ねじまき鳥
今日はとりとめもない話(今日も、か)。
数日前、近くに気になる鳴き声の鳥が来た。
その鳥が来た日は、カラスたちはいつもよりくぐもった、変な鳴き声を連発していたように思う。
件の鳥の姿は、まだその姿を確認していない。ただ鳴き声だけが朝から日が沈むくらいまで、断続的に聞こえるのである。
どういう声かというと、あれはやや低い声で「ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」と言う。その後高めの声で「ぎー、ぎー、ぎー、ぎー、ぎー、……」と鳴くのだ。「ぎゃー」のところは「ぎゅー」とも、「ぎー」は「ヒィー」が混ざっているかもしれない。少し調子が違う時もないではないが、たいがいはそんな声だ。
なんとなくざわつく鳴き声である。
現れてからまだ2,3日しかたってないが、なわばりにでもしたのか他の鳥の声が減じた気もする。興味は湧くが、率先してその姿を見、図鑑で調べようという気は起こらない。なぜだろうか。多分面白くなくなるからだろう。あの不思議な鳥の声が自分から何かをアウトプットさせてくれるのではないかと期待しているのかもしれない。鳴き声の位置的に、日頃背を向けている方角(机に座っているから)というのもある。気になるが振り向けない。振り向いたら姿は見えず、しかし存在感はある。積極的に探せば消えてしまいそうな気さえする。特別な接点など何もないが、あの鳴き声が聞こえている内になにか自分から引き出せるのではないかと錯覚してしまう。
鳥の声と言えば、印象に残るのは村上春樹著の「ねじまき鳥クロニクル」だ。
去年の、まだ技術とかそういうのを読み取る読み方などをよく理解してなかった時分なので、あの書き方が凄いとか、そういう印象はないのだが、初めての村上作品である。
まったく意味が分からなかった。
ファンの方には悪いが、読みづらく、複数の話(謎?)はつながらず、ついでにエッチなシーンは気持ち悪かった。ついには面倒になって、エッチぃ部分とその他2,300ページを読み飛ばした。なのに最後まで終わった時、何も不都合がなかった気がする。他の作品はどうか知らないが、相性はかなり悪い部類だった。
ただその中でも、井戸の底に降りて考えをめぐらすシーンと、何度か出てくるねじまき鳥は印象に残った。ただタイトルにつけるほど象徴的だったかと言えば、よくわからない。最後までよくわからないまま終わった作品だった。そういう意味では印象に残る作品だ。
音、音、音。
音がなければ人は発狂するわけだが、普段しない音が聞こえるとどうにも気になって仕方ない。
壁に据え付きの扇風機が、いよいよ変な音を出し始めた。ガタが来ているのだろう。祖父の代、自分が生まれる前からあるかもしれない扇風機だ。プロペラがまわるたんびにゴンゴンゴンゴン音がする。煙を上げて発火しないが心配だが、それは大丈夫かもしれない。
この扇風機が、私と私の家族を操りだした。
先程の回す時に聞こえる音、こいつのリズムにいつの間にか身体の動きが合っているのである。強制的にリズムに合わさせられている。リズムに合わせようとして、行動の流れに僅かな間が生まれ、それに気付いて愕然とする。
リズムは、強風時でほぼ四拍子(八拍子?)。音楽は昔から苦手で分からないが、たぶんそうだろう。
以前読んだ本に「日本語のリズム 四拍子文化論」(別宮貞徳著)というのがあった。よく五七調など、日本人が文章を読むとき心地良いと感じる調子があるわけでだが、そもそもなんで五七調が良いと感じるのか? というのがこの本の主旨。結論から言えば日本人は四拍子の時「心地良いリズム」と感じるわけで、それを表わしやすいのが五七調(実は短歌は八音掛ける五のリズムだよみたいな)で今日まで生き残ったとか。また何故四拍子かは農耕民族であることが関与しているかもと続く(韓国は騎馬民族で三拍子だとか)。
人が流麗と感じる文章は、よく見てみると基調に七音だったり同じ音の連続があったりする。あるいは対句といったレトリックでリズミカルな調子を生み出している。無意識でかき出した文章も、テンポが良いのであとあと見れば音や対があった、ということがあるかもしれない。




