1-2『勇者未然、英雄志願者、或いは依然童女』
【三】
かくして僕と彼女は出会ったわけだが……。僕が目を覚ました後も何故だか、彼女は膨れっ面だった。目をしかめ、眉をひそめ、覚醒した僕へと殺到してきた怒りの視線。何というか、理不尽な世界だった。いや、あとから思えば、彼女らしい負けず嫌いで頑固な一面が垣間見えていただけなんだろうけど。
苔に覆われた地面に座り込む。
目の前の彼女は、仁王立ちで僕を警戒しているように見えた。
「ようやく、起きたわね」始終、僕を睨むことを怠らない。睨んでいるような怖い視線はもしかしたら、疲れ目なんじゃないか? だとしたら、今すぐにでも十分な睡眠を摂ることをお勧めするよと、ジョークを飛ばそうとして僕は一つ、気付いた。
彼女の瞳が、何か、訴えている。不満垂れ流しに、あからさまなしかめ面で。
「貴方…………私を信用しなかったでしょう」
――? どういうことかな。彼女の質問の意味について、噛み砕いてみた。巌を一握の砂粒くらいまで砕ききったところで、ようやく僕は理解に達した。――ああ、信用できなかった、と問いに対する答えを返す。態度からして、彼女は僕のような弱者に頼ってほしかったのだろう。僕が彼女を頼りきれなかった――そのことに怒っている。僕が、あまりにも直截的な答えを告げると、一瞬呆気にとられたようで、二、三度瞬きをした。だが、次の瞬間、彼女は本当にご立腹してしまった。
機嫌をとるのは、難しそうだった。しかしまあ、改めて見回せば見目麗しい少女だった。焔のようにめらめら煌めく赤髪は頭の後ろで結ばれている。真珠のような艶に、絹のようなきめ細かな肌。唯一、彼女の左目を覆う眼帯からはみ出す鋭利な刃で裂かれたような古傷の痕だけが彼女の美貌を穢しているように見えた。だが、そんな『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という謳い文句が相応しい少女が、幼稚にも、頬を膨らましている。僕には、それが可笑しくて、可笑しくて、ついつい吹き出してしまった。勿論、そんな些細なことでさえ、彼女の気に障ってしまう。朱色の頬は噴火直前の火山だった。または、緋色に熟れた甘酸っぱい林檎の果実か。
「な! なにが可笑しいのよ!? 私を馬鹿にしているのかしら!?」
――あはは、ごめん。と口では謝るものの、笑いは止まらなかった。前で、全くもう……と、頬を膨らませている彼女の姿もまた、可愛らしい。言うならば、愛玩動物、犬とか、猫とかに近い。いや、決して馬鹿にしているわけじゃないが。さっきの一蹴も戯れと捉えれば、なんていうこともない。多分。ともかく、僕らの出会いは結構ゆるり、としたものだった。
「貴方。名前は?」唐突に、彼女が問うてくる。僕が答えないでいると、彼女ははっ、と何かに気が付いたかのような素振りを見せ、次の瞬間、頬を羞恥で染め上げ、きまりが悪いような表情を浮かべていた。「ご、ごめんなさい。名乗るのは自分から、当然のことだったわ」
彼女は、イヴと名乗った。――いい名前だねと返したら、ありがとう、とほんのり桃色がかった頬を緩ませていた。そして、再び沈黙が訪れる。僕はいつまでも答えることができなかった。僕が名乗れないのは、そもそも自分の名前を知らないからだ。何故なら、気付いた時には眼前の大樹林に突っ立っていたわけで、それ以前の記憶が全く思い出せないからだ。
自分については、何も知らない。自分は何処から来た何者なのか――という自問自答は、いささか哲学的なものだが、僕は哲学的に考える以前に自分の名前すら知らない。いや、自分が人間であることくらいはさすがに知っているつもりだが(ヒトガタのバケモノという線も無きにしもあらずだが)
しばし逡巡して、僕は短く告げた――自分の名前は、知らない、と。付け加えるように、僕が置かれている不可思議な状況についても余すことなく、伝えておこうとした。だが、途中で遮られてしまう。それは勿論、彼女、イヴが止めたからだ。
「ごめんなさい……、理解が追いつかないわ。貴方は、真剣だけど、その話の全てを信用することは、難しいかもしれない」そうなることは薄々気付いていた。話が現実的な枠を飛び越えている。僕の伝えようとした真実は皆、突飛過ぎる妄言のようなものばかりだった。――別に、無理して信用してもらわなくてもいいよ。僕だって、自分のことが全く分からないんだから。
僕が僕自身に、無意識に嘘を吐いていることだってあり得る。だから、自分すら、信用できない。頼れるものが欲しいけど、簡単に手に入るとは思えない。この途轍もなく広い世界で僕だけが独りぼっち。だと思った。乾いた作り笑いを浮かべる。そうでもしていないと、自分で自分を壊してしまいそうだった。
「独りぼっち、ね……」イヴは、どこか上の空で、僕の言葉を反芻していた。その顔に浮かぶ表情は、硝子細工のような儚さを持っていた。砂漠に突っ立っている一本の樹を思わせる、淋しさを醸し出している。「だったら、私と同じかな……」
『私も、昔から独りぼっちだった』その言葉とは裏腹にイヴは優しく微笑んでいた。その表情の裏にある虚しさは僕の想像を絶するもののはずだ。本当は、精一杯、枯れて、枯れて枯れ尽して、人生の中で流すありったけの涙を絞り出したいくらいに、泣きたいのかもしれない。だって、無理矢理笑おうとしている頬は、不器用に引き攣っていたから。
僅かに震える唇は、無理矢理笑うことに堪えているのだろう。
――君は、強いね。僕だったら、きっと、絶望して自ら命を絶っているはずだ。
「そうかな? ……ふふ、ありがとう」強張っていた頬は、いつの間にか、自然体になっていた。当初、僕のことを睨み続けていたイヴの瞳から、徐々に警戒の色が薄まっていった。立っているのが疲れたのか、僕の目の前で正座をした、イヴ。腰に携えていた両手剣を丁寧に地面に置いた。
「この剣は、私のお爺様の遺品なの」
話によると彼女は捨て子だったらしい。
この世界には、空想を現実に変える『魔法』という技術が存在していた。
彼女は、たぐいまれなる魔法に対する適性を持っていた。だが、度を越した才覚にイヴの両親は、彼女を恐れていた。そんな最中に、彼女の住んでいた、王からの支配が行き届いているかすら怪しいような、小さな辺境の街で彼女にまつわる様々な噂が出回ったらしい。或る者は、彼女を悪魔と呼んだ。また或る者は、彼女を災禍の火種と呼んだ。やがて、彼女の住んでいた街に原因不明の伝染病が蔓延する。人々は口々に、伝染病の根源がイヴであると根も葉もない噂を垂れ流した。齢九つの少女は、その街から、そしてかつての家族からも弾劾され、排斥された。
「誰にも頼ることができなかった。意識は日に日に虚ろになっていって、いつしか、私はここ、《寂れ廃れた大密林》の入り口に辿り着いて、とうとう倒れた。一時は、餓死することを覚悟していたの。そんなときに現れたのが、私の恩人、お爺様よ」
身寄りのない少女は、密林の最北部にある小屋に連れ込まれて、献身的な看病の末に回復した。少女はそのままお爺様の小屋に住みついた。いつか、自分のことを治してくれた人に恩返しをするために。
「お爺様は、物知りだったわ。私がいつでも森の外へ旅立てるように色々なことを教えてくれた。料理、狩りや採集に、文字の読み書き、難しい計算事も。衣服の縫い方だって、武器の作り方も教えてくれた。――お爺様は、私の恩人であり、師匠でもあった。」
だが、どんな出会いにも必然的に別れが必要になる。つまり――。
「お爺様は、あんまり若くなかった。三年前――私が一五歳になってすぐに、老衰で死んでしまったの。お爺様は死ぬ直前に愛用の剣を私に渡して、その後で一つだけ、話をしてくれた。それは、『英雄の話』だった。『イヴが受けた理不尽は、誰もの想像を絶するだろう。まだまだ、世界に対して恨みを持っているかもしれないし、恨み続けるかもしれない。それは、イヴの自由だ』そう言って、お爺様は私を優しく包んでくれた。そして、私に一つだけ、助言をくれた。
お前は世界を恨んだとしても、人間を恨んだとしても、個人を恨んではいけないよ。人間の全員が全員悪人であるわけじゃない。
誰かの為に、光り輝け。そんな英雄になりなさい。
「ねえ、聞いてくれる?」――何を、かな?
「私の夢。できれば、笑わないでくれると嬉しいな」
笑う? 夢を持ってないのに人の夢を笑うなんて、僕には到底できないだろうな。きっと、彼女は夢があるから、絶望を乗り越えられたのだろう。夢があるから、あんなに笑っていられる。泣きたくても、涙を堪えられる。だから、というわけじゃないが、夢という一人ひとりの個性の輝きを、ないがしろにする気はさらさらない。
安心して、という意味合いを込めて僕は彼女に向かって笑ってみせた。返すように、イヴが微笑んだ。硝子のような儚く壊れそうな少女の中身は、金剛石のような煌めきを抱いていた。密接に結合した彼女の一つ一つの意志が、一本の譲れない夢を象っていて、そんな夢によって編み上げられたのが、目の前の、強く凛々しい可憐な女の子。
「私は――、」彼女の意志の奔流が、僕に向かって流れ込んでくるそんな気がした。前のめりに僕の方に歩み寄ってくるイヴ。目と鼻の先に彼女の笑みを見て。
「私は、英雄になりたいんだ。いつか憎んだ世界を赦せるような、とっても強い英雄になりたいんだ」
この瞬間、さっきの彼女の言葉の意味を理解した。『貴方…………私を信用しなかったでしょう』その言葉はつまり、彼女が彼女自身に向けて放った自戒の言葉だったのだ。身体的か心理的かに問わず、『強い』ということは、すなわち誰かに信用してもらえることに繋がる。僕は、彼女を信用しきれなかった。だから、結果的に彼女は自分自身を諫めることになった。
――ごめんね、僕は貴女を信じ切れていなかった。
「ううん。そのことはもういいの。だから、お願いをしたいんだけど――これからは私を信じてくれないかな?」
彼女の願いに、開口一番決まりきっている答えを。
――――勿論だよ。
辺りを覆っていた夜の空気に、一筋の光が突き刺した。ほんのりとした橙のそれは、いつか、どこかで見たことあるような優しい色彩を持っていた。
世界を、朝の光が包んでいく。僕は光の揺り籠に揺られるようにして、森の地面にゆっくりと身を沈めた。
これが、僕らの始まりだった。英雄と従者の旅の始まり。