続き、妻のお腹が目立つようになる。ご近所の方たちからは声をかけられる。
ぼくと妻が住むのはアパートの二階だから階段がある。ぼくはそれが心配だ。だから妻に、
「一階の部屋に越そうか」
と問う。
「心配症ね」
妻は笑顔で、ぼくに答え、
「引っ越す方が面倒だから二階でいい」
と続ける。
「だけど……」
「確かに身体は重いけど、足腰は丈夫だから……」
「でも……」
「あなたと違って、おっちょこちょいじゃないから、転ばないわよ」
妻の主張だ。おそらく妻が正しいのだろう。ぼくは意見を引き下げるしかない。
「心配しているお気持ちは、ありがたく、受け取りますから……」
ぼくの顔を見ながら妻が言い、
「あなたと結婚して良かったわ」
幸せそうに、そう続ける。
「不安のない生活っていうのかしら、今、ずっとそんな感じなの」
「これまでは、そうじゃなかったのかな」
「幸せな時も、不幸せな時もあったけど、どれも三角形の天辺に乗せた板の上にいるようで……」
「随分と辛い思いをして来たんだね」
「でも、あなたは何ひとつ聞かない」
「言いたくない過去は誰にでもあるよ」
「あなたにも……」
「もちろんだよ」
が、ぼくのそれは中学校に上がったときのオネショくらいだ。幾つかの別の例も、まあ、オネショと同程度……。
そういった意味では、ぼくはつまらない人間かもしれない。裏の顔がない。表の顔しか持っていない。が、妻にとっては、そんなぼくが良かったのだろう。そうでなければ、ぼくと結婚するはずがない。子供ができても喜びはしない。そういうものだ。
やがて妻が臨月を迎える。陣痛が酷くなる。
「病気じゃないから……」
妻は言うが、傍から見れば、まるで病気だ。とても辛そうに見える。だけど、ぼくには何もしてあげられない。
「これも経験だから……」
妻は笑顔でぼくに言い、痛みを堪える。
やがて、遂に……。
「男のお子さまですよ」
ぼくと妻との子供が生まれる。ぼくの目には赤いサルのように見えるが、
「お坊ちゃんはママさんそっくりですね」
産婆役を務めた看護婦が、ぼくと妻に微笑んで言う。ついで、もう一度、妻と子供の顔を見比べ、つくづくと口にする。
「本当に、お坊ちゃんはママさんそっくりで……」