馬鹿姫と欠け落ちた仲間たち 後篇
「――この件に関しては、もう少し情報を集めておいた方がよろしいと思います」
ヴィヴィアンは、手に持った書類にさらさらと必要事項を書き加え、目の前の人物に渡した。
【いつもありがとう】
ふわりと浮かべられた笑みの温かさに対して、その《声》は無機質。
――当然だろう。それは、彼女の肉声ではなく、魔法具によるものなのだから。
現アレクサンドリア王太子妃シルヴィアは、ヴィヴィアンに手渡された書類をテーブルの上に置くと、紅茶を口に含む。
そんな些細な行動でさえ気品が漂うのは、常に王太子妃に相応しくあろうとする、彼女の努力の賜物であろう。
庭園にそよぐ穏やかな風が、王太子妃の髪を撫でる。
シルヴィアの淡い銀の髪と瞳は、彼女に儚げであると同時に触れ難い雰囲気を醸し出していた。
【情報収集については、またエレインにお願いしてもいいかしら?】
「勿論ですわ」
サクリファス女公爵は、大輪の薔薇の様な笑みを浮かべた。彼女の笑顔は、いつだって酷く美しいくせに何処か不吉だ。
今現在、彼女達は王太子妃の個人的な御茶会という名目で、書類仕事を行っていた。
シェルバ大陸屈指の大国であるアレクサンドリアは、国土に比例して問題もまた多い。当代国王だけでなく王太子も忙しく働いているものの、何かと手が回らぬことがあるのだ。
そのため、比較的緊急度や重要度が低い問題を、王太子妃であるシルヴィアが処理していた。ヴィヴィアンと女公爵は、秘密裏に王太子妃の補佐役を担っているのである。
ちなみに、シルヴィアの執務能力は王太子よりも上らしい。そのために王太子が地味に凹んでいたという事実は、ヴィヴィアンが女公爵から教えて貰った秘密である。
今回の仕事が一段落ついたため、王太子妃はヴィヴィアンと女公爵に紅茶を注いでやった。
重要度が低いとはいえ、国の運営に関わる問題も扱っていたため、機密保持の観点から侍女を侍らせていなかったためだ。
一息つこうと茶菓子に手を伸ばしたヴィヴィアンの隣の椅子に、トリスタンがどかりと座る。
自分から護衛の役目を引き受けて近衛を追い払ったにも拘らず、シルヴィア達が執務に励んでいる間、トリスタンは庭園の芝生の上に暇そうに寝転がっていただけであった。それが、書類仕事が終わった途端、当然の様にヴィヴィアンの隣に移動してくるのである。
普段からトリスタンと折り合いの悪いエレインは、不快気にトリスタンを睨みつけた。
「随分と御暇なのですね、アルシェ卿」
「平穏な時分には、暇な職業ですからね」
「あら、日々を平穏に過ごせるのは良いことでしょう?」
「それは違いない」
そして朗らかに笑い合った両者だが、周囲の人間には胃が痛くなる光景である。
それはそうだろう。
毒蛇と猛獣が、機嫌良く牙を剥き爪を出し威嚇し合って、殺し合いに発展する直前の現場なんぞに、誰も居たいと思うまい。それが大丈夫な者がいるとしたら、相当な猛者か愚者ぐらいだ。
普段お馬鹿な振りをしているものの、生憎とてヴィヴィアンは愚者でもなければ、猛者でもない。
彼女にできることと言えば、必死に見ないふりを決め込み、話を逸らして両者の意識を他へ向けることぐらいだ。
「――そう言えば、王太子殿下の御加減はよろしいのですか?」
先日、アレクサンドリアの王太子は毒を盛られたのだ。使用された毒は即効性の致死毒であったものの、王太子の命に関わることは無かった。
それは幼少時、父の親友のぶっ飛んだ教育方針のおかげで、王太子が異国の幼馴染と共にあらゆる毒物への耐性を身に付ける羽目になった故である。
【ええ、もう大丈夫よ。元々、大したことじゃなかったから】
毒に関しては本当に大したことが無かったのであるが、毒を盛られたことにより、毒への耐性を身に付けた時の諸々のしょっぱい思い出が蘇り、王太子は精神的な打撃を受けたらしい。
彼は、一週間ほど当時の悪夢にうなされ、少々やつれてしまっていた。
【もう元気になったから、エドは今頃、ルー兄様と仕事の話をしている筈よ】
「サナルカンドの仮面宰相殿がいらっしゃっていますの?」
精霊王国として名高いサナルカンドの現宰相は、四六時中独特な意匠の仮面を身につけていることで有名である。ついでに言えば、彼の名も公にはなっていない。サナルカンドにおいてさえ、彼の素顔と本名を知る者はほんの一握りである。仮面宰相というあだ名が彼の呼び名となっているのだから、随分と徹底している。
シルヴィアが珍しい例外となっている理由は、仮面宰相の養父とアレクサンドリアの現国王が親友同士であったためだ。幼少時の仮面宰相は、しばしば養父に連れられアレクサンドリアの王城にやってきたのである。年の近い仮面宰相とアレクサンドリアの王子達は、良い遊び仲間だった。
「機会があれば、是非とも遊びたいものですわ」
【止めなさい】
蕩ける様な笑みを浮かべた女公爵を、シルヴィアは即止めた。
ここで女公爵が口にした、『遊ぶ』という言葉は世間一般の意味と大幅に異なる。
エレイン・サクリファス女公爵の趣味は、権謀術数だ。
ただし、極普通の生活を送る人々を陥れることはしない。それではつまらないからだ。エレインが行うのは、法の範囲内での謀。情報収集の術は非合法であるものの、罪の偽造など無粋なことはしない。あくまでも、対象人物が犯した罪によって破滅に導く。
表の顔が清廉で、裏であくどいことをしている人物ならなお宜しい。
決して崩れぬと思い込んでいた足場が崩れた時の人間の表情を、エレインは最も好む。
人としてどうなのか、というようなエレインの性癖だが、善良な民に実害はないので、王家からは放置されていた。
理由を付け足すならば、エレインの行動は、動機さえ除けば王国に利益をもたらすものであったし、古き王剣たるサクリファスとの関係が悪化するのは、王家にとって避けるべきことだったためである。
「殿下、冗談ですわ。仮面宰相殿と遊ぼうとすれば、竜王様に怒られてしましますもの」
竜王とは、仮面宰相の養父の異名だ。真竜の血を受け継いだその王は、養子をとても大切に思っていた。
「女公爵殿、竜王陛下に怒られなければ、遊ぶんですか?」
「遊べたのなら楽しいのでしょうけれど、遊びになりませんわ」
トリスタンの問い掛けに、エレインは肩をすくめた。
「しばらく前に、竜王様と遊ぼうと思ったのですけど、贈り物と一緒に『今度やったら叩き潰す』と言付がございましたの。――竜王様からの贈り物にされた鼠は惜しかったですわ。とってもお利口でしたのに、頭だけにされてしまって、可哀想に」
そう言って、エレインは物憂げに溜息をついた。
その姿だけなら、恋人につれなくされ思い悩む貴婦人、といった風情であるが、口にしていることは物騒極まりない。
「叶わないことは分かっておりますけど」
毒蛇の王の紋章を背負う女公爵は、許されぬ恋に身を焦がす乙女の様に、切なげに言葉を紡ぐ。
「いつか竜王様と遊びたいですわ」
あまり懲りてなさそうなエレインを見て、シルヴィアは固まり、ヴィヴィアンは引き攣った笑みを浮かべる。
もし万が一、エレインが竜王に再び手を出したら、始まるのは遊戯ではなく、どちらかが斃れるまで終わらない潰しあいだ。
彼の竜王は、無関心と紙一重の寛容さを持つが、敵と認識した相手にはどこまでも冷酷になれるし容赦もない。
甘ったるい不気味な笑みを浮かべるエレインの首元で、温度の無い光が生まれた。
「――あら、ジャン。一月ぶりですわね」
艶やかに笑ったエレインに対し、彼女の首に剣を突き付ける青年は凪いだ無表情を返した。青年の夜の静寂を宿した黒瞳にも、感情の発露や揺らぎは見受けられない。
「エレイン、貴女が王家にとっての害毒になるならば、俺が貴女を処分する必要が出てくるのですが」
淡々と言葉を紡ぐ低い声にも、何の情動もこもっていない。ある意味、シルヴィアの仮初の声以上に無機質な声だった。
「ジャンったら、つまらない人ですわね。冗談ですのに」
くすくすと楽しげに笑うエレインを、ジャンは静かな目で見る。彼等の間の空気が、微かに震えた。
そんな二人の様子を、ヴィヴィアンはドン引きしながら眺めていた。ヴィヴィアンは極当たり前のか弱い乙女であるからにして、殺気の類はとても苦手なのだ。
――ヴィヴィアンが初めて見た青年は、奇妙な人間だった。
物静かな印象を受けるが、ただ単純に大人しいとは違う。若者によく見られる闊達さを持っていなさそうだが、彼が身に纏う静寂は、老成とはまた異なったもの。青年から気配が一切感じられないことも、彼の不可思議な静けさを助長していた。
また、青年の首の後ろで括られている髪も黒、瞳も黒、着ている衣服も黒、だったので、ヴィヴィアンには青年が冥府の使いの様に感じられる。
――彼の何処か人間離れしている様は、エレインと共通したものだった。ただし、容姿の方はエレインの方が上だ、とヴィヴィアンは判断した。青年は涼しげな目元が目を引くが、それだけだ。よくトリスタンにひっつかれているヴィヴィアンは、所謂美形判定に関する採点は辛かった。
この場から逃げられないため、現実から逃避することに専念していたヴィヴィアンは、ふと、青年の胸元の紋章が目に入った。
――剣の鞘を咥えた赤竜。
その色鮮やかな意匠は、青年の黒衣に映えている。鞘を用いた家紋を見たことが無かったので、ヴィヴィアンはその紋章に興味を覚えたが、とても質問ができるような雰囲気ではない。
ヴィヴィアンは潔く、現実逃避を再開した。
長いのか短いのか分からない時間が経った後、張り詰められていた空気は、ジャンの溜息によって唐突に緩んだ。
「――そういうことに、しておきましょう。貴女はまだ何もしていない様ですから」
ジャンは滑らかな動作で、手にした剣を鞘に納めた。
ヴィヴィアンは、深々と息を吐く。掌を見ると、汗で濡れていた。
【ジャン、どうしたの】
「エドワード殿下がお呼びです。サナルカンド宰相閣下と共に、親交を温めようとのことで」
シルヴィアの問いに、ジャンは淡々と答えた。
彼は王太子妃を呼びに来たついでに、聞こえてきた不穏な戯言に釘を刺したらしい。
【そう】
シルヴィアは立ち上がると、テーブルの上に置いてあった書類をジャンに手渡した。ジャンが書類を恭しくとうけとったのを確認し、シルヴィアはヴィヴィアン達と向き合う。
【それでは、今日のところはこれで終わりにしましょう。――ヴィヴィアンは気を付けて帰ってね】
「ありがとうございます。シルヴィア様は、御自愛くださいませ」
椅子から立ち上がったヴィヴィアンは、完璧な淑女の礼をとった。
シルヴィアはそれに柔らかな笑みを浮かべると、ジャンを伴い庭園から去っていった。
王太子妃の背を見送りながら、ヴィヴィアンは思う。
途中まで一緒に行けば良かったと。
温かな季節なのに、ヴィヴィアンの背後は極寒の風が吹き荒れていた。
このまま全力で逃げ去りたい衝動と戦いながら、ヴィヴィアンは苦労して後ろの二人を振り返った。
ヴィヴィアンは苦労性かもしれません。