馬鹿姫と欠け落ちた仲間たち 前篇
他の話とビミョウにリンクした話。
古びた書物特有の香りを嗅ぎながら、ヴィヴィアンは紙の上に並ぶ字を目で追っていた。
読んでいるのは、八歳の彼女が持つには随分と大きく分厚い書物だ。――どう転んでも、子供向けには見えない代物。
当然、彼女が持ち運ぶのに結構な労力が必要になる物なので、ヴィヴィアンは無作法にも床の上に本を置き、地べたに座って読書を進めている。
彼女が身に付けている青いドレスに皺が寄るのも、汚れが付くのもお構いなしだ。
隙間無く紙面を埋める文字は、大の大人であってもげんなりするような量である。しかしながら、異様な速さでページをめくっていくヴィヴィアンの表情は、酷く楽しげであった。
「あら、珍しいこと」
ヴィヴィアンが初めて耳にした、鈴を振るわせる様な声。薄暗い書庫の中で、その声は不思議と響いた。
驚いて顔を上げたヴィヴィアンの目の前には、興味深げに彼女を観察する少女が佇んでいた。
幼いヴィヴィアンから見ても、美しいと評せる少女だった。年の頃は十代半ば程だろうか。ヴィヴィアンの傍らにある、灯りに照らされる姿は気品を有していた。赤銅色の髪と瞳。白い面にはあどけなさが残るが、既に仄かな色香が漂う。熟れ始めた肢体は、思春期の娘特有の危うさを醸し出し、身に纏う深緑のドレスは、一見して上物と分かる生地で作られていた。
少女の目を見たヴィヴィアンの背に、悪寒が走った。
少女の瞳は、人とは違うモノのように見えたから。
――そこに浮かぶものは、ヴィヴィアンの理解の範疇から外れていた。
例えるなら蛇の様に、どこか無機質で温度の無い光。
ヴィヴィアンの様子を目にした少女は、面白そうに口の端を吊り上げる。それは、美しい筈なのに見る者に怖気を催す微笑であった。
スッと少女がヴィヴィアンに近付く。少女の胸元でペンダントが揺れ、光を弾いた。ヴィヴィアンはそのペンダントに、頭部に冠を戴く蛇――蛇の王――と剣を象った紋章が刻まれていることに気付く。
びくりと身体を震わせたヴィヴィアンに、少女は優しく声を掛けた。
「こんなに小さいのに、そんな難しそうな本を読めるなんてすごいわね。貴女は、よくここに来るのかしら?」
問い掛けに、ヴィヴィアンは否定の意を込め、激しく首を振る。
ヴィヴィアンがここ――王城内の王立図書館に来るのは、今回が初めてだった。
たった今王城で行われている筈の祝賀会に参加する両親に付いてきて、お目付役の侍女の監視を振り切って、やっとの思いで辿りついたのだ。
そもそも、『賢い』とされる女は婚期を逃すと固く信じている両親は、ヴィヴィアンが必要最低限以上の知識を得ることを快く思っていない。
けれど、幸か不幸か、ヴィヴィアンは聡かった。その賢さに相応の知識欲もあった。だから、何も知ることができない我が家は苦痛でしかなった。
そのため、ヴィヴィアンは後の大目玉を覚悟で、ヴィヴィアンの様な幼子でも入れる王立図書館へやって来たのである。
ヴィヴィアンのたどたどしい説明を、少女は厭う事無く聞いていた。
「――そう」
少女の態度は、あくまでも優しげだ。しかし、何故だろう。ヴィヴィアンには、少女が人間の形をした別の存在にしか見えなかった。
少女は、ほんの少し目を細めた。
血に染まったが如き赤い唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もっと、沢山の事を知りたくはない?」
囁きは、睦言の様に秘めやかで、毒の様に甘い。
「貴女が望むなら、幾らでも知識が得られるわ」
少女の繊指が、ヴィヴィアンの頬を撫でる。少女の指先は、家族のものとは違い、ひんやりとしていた。
「どうかしら?」
ヴィヴィアンの顔を覗き込む少女の瞳には、人の温かみが存在しない。
それでも、ヴィヴィアンが少女の言葉に頷いてしまったのは。
満面の笑みを浮かべた少女を見ながら、ヴィヴィアンは思う。
少女の申し出を受けなければ、自分はいつかどうしようもなくなっているだろうと。
◆◆◆
「聞いているのか、ヴィヴィアン・フール嬢」
苛立ちが混じった声に、ヴィヴィアンはおっとりと微笑むことで応えた。美しいとは言えないが、なかなかに愛嬌のある笑顔である。
「私が娶ってやると言っているのに、返事一つ寄越さないとは、大層な身分だな」
険しい顔をした青年の言い分に、ヴィヴィアンは僅かに首を傾けた。
「娶ると仰られても、わたくし、貴方のこと何も知りませんわ。――お友達から始めたいのですけれど、殿方にお友達になって欲しいと言うなんて、はしたないでしょう。ですから、貴方へのお返事をどう返そうか困っていたところですの」
笑顔で返され、青年は顔を引き攣らせる。
「……貴様は私を馬鹿にしているのか」
「馬鹿にしているつもりはありませんよ」
怒りを露わにする求婚者に対し、ヴィヴィアンはあくまで笑顔のままだ。
二人の間に漂う空気が不穏さを帯びるが、それはすぐに霧散することになる。
「――随分楽しそうな話をしてるな、ヴィー。俺も交ぜろよ」
闖入者はそう言って、ヴィヴィアンの肩に馴れ馴れしく腕を回した。
「あら、トリスタン様」
「アルシェ卿っ」
あくまでもおっとりした反応のヴィヴィアンとは逆に、求婚者の青年は驚愕の声を上げた。
「――貴殿に関係があるとは思えませんが」
立ち直りは早かったものの、青年の闖入者――トリスタンへの態度は固く、何処かぎこちない。
青年がトリスタンへ向ける目は、隠しきれない畏怖と嫌悪が綯い交ぜになったものだった。
己に向けられたものを、トリスタンはにやりと嗤って受け流す。
他者から向けられる畏怖も嫌悪も、トリスタンは慣れている。
トリスタン・アルシェ卿。
忌まわしき種族であるダークエルフでありながら、この国――アレクサンドリア屈指の兵である『魔神狩り』の一角を担う男。彼の象徴ともいえる神弓〈フェイルノート〉は、国王直々に下賜したとされる王家秘蔵の逸物である。
「ヴィーに関係あるんだったら、俺にも関係あるさ」
「貴殿は、フール子爵令嬢とどのような関係なのでしょうか」
顔を強張らせた青年を見て、トリスタンは人を小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「面白い玩具だぞ、こいつは。なんたって、『馬鹿姫』だからな」
トリスタンに皮肉気に嗤われても、ヴィヴィアンの笑みは変わらぬままだ。
ヴィヴィアン・フール子爵令嬢。
王城内においては、彼女本来の名より、『馬鹿姫』という不名誉極まりない通り名の方が寧ろ有名かもしれない。現王太子妃一番のお気に入りであるのだが、おつむの方は少々どころかかなり弱いともっぱらの評判である。その評価を裏付けるように、ヴィヴィアンは美容や流行は兎も角、小難しい話題となると口を閉ざし途方に暮れるし、場を弁えた発言などできた例が無い。ついでに言えば、投げつけられる嫌味を理解する様子も無いのだ。
口さがない者達は、贔屓目に見れば純粋無垢ともとれるヴィヴィアンの愚かさが、王太子妃のお気に召したのだと言う。
現王太子妃は、元は孤児である上に、口が利けぬ故その足場は酷く脆い。
――何故そんな娘が次期国王の妃の位に納まることができたのかと言えば、相手の第二王子が婚姻した当時存在した王族の中で最も王に向かないとされ、国内の有力者の関心を買う事が無かったためであった。さらには、当代のアレクサンドリア国王は賢王と呼ばれるが、惜しむべきは三人の息子たちへの関心が薄かったことか。
アレクサンドリアでは、第二王子と孤児との婚姻が現王の許可によってなされた直後、第三王子による反乱が起こった。
――建国王の意向により政教分離が徹底されているアレクサンドリアにあって、第三王子は王族として特殊だった。彼は、〈神〉への厚い信仰心により、『教会』と深い関係を持っていたのだ。第三王子は、『教会』の幹部の一部を後ろ盾に、アレクサンドリアを人が回す国から神に仕える国へと作り替えようとした。
しかしながら、反乱は失敗。第三王子は実の兄である第一王子の手に掛かるという、悲劇的な最期を遂げた。そして、本来国王になるべきだった第一王子は兄弟殺しの罪悪感から精神を病んだとされ、その結果、王位継承権は、反乱とは無関係だった第二王子に移ったのであった。
前述の経緯故、何かと肩身の狭い王太子妃は、ヴィヴィアンの愚かさに縋りたくもなるのだろう、と王城内では囁かれている。
ヴィヴィアンがトリスタンに目を付けられたのも、王太子妃に近しいことが一因であった。
「さてと」
トリスタンは、強い力でヴィヴィアンを抱き寄せた。そして、ヴィヴィアンの求婚者へは虫けらを見るかのような目を向ける。
「俺はこいつで遊びたいから貰ってくぞ」
「その子を連れてどこへ行くつもりかしら、アルシェ卿?」
青年がトリスタンに応える前に響いた声は、艶やかで甘いくせに、寒気がする程鋭く冷たかった。
トリスタンは声の主を確認すると、その端正な容姿に似合わぬ獰猛な笑みを浮かべる。
「――これはこれは、サクリファス女公爵殿」
現れたのは、赤銅色の髪と瞳を有する妖艶な美女だった。彼女は、ヴィヴィアンもトリスタンもよく知る人物である。
エレイン・サクリファス女公爵。
数百年の歴史を誇るアレクサンドリアにおいて、建国当初から王家に仕えてきた一族の現当主。社交界を彩る華の一輪としても有名であり、また、彼女と夫であり先の王太子であった元の第一王子の恋物語も王城内で知らぬ者はいない。
ちなみに、ヴィヴィアンもトリスタンも、麗しの薔薇公爵とも呼ばれる彼女の本性を知ってしまった不運な一握りである。
「フール子爵令嬢は、私とこれから王太子妃殿下の御茶会に参加しますの。――その汚い手を離して下さる?」
そう言ってサクリファス女公爵は、甘やかな毒の滴る微笑を浮かべた。
「それなら俺もお供しますよ。か弱い女性をお送りするのは、男の役目でしょう?」
そう言って、トリスタンは獰猛に嗤ったまま、少し首を傾けた。
トリスタンも女公爵も、笑みを顔に張り付けているものの、目が笑っていない。
ヴィヴィアンは何故か、彼等の間に雪嵐が吹き荒れるのを幻視した。
さらに言えば、先程から酷い悪寒がするし、第六感による警鐘が狂ったように打ち鳴らされている。
正直、怖い。怖いのだが、このまま放置していたら事態はさらに悪化する気がする。
「あの~、シルヴィア様をお待たせしてはいけないと思うのですが」
ヴィヴィアンが二人に声を掛けると、場に充満していた異様な圧力はあっさり霧散する。
「……そうですわね、参りましょうか」
女公爵は持っていた扇を閉じると、その腕をヴィヴィアンの右腕に絡めた。
「王太子妃殿下を放っておくのもまずいですしね」
トリスタンは、ヴィヴィアンの左腕と己の右腕をしっかりと組んでいた。
「……あれ?」
女公爵もトリスタンも、ヴィヴィアンより身長および腕力があったため、気が付けば、ヴィヴィアンの足は浮き上がった状態になっていた。
そのままさっさと歩きだした二人に挟まれたヴィヴィアンは、傍から見ると処刑台に連行される死刑囚、もしくは屠殺場に引き立てられる家畜を彷彿させたと言う。
彼等が去った後には、腰を抜かした青年が残されていた。
ドナドナシーンが書きたかったのです。