プロローグ
その知らせが届いたのは徹が間もなく営業の外回りに出る少し前のことだった
日村徹御年31歳。そこそこ大きい繊維メーカーの営業第3課・主任と言うのが彼の肩書きだ。
国立大学の経済学部を9年前に卒業し今の会社に就職。ずっと営業畑で勤務してきた。早い出世の同期では課長という立場の人間もいるが、途中3年ほどベトナムの工場に出向し現地の企業との折衝に当たってきた。その間に同期に水をあけられた気がしないでもないが、貴重な経験をさせてもらったと会社に恩を感じていた。
「日村、どうした?そろそろ社を出ないと先方に間に合わないぞ」
上司の片岡が声を掛ける。
「あ、はい。すみません。この電話が終わったら直ぐに参ります」
徹の携帯にかかってきた番号は知らないものだった。誰からか?不審に思いながらもその電話に出る。
「すみません、日村徹さんのお電話で間違いないでしょうか?」
女性の声。少しハスキーだが澄んでいる声だった。
「あ、はい。間違いありませんがどちら様でしょうか?」
少し訝しげな声で応えてしまったのは仕方のないことだろう。誰だ?保険の外交か?俺、そう簡単に自分の番号を教えないんだけどなぁ。
「突然のお電話ですみません。私、中川かをるさんのアパートに住んでいる者ですが、かをるさんが転んで骨折してしまい病院に入院することになってしまったのでご連絡しています。入院先は・・・」
かをるさんが入院!?徹は突然の連絡に呆然としてしまった。
中川かをる、83歳。徹の祖母。
店の足台から転落し右足を骨折した
ここで少し徹のお話を・・・
徹は12歳の時に父親を、19歳で母親を亡くしていた。
父はくも膜下出血、母は乳がんだった。
父が亡くなった時、母は女手一つで徹を育て上げる自信がなく、自分の実家である中川家に徹をつれて戻りそこに生活の基盤を置いた。父方の実家の祖父母はとうに亡く、母が頼れるのは自分の実家だけだったのだろう。
中川家は代々続く酒屋で近年では他の店同様、大型スーパーのあおりを受け売り上げは年々下がっていた。それでも急行の停車するそこそこ大きな駅から徒歩3分の地にある商店街の中に店舗を構えていたためそこそこ繁盛していた。また近くに先祖代々の土地もありアパートを建て経営していた。
祖父と祖母と母に自分。4人での新しい暮らし。徹は正直なかなか馴染めなかった。
12歳まで徹が住んでいた場所は都内で、近隣との関係は希薄。
寂しい。と言えばそれまでだが、楽な部分も多かった。
母親もフルタイムで勤務していたため、鍵っ子であっても周りの人々は気にせず、徹は放課後を自分のペースで好きなように過ごしていたのだが、祖父母と同居するようになってからはそうも行かず・・・
徹の母、未知は東京の隣の県出身だった。しかも昔からの近所づきあいを大切にする土地に育っていたため、徹が学校から帰ってくる途中で近所の商店の人から
「おかえり、徹ちゃん」
等と声を掛けられる。
「・・・ただいま」
今まで、おかえり。などと声を掛けられる機会が圧倒的に少なく、ましてやそれが身内でもない人から言われたことなど皆無だったので引っ越してきて近所の人からのおかえりに驚いた。
12歳、ちょうど思春期に入る頃。声を掛けられて嬉しい。と思うよりも、照れくさいほうが先に感じられてしまう自然言葉もぶっきらぼうになり、声を掛けてくれた人に目も合わせられない。
「なんだい、アンタ。挨拶は人の目をちゃんと見てするもんだよ!」
どこで見ていたのか、祖母のかをるが大きな声で注意する。
かをるは昔かたぎと言うのか、鉄火肌と言うのか、とにかく人様との付き合いには厳しい。しかも元気すぎるくらいに元気だ。今から思えば、かをるが人付き合いに対して厳しいくらいの躾をしてくれたので営業先でも困ることは少ないが、当時の徹は父親を亡くし、慣れ親しんだ生活環境からも仲の良い友達からも引き離された12歳。素直にかをるの言うことが聞けなかった。
「だって!」
「だっても、へちまもないよ!人様の目を見て話が出来ないのは何か悪いことをしてきたからかい!?」
「違うよ!くそばばあ!」
「何だって~!」
こんなやり取りが毎日続いた。そんな祖母と孫の関係を商店街の人々は風物詩のように見始め、二人が言い合いを始めると
「また始まったよ」
「しかし、かをるさんも元気だよねぇ。未知ちゃんと徹ちゃんがこっちに来てから一層元気になったんじゃない」
「未知ちゃんには気の毒だったけど、旦那さんが亡くなってこっちに戻ってきたことで親孝行になったねぇ」
苦笑いしながらも温かい目で見ていた。
未知も夫が亡くなって実家に戻った当初は元気がなく、食事も摂れず周囲が心配するくらいげっそりとやせ細ってしまい仕事にも出勤できなかったが、かをるから
「アンタまで倒れたら、誰が徹の世話をするんだい。あたし達は無理だよ。当てにすんじゃないよ。」
「生きる意欲のない人間を家に住まわせる気は更々ないよ。こっちまでじめじめしちまうよ。うちは昔の家だからね。湿気が溜まりやすくて、カビが心配なんだよ。これ以上、じめじめするなら出て行ってもらうよ!」
等、周りから見たらひどいかをるの暴言だが、負けん気の強かった未知には効果覿面。段々と食事も摂れるようになり、仕事にも復帰でき前よりも元気になってきていた。
徹にも
「ごめんね、徹。心配掛けたよね。母さん、もう大丈夫よ。
あんなくそババアの言うことに負けてなんかいられないもんね」
と笑顔も見せてくれるようになった。
「母さん、徹と一緒に父さんの分まで元気に長生きする。負けないぞ~!」
「母さん、俺も頑張るよ!」
母と子は仲良く笑いあう。
段々と新しい暮らしに慣れ始め、少しずつ祖父母との生活も楽しいものになってきたが相変わらず毎日のように
「くそババア~!」
「誰に向かって口をきいているんだい、このヒヨっこ」
徹とかをるのケンカは続く。
だが徹は感じていた。父親を亡くしたのは寂しい。なんとも言えない不安が彼を襲っていた。例えるなら、今まであると思っていた地面がなくなってしまったような感じ・・・新しい生活が始まっても、新しい友達が出来ても彼からこびりついて離れない孤独。だがかをるとの言い合いが始まってからは、孤独を感じることも不安を感じることも少なくなってきている。ひとえにかをるのおかげだ。かをるは言いたいことを言い放題。に見えて相手の気持ちを慮って話している。相手に合わせて言葉を変えている。それはわかりづらいかをるの優しさだった。12歳の徹にはかをるが何を考えているのかは分からなかったが、
(おばあちゃんと話していると、なんだか元気になれる!)
と