Noir-00 死の国
エーゲ海に浮かぶ、無数の島の1つ。
碧色の海と砂浜の美しさが売りのその島は、かつては観光客で賑わい活気ある商売人達が鎬を削る地だった。
そう、「だった」。——かの、『エーシュリオン事件』が起こるまでは。
一夜にして住民全てが死に絶えるという謎の事件が起こって以来、『呪われている』『未知のウイルスが蔓延している』と噂になり、観光客も一切足を向けなくなったその島は、今や文字通り「死の島」と化していた。
荒廃した中心街は、かつての賑やかな声も観光客の楽しげなざわめきも聞こえてこない。代わりに聞こえるのは、地の底から響くような呻き声や、ずるずると這うような音、カタカタと固いものがぶつかり合うような音ばかり。
住民が死に絶えた後、誰も——特殊訓練を積んだ救助隊でさえ——入れば出てくることのなかったその地は、かつて住民だった人々のなれの果てが蠢いていた。
——ゾンビ。
朽ち果てた肉体が何らかの干渉によって動く、意思なき傀儡。場合によっては身に持つ病原体を撒き散らすとして、存在そのものを忌み疎まれる、魔物扱いされる存在。
——スケルトン。
骨のみとなった人体が、やはり干渉を受けて動き回る傀儡。屍肉がない分瘴気や病原体をまき散らしはしないが、その分動きが機敏だ。ゾンビと同じく魔物扱いされることが多い。
中心街に意味も無く彷徨うそれらの総称を、——アンデッドという。
切欠1つで招かれざる客に、生者に、一斉に襲いかかるよう命令されているそれらは、主の指示を遂行する時を待ちわびて、ただひたすらに石畳の道を這いずり回っていた。
濃厚な死の気配が充ち満ちた、終わりの土地。生者に見捨てられたその地に、——靴音が鳴り響いた。
コツ、コツ、コツ。
一定のリズムを刻む靴音に、死者のなれの果てが一斉に活気づく。獲物の到来に淀んだ眼差しを向ける先、黒いシルエットが浮かび上がる。
黒髪黒目。黒一色で統一した服。死臭にも周囲の惨状にも顔色1つ変えない青年は、淡々と足を進めていく。無防備とも取れる足取りに、爛々と暗い眼差しを向けていたアンデッドが一斉に襲いかかろうとして——ぴたりと、動きを止めた。
忌々しげとしか形容しようのない光を浮かべた眼窩を向ける先、青年の左手首がぼうと光る。淡い青色に輝く腕輪は、確かにその存在をもってしてアンデッド達を退けていた。
アンデッド達の憎々しげな呻きやカタカタと骨の鳴る音にも無頓着に、青年は一直線に島の中央に建つ教会に足を運ぶ。周囲の状況に何一つ関心を向けず歩く姿は、アンデッドと同じかあるいはそれ以上に、この場において不気味な存在だった。
やがて、青年の足が止まる。ゆっくりと、その無感情な顔が持ち上がった。
闇を宿したような黒い瞳が、扉の上にある彫刻を捉える。二羽の鷹が互いの翼をついばみ合うような奇妙なデザインのそれに向けて、青年は言い放つ。
「……魔法士『スブラン・ノワール』、到着した」
ギィ……
抑揚のない声が告げた途端、彫刻が軋む音を立てて動き出した。鷹の顔がどちらも青年の方を向き、ゆっくりと傾ぐ。青年は表情も変えず、その異様な光景を見守っていた。
やがて、鷹が頷くような素振りを見せる。同時に、ガチャンと閂の外れるような音が響いた。ゆっくりと、扉が中へ向かって開く。それを待ち、青年が再び歩き出した。
白黒のモザイク柄を描く大理石の床に、靴音が大きく響く。外の有象無象と同じ気配を漂わせた、しかし明らかに別物である魔物達が興味津々の様子で青年を見守る中、青年はあくまで周囲を無視して進み続けた。
祭壇の直ぐ目の前で立ち止まる。複雑な紋章で飾られたそれに目を止め、青年は目を細める。
「……魔力操作式魔法陣。その応用か」
低い声で呟くと、すう、と右手を伸ばした。祭壇に掌を向けた先、ぼうと薄暗い光が宿る。光は紋章を素早く走り、ふっと吸い込まれて消えた。
がくん、と青年の視界がぶれる。唐突にかかる慣性力を難なく相殺した青年は、天高くそびえる塔目掛けて上昇する床の上で、小さく溜息を漏らした。
「良く来たな」
塔に登り切るかと思われた直前、しわがれた声と同時に青年の視界が暗転した。煩わしげに瞬きすると同時に、青年の視界が切り替わる。
教会の中とは思えないほど機能的な空間。数多の機材が光を薄く放つそこは、さながら司令室のような相様を見せていた。一瞬視線を周囲に巡らせた青年は、部屋の奥から向かってくる足音に無感動な目を向ける。
長い赤のマントを引き摺るようにして現れたそれは、仰々しい服飾で全身を飾った30代後半と思しき外見の、血の気のない肌をした男だった。金の錫杖を片手に、傲然たる血色の瞳で青年を見下す。
「魔法士協会が幹部を寄越すと言うから、一体どんな人外が来るかと思えば、ただの小賢しそうなガキか。あの組織はつくづく魔術師を軽んじる姿勢を見せつけてくるものだ」
尊大な声に含まれた毒は無視して、青年は胸に手を当てて一礼した。
「魔法士幹部スブラン・ノワール。総帥の命に従い、死霊魔術国家<エーシュリオン>の魔術顧問として参上した」
「……ふん。最低限の礼儀作法は身に付けておるのか。まあ、あの祭壇の紋章魔術を初見で看破できるのならば及第点だな」
上から値踏みするような発言には構わず、スブラン・ノワールと名乗った青年は淡々と言葉を紡ぐ。
「全ての死者を統べるリッチとなった魔術師、アスク・ラピウスというのは貴殿であっているか?」
——リッチ。
生前魔術師だったものが、死霊魔術を極めた結果、自身すらもアンデッドと化して全てのアンデッド達を従える存在。屍でありながらゾンビとは明らかに格の違う、強い魔力を漂わせる、死者の王。
尋ねられた男は、ノワールの問いかけに鷹揚に頷く。
「ああ、そうだとも。……だがな、小僧」
キンッと金属質な音が響くと同時、ノワールの目の前に宙に浮く刃が突き付けられた。僅かに眉を顰めたノワールに対し、アスク・ラピウスは低い声で恫喝する。
「口の利き方を弁えろ。私はこの国の最高権力者、王だ。幹部の立場を持っていようといまいと、ここでは私の下という事実をきちんとその頭に叩き込め」
「……」
「返事は」
押し黙るノワールに、アスク・ラピウスが重ねて迫る。その声音には危険な響きを帯びており、黙っていればその刃がノワールを傷付けるのは確実と思えた。
が。
「自分は、魔術顧問としてここに来ている。いわば客人の立場だ。この国では客人をこのような扱いをするのが常識なのか」
冷め切った声が言い放つと同時、刃がノワールの頭部を貫く。頭から刃を生やして倒れる姿を、しかしアスク・ラピウスは見なかった。
「……なるほど。幹部の肩書きを持つだけはあるか」
低い声に僅かに感嘆を滲ませたアスク・ラピウスの赤い眼には、ノワールの顔ギリギリの位置に展開された薄い闇の幕が刃を飲み込んだ光景がうつっていた。ノワールは表情1つ変えず、淡々と言葉を続ける。
「この国のルールには従うが、言動にいちいち指図を受ける筋合いはない。魔術に対する助言は行うが、指示に従う義理を感じない」
「ほう。しかし、客人ならば招き主に対する礼儀があると思わないか? そのような、我々を不愉快にする小道具を身に付けて現れては、敵と見なされても文句は言えまい」
アスク・ラピウスがノワールの手首に巻かれた腕輪に視線を向ける。青く光る腕輪を見るアスク・ラピウスの目にははっきりと忌避が浮かんでいた。
「死者を退ける聖結界。露骨に我々を拒絶するのは、客人としても顧問としてもいかがかと思うが」
「死者の気は生者には毒だ。身を守るくらいは許してもらいたいが」
「なるほど、これはこちらの気がまわらなんだか。そのような脆弱な感性と遠ざかって久しくてな。そうだ、いっそ小僧も死者にしてやろうか」
にやりと楽しげな笑みを浮かべるアスク・ラピウスに、ノワールは首を横に振った。
「生憎、今から死を恐れるほど悲観的でもない。まあ、ここでの生活次第では考えるかもしれんが」
「ほう、それは楽しみだ。是非とも死者の素晴らしさを見ていくと良い」
「それはありがたいな。個人的にも、この国には非常に興味がある」
今度は首を縦に振ったノワールに、アスク・ラピウスの機嫌が戻った。傲慢な笑みを浮かべ、鷹揚に頷く。
「よかろう、好きに見て回ると良い。ただし、条件が1つ。——この国では、私のことは陛下と呼べ」
「……仰せのままに、陛下」
僅かに片目を眇めて仰々しく一礼したノワールに、アスク・ラピウスは呵呵と笑った。
「気の利いた真似も出来るんじゃ無いか。さて、小僧に用意した部屋に案内する前に、だ。……手土産次第では、これを返してやっても良いぞ」
パチン、とアスク・ラピウスが金の錫杖をあいた手に打ち付ける。すうと闇の中から、1人の少女が現れた。
灰色の布をワンピースのように巻き付け、くすんだ緑の長い髪を垂らしている。目にはぎっちりときつく目隠しの布が巻き付けられており、小さく笑みを浮かべた口元がやけに印象的だ。
アスク・ラピウスに恭しく一礼した少女の手には血色の滲んだ縄の先が握られており、その縄が伸びる先には、小さな少女が蹲っていた。それを見たノワールの眉が、初めてくっきりと顰められる。
燃えるような赤い髪、透き通る白い肌には縄が食い込んでいる。痛むのかやや涙を滲ませた藍色の瞳は、涙にもその輝きがくすんでいない。
「島をうろちょろしていたからペプレドに捕らえさせたのだが、これは小僧の連れだろう? 同じ腕輪をしているからな」
アスク・ラピウスが顎で少女の左手首を示す。そこにはノワールと同じ意匠の腕輪が、やはり淡く青い光を放っていた。
「間諜の類かと尋問したが、それにしてはどうも抜けている。その上、その腕輪のせいか死者化の魔術も通用しない。さてどうしたものかと扱いに困っていたのだ」
「……失礼した。挨拶させる必要は無いと判断して、別行動を取っていたのだが。入ってはならない場所にでも迷い込んでいたか?」
「まあ、そんな所だな」
アスク・ラピウスの返答に、ノワールが溜息をつく。その様子を見たアスク・ラピウスの顔が愉快げに歪む。
「仲間か?」
「まあ……面倒を見ている。最近魔法士3級を取ったばかりで、実戦経験に乏しいからと連れてきたんだが。早々に迷惑を掛けた」
「構わん。なかなかに面白そうな素材だ、このまま預かっていても良いぞ?」
アスク・ラピウスの言葉に、ペプレドと呼ばれた少女の口元がニタアと笑む。それを見た赤毛の少女が、僅かにびくっと震えた。
「いや、自分の監視下にあるのが今回連れてくる条件となっている。こんな手土産で良ければ返してもらいたい」
味方の怯えにも動じず、ノワールは何も無いところから1冊の書を取り出す。無造作に投げ渡したそれを受けとり、アスク・ラピウスは興味深そうに見下ろした。
「魔術書……それも、相当な魔力が使われているな。暗号書か?」
「そうだ。書かれているのは、『総帥の秘密』」
ぴくり、とアスク・ラピウスが反応する。目を輝かせて身を乗り出した。
「確かか?」
「内容までは知らないが、事実だ。足りないか?」
「いやいや、とんでもない」
心底嬉しそうに言って、アスク・ラピウスはパチンと錫杖を鳴らした。ペプレドはちっと舌打ちをして、縄を乱暴に解く。
赤毛の少女は蹌踉めくように立ち上がると、一目散にノワールの元へと走りよった。何も言わずにぎゅうと腰に抱きついた少女を無造作に引き剥がしながら、ノワールは淡々と礼を言う。
「感謝する」
「それはこちらの台詞だよ。まさかこんな、真っ向から主の意向に逆らう真似をするとはな。命知らずな奴め」
「……」
アスク・ラピウスの評価には何も言わず、ノワールは黙って少女を傍らに置いたまま立っている。それを見て、アスク・ラピウスは頷いた。
「さて、長話はここまでだ。ペプレド、部屋に案内して差し上げろ。同じ部屋で良いのか?」
「ああ」
迷いのない返答ににやりと下種な笑みを浮かべるアスク・ラピウスを無視して、ノワールはペプレドの後を追った。
「こちらになります」
教会の中と思われる廊下を進んだ先、ペプレドが扉を開けた。ノワールは黙って頷き、少女を連れて中に入る。
豪奢な、しかしやや古びた家具が並ぶ部屋を見回すノワールに、ペプレドが一礼する。
「何かありましたら申しつけください」
「分かった」
ノワールの返事に再び頭を下げ、ペプレドは部屋から出て行った。
しばらく、ノワールも少女も身動ぎ1つしなかった。やがて、ペプレドの気配が完全に消え去ると、部屋に遮音、盗聴防止の結界が張り巡らされる。
続いて、ノワールの身から魔力が溢れ出した。魔力は少女を包み込み、血の滲む傷を綺麗に消し去っていく。
「……はあ」
無詠唱の治癒魔法で少女の傷を癒した溜息を漏らすと、ノワールは容赦なく少女に拳固を落とした。
「いったーい! ノワ、ひどい!」
「5分」
「う……」
低い声で示された時間に、頭を押さえ涙目で抗議した少女が怯んだように黙る。構わず、続けた。
「軽く島を見回ってこいと指示して、5分。どうやったらそんなに早く目を付けられるんだ、魔法士3級『ダンスーズ・フージュ』」
「うー……だって……」
「何だ」
「何かいやーな感じに気になる所があって、ちょっとドアに近寄っただけで捕まっちゃったんだもん」
「当たり前だ、馬鹿が」
「あいたっ」
少女の——フージュの額を乱暴に叩き、ノワールは苛立たしげに言い募る。
「あれほど有象無象がうろうろしている中、あからさまに怪しい場所に近付けば報告されるに決まっているだろうが。大体、俺がフウに出した指示は島を1周して地理を把握してこい、だけだ。引っかかる場所があっても入らず報告すれば良いと言ったはずだが?」
「だってー……気になったんだもんー」
「後にしろ、と言っている。今回の任務は急ぎじゃない、順を追って調べると、これも説明してあっただろうが」
そう言って、ノワールは再び額をはたいた。額を押さえ、フージュが唇を尖らせる。
「だって……」
「だってじゃない。指示には従え」
「だって! ノワ、この島に来る前からなんか焦ってたもん!」
「……」
フージュの指摘に、ノワールが眉を寄せて押し黙った。
今回、ノワールが死霊魔術国家<エーシュリオン>に派遣された理由。表向きこそ「魔術顧問」だが、実質は魔法士協会総帥直命の「調査」だ。
『脅していう事聞かせるんじゃなくて、最初から殺しておいて従えるとか、効率的と言えば効率的だよね。ちょっと調べてそのノウハウ掻っ攫ってきてよ。……ああ大丈夫、君のことだから魔術にしか興味ないのは織り込み済みだって。どこにどんな魔術が仕込まれてるのか根こそぎ教えてくれれば十分だよ』
楽しげにそんな命令を問答無用で押しつけられ、おまけに師匠にフージュの初実践任務の補佐まで任されたノワールとしては、こんな仕事さっさと片付けて撤収したいと思うのは当然の流れである。
「普通に考えて、早いところ終わらせたいだろうこんな任務。見渡す限り腐った死体に腐臭、調べるのは死体を操るなんて悪趣味な魔術だぞ。気味の悪い」
「確かにこの匂いは気持ち悪いねー……ノワがこういう依頼受けるの珍しいの?」
「通常なら絶対に断る」
「じゃあなんで受けたのー?」
「…………諸事情あって、断れなかった」
基本的に魔物の討伐依頼ばかりを選んで受けているノワールが、こんな任務を引き受けた理由は2つ。
1つは、『不死者達の王』というアスク・ラピウスの肩書き。アンデッドに並々ならぬ執着があるノワールにとって、調べる価値がある代物だった。
ただ、これだけならば表向きは顧問などという面倒臭い手順を追わず、片端からアンデッドを狩り尽くしてしまった方が手っ取り早い。というか今でもそうしたい。
それをせず、総帥の注文通りに動く理由——依頼を引き受けた2つ目の理由は、つい先日の事件が影響していた。
「しょじじょう?」
「……始末書は提出したし諮問会議も大人しく出席したんだがな……干渉の切欠を見逃したのが気に食わなかったのか、仕留め損ねたのを突いているのか。どのみちあいつらと関わると、本当に、碌な事にならん……」
「???」
ぶつぶつと呟くノワールの言葉が理解出来ず、こてんとフージュが首を傾げる。それを見て、ノワールは深々と溜息をついた。
……利害の一致でかつて取引をした——向こうは勝手に弟子扱いしているが、貸し借りナシの関係だあれは——男と、ノワールの事情と立場上最近やけに関わりの多い男。2人揃って魔法士協会と非常に相性が悪く、遭遇しただけでも始末書ものという曰く付きの人物。
そんな歩く爆弾のような2人に、つい最近うっかり関わってしまったのが運の尽き。結果的に協力体制を取ってしまった事と、そのくせどちらも捕らえなかった事、おまけにその後の諸々のせいで責任の所在をちくちくと突かれ、ノワールはこの任務を断り切れなかったのだった。
「とにかく。この島の座標ごと総帥の嫌がらせなんだ、とっとと終わらせて帰るぞ。その為にもフウ、俺の指示には従え。いいな」
その厄介事産生機な2人組が住む世界と、この島が存在する世界が同一。どう考えても悪意ある任務チョイスだ。距離そのものは離れているため早々遭遇するとは思えないが、長々と滞在するとちょっかい出して来かねない。
何より、この島のありようそのものが危険だ。
「はぁい」
分かっているのかいないのか、返事だけは良いフージュに、ノワールはまた溜息をついたのだった。