Infi-End なんにもならない後日譚
カポーン。
西日のオレンジ色を反射する優美な湖の畔に、湯気立ち昇る露天の岩風呂があった。
「ほわ~、生き返りますねぇ。あたし、死にませんけど」
湯着を纏ったウロボロスは肩まで温泉に浸かり、蕩けたような溜息を漏らす。それから頬を桃色に染めて隣の少年に声をかけた。
「紘也くん紘也くん、いいお湯ですね」
「……」
少年は無言。
「んもう、混浴だからって恥ずかしがってんですかぁ? にゅふふ、紘也くんも可愛いところありますねぇ」
「……」
くねくねと気持ち悪い動きをするウロボロスだったが、少年はスルーどころかまるで石化しているように微動だにしない。
「ほらほら、お背中お流ししますよ!」
ウロボロスは少年を湯から上げると、風呂椅子に腰かけさせて泡立ったスポンジで背中を擦る。
「紘也くんの体、ごつごつしてて逞しいですね」
「……」
やはり、少年は無言。
「なにか言ってくださいよぅ、もう」
「小僧の人形なんか作ってなにやってんだ、クソ蛇?」
返事をしたのは少年ではなく、腰にタオルを巻いて入口の方からやってきたヤクザ顔だった。
ウロボロスはそちらへと振り返り――この世のありとあらゆる苦味を咀嚼したような表情をした。
「あぁ? ちょいちょいちょい、なんでここに龍殺しがいんですか?」
龍殺し――瀧宮羽黒である。先日の仕事の報酬とした貰った温泉旅行のチケットでやってきた旅館だが、こいつと来た覚えなんてない。そもそも、ウロボロスは一人で来ることになったのだから。
となると――
「俺たちもおっさんから温泉のチケット貰ったんだよ。せっかくだからありがたく使わせてもらったわけだが、てめえまでいるとは思わなかったぞ」
「はぁ? たち? まで?」
羽黒の後ろにもう一つの人影が現れる。
「……チッ」
盛大に舌打ちしたのは、やはりあの戦いで一緒だった未だ名前を知らない腹黒男だった。
「腹黒までいるとかどういう風の吹き回しですか?」
このエセ魔術師がこういうところに来るイメージは全くないし、秋幡辰久から温泉旅行のチケットなど絶対に受け取らないはずだろう。
羽黒がクスクスと笑う。
「こいつには俺経由で渡したんだが、案の定迷わず破り捨てようとしやがってな。ここの温泉は魔力回路の回復なんかにもいろいろ効能があるんだから、今回の療養だと思えばいいだろって言ったんだが、来る気になったようで何より何より。てっきり一人で来ると思ってたんだが、連れの子、誰なん? 妹かなんか?」
「大きな世話っつうか、答える義理あるかよ。そもそもなんでてめーがいるんだ、うぜえ」
「俺たちもチケット貰ったからだって。さっきは俺ら喋ってる間に部屋行っちまったけど、うちの妹も来てるし、妹同士で交流の場持たねえ?」
「妹っつってねぇだろ。依頼でもないのにこれ以上あんたらに関わってたまるか」
「妹じゃねえの? じゃあ誰なん?」
「だから、答える義理ねえっつってんだろ。耳腐ってるのか」
しつこく絡む羽黒に鬱陶しそうな顔をする腹黒を見て、ウロボロスはいいネタを見つけたとニマニマ笑って絡み付いた。
「にゅはははは! 普段あれだけえっらそうにしてるくせに、ペアチケットもらっても連れて来れるのは妹しかいないんですか〜? っていうか、まさかシスコン?」
「……殺す」
「残念死にません」
「あの馬鹿よりは死にそうだろ」
「確かに」
ウロボロスを持ってしてもあの帰りたいと叫ぶ少年の不死性は謎のままだった。
「んで、俺はもみじと白羽と来てんだが……クソ蛇、お前、本物の小僧はどうした?」
羽黒が呆れた様子で紘也人形を見る。ウロボロスは慌てて人形を無限空間の中に収納した。
「ハン、龍殺しには関係ねえことですよ。ていうかあたしはドラゴンだっつってんでしょ!」
実際は、チケットを貰ったのはよかったが、期限までに紘也が帰って来れなかったのだ。だから仕方なく一人旅行を漫喫している次第である。
「まあ、事情は深掘りしねえよ。興味ねえし。それよりてめえ、ここ男湯だぞ? 勝手に混浴にすんじゃねえよ」
「あんたらこそせっかく結界張って貸し切りにしてたのに入ってくんじゃねえですよ!」
「〝無限〟の個種結界なら頑張りゃ辿り着けんだよ」
「そんなに頑張ってあたしの裸が見たかったんですか? もみじに言いつけますよ? おーい! もみ――」
「待てそれだけはやめろ!?」
「むぎゅ!?」
隣の女風呂に向かって大声を上げるつもりだったウロボロスの口を羽黒が手で塞いだ。
すると――チャキリ。ウロボロスの額に拳銃の銃口が押しつけられる。
「結界張ってまで一匹人形遊びしてやがったどこぞのクソ蛇を締め出そうと思ってな。――出て行け」
「ふぅん」
睨み合う。
フン! とウロボロスは羽黒の顎に頭突きをくらわして拘束から抜け出すと、さっと踵を返した。
「言われなくても出ますよ! あんたらの顔見た瞬間冷めましたからね!」
「ああ、そうだちょっと待て」
出口へと歩いて行くウロボロスを羽黒が顎を擦りながら止めた。
「まだなんかあるんですか、龍殺し? 次の仕事ならお断りします」
「そうじゃねえよ。俺はどうでもいいんだが、白羽がお前に会いたがっててな。このあと旅館の絶品カレーを食う予定なんだが一緒にどうだ? こいつとこいつの妹も誘ったんだが」
「だから妹で話進めんな。あと行かねえぞ」
腹黒男は死ぬほど嫌な顔をしていた。
「龍殺しと腹黒が同席しないなら考えときます」
ウロボロスはそう言うと、それ以上は振り返らず脱衣所へと消えて行った。
残された羽黒と腹黒男――疾はしばらく無言で閉められた扉を警戒する。あのクソ蛇のことだからなにかしら攻撃をぶっ放さないとも限らないからだ。
やがて、なにも起らないと確信して羽黒の方が短く息をついた。
「あれは来ねえな。しゃーねぇ。俺たちだけで美味いもん食おうぜ」
「だから、俺も行く気はねえぞ? つーか、あんたと一緒に風呂入るのもごめんだ」
そう言って疾も帰ろうとしたその時――
「なら、オレはご相伴に預かろう」
突然、羽黒の隣に一人の青年が気配を現した。
「うおっ、いたのかお前!?」
整った顔立ちに引き締まった体をしているのに、どこにでもいる普通の人間と認識してしまう異常性を持つ青年。
天明朔夜。まさか彼までいたとは完全に予想外だった羽黒である。
「ウロボロスが来るより前からずっとな」
「ああ、あの馬鹿が結界張ったから出るに出られんかったわけか」
彼は魔術師専門の暗殺者だ。幻獣への対処はあまり得手としていない。だからウロボロスが出て行くまで気配を消して待っていたのだろう。
天明はニヤリと口角を上げると、立ち止まって視線だけこちらに向けている疾を見やった。
「まあ、ここで出会えたのもなにかの縁だ。丁度そっちのハ~ヤテくんを誘いたかった案件がある」
「あ?」
唐突な申し出に疾は眉を顰める。
「流石に一人じゃ人手が足りなくてなぁ。今度ちょっと規模のでかいクソ魔術師の組織をぶっ潰しに行かねえか?」
「へえ」
疾の表情が怪訝から愉快そうなものにシフトする。
「なるほど? そいつは面白そうだ」
「リゾート地で物騒な話してんじゃねえよ……」
悪い笑みを浮かべるやべー奴らに、羽黒は溜息をつくとそれ以上は我関せずで温泉に浸かることにするのだった。
後日――
世界中に根を下ろしていた犯罪魔術結社の一つが壊滅した報せが魔術界を騒がせるが、それはまた別の話。




