硝子造りの地球儀
腹が減ったから、行く途中の店で適当にピザを一切れ買ってすぐに食った。煙草が切れたから、コンビニに寄って安くてまずいのを買った。一服したかったから、そのうち二本はすぐにコンビニ前の灰皿で燃えかすになっていた。たどり着いたのはいつもの本屋だった。近場だし、何より値段が安い。自由な金もそんなに無い俺にとっては救いのようなもの。
新しいか古いかは問題じゃない。落書き、乱丁があればしめたもの(そういった本の場合は店員に言えばきちんと返金してくれるからだ)。大きな本棚に飾り立てて眺める訳でもなく、ただ読んで年末にはまとめて捨てるだけの本。ただの退屈しのぎ、けれど生活の一部と化した読書。
何でも習慣化すれば当たり前になってしまう。適応してしまうと言った方がいいのだろうか。それだけに、誰だって新しいものには違和感と抵抗が大きい。この本屋は数日前から硝子造りの地球儀を、外からも見えるよう大きな窓の前に飾るようになった。
硝子造りの地球儀、というのも海の部分だけが透明になっていて、陸地の部分はサンドアートのように万遍なく摺り傷がつけられている。人の頭ほどの大きさだが、作りは悪くない。
「お前それ気に入ったのか?」
店員の一人が話しかけてきた。特段、友達という訳でも無いが煙草の好みでは話が合う奴だ。その事を向こうが知って以来、客という事も忘れられて俺はお前と呼ばれる。
そいつはニヤリと笑って地球儀を指指しながら言った。
「この地球儀よ、実は毎日少しずつ回ってんだよ」
「はあ?」
幽霊、とでも言いたいのだろうか。いやに不愉快な言い回しだ。
この店の入り口側、ちょうどカウンターのま向かいには、嵌め殺しの大窓に棚が渡してあり、地球儀はそこに乗っているが、妙な風景だ。長めに取ってある棚に対して、地球儀以外の雑貨はなにもないし、なにより、地球儀が踏みつけている本がやけに気にかかった。
「なあ、この地球儀の下敷きになってる本は何だ」
そう聞くと、そいつは目を丸くして地球儀の下を見た。しかし首を傾けて腕を組んで「いや知らねえな。買うか?」とまで聞き出した。
俺はとりあえずそいつの言葉は無視して、下敷きになっている本をそっと取ってみた。正確には本じゃなくてメモ張だった。表紙も裏も黒一色。中身の紙には罫線も入っていなくて真っ白。
「これ、本じゃねーぞ」
そう言ったころには、あいつはカウンターに戻っていた。と同時に、一枚の紙が落ちた。
『私を探してください』
罫線も何もないメモ張の紙に、その文字だけがいやに鈍っているように見えた。角のあまり立っていない、女の学生だとかがよく書きがちな字だ。水性のボールペンで、いつ書かれたかはわからない文字を見て背中に何が走った訳でもなく、また馬鹿げたものだと吹き出しそうになることもなく、俺は何故だか呆然としていた。
暇そうにハタキを振り回している店員を捕まえて訳を尋ねようにも、最悪なことに胸ポケットに刺していたボールペンが邪魔をした。ペンを常備しているかしていないかがなんだかんだで大違いの日常を久々に怨んだ。
俺はある翻訳本でみた『魔法の日記に文字を書くとその日記の持ち主と筆談ができる』というような馬鹿馬鹿しい事の真似をした。誰かが悪戯で何か返してくればそれはそれで面白いかもしれない。だが適当にあしらわれるのだけはしゃくに思えたから、俺はやや難解な質問を店員にばれないようメモ用紙に書いて、地球儀の下に挟んだ。
『何で毎日地球ギを回すんだ』
「儀」の漢字が出てこなくて悔しかったので、その日は何も買わずに家へと帰った。
翌日、仕事も入らないので俺はあの書店に来ていた。もう少し放置しておきたくもあったが待ちきれずに地球儀の元へ歩き、回りを見回してからその下のメモ張を取り出した。
取り出して開いて、昨日のように一枚だけ紙が落ちた。
『放っておくとと片面だけ日焼けするから』
少しおもしろくなって来た。硝子は確かに日焼けする。それも中学生の時に知った事で、マンガンイオンがどうたらこうたらとややこしい説明があったはずだか、その辺は授業のあった日の放課後には忘れてしまった。
何より重要なのは、そんな変な知識を持ったやつが、わざわざメモ張を開いて返事を入れたのだ。口角があがっていたのか、それとも平日の昼間からいるからかいつもの店員が声をかけてくる。
「よお、ずいぶんと気に入ってるじゃねえか」
「これ、どっから拾って来たんだ?」
ありのままの疑問にはありのままの率直な答えを返す、こいつはそういうやつだ。
「なんかよお、近くに湖持ってる山あんだろ? 店長がそこの道を散歩してたら落ちてたんだと。んで壊れてもないし、珍しいからってネコババして綺麗にしてもらってきちまったって訳」
その山は知っている。車で行けば15分くらいでつくところだ。
「このメモ張は?」
聞くとそいつは目を丸くした。
「メモ張だったのか?」
そうか、こいつは知らないんだった。
「一応昨日確認はとったけどよ、店長も知らないってよ。そんな表も裏も黒だけの本、見たことねえって。まあメモ張ならこれくらいのやつ、コンビニで売ってるけどな。どうだ、買うか?」
「いいや断る」
そういうとそいつはため息と一緒に、がっくり肩を落としながらカウンターへと戻った。得体の知れない本があるのが嫌なのか。それなら処分すればいいものを。
だが、このメモ張に少し興味が沸いてきたのも事実だ。『私』というやつを探してみようという気にもなる。俺は携帯の電話番号をメモ張に入れておいた。これで相手の番号さえわかってしまえばしめたものだ。かかってきたらこの書店に呼び出せばいい。呼び出せなくても情報を掴めればいい。俺はまた何も買わずに家に帰った。すこし気温の下がるころで肌寒い風が通り抜けたが、気分は高揚していた。
携帯が最初に鳴ったのは18時22分37秒。これは友人からの飲みの誘いだった。きっぱりと断り、次を待つ。すると20時26分42秒、携帯が鳴った。すかさず通知を見ると公衆電話からだ。こんな逃げ道もあったかと後悔しつつもとりあえず受話ボタンを押すと、まず雨の音がやかましいくらい聞こえた。
「もしもし」
「…………」
返事がない訳じゃない、女性、それも中学生くらいの高い声がかぼそく、ノイズと雨音にかき消されながらだが聞こえる。
「あの、要件は?」
「……」
何かを言っているのはわかる。しかし少女が弱りきっているのか、雨で電波が悪いのか何を言っているかまるでわからない。
「大丈夫ですか?」
「…………て」
そこで電話は切れた。44秒間が実に長く感じた。俺はよくわからない汗をかきながら本も読まずに寝た。テレビも見る必要がなかった。朝の天気予報を思い出すとちょうど山の方は雨が降ることになっていた。
次の朝、俺は車を飛ばした。言うまでもなく湖を頂上に持つあの山へ。数年前、別れた彼女と行ったことがある湖のほとり、あそこには公衆電話があったはずだ。あの辺りは天気が変わりやすく、その日も突然の大雨で、父親に助けを求めるとかいう情けない用途に使ったからよく覚えている。幸い頂上までの林道は残っていて、難なく湖の周りについた。時計に目をやると5時28分。当然だが詰所の前は貸しボートもひっくり返されたままで、受付のお爺ちゃんも居ない。
俺は何も考えないようにして公衆電話を探した。やはり変わらない位置にそれは立っていた。ゆっくりと土を踏むと泥混じりで柔らかく、もともと汚い靴が更に汚れていく。公衆電話の前に立つと、電話のボタンが泥で汚れているのがわかった。それも、汚れているボタンは全て俺の携帯電話の番号と一致する。
足元にはあのメモが落ちていた。
そこには何も書かれていないが、公衆電話の裏の林へ誘うように何枚も落ちている。どれも、雨が降った後だというのに純白だった。この先に行ってほしいのだろうという気もするし、行ってはいけない気もする。
俺は探しに来た。なら行くべきだ。
メモは進む毎に数を増やしていって、途中から切れ端になった。5分ほど歩いたあたり、俺はそこで見た光景にただ膝をつくだけだった。
鬱蒼とした木々が少し空け、開けた朝焼けのさなかには、掘り起こしたような土の跡にボロ切れみたいなパーカーコートが落ちていた。