私の文学観2
前回の内容から、私の文学への所感は、
・文学的な文=芸術的な文=実用的な文
・文章の芸術性は一文単位で成立し、全体の内容の是非には必ずしも関わるとは言えない
・よって、経済性(その本が売れてるとかそうでないとか)は、文学とか文学性というものには直接関わっているとは言えない
・しかし、読む者に内容を精確に伝え、話の厚み(文字による作り話に現実さ)を生み出す大事な要素である。
・「この作品は文学である」と言いたい場合、個々人の文学観で勝手に言っていいと思うけど、他者を納得させる基準があればなお良いよね
・でもその基準は、特定の読者などを対象にしたジャンル小説同士の読者間では溝が生まれるんじゃないかな〜と想像。
・いずれにしろ、芸術的な文は作ろうと思って作るのではなく、内容を精確に伝えようとして作者が文を洗練させた果てに、生まれるものである。
ということになる。
ここで一度最初に戻って、文学的な文章についてもう一度考える。
イコール実用的な文、となると、ビジネス文書はどうなのかと思う。あれは必要不可欠なことしか書いてないわけで。
でも、ビジネス文書が芸術的、文学的であるかといえば、そうではないだろう。
あくまで「内容を伝える上で」無駄のないことが、文学性を生み出す要素の一つ。
それで、読み手がどれだけ内容を精確に受け取るか、作者が見せたかったビジョンをどれだけ上手く、読み手の意識の中で再現できるか。
そのために言葉を厳選し、並び方を考えて、語感のリズムや漢字やひらがなをどの程度にするか云々、文字の諸要素を作者のスタイルで熟成させる。多義性のある言葉の連なりが作者の伝えたいイメージに濃縮していく。
言葉の持つ伝達性が読み手の中で昇華される時に、内容の美醜に関係なく芸術性が生まれるのではないかと、考える。
読み手が文章から受け取るイメージは様々であろうが、読まれる対象が広く一般的で、かつ読んだ者の多くが、あまり差異の無い、似通ったビジョンをイメージするとき、その文章は芸術性の高い文章と言えるだろう。
最近読んだ本の中で、村松恒平氏の書いた(「書く人」に掲載されたQ&AのA)内容がしっくりきたので、大まかな内容は、
・文学性というのは、文学が持っていて、文学以外が持っていないもの(再構成ができていないものは、芸術以前)。
・文学は、言葉によって、一つの印象が再構成される芸術であると言える。
・文学性というのは、言葉の働きが受け手の中で有効にいろいろなイメージを喚起し、喚起したものを統合して、一つの効果を生み出す、という働きのこと。
・文学において、意味以上に「ニュアンス」(と筆者が読んでいるもの)が重要で、文脈の中に言葉が置かれることで、言葉は特定の表情だけを見せるようになり、言葉によって召喚されるものは非常に精妙なものになり、文学性は高くなる。
ということだった。
作者は現実世界とは違う異世界、超世界を、言葉のみによって形成できうる反面、おそらく同時に、言葉のみで世界を構成する責任を負う。
ライトノベルなどで気になるのは、あれは文学の要素を排除して発展するジャンルではないかということ。
イラスト、それも抽象的に中身をイメージさせるものではなく、明確なキャラクターを前面に出した絵。
キャラクター性の出た絵は、強い。反面、作者は絵に頼る可能性も生じるであろう。新しい可能性ともいえるが、文学性はより低くなる。
また、キャラクター性を出すために台詞が重視される。地の文が相対的に薄くなった場合は、やはり文学性が低くなる要因が強くなると感じる。
会話文と地の文、どちらに文学性が宿りやすいかは、個々人の感性に任せるが、私は地の文にウェートがあると考える。台詞に心が動かされる場合も、それまでの地の文と会話文の蓄積があったからこそ、だと考える。
文学性が低くなると、物語の厚みが薄くなっていく。軽く読みやすい文は悪くないが、薄くなってはいけない(これは抽象的で、偏見のある意見かもしれない)。




