Cent-07 腐色の死体愛好家(ネクロフィリア)
現在、北欧神話として世に親しまれている世界創造から滅亡、再生までを綴った一連の神々の戦記だが、所謂「出典」と呼べるものが存在する。俗に「ギュルヴィたぶらかし」と訳される、スウェーデンのギュルヴィ王と主神オーディンとの問答をまとめた詩の一節である。
ギュルヴィ王は神々の世界ヴァルハラを訪れ、オーディンに世界について問いかけていく。
世界の始まり。
神々の物語。
そして、世界の終末と再生。
オーディンはその一つずつに答えていく。そしてギュルヴィ王は最後に世界再生後について尋ねるが、オーディンは「そこから先は誰も知らない」と諭し、人間の世界に帰すのだった。
その時の問答から得た叡智を国に戻った後に民に広め、まとめられたのが「ギュルヴィたぶらかし」である。
もちろんその中には現在まで細々と、しかし廃れることなく受け継がれてきた魔術の祖となる知識も含まれており、当然のように、その危険性からあえて秘され、黒く塗りつぶされた禁術も存在した。
* * *
それはそれとして、島全体を覆う敵味方関係なく作用するジャミングを結果的に発生させてしまった張本人である羽黒は、彼にしては大層珍しくただただ逃げ惑っていた。
「う、お、おおおおおおおおおおっ!?」
恥も外聞も捨て、顔を引きつらせながらの全力疾走。絶対に捕まってなるものかという確固たる意志を全身から溢れさせながら、瓦礫の隙間を縫うように駆け抜ける。
「あ”あ”あ”あ”あ”……」
「ヴェアアアアアア……」
しかしその逃げ道を二体の男ゾンビが塞ぐ。
「ちっ!」
一般人からすれば脅威以外のなに物でもない生きる屍も、本来羽黒からすれば障害具合はちり紙もいいところである。だがしかし、今はそのちり紙を破り捨てるために立ち止まる暇も惜しい。羽黒は近くの瓦礫を踏み、大きく跳躍してゾンビの頭上を飛び越える。
そして着地の瞬間。
――どぅん!
羽黒の背後に何かが着弾し、ゾンビが爆発に巻き込まれた。
「……お”お”お”?」
「ヴァアアア?」
しかし、小規模ながら周囲に吹いた爆風に対し、ゾンビ二体は無傷。元から腐り落ちかけていた皮膚もそれ以上の損傷は見られなかった。
が。
「「……!!」」
二体のゾンビはお互いを見やると、心臓が機能停止し血流なんてとっくになくなっているはずの青黒い顔色を何やら赤く染め、何やらじゅるりじゅるりと腐った体を寄せ合い、顔を近づけ――
「おえっ」
そこから先は見るに堪えず、羽黒は視界の隅にも入れないよう精いっぱい努力し、追跡者の様子を窺う。
「ああ、惜しい……」
ふわりと瓦礫の上に舞い降りた、襤褸を継ぎ合わせたドレスを纏った顔色の悪い妖艶な美女――『生ける魔導書』ギュルヴィ腐書は悔しそうに、しかし腐肉と腐肉が混ざり合うほど熱く抱擁する二体のゾンビを熱っぽい視線で観察しながら吐息を漏らす。
「もう少しで貴方も腐り堕とせるところでしたのに……」
「『腐り』『堕とせる』ってそういう意味かよクソが!!」
「ちょうど本書のコレクションの配置換えの気分ですの。早く持ち帰って色々と絡ませて試してみたいのでさっさと死んでくださらないかしら」
「しかも他にも色々とこじらせてんじゃねえか!!」
「何か悪いですか?」
「何もかもが悪いわ!!」
男色愛好の死体愛好――手の施しようがない。
羽黒も今でこそヤクザ面の不審人物のような風体をしているが、学生時代は中性的な顔立ちと良くも悪くも自己中心的で押しの強い性格から一部女生徒から「そういう目」で見られていたため前者の性癖については理解できないわけではなかった。だが後者の性癖とワンセットで実際に自分に火の粉が降りかかってくるとなれば話は別だ。
勘弁してくれ――それが本音である。
ギュルヴィ腐書とは、本来はギュルヴィたぶらかしにまとめることができなかった禁術書を焚書し、さらにその焚書からも抜け落ちてしまった邪術とも言える魔術を無理やり一冊にまとめた魔導書である。それに意思が宿り、自律して魔術を遣えるようになったのが目の前の女なのだが、その鬱屈した誕生歴もあり、性根が――というか、性癖が腐りきっていた。
しかしそれだけであれば、羽黒も精神的に追い詰められ、ここまで追い掛け回されることもないはずである。敵が異常な性癖と目的をもって襲い掛かってくるくらいならば正面から堂々と立ち向かい、一刀両断にするくらいの気概は羽黒にはある。
それができないさらに質の悪い理由があった。
「おらぁっ!!」
羽黒はジッポを繰り、金色の火炎弾をギュルヴィ腐書へ向けて放つ。
相手は生ける魔導書――自分に記されている魔術をノータイムで放つことができる厄介な相手だが、同時に自分が魔導書であるが故に対処法は酷く簡単である。
燃やせばいいのだ。
しかも羽黒のジッポは、彼が生まれ故郷を旅立つ際に土地神の気まぐれで授けた寵愛により最上級クラスの魔導具と化していた。実際に使用できるタイミングも気まぐれ故にいつでも使えるわけではないが、今回は非常にご機嫌なようでぽんぽんぽんぽん神炎を放つことが出来ているため、生ける魔導書を焚書してやるなど造作もない。
本来であれば。
「ウフフ……」
火炎弾がギュルヴィ腐書に届く直前、何かに阻まれるように失速し、あっという間に霧散した。
「くっそが……」
「いい加減理解できたかしら? 本書を燃やすことは不可能ですよ」
口元を手で隠し、ギュルヴィ腐書が妖艶に笑う。
「燃焼とはつまり酸化反応。いかに炎が魔術的要素で作られていても、紙が燃える原理は変わらないわ。そして腐術も突き詰めれば酸化反応をいかに魔術的に制御するかということにありますの」
「だから自分を燃やす――腐らせることはできないってか?」
「本書自身がその道のプロですからね」
そんな理論がまかり通るのかよ。
羽黒は内心悪態をつきながら思考を巡らせる。
このふざけた性癖の魔導書、何が厄介って普通に強いのだ。本来弱点となりえるはずの炎が弱点となりえないという時点で意味が分からないが、対象をBL落ちさせる謎すぎる魔術も十分気味が悪いし、そればかりが目立っているがそれ以外にも普通に禁術級の腐術や死霊魔術を詠唱なしノーモーションで放ってくるためどうしても攻勢に出られない。
今のところジッポから生み出す神炎により防御面はカバーできているが、それだけではどうしてもじり貧となる。羽黒自慢の龍麟も、禁書級魔導書の腐術相手にどれほど対抗できるのか、試すにもリスクが大きすぎる。
「おらあ!」
再びジッポを点火させ、火炎弾を放つ。
「はあ……何度言っても理解できない……いえ、それしか方法がないのね」
困ったように苦笑し、首を傾げるギュルヴィ腐書。そして再び火炎弾が霧散――した次の瞬間。
「うっ!?」
何かが目の前で弾け、ギュルヴィ腐書は思わず顔をしかめる。
しかもそれは一回では収まらず、四方八方から二発三発と立て続けに飛来し、何かにぶつかるように弾け飛んだ。
「……魔法剣?」
ようやく目が慣れてきてギュルヴィ腐書を襲う飛来物の正体に気づく。それは、画質の荒い映像のように輪郭のぶれた、魔力で生成された太刀だった。
「ちっ……」
ギュルヴィ腐書の反応を見て、羽黒は舌打ちをする。
羽黒が神炎に紛れさせて放った封魔の【無銘】――戦艦の幽霊船すら呑み込む貪食の妖刀が、いともたやすく消し飛ばされている。しかもギュルヴィ腐書の意思はそこに働いてはいないようで、あらかじめまとっていた自動迎撃用の魔術が発動しているだけのようだ。
炎以外の遠距離攻撃も無効化された。これは下手に肉弾戦に持ち込むのも危険だ。
つまり、軽く詰んでいる。
「ちょっとびっくりしましたが、それだけですね。目暗ましにもなりませんよ」
「ああ、そうかい!」
羽黒は強引に魔力を練り、ギュルヴィ腐書の周囲にばら撒く。それを遠隔で繰り、再び太刀の形に精製して切っ先をギュルヴィ腐書へ向けて射出する。
凄まじい爆音を立てて幾十もの妖刀がギュルヴィ腐書のまとう結界に触れ、弾け飛ぶ。しかし今やギュルヴィ腐書が顔をしかめるほどの衝撃はなく、再び妖艶な笑みを浮かべるだけの余裕も戻ってきた。
せいぜい、視界が小爆発で歪んで鬱陶しいくらいだ。
「……あら?」
気付き、ギュルヴィ腐書は魔力を練り、周囲に腐術を放つ。
ギュルヴィ腐書を中心に周囲数メートルの万物が腐り落ちる。それは地面や瓦礫だけにとどまらず、大気や妖刀を射出し続けていた羽黒の膨大な魔力も瞬時に腐り、虚無が生まれるほどだった。
その虚無の内側から羽黒を探すも、すでにそこにはいない。
「逃げた……いえ」
ちらりと遠くをみる。
瓦礫の上でいまだに呑気に悪夢に魘されている小柄な少年――瑠依は依然として島中にけったいな呪いを撒き散らしている。結構派手な戦闘を繰り広げていたせいもあるのだろうが、彼の周囲には神炎と腐術の着弾痕が妙に集中している。そのくせ、なぜか当の本人は無傷という気味の悪さはこの際置いておいて、呪術具扱いしていても一応は仲間であるはずの瑠依を置いて遠くまで逃げたりはしないだろう。
つまりどこかに隠れてこちらの様子を窺って――いや。
視界の隅を黒いコートが駆け抜けた。
「そこ!」
牽制も兼ねて簡易的な腐術を弾丸のように放つ。
腐術がコートを掠めたが、羽黒は速度を緩めず駆ける。被弾した部分からコートがじわじわと腐り落ち、羽黒は特段慌てた様子もなくコートを脱ぎ捨てる。……一瞬、コートの上からでもわかった羽黒の引き締まった若干汗ばんだ肉体に薄手のシャツが張り付いているのに目を奪われ、やはり肉も残したままコレクションしようと心揺さぶられたが、その駆ける先に気付いてからは表情が蕩けるのを抑えられなかった。
羽黒が向かう先には、例の小柄な少年がいた。
「長身コワモテ×華奢な美(?)少年!!」
少年を回収してから逃亡しようという腹積もりなのだろうが、それすらもギュルヴィ腐書にとっては燃料投下。脳内を伏字だらけのモノローグが駆け抜け、血も通っていないのに片手で鼻を抑えて興奮気味に息を荒げる。
「殺してから絡ませるのがお手軽ですが、絡ませてから殺して保存もまた一興!」
ギュルヴィ腐書は尋常ではない速度で魔力を練り、自身に記されていた禁術を魔改造して完成させた『腐』術を羽黒と瑠依目がけて放つ。
術式はギュルヴィ腐書の欲望に従い、ライフルも真っ青な速度で二人に向かって飛んでいく。
それを視界の端に捉えていた羽黒は――何の躊躇いもなく瑠依の首根っこをつかんで盾にして身を防いだ。
「は?」
これには流石のギュルヴィ腐書も素っ頓狂な声をあげる。
避けるなり防ぐなりはされるだろうとは思っていたが、まさか仲間を盾にするとは完全に予想外。しかも通常の攻撃性の高い方の腐術ではないと見抜いたうえで、羽黒は瑠依で受け止めたように見えた。
「えぇっと……」
「…………」
ぶらんと気を失ったままの瑠依を吊り下げながら、羽黒はギュルヴィ腐書の様子を窺う。
見たところ、瑠依にのみ被弾したのか羽黒に特別変化は見られない。本来性欲のないゾンビにすら効果がある『腐』術だ。当たっていたら目の前の気を失った少年など格好の餌食であるはずだから、やはり外れてしまったのだろう。
で、あれば当たるまで何度でも放てばよい。
「さあ、本書に■■■■で■■■■■■■■な■■■■■■を見せてくださいな!」
気を取り直して、複数の『腐』術の弾丸を発生させ、一斉に発射する。しかしそれを羽黒は器用にも手にした瑠依をぶんぶんと振り回し、完全に防ぎきる。効果はともかく、当たったら相応に痛いはずの魔術弾を喰らっているはずなのに瑠依は一向に目を覚まさない。
それを幾度か繰り返し、ギュルヴィ腐書にもいい加減苛立ちがたまっていく。
「もうなんなんです!! さっさと当たって二人で堕ちなさいよ!!」
化粧が歪むほどの絶叫。それを聞いて羽黒は無言で軽薄な笑みを浮かべ、開いている手で自身を指さし挑発する。
「……っ!!」
怒りが一周回って逆に冷静となる。ギュルヴィ腐書は深く息を吸い込み、視線は二人から外さず、二人をどう絡ませて保存しようかと欲望を膨らませる。
それはそうとドラゴンゾンビは今頃どうしているだろうか。
「……ん?」
何故このタイミングでドラゴンゾンビのことなど考えた?
今は笑うと口の端から除く八重歯が愛らしいドラゴンゾンビのことなどどうでもいい。それよりも二人をどう――いや待て、ドラゴンゾンビの笑みが愛らしいだと? そんな馬鹿な話があるか、あの耳障りで鬱陶しい笑い声よりも肉付きの薄い儚げな体つきのほうがよっぽど……いやいや、翼があるにもかかわらずぽてぽてと小さな裸足でそこらを歩き回る雛鳥のような――
「って、そんなわけがあるか!?」
思わず絶叫。
ドラゴンゾンビからはまず間違いなくひねり出せない儚いなどという単語が浮かんだ時点で、ギュルヴィ腐書は自分が何かをされたことに気付いた。
「貴方、何をしたの!?」
「俺は何もしてねえぞ」
羽黒は変わらず、瑠依をぶら下げたまま軽薄な笑みを崩さない。
そして気付く。タイプは違うがなかなかの魅力がある男二人が並んでいるというのに、ちっともときめかない。数分前までの胸の高鳴りはどこに行ったというのか。むしろさっきから鬱陶しいだけだったはずのドラゴンゾンビの爆笑する愛らしい表情が脳裏にちらついて離れない。
「ぅぐっ……!」
そのあまりにも気持ち悪い思考に、思わず口を押える。理性に対し欲望が駆け巡る自己矛盾にだんだんと吐き気がしてきた。
「はーん、ソッチの趣味はないようで」
羽黒は面白そうにギュルヴィ腐書を観察する。
当然ながら、ギュルヴィ腐書がこうなったのには羽黒、というか、瑠依に原因がある。
世界の不具合として一部で危険視さえされている「伊巻」の血筋――その中でもとりわけ謎い恩恵をむやみやたらと受け継いだ瑠依には、術が普通に作用しない。ウロボロスの「人格反転」を「人格混合」と捻じ曲げ、自分だけでなく周囲に呪い返しとしてばら撒いた時のように、今回は薔薇の苗から百合が咲いた。
「気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い気色が悪い!!」
頭を押さえ、苦悶に歪むギュルヴィ腐書。魔導書という実体はあるが、基本的には精神生命体の属性が強い生ける魔導書だが、それゆえに精神系の攻撃はハマると大変効果的だ。とは言え、まさか髪を振り乱すほど発狂寸前まで追い込めるとは完全に予想外ではあったが。
他人の趣味のデリケートな部分を的確に抉ってしまったらしい。
羽黒は予想以上の成果に微妙な表情を浮かべ、さてどうするかと思案する。
いかに敵の足止めはできたとはいえ、こちらの攻撃手段がないことには変わりない。もしかしたら発狂している今なら防御魔法も解けているかもしれないが、下手に接近して暴走させて巻き込まれたらたまったもんじゃない。
で、あればとっとと撤退して先行している連中に合流した方が無難だろう。ギュルヴィ腐書は別の奴が相手をした方がずっと相性がいい。
「んじゃ、とっとと退散――」
瑠依を小脇に抱え、さっと駆け出そうとしたその瞬間。
どん! と轟音を立て、背後から魔力の大爆発が起こった。
「――ちっ!!」
爆風の勢いに乗り、大きく跳躍する。
体勢を立て直しながら振り返る。
「う……フフ……腐腐腐腐腐……!」
ぐずぐずと地面と大気が腐り落ち、虚無が発生する。その中心でふわりと浮遊し、血走った瞳と崩れた笑みを浮かべて羽黒を睨むギュルヴィ腐書。息を荒げて舌なめずりをし、ただでさえ禍々しい魔力をさらに練り歪めていく。
「もうなんだってイイ……! リバだろうがTSFだろうがもうなんだってイイ! 全部全部腐ってしまえばイイ……!!」
「暴走して節操なくなってやがる!?」
などとふざけている場合ではない。
大きく距離を開けているにもかかわらず、若干の息苦しさを感じる。大気が腐り――酸化し、有毒ガスが発生し始めていた。いくつか疾には秘匿の対抗策は用意しているためすぐに命に関わることはないものの、今羽黒が抱えている呪術具……ではなく、気を失っている瑠依はさすがに危険だ。世界の不具合も酸欠や劇物から守ってくれるという確証はない。このまま目を覚まさず眠るように死ぬ可能性だってある。
世界のためにはそれの方がいいかもしれないが、かと言ってさすがにあの虚無の中に放り込んで打ち消せるか試すのも気が引ける。
やはり何としてでも逃げ果せ、疾と合流するのが先決。
背中を向ける危険性は無視しがたいが、それでもやはり全力で撤退しなければ――
『大変そうですね』
羽黒の耳元で、今この場で聞こえるはずのないソプラノが囁かれた。
* * *
「……っ!!」
今や島全体を完全に覆いつくしたジャミングと認識阻害の亜空間型の結界の中にあっても、ノワールがその気配を見逃すはずがなかった。
それ故に彼にいては珍しく、敵を目の前にしてほんの一瞬だけ集中力が途切れ、左頬をペプレドの毒針をかすめさせるという失態を犯してしまった。
「……ち」
距離を開け、即座に解毒を完了させる。それを好機と見たか、ペプレドの執拗な攻撃がさらに鋭さと粘質性を増す。それがさらにノワールの神経を逆撫で、苛立ちを募らせる。
ここから出たら徹底的に調べ上げる。
そう心に決め、努めて冷静に振舞えるよう心を落ち着かせるため、少々複雑な魔術を組み上げるべく意識を研ぎ澄まし始めた。
* * *
何が起きたのか分からなかった。
自分は暴走していた――それは間違いない。
暴走中の意識はある。自分の意志で腐術を練り、羽黒を狙った。だから先程までは厳密には暴走というよりも箍が外れたと言った方が近いだろうか。
だがほんの僅かも目を離す暇もなく、自分を守る虚無から引っ張り出され、石ころのように地面に転がされているということを理解するまで時間を有した。それは、意識を失うほど発狂していたのかと錯覚するには十分な事象だった。
「うっ……ぐぅ……!」
腕に力を入れ、何とか立ち上がろうと試みる。
しかし、
『まだ動けるとは称賛に値します。が、無礼。――平伏しなさい』
「あがっ……!」
自分の意志とは関係なく、体が勝手に顔面を地面に擦り付ける。そのたった一言に全身の魔力を徴収されたかのように自由が全く効かなくなり、自分の意志が剥奪された。
『まったく、人のご主人様に色目を使うとは見る目はありますが、その飼犬にまで気を配れないとは愚か者ですね。流石は紙魚臭い落丁本といったところでしょうか』
後頭部に激痛が走る。
どうやら踏まれているらしい。
このまま踏み潰されるのか――せめて今わの際に呪詛の一つでもばら撒いてやろうかと最後の魔力を振り絞って首を僅かばかり動かし、声の主を見上げる。
「……っ!!」
息が、止まった。
人のカタチをした白い人外が、酷く冷たい赤い瞳でこちらを見下していた。
悪意と憎悪と傲慢さを灰汁で煮込んだような濁った赤い光――その瞳に、限界ギリギリのところで実体を保っていた最後の魔力が、根こそぎ奪われていく。
「ま、魔王……!?」
自分が禁書として魔導書から抜け落ちる前の微かな記憶。その中の一節が脳裏を過った。
出遭わずに避けることが最善。
逃げることなどできず、滅ぶか、滅ぼすかしか選択はない。
まさに死という概念そのもの。
「なん、でッ……! こんなところに……!」
『おや、この古本は人の言葉は解せても理解力は乏しいのですね。所詮は落丁本。――私が存在するのに理由など不要と心得なさい』
ただそこにいるだけ。
そこにいるだけで、災いと破滅をもたらす。
覚悟する間もなく、死を押し付けられる。
ここで、死ぬ――
「おい」
あとコンマ数秒でも、ソレの左胸をこの世の闇全てを融かし籠めたような黒刀が貫くのが遅ければ、ギュルヴィ腐書はこの世から記憶も記録も全て余すところなく吸い尽され、消滅していたかもしれない。
『あら』
ソレは一瞬だけ赤い瞳をパチパチと瞬かせ、それから年端もいかぬ恋する乙女のように頬を紅潮させて黒い刀身と胸の傷をそっと撫でた。
『……っ♡♡♡』
瞬間、ソレの四肢が画質の荒い妖刀に斬り落され、細首が翻った黒刀により胴体から零れ落ちる。首は即座に元通り体へと繋がってしまったが、両手両足はそれぞれあらぬ方へと妖刀に貫かれて飛ばされた。
「……あ、あぁ……!」
全身を縛る力が消えた。
しかし、自分自身さえも消えかけ、自我も朦朧としていた。
自分の体を構成する魔力を解きほぐし、魂と呼べる魔力だけを固定化させ、転移の魔術を発動させる。
実体はなくなっても魂さえ残っていれば問題ない。主君の元へと戻りさえすればいくらでも替えの魔導書を用意してくれる。
幸い、あの男は白いソレの出現によりギュルヴィ腐書どころではなくなったらしく、注意が完全に逸れている。これ幸いにとばかりに、ギュルヴィ腐書は決死の逃亡を成功させたのだった。
* * *
「なぜ出てきた」
『なぜ、とは連れないですね、ご主人様』
羽黒の影を伝って勝手に飛び出てきたソレの腹を踏みつけながら問いただすも、にこりと艶っぽい笑みを浮かべるだけで全く懲りているように見えない。
ちらりと斬り落とした四肢を確認する。
ありったけの殺意を籠めて心臓を再び貫いているおかげか、妖刀による封魔の方がコレの再生能力を僅かばかり上回っているらしく、幸い生えてくる気配はない。視線を戻す。
『だってご主人様に死相が出ていたんですもの』
「てめえ、俺が死ぬかもしれないから出てきたってのか?」
『ええ、まあ』
ソレは笑う。四肢を失い、心臓を貫かれているというのに、寝所で組み敷かれている時のように瞳を潤ませて、笑う。
『あの気紛れな女狐だって加護を与えるほどの相手でしたからね。落丁本とは言え、ご主人様には分が悪かったかと。ですから少々手助けをと』
「はっ、誰があんなBL本なんかにやられっかよ。てめえは俺の中で悠々とご主人様の活躍を見てればよかったんだよ。んなことのために封印ぶち破って出てくんじゃねえよ阿婆擦れが」
『ふふっ……』
その虚勢すら愛おしい、と、ソレは笑う。
『ですが今回、私は別に無理に封を破ったわけではありませんよ』
「あぁ?」
『鍵の空いた玄関から顔を覗かせるくらい、簡単に出てこれました』
ソレはちらりと視線を動かすそぶりを見せた。その先にいる、いまだ目を覚まさない呪術師の存在を思い出し、羽黒は慌てて妖刀でソレの目玉を抉った。
『あ……』
「てめえは俺だけ見とけ」
『うふふ……! さい、こう……!』
例え世界の不具合だろうが視線だけで殺しかねない魔眼を一瞬で再生させながら、ソレは満面の笑みを浮かべる。
『でも呪術具はもう少し慎重に選んでくださいね。あんな不具合だらけのガラクタじゃあ、私は安心して見守っていられないわ』
「……まあ、それについては俺にも非はある」
まさか気を失って制御を離れただけで、敵味方関係なく作用する魔術ジャミングが発生するとは思わなかった。結果として、本来の目的である術式は島中に張り巡らせることが出来たし、ジャミングのおかげでそっちに視線が逸れているらしく今のところ術式が破壊された気配はないのは幸いか。ジャミングも、瑠依が目覚めたらさすがに幾分かはマシになるだろう。
『まあ今回は不測の事態ということで、今日のところは大人しく帰るとします』
「……っ」
ソレはぐっと力を込め、左胸を大太刀で貫かれているというのに全く意に介さず、傷口を広げながら上半身を起こした。それどころか、いつの間にか生えていた両腕を羽黒へと伸ばし、背中へと指を這わせる。
抜け出そうと思えばいつでも抜け出せていた。
羽黒は内心舌打ちをし、顔を近づけてくるソレとじっと視線を合わせる。
『ご主人様』
ソレはそっと羽黒の耳元で囁く。
『ご主人様が私を殺して踏躙ってして侮蔑し続けてくれる限り、私はご主人様に服従を誓います。ご主人様が望むなら――世界だって、壊しましょう』
「そんな未来は永劫訪れない」
『えぇ、貴方はそういう方ですものね……昔も素敵でしたが、今はより一層愛おしい』
「とっとと失せろ」
『ふふ……それでは、私の肉人形ちゃんをよろしくお願いしますね――ご主人様』
ずるりと、何かが羽黒の魂蔵へと這入り込む。しかしそのあまりにも巨大な存在に、本来は膨大な広さを誇る羽黒の魂蔵だけでは収まりきらず、はみ出た部分を血管に流し、血をもってようやく完全に封印された。
「ぐぅっ……!」
一瞬だけ心臓が裂けそうなほどの痛みが襲う。しかしそれも血に宿った力によって鎮静化され、すっと痛みは消えていった。
「あーあ……情けねえ」
アレにまで気を遣わせた。
羽黒は珍しく弱気な笑みを浮かべ、コートのポケットから煙草を取り出そうとして、先ほどの戦闘で腐り落ちたことを思い出す。仕方がなく気分だけでも出そうとジッポの火打石をこするも、案の定カスカスと音を立てるだけで火はつかない。いや、ここで火がついても困るのだが。
「まだまだ途上だぁな……っと」
立ち上がり、全身に被った土埃を叩き落としながら羽黒は瑠依へと近付く。
……どうしてこいつはすぐ隣で地獄のようなやり取りが行われていたというのに、ぐーすか寝ているのだろう。羽黒は未知の生物を見る目で手に簡単に魔力を込め、瑠依の頬を何度か叩く。
「おら、とっとと起きろ」
「へぶっ!? ……おわぁ!? 鬼! 悪魔! 詐欺師!」
「誰が詐欺師だ阿呆」
羽黒が瑠依にしたことを考えればそのセリフは何一つ間違いではないのだが、感情に任せて張り倒してまた気を失われては敵わないため、言葉に魔力を乗せて再び詐欺る。
「お前、敵の幹部に襲われて悪夢を見させられてたんだぞ」
「え、そうなんですか……そう言えば、すっげー怖い夢見てた気が……常葉と菅野さんが抱き合いながら俺の左腕を……うぇ……」
「……そうか」
無意識だろうが、瑠依は左腕をさすりながら身震いした。
「ああ。悪夢を見せてそこから負のエネルギーを抽出して呪いをばら撒く質の悪いやつだった。なんとか追い返したから、もうしばらくは大丈夫だと思うぞ」
「な、なんて恐ろしい……」
「ああ、俺もギリギリだった。お互い運がよかったな」
「うぅ、助かってよかった……早く帰りたい……」
あっさり騙される瑠依。先ほどまで耳鳴りのように鬱陶しかったジャミングもだいぶ収まったし、言霊もうまく作用しているようだ。それはそうと、こんなんで丸め込められて、こいつはこの業界で生きていけるのだろうか。肉体的にではなく、立場的に。
瑠依の単細胞生物並みの思考力に内心頭を抱えながら、羽黒は立ち上がる。
「だな。んじゃ、とっとと帰るためにとっとと片付けるか」
「え、俺もいかなきゃダメ!?」
「残ってもいいけど、寄ってくるゾンビ全部一人で相手したいのか?」
「行きます! 一緒に行かせてください!!」
「…………」
瑠依の不安定な力を考えるとなるべく一緒に行動はしたくないのだが、目を離したすきに羽黒が丹精込めて仕掛けた術式を何かの拍子に壊されても困る。いっそもう一回ぶん殴って気絶させた方がまだ対策の取りようはあるかもしれない。ぶっちゃけ、羽黒のように素の身体能力をメイン武器とし、術式はあくまで補助的に小手先で使う程度のため、先ほどのジャミングはさほど効果はなかったし。
……と、そう言えば今回の同行者に魔術頼りの術者が一人いることを思い出す。
やっべ、後で殴られるかもしれん。
羽黒は溜息を抑えながら、「んじゃ、行くか」と歩き出す。
「ち、ちなみにどこへ……?」
「んー……大聖堂」
「ほえー」
……一度は敵拠点の情報を聞いているはずなのにすぽんと頭から抜け落ちていた瑠依が、敵本陣に突っ込まれて悲鳴を上げて逃げ回るまで、約一時間。




