2-3『決意、誰よりも英雄な』
日中こそ、何も異変は無かった。彼女はその間も沈んだ面持ちだった。絶対に何か隠している。そんなこと見て分かってしまう。宿泊地まで辿り着くまでは本当に何もなかった。旅路で盗賊が襲ってくることとかもない。何とも平和ボケした道中。
問題は、宿泊地の点在している街へと入る直前で発生した。
「ねえ。……やっぱりこの街には、入れないよ、私」
いきなりすぎて、どういうことなのか、さっぱり見当がつかなかった。僕が、魔王討伐まで時間がないことや、次の街までは一晩かけても辿り着けないことなど、説得を試みた。だけど、返ってくるのは彼女らしくない、弱弱しい、掠れた声。震えて、目元に僅かな涙を浮かべている。――何が、あったの? 恐る恐る聞こうとして。
「ごめんね。これだけは……、私の記憶からは消せない。これだけは私自身が解決すべきことだから」街の入り口の反対に向かって、駆け出したイヴ。僕はその後を、追った。もうじき夜が来る。たとえ、魔法に長けているイヴだからって、夜闇に山賊や盗賊の奇襲を食らったら、どうなるか分からない。特別、夜目が利くわけでもあるまいし、それに相手が複数人だった場合は、魔法を使う以前に力で押し退けられてしまう可能性もある。
街の門からだいぶ離れたところまで走ったと思う。空を覆う、無限の闇。月明かりだけが今にも壊れそうな硝子細工の味方だった。彼女は嗚咽を漏らしながら、道の傍らに生えている広葉樹、その根元にへたり込んでしまった。顔元を両手で覆っているが、涙が隙間からぼろぼろ、こぼれ落ちていく。こんなひ弱なイヴの姿は、今まで過ごしてきて初めて見るものだった。僕が見てきた彼女の姿は、たかが、半年のものだったけれど。
「――実はね、あの街は、私が九歳まで過ごしてきた場所なの。私の心を蝕んだ絶望の原風景なの。おかしいな……昔のことは忘れようって」顔を覆っていた両手で目尻を拭い、無理をして笑ってみせるが、涙は拭っても、拭っても、溢れ出る。
――ごめん。僕が何も知らなかったばかりに。
「いいや、これは私がいけないの。もう、九年も経ったし、いい加減現実に向き合わないと」涙は、堪えていなかった。それで、いい。今のうちにたくさん泣いておけば。過去の爪痕は忘れようとして忘れられるものではない。
そっと、僕は彼女の前に座り、目線を合わせた。
――僕は、君の意思を尊重するよ。仕方ないよ、立ち直れなくても。だって、君は立ち直れるのがおかしいくらいの仕打ちを受けたのだから。
過去と決別したって誰も文句なんて言わない。勿論、僕だって。
だけど。
――貴女が、歩むなら。貴女が、向き合おうとしているのだったら、僕はその歩みを後ろから後押しする。だって、家族だからね?
イヴの身体が、僕の胸に収まっていた。タガが外れたようにイヴは泣きじゃくった。涙の堰が、とめどない激情がぶち壊す。溢れ出る滂沱の波。彼女が泣き止むまで、僕はしばらく、震えている背中を、擦ってやった。
一体、どれくらいの時間が経ったかは分からない。嗚咽が収まり、背中の震えも元通り、赤くなった目尻に残った僅かばかりの涙を拭いながら、呼吸を整える。溢れんばかりの涙を流し続け、ようやく収まった彼女の眼では、意志が光っていた。
――それでこそ、イヴだよ。
月光に照らされ、艶やかに色めく彼女の髪を掻き撫でたら、自然と安堵の笑みが浮かんでくる。つられて、イヴも笑ってくれた。
「さて、遅くなっちゃったし。……行こうか、私のかけがえのない従者様」
仰せの通りに、僕の英雄様。と、僕は返して、街の方角に目を向けた。
闇夜に立ち込める狼煙のような黒煙と、ナメクジのように這いながら蠢いている臙脂色の焔が、視界に入った。
――まずい。と思うより早く、反射的に僕達の身体は、街に向かっていた。
街では災禍の根源たる、大火が天へと伸びていた。逃げ惑う人々、追うのは、野蛮な男共。山賊が、街一つを陥落させにきたということか……? いいや、深く考えている暇は無かった。僕とイヴは二手に分かれて、山賊に歯向かうことにした。
逃げ惑う人々、弾圧される弱者。善悪の区別を分からない人間は、獣よりも堕落している。
力任せに振り下ろされるダガー。危ない、少しでも間に合わなかったら無実の人々は今頃肉の塊に堕ちていただろう。
腰に携えた長剣に手を掛けた。抜刀し、ダガーを振り下ろそうとする腕へ、力の奔流を殺到させる。斬ッ! と筋骨で固められた筋繊維を容易に引き裂く。背後からの奇襲に理解が追いつかず、動きを止めた敵の、腕が無い右側に回ると、脇腹を一突き。至近距離で足を引っかけて、体勢を崩させてから、重力に任せて、敵の肋骨を叩き割る。傷口から吹き荒れる血の雨が頬を汚らわしい紅で染め上げた。鉄錆の味は、胸糞悪さの塊だった。悲鳴を上げる間もなく絶命した山賊を一蹴して、背後の住人に向けて――早く逃げてください、ここは僕に任せて! とまくし立てるように告げる。それだけで、恐怖におびえた人々が街の外へ駆け出していく。
よし、これで十人を人質に取られる心配は、極端に減った。だが。
僕の周囲には、五人程のゴロツキが武器を構えていた。
――全員相手だ。怖がる間もなく、狩り尽してやる。
※ ※ ※ ※ ※
五人の山賊に苦戦を強いられることはなかった。型がなっていないがために、動作に隙が多すぎるからだ。イヴの方を見れば、山賊を倒しながら魔法で水を生成して、鎮火まで手を回している。残る盗賊も五本の指に収まってきた。血糊を振り払いながら、一人ずつ片を付けていく。だが、ここで一つ問題が生じた。
「そ、そこから一歩でも近づいてみやがれ!! この娘の首をへし折るぞ!?」
筋肉の浮き出た山賊が、年端もいかぬ少女を人質に取っていた。泥に汚れた赤い髪に、白く透き通るような肌の少女は心なしか、イヴに似ていた。
右腕に歪な形の鉈を握り、顔を強張らせながら脅している山賊。ケダモノには羞恥とか誇りの欠片も存在していなかったらしい。相対するイヴは、剣を構えながら何もできずにいた。
「よし……、よし、それでいい。今すぐにでも奇襲をかけてみろ……この娘を殺しt」
言い終わるよりも早く、僕は山賊の背後に回って、右腕を斬り落とした。同時に背後から山賊の口を閉じて、真下で硬直する少女に向かって、
――今すぐあっちのお姉ちゃんの方に行きな。あと、目、閉じといた方が身のためだよ?
このあと、少女がイヴの方へ駆け出したのを合図に山賊を蹴散らした。慈悲は無い。
※ ※ ※ ※ ※
「ええと、……なんか、とても入れてはいけないスイッチを入れちゃったのかな?」
慈悲がなさ過ぎて、イヴに引かれてしまった。必死の説得で僕は常人認定された。いや、僕は決して刃物持ったら性格変わるような人間ではありませんから。山賊を蹴散らすために奮闘していただけですから。
僕らは少女の家族を探した。街の外から戻ってきた住民の波に揉まれながら、少女の両親を探す。少女の手を強く握りながら必死で探し回るイヴの姿。……少女と合わせてみると、仲睦まじい姉妹にしか見えなかった。
やっとの思いで、僕らは少女の親を見つけた。イヴの腕から赤い髪の少女が離れていく。親の胸に飛込む前に、一回、少女は振り返った。『お兄ちゃん、お姉ちゃん! 助けてくれてありがとう!!』という言葉とともに送られた純粋な笑顔に、イヴは、すっきりしたように快活な笑みを浮かべて手を振った。僅かな哀愁を漂わせる彼女の笑顔で僕は全て、悟った。
――これで、よかったの?
横で手を振り続ける彼女に向けて、問うと何も驚くことなく、困ったように笑った。
「……やっぱり、わかっちゃったか。私ってつくづく嘘を吐くのが下手だからね」
人質として囚われていた少女の親は、かつてイヴを見捨てた両親だった。彼女の姿を見た二人の男女は娘を抱きしめてから深々と、僕らにお辞儀をして、その場を後にした。あまりにも、潔い終わり方で。あまりにも、彼女が報われなさ過ぎて、心の中で渦巻く憤怒に似た感情を、どこに吐き出せばいいのか、僕は分からずにいた。
「いいんだよ、これで」彼女はもう、泣かなかった。逃げることをよしとしなかった。泣くことはもうやめて、人一倍に笑っている。涙を忘れるための笑顔じゃなくて、涙を受け止めるための笑顔だった。過去の絶望を笑顔に昇華できる彼女は、強く、そして燦々とみなぎる太陽のように明るかった。
「お爺様だって言っていたでしょう?」
世界を恨んだとしても、人間を恨んだとしても、個人を恨んではいけない。
――誰かの為に、光り輝け。そんな英雄になりなさい、か。
「うん。だから、私は決めたの。私を恨んでいる人でも、勿論恨んでいない人でもいい。誰かに笑顔を与えられるような、そんな英雄でありたいって」
――本当に、格好いいな、君は。そんな無謀とも言えることを平気で言えるし。
「限界っていうものは自分で決めた時点で決まってしまうもの。決めつけないのが大事。だって、そんなものを決めつけたら、自分主観の世界の色が褪せてしまう。自分だけの世界を、限界っていう箱庭に押し詰めちゃ、そんなの世界に対して失礼だもの」
いかにも、彼女らしい前向きな答えだった。やっぱり、イヴは世界中の誰よりも至高の英雄だ。従者の僕が保証する。