Log2 “やっぱり知らない天井”
頬を叩かれている。
しかし眼を開けたくない。眼を開いて今し方まで見ていた悪い夢が現実だったらどうするんだと思う。開かなければ、きっと夢は夢のままにしておけるのだ。
ぺちぺち、となおも頬を叩いている。
不思議な感触だ。人の指にしてはどうにも細くてちっちゃい気がしてならない。そういえば、胸が息苦しい気もする。胸から腹にかけてまるで何かが乗っかっているみたいだ。大きさ的には、犬とか猫とか、あるいは、
サルとか。
――鋭い痛みだった。
「い”っつ”!!??」
飛び起きて、頬を押さえた。
「血、出たんじゃない!?」
こすって指先に赤いものが付着してないか確かめるも、痛みに反して切れてはないようだった。
「なんなんだよもうっ」
大声を張り上げながら、眼を開いてしまったことに気づいたとき、
「キキ?」
どっかで見たことのあるようなケダモノが腹の上に乗って首を傾げていた。
瞬は下がった顎を自分で押し上げて、
「お、……おはよう?」
「キキッ――!!」
あろうことかサルが腹の上で飛び跳ねたせいで、思わずえずきそうになる。
「ごほぉっ!! や、やめやめ、とりあえず下りて、そこから!」
やはり馬鹿ではないのか、瞬の言に従い、横の台に飛び移った。踏まれた腹をさすりつつ、瞬は自分が今まで寝台で寝かされていたことを理解する。
「どこなんだろ……ここ……」
カーテンの向こう側が明るいことから、今はどうやら昼の時間帯であることが窺える。他に光源のない薄暗い室内は家具も少なく、それどころかうっすらと埃が積もっている箇所もあるのを瞬は発見し、顔をしかめる。
森でヘビのバケモンに出くわして、それから何がなにやら把握する前に突然飛来してきた炎に吹っ飛ばされて気を失ってから、ここに運び込まれたのだろうか。
じゃあ、あの助けてくれたのは誰がという当然の問題が立ち上がる。
弾かれたように頭を動かしたサルに反射的にビクついた瞬より一拍遅れて、部屋の扉がガチャリと開いた。
「……あぁ」
金髪の青年だった。くしゃっとした髪質と少し垂れ目がちのせいで温和、という第一印象を受ける。
ほっとしたように胸を撫で下ろしていた青年と同様に瞬も、あ、と声を漏らす。
「目を覚ましたんだね。よかった」
どう応答すべきか考えながら、
「……えっと、あなたが僕をここまで運んでくれたんですか?」
「うん。ボアハガードに正面から挑もうとするなんて正気の沙汰じゃないよ。そんな人間がいるのかと思ったけど、……現にいたからね。勝手ながら横から手を出させてもらったんだ」
「ボアハガードっていうのは、あの……」
ヘビのバケモノと言う前に、
「やっぱり、手助けしてよかったみたいだね」
青年の苦笑いを見るに、自分がいかに愚かな行動を取ろうとしていたのかがうっすらわかってくる。
それもそうだろう。安全圏に戻れた今、追い詰められていたとはいえ、もう少しなんとかならなかったのかなと思う。
「……ありがとうございました」
ともあれ、命の危機を救われたのだ、感謝しないわけにはいかない。
「気にしないで。救おうとしたのはいいけどそれで魔術を使って君を気絶させてるようじゃ、…………とてもじゃないけど褒められたものじゃない」
――変な言葉を聞いた気がする。
「魔術って――え、?」
さも当たり前のように口にしたけど。
「君も見てたんじゃないかい?」
「見てたって……もしかして、あの炎の?」
――まさか、冗談だよ、ね。
「ああ、それだよ。炎の魔術の中でも中位に属するイエンドだ。聞いたことくらいはあるだろう?」
「い、いえ……」
なんだそれ、どこで聞いたことがあるんだ。それとも冗談で言っているのか。だとしたら寝起きにはキツすぎる冗談だ。
わかりたくなかった。再びあの悪夢が蘇りはじめている。
「……大丈夫? 顔色が悪いけど」
脳裏で次第に存在感を表し始めたそれをどうしても無視できない。当たり前の、あるいは明々白々の、事――ああ、これほど馬鹿らしい事なんてまずないよと思ってはいても、瞬は口にせずにはいられない。
唾を飲み込み、震えを隠せない声で尋ねる。
「あの、僕たちがいるこの世界って、地球、ですよね?」
そのときのサルが隣で頭を掻く音、やけに大きく聞こえた自分の心臓の鼓動、カーテンのはためき、青年の首の角度、声のトーン、肩の上がり具合、そしてどれだけ怪訝そうな顔をしていたのかを瞬は決して忘れない。
「地球? なんだいそれ。――この世界はエルンシードじゃないか」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――落ち着いたかい?」
背中をさすりながら青年は尋ねてくる。
「……はい」
なにが、はいだ。自然に口をついて出た言葉に、自分のことながら到底同意できない。
――いったい、ここはどこなんだ。
男曰く、エルンシードという名の世界。ヘビのバケモノがいる世界。魔術なんてものが存在しうる世界。
――本当に、どうしてこんなことになったんだ。
不明。わからない。
悪い冗談ならどんなによかっただろう。もうこの辺りで、ギブアップだ。これ以上は誰も楽しめない喜劇であり悲劇なだけだ。そういうものはショーとは言わないのだ。だから早く、ドッキリと書かれた札を持って誰か出てきてくれと瞬は願う。
「しかし……君が稀人だったとはね」
「………………なんですか……それ……」
消え入りそうな声でしか返せない。
青年は近くの椅子をたぐり寄せて座り、
「異世界からやってきたという人たちをまとめて、そう呼んでるんだ」
――は?
ロクに油をさしていない歯車のような動きで瞬は頭を上げる。
「ちょっと待って下さい……それって、……それって、つまり、その稀人っていうのは、ぼ、僕がそうだとして、他にもいるんですか!?」
青年に詰め寄ろうとして、ベッドの上でバランスを崩し、落ちる。額を床に軽くぶつけたが構わず、青年の二の腕を掴む。
「あ、あぁ、……話ではそう聞いているけど……ぼくが実際に見たことある人は一人しかいないけどね」
真っ暗になりかけていた視界が一気に晴れた。
光明が見えたのだ。それに希望を持って何が悪い。
「そ、その人ってなんていう人ですか!!」
瞬の余りの剣幕にたじろぎつつ、青年の口から飛び出したのは、
「――イシガミ、シンジっていう人だよ」
心臓が止まるかと思った。また気を失うところだった。
イシガミ、シンジ。
脳内で反響する名を改めて瞬は口にする。
――ひょっとしたら僕と同じ、いや、それ以外ありえない、そう、そうだ、そうに違いない。きっとそのイシガミさんって人もどういった経緯を辿ったかは知らないけど、この異世界にやってきた人なんだ。
なら、頼れるかもしれない。藁にも縋る思いで、
「会うことできますか!? その人!!」
「うん……少し難しいかもしれないけど、運が良ければ会えると思うよ」
「よ、よかった~~~…………」
これで実はもう死んでて会えないとか言われたらどうしようかと思った。気が抜けたせいで、へなへなと青年を前にその場にへたり込んでしまう。
そんな頃合いを見計らっていたのか、忘れかけていた腹の虫が一声鳴いた。
瞬時に恥ずかしさに頬を染めた瞬に苦笑し、青年は、
「はは、それじゃあ、なにか食べるものを持ってくるよ」
腰を上げたところで、
「す、すみません……あの……」
おずおずと気まずそうにしている瞬に、青年は失念していたと髪を掻いた。
「そうだ。ごめん、まだ名乗っていなかったね。ぼくはクルト。ルシア・クルトだ」
「瞬。袴田、瞬っていいます」
互いに名を交わした所で、俺もいるぞとばかりに鳴き声を上げるのがいた。
「お前……」
サルが両手で挙手して存在をアピールしているのに瞬は、半目になる。それに苦笑から本当の微笑へとクルトは表情を穏やかに変えて、
「はは、不思議なことに、そのガダラモンク、キミが目を覚ますまで側を離れようとしなかったんだよ」
「……そうだったんですか」
大きく頷いているのを見て、やっぱこいつ賢いなと瞬は考える。それに、まぁ実際の所はわからないが、恩に篤い所があるのかもしれない。
「ぼくはてっきりキミが元から飼い主だったのかと思ったよ」
「いえ、そんなことはないです。こいつとは会ったばっかりですよ」
すぐさま否定するが、
「なら余程気に入られたんだろうね。ぼくがキミを見つけることが出来たのもあのガダラモンクが石をぶつけて音を鳴らしていたおかげなんだ」
ということは、つまりだ。瞬はマジなの!? という顔で、
「お前が、命の恩人……?」
「キキッ!!」
胸を叩く様に瞬は一瞬礼を述べるか迷うも、
「……ありがと」
相手がなんであろうと大事なことだからと感謝した。
「だけど、それとこれとは話が別だ」
首を傾げたサルに、
「お前……、僕のカバン、どうした」
「キ――ィ!?」
今のは言語化されてなくてもわかった。こいつ、ヤッベって言った。絶対言った。
「はぁ、もういいよ……」
瞬の諦めの声に、ほっと胸を撫で下ろしたサル、
に、
「――とでも思ったか!?」
飛びかかろうとした瞬を華麗にかわし、それどころか後ろに回り込み、背中を駆け上り、肩の上に居座った。
「キキ!」
「こら! 勝手に上るな!」
おかしな一人と一匹のやり取りにクルトは表情を緩め、
「それにしてもそのガダラモンク、珍しいよ。しっぽが三つ叉なんて、突然変異種か何かかもしれないね」
己の身体をステージにした勝負になってないサルとの追いかけっこを瞬は一旦やめ、
「え、こいつって、こういう種族なんじゃないんですか?」
首を横に振られる。
「いや、ぼくもそこまで詳しいわけじゃないんだけれど、それでも図鑑とかで見る限りこのガダラモンクは通常はしっぽが一つらしいんだ。しっぽが二つあるなんていうのは数万分の一の確率で生まれるとても稀少なものなんだとかって書いてあったよ」
「へぇ……」
つまりはオスの三毛猫みたいなものなのだろうか。横目でどこから取り出したのかしれないレーズンのような木の実を頬ばっているサルを眺める。
二本でそんな確率なのに、このサルときたら、もう一本おまけについているのだ。
ひょっとしたら確率でいったらゼロの数がとんでもないことになるかもしれない。
「そんなに稀少なら、クルトさんがこいつを引き取ったらどうですか?」
価値のわからない自分よりは、有用性を見出だせる人のほうがいいだろう。それに何より、手荒な方法だったとはいえ命の恩人には変わりないのだ。借りは返す物だ。
そう、教わったから。
「いっつ!!」
そしたらいきなりサルが瞬の肩に噛み付いてきた。決して離れないという意思表示のようにちっちゃい身体をぺったり張り付けている。
「こ、こら!! 痛いったら!!」
「その申し出は嬉しいけど受けられないよ。そんなつもりでキミを助けたつもりじゃないから……それに何より、懐いているそれを無理矢理はがすわけにはいかなそうだからね」
がっくりと再び項垂れた瞬に対し、キキキと喜んでいる様子のサルに、無言で瞬はデコピンを叩き込んだ。
× × × × × × × ×
その後、それでもと食い下がろうとした瞬と今度は爪を立てようとしてきたサルとの一悶着の途中で、クルトが入ってきた扉が突然開いた。
開いた先には、
「こんちゃー!」
クルトと同じ、柔らかい金髪の少年。歳の頃は瞬と同い年ぐらいに見える。
一目でわかった、そっくりそのままクルトを縮小コピーしたような風貌、たぶん、弟だ、と。
少年はお盆を持っており、その上にはパンと湯気を立てるスープを載せた食器がカチャカチャと押し合っていた。
目を丸くしている瞬の前で慌てたようにクルトが立ち上がり、
「ソラン、お前……何してるんだ!!」
危なっかしくよろけながら、
「何って、そいつが腹減ってるっていうのが聞こえたからさ」
「お前、話を聞いていたのか……?」
机の上にどうにか無事にお盆を置くことに成功し、
「あんだけ騒がしくしてたらそりゃ気になるって」
途端に頭を下げたくなった瞬に少年は笑いかけて、
「あんた、稀人なんだろ?」
「え……あ、うん、たぶん、そう、なんだと思うよ」
頷いていい、はず。全然、実感はないけど。
「そっか、じゃあなんか面白い話知らないか!?」
面食らう。
「え、えぇ……!? いきなりなに!?」
「いやぁー」
遮るようにクルトが、
「シュンくん、驚かせてごめん。こいつはぼくの弟のソラン」
「は、はぁ……えっと僕は、袴田瞬、です」
聞き慣れない響きの名前に目を輝かせて、
「シュンだな、よろ――」
――しくな、ときっと、続けたかったのだろう。
しかし、ソランの意思を無視するように、
「ゴホッ! グェホゲ、ホッ!! ぅ……ぇ……ホッ!!」
内蔵が飛び出してくるのではないかという勢いで激しい咳と共にソランが苦しみ始めた。
「!? 大丈夫か、ソラン……!」
駆け寄り、クルトはソランの背をさすってやる。
慣れたようなその動きに瞬にも察せてくるものがある。
心配そうな瞬に、こわばった表情のままクルトが、
「ソランは…………ソラン?」
しかし、口を開いたクルトを制する手が伸びていた。ぜぇ、ぜぇと息も絶え絶えに
「クル兄…………自分で言うよ」
深呼吸を挟み、
「いやぁーおれさぁ、昔から病弱なんだよね。ちっちゃい頃からほとんど寝たきりでさ。あんま外、出たことないんだ」
言われて初めて認識する。
とてもじゃないが健康的とはいえない、骨にわずかばかりの肉と皮で構成された腕や足。薄手の服がだぼついているのは、それだけ痩せていて隙間があることの証左なのか。
先ほどのおぼつかない足取りもこれらによるものだろうか。
「今みたいに発作みたいのがさ、ゲ――おご……んん、起こるともうすっげー大変なんだよな」
あっけらかんと。
しかし、浮かべた笑みに力はこもっていなかった。
慰めの言葉を言うべきか、だがはたして出会ったばかりで赤の他人の自分が軽々しく口にしていいものなのか。
結局、瞬は目を伏せるだけだった。
「まぁ、そう落ち込むなって!!」
精一杯の力を振り絞ったのだろう。そんな瞬の背中を叩いた手は確かに痛かった。
「いやいや、僕は落ち込んでなんか――ムグッ!?」
口に突っ込まれた何かを咀嚼し飲み込んだ。感覚的にはジャガイモか何かだったように感じた。
「とりあえずメシだ。腹減ってんだろ遠慮せずに食え食えハハハ」
次いでパンをちぎってよこされる。悔しいことに空きっ腹には我慢の仕様がない。
――このペースを握られっぱなしの感じ、
「懐かしいな」
ソランは瞬のつぶやきを聞き取れず、
「? なんか言ったかシュン?」
やれやれと嘆息混じりに、
「まったく……」
手を差し出し、
「ん?」
「それ全部よこして」
へへっ、おうっ!! とこぼす勢いで渡してくる少年の今度の笑みは心の底からだと、
瞬はスープをかきこみながら思う。
腹が膨れると人間不思議なもので上機嫌になる。
「どうだ、ああ見えて結構クル兄の料理イケただろ?」
「うん、美味しかったです。ごちそうさまでした。クルトさん」
だいぶ打ち解けた様子の年少二人を見守っていたクルトへ向き直って、瞬は礼を述べた。
「うん、よかったよ。それじゃあ――」
荒々しいノックの音に全員が反応する。
少し遠くから響くそれは、瞬たちのいるこの家へ向けて来客を告げていた。
「……二人とも、この部屋にいるんだ。いいね」
朗らかさの消失したクルトの表情は能面のようで、
「えぇ……またアイツかよ。クル兄さぁ――」
「いいからここにいろ!」
たまりかねたソランに聞く耳持たぬ強い口調で命令し、クルトは部屋を辞していった。
「……誰か来たの?」
気まずそうに尋ねる瞬に、ふてくされた様子で、ソランは椅子に逆に座って背もたれにアゴを乗せ、
「ガフっていう性格と性根がねじれ腐った荒くれ者……で、クル兄の知り合い」
辛辣な言葉に瞬は驚きつつも、引っかかる所に、
「そんな人と、なんで知り合いなのさ」
ソランは口を尖らせると、
「なー。クル兄、昔魔術士になりたくて学院に通ってたんだけどさ、その時同級生だったんだと」
?を浮かべていた瞬に付け足すように、
「そっか知らないよな。魔術っていうのは……あーうん、そうだなもっと前からか」
ブツブツ呟きながら考え始めたソラン。そんな真剣にしてくれると何も知らなくてごめんという気持ちになってくる。
「よし、じゃ教えるな。この世界――エルンシードには世界に遍く万能の物質の素。万素ってものがあるんだ」
「マナ?」
聞いたことのない単語だ。
「そう、今オレたちがいるこの部屋にも万素は漂っているし、もちろん外にだって存在してる。そして、このオレが座ってる椅子もシュンのベッドも木も山も海も空も、建物とか動物とか、そして何より人の内にも万素はあるんだ。魔術ってのは、それを――シュン?」
ぽかんと。
固まってしまった。
「それ、ほんと?」
「シュンの世界じゃやっぱ違うのか?」
「うん、僕の世界じゃ……その万素ってやつに似てるものは……えっと、たぶん原子とか、そういうのなんだ」
「へぇ~ゲンシか――あぁもう! 面白いな!!」
極めて、これ以上ないというぐらい、面白そうに、ソランは興奮を抑え切れない。顔がニヤけるのを隠し切れていない。
「で、その万素を変換っていう工程を経させて、現象化させる。それが魔術だ」
正直に言おう。はてなが5つくらい出た。
「ごめん、ちょっと言ってる意味が……」
「ああ、それオレもオレもー。今の本に書いてあったことを言っただけだし」
実にあっけらかんとソランは腕を組んで頷く。
「訳わかんないよなー。もっと簡単に言えよって」
いや、それはたしかにその通りなのだが、お前も言う資格ないだろと瞬は内心つっこむ。どうやら定義的なものを教えてくれたみたいだが、いかんせん難解に過ぎた。
「とりあえず、僕のイメージなんだけど……その万素っていうのを使って、炎とかを発生させるってこと?」
要するに、クルトが助けてくれた時に行っていたことだ。
「おーそうそう。でも、炎だけじゃないんだぜ。たとえば――」
にやにやとソランは立ち上がると、
「シュンは自分がもう一人いたらって思ったことないか?」
「ない」
ガクッと目の前でわかりやすく落ち込まれ、瞬は対応をまずったことを悟る。さすがに即答はよくなかった。いや、だが、別に自分がもう一人いたところでなぁ、とどうしても思ってしまう。
「ドッペルゲンガーかよってなるよ」
「!! 何だよそれっ」
何の気なしに発した言葉に偉い勢いでソランは食いついてきた。
え、いや、と瞬は焦る。この概念て、こっちにさすがに存在しないよね、と。
「じ、自分とそっくりの人間が同じ時間に違う場所にいるってことを僕の世界じゃそんな風に言うんだけど――」
これではたして説明になっているのかと心配になりながら、瞬はソランの反応を窺う。瞬の不安に反して、ソランは面白いなそれっ!! と何度も繰り返していた。
「……そんなに面白い?」
「あぁ! やっぱオレの知っている世界なんてちっぽけなもんなんだ‼︎」
立ち上がり、ソランは両手を広げる。
「いいじゃん。世界のどこかにいるもう一人の自分!! この家から出たことなんて数えるくらいしかない。だからさ、オレは知りたいんだ。オレの知らない世界ならどこだって、果ての果てまで行って、自分の目で確かめたいんだよ」
天井を――いや、それを超えた遙か向こうを指して、
「世界はでっかいって。それを知るのがオレの夢なんだ」
一方は立って、一方は座っている。その差から瞬はソランを見上げる形になる。
まっすぐ碧眼の瞳に見つめ返される。
逸らすことなど出来ない。出来る訳がない。それはつまりソランが見せた信頼をはねつける行為に他ならない。
「あとは、恩返しかな……クル兄には、ずっと迷惑かけてきたし…………」
暗くなってしまった雰囲気を払拭するように一人陽気な口調に変え、
「まぁそのためには体を治さなくちゃいけないんだけどな、大変大変」
そそくさと再び着席したソランに、瞬は引き結んでいた口を開く。
「どうして……」
「……うん?」
「どうしてそれを、僕に?」
んー、とソランは天井へと目をやりながら、
「なんとなく。なんとなくだよ。他の奴らはたぶん馬鹿にするけどさ……、シュンなら笑わない気が、したんだよ」
どう答えるか逡巡する必要なんかない。
「そんなの……そんなの、当たり前だよ……ッ!」
そうだ、当たり前だ。あの人がいなくなってから、自分は日々を過ごしていてもどこか生きている実感がわかなかった。無味乾燥で、ただ何をするでもなく時計の針が巡るのを待つだけの生活を送っていた。
だから夢なんか、考えたこともなかった。それどころか、真面目に生きていなかったのだと思う。
なのに。
なのにだ、目の前のこのソランはそんな自分とは大違いだ。病弱な身体、しかもすぐに他人が見て取れるほどのものを持っていることは、生活の上でどれほどの障りがあるのか。健康体の自分の乏しい想像力では及びもつかない。
でも、そんなの関係ないのだとばかりにソランは、言い切った。
それがどんなに凄いことか。
自分が恥ずかしくて、ソランが羨ましかった。
「……凄いよ、ソランは。……僕なんかと大違いだ」
顔に陰を落としぽつぽつとこぼした瞬に、ソランは、
「――それは違う。違うぞ、シュン」
そこには、明確な怒りが練り込まれていた。
「今までオレのことを凄いなんて言ってくれたヤツなんていなかった。だからオレが凄いなら、シュン。お前だって凄いよ」
なんだそれ。まるで詭弁みたいだと思った。
でも、嬉しくて仕方なかった。
「……ありがとう」
「わかればよしっ、だ」
きっとソランは今の感謝の言葉にどれだけ思いを乗せたのかを知らないだろう。
でも、それでいい。
やがて瞬は、吹っ切るようにニヤリと笑って、
「けど、今の言ってて恥ずかしくなかった?」
不意打ち気味に先制攻撃を加えた。
「う……たしかに。で、でも、取り消さないからな!」
改めて指摘されるとかなりクサいことを言い放ったとソランは実感がわいてきたのか、頬を赤らめて大げさに手をわちゃわちゃさせる。
まだまだイジってやろうかと瞬が画策していると、ソランのその手は動きを止めた。
どうしたのかと瞬も真面目な顔に戻る中、おずおずと切り出す。
「そ、だから、友だ――」
ソランが言い終わるより先に、さっきよりもずっと近く、扉のすぐ向こう側からくぐもった声が聞こえてきた。
『やめてくれ、弟は今日、発作が続いててあまり体調がよくないんだ……!』
『の割には、元気に騒いでたみたいじゃねぇか、ええ? どういうことだ』
『よしてくれ!』
必死に押し留めようとするクルトと誰かが揉み合っているような会話の後、
『偉くなったもんだなクルト。俺に命令する気か? いいから、どけ』
鈍い音がし、人が倒れたような衝撃と同時に、そいつが現れた。
「あァ? なんだこのガキは……クダイ人か?」
瞬の反応に先じて、ソランが男と瞬の間に割って入る。
「クル兄⁉︎」
扉の隙間から見えたのは腹を押さえ苦痛にうめくクルトの姿。
「ガフ、お前、クル兄に何をした!!」
「俺に命令するなって事を教えてやったまでだ」
さも当然といった具合にガフと呼ばれた男は眉を上げ、ズカズカと入室してきた。
「ふん……?」
あくまで不躾に瞬を見下ろし、それからソランの手を借りようやく立ち上がりかけていたクルトに振り返って、
「どうなんだ?」
「その子は……そうだ。クダイ人だ」
「どこで拾ってきた。お前にクダイ人の知り合いはいないはずだ」
どういう会話をしているのかまったくわからない。二人の会話中に登場するクダイ人というのは、稀人とはまた違うのだろうか。そこに、
「オレの、と、友達、だ」
再び瞬と男の間に立つソランに、瞬はまずいと悟る。
「……クソガキ、いつオレはお前に尋ねた」
まったく面識のない相手だろうとわかる、癇癪持ち特有の噴火の前触れだ。一瞬で判断する。噴火を食い止めるにはどうすればいい。噴火したらその被害は確実にソランに及ぶ。
どうすればいい――――、
「僕が誰だか知りたいなら、僕に直接訊けばいいでしょ」
六つの目が一斉にこちらを向いた。たじろぐな。たじろいじゃいけない。青ざめているクルトが気になるが、こんな口を出してガフの気を引く事しか思いつかなかった。申し訳ないと瞬は思う。
「ほぉ……」
ソランに向けられていた矛先がこちらに向くのを感じる。醜悪に笑いながら、目の前まで接近され、避ける暇もなく乱暴にあごを掴まれた。
「妙な感じだが、どうやら言葉は喋れるらしいな」
あごを掴んだ手で、そのまま顔を様々な角度で確かめられる。
「……やめて下さいっ」
頭を振ってその拘束から逃れる。……危なかった、肩の上のサルが唸り声を上げており、このままされるがままだったら、何をしでかしていたかわからなかった。
ガフは鼻を鳴らすと、
「ガキ、それじゃあ訊こう。お前は何者だ」
――ここで、瞬は選択を間違える。
何故、瞬とソランは部屋にいるよう厳命されたのか。
何故、ガフが部屋に入ることを必死でクルトは止めようとしていたのか。
何故、クルトの顔色はそこまで青ざめているのか。
ヒントは指摘されれば、それこそたくさんあったのかもしれない。
しかしその事で瞬を責めることは誰であろうと出来ないだろう。
「――僕は、袴田瞬。異世界からやってきた稀人ってやつ、らしいです」
それを聞いた瞬間、これ以上ないくらいに、ガフは口端を吊り上げる。