甘い
僕にとって本を読むことと食事は同じだ。
ぺらり。
静かな図書館で、今日もまた同じ本を読む。綴られた言葉たちはじゅわりと僕の脳みそに染み込んでいく。
(今日の本は甘い味がする)
まあ、だからといっていじめられているわけでもなんでもないが。だが大抵の人は図書館にいる僕を見つけても僕の眼を見ただけで可哀想なものをみたようにし、去っていくのだ。だからあなた学校に行かないの、とかの言葉はかけられることはまずない。ない、はずなのだ。
「おまえ、ガッコウは、行かない?ですか?」
僕の幸せが、崩れ去ってゆく音が、した。
僕に声をかけたその男の体格は180cmは超えているであろうと簡単に予想がつく程の巨体であった。男が僕を見つめるその眼はきれいなすみれ色で、思わずじぃっと見てしまう。そんな様子の僕を、男は不思議そうにのぞいていた。
「ナニ?」
(・・・あ、しまった)
僕としたことが、失礼なことをしてしまったようだ。人の眼をまじまじと見てしまうなど、自分が散々されたことで、嫌だったことではないか。
「ーーっと、すみません」
「イヤ、良い」
僕が慌てて謝ると、男はなんでもないというような素振りで答えた。
「それで、ガッコウは?」
心配そうに見てくる男に対してまさか行きたくないからサボってるんですテヘペロりんこ☆なんてことは言えるはずも無く。かといって咄嗟に騙せそうな嘘が考えられるはずも無く。僕が出来るのは、ただ黙ることだけであった。いつまでも黙っている僕をなんと思ったのだろうか。男はそうか、と呟いたかと思うと僕の前へ向かうようにして座った。一体なんだというのだろうか。まだ何か言うことがあるのかと思い、ちらりと前にいる男を見る。男に反応はない。
「・・・・・・」
どうやら言いたいことはそれだけらしいと理解した僕は読書の世界へと戻っていった。
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男とした最後の会話から、およそ数分後。
僕はまた、悩まされていた。あの男の刺すような視線に。何かまた失礼なことをしただろうか。いや、していないはずだ。一度は視線に耐えかね、席を移動した。だがあろうことか男はついて来て、また僕の前に着席したのだ。何を考えているというのだろうか。考えていることがわからなさ過ぎて、正直に言ってとても怖い。そんなことを考えていると、男に急に声をかけられる。
「名前、ナニ?あなたは。」
「え、え。ぼく?」
「Да」
男は「ダ」と言った限り、なにも言わない。じいい、と見つめられる。なんだ。先ほどの言語はーーーー・・・
「ロシア・・・語?」
「!! あ、ロシア語ゴメンナサイ。こう、ぱっと?出てきた。うん・・・はい。あなたです」
どうやら男はロシア人だったらしい。それならば、身長が高いのもうなずける。なんだか自分よりも背の高い男がたどたどしく話しているのが母性をくすぐる・・・ような気がする。僕は笑って自己紹介をした。
「ふ、僕の名前は、稲荷 耕。あなたは?」
「コウ。わたし、の名前はАнтонович=Лысов。だ。」
「・・・あんとのびち・りそふ?」
「Нет。アントノヴィチ・ルィソフ・・・呼びにくい、なら。あだな、ちょーだい?」
自分の名前を僕が聞き取りやすいように一生懸命発音しているルィソフを横目に、彼に言われたあだ名を考えていた。どんなものが良いだろうか・・・と思っていたそのとき、僕は何故見ず知らずのロシア人のあだ名を考えているのだ、と正気に戻った。そうだ。思い切り怪しそうな相手にかまっていてはいけない。僕は本を読んでいたのだ。しかし、このロシア人が付きまとっていては読書にならないではないか。しかも先ほどから利用客の目が痛い。
「あだ名、あんとさんなんてどうですか?じゃあ、僕はこれで」
まあ、あだ名など考えてもこれから先、会う約束もしていないし使うことはないのだからとたった今考えた適当なあだ名を告げ、本を借りて出て行こうとした。だが服の裾をがっちりと掴まれている。あんとさんはじいっと僕の眼を見つめて、
「明日もくるの、ですか?」
と聞いてきた。僕はさぁ、どうでしょう・・・という曖昧な返事をして彼の視線から逃れるようにそそくさと図書館を出て行った。