つがいの双竜:『月陰の竜帝』
奥さん視点です。
――彼が、それでも彼女に手を伸ばしてくれたとき、今まで奇妙に色褪せていた世界が、急に鮮やかに見えた。彼女は忘れない。その時の彼の瞳の色を。自分の青とは決定的に異なった、全てを包み込むような、穏やかな空の蒼を。
◆◆◆
空は、どこまでも高く澄んでいた。残酷なまでに晴れ渡った空は、いっそ何かの皮肉かと思えてしまう。
『ひま~』
「ティーア、もう少し我慢してくれ」
空を仰いでも、現実は変わらない。アナは溜息をついた。
「馬鹿か」
「馬鹿っていうより、大馬鹿だよね~」
茶々を入れるティーアに、アナは一睨みをくれってやったが、ティーアは笑うだけでビクともしない。
王の伴侶であるアナは、魔物の討伐のためにフェルメリア東部の町に赴いていた。ティーアはというと、彼女は王の親友の双子の片割れ――要するにただの知り合い――であるが、単にアナが来たと聞いて遊びに来ただけである。彼女は国に庇護される必要がなく、国に対する義務もまたない存在だからか、何ともお気楽だ。魔物討伐に関する全権を負うアナからすれば、腹立たしい反面、少し羨ましくもある。元は一般庶民であったアナにとって、その手にある権力は、ただ煩わしいばかりなのだ。
――この国、フェルメリアでは、他国では見られない奇妙な制度が存在する。それは、王とその伴侶に等しく権力が分けられるということだ。他国の常識に則って考えれば、これでは、当然ながら王と伴侶の間で権力闘争が起きかねないだろう。しかしながら、王が王都から一歩も出られないという、特殊な事情があるフェルメリアでは、こちらの方が都合の良いことの方が多い。
例えば、今のように地方の軍では手に負えない魔物が出現した時がそうだ。魔物の討伐のための指揮、魔物被害からの復興支援、その他諸々。いちいち王都から指示を出すよりも、その場に最高責任者がいた方が、遥かに効率が良いということがある。
アナ達がいる町の近くには、高位の魔物の巣窟である魔の森が存在していた。
しかしながら、今回アナが討伐するべきであるのは魔の森の魔物ではない。どこぞの馬鹿な魔道士が作り出した、合成獣である。――ただの合成獣だったら、あるいはそれ単品であったら、アナは近衛隊を引き連れて辺境などに来る必要はなかった。それが何とも厄介なことに、その合成獣は魔物を呼び、それを使役するのだ。無論、低位から中位の魔物をつなぎ合わせた合成獣では、最上位と目される魔物を操ることはできないようだ。だが、近衛隊と比べるとどうしても錬度が足りない地方の軍にとっては、合成獣に使役される大量の魔物は手に余る。いや、何とかしようと思えばできるかもしれないが、その対価が軍の全滅では全く以て割にあわないだろう。
ちなみに、はた迷惑な合成獣を作りだした当人は、被創造者が呼び出した魔物に食われたらしい。結局、一体何がしたかったのかは、不明である。残ったのは、迷惑この上ない異形だけだ。
幸いにも今はまだ町に被害は出ていないが、斥候の報告では、合成獣御一行はこちらの方へと向かってきているらしい。あまり、猶予はない。
「起きたものは仕方がないんだがな」
アナは、左手の指輪を見ながら呟いた。それは、竜を模した銀色の指輪だった。彼女にとって、その責の象徴というべきもの。
そして、アナは顔をあげる。空よりも透明で、海よりも深い、不思議な青さを湛えたその眼に、強い光を宿して。
「さて、新兵達の訓練といこうか」
不敵な笑みは、彼女によく似合っていた。
『アナって、人使い荒いって言われない?』
「さあ。 ――ここにいてもらうだけで、そう言われるのは心外だな」
アナとティーアは、町の外れの丘に来ていた。そこからは、魔の森と魔物の大群が見渡せた。
ティーアは不満げに尾で地を叩く。固い筈の地面は、ティーアの行為であっさり抉れた。ティーアは、本来の姿に戻っているので、気を付けなければすぐに物を壊してしまう。だから、それが嫌でもあるので、普段彼女は人型になっている。
見上げるような巨体。黄金に輝く鱗。硬質な金の色彩を宿す瞳は、瞳孔が縦に割れている。鋭く尖った牙と爪。それは、その姿の印象にも当てはまる。鳥類とは異なる背の翼は、天を駆ける力強さを有している。
――すなわち、竜。
ティーアは、最強の魔獣と呼ばれる種族に属していた。
ところで、魔物と魔獣は別物だ。とはいっても、あくまで人の観点からではあるが。積極的に人を害するものを魔物、そうでないものを魔獣と呼ぶ。
ティーアは、その中でも特に力を持つ、真竜だった。――竜には、眷属が多く存在しており、その眷属をさして竜と呼ぶことも多い。よって、本来の意味での竜と竜の眷属とを区別するために、真竜という言葉が使われている。
それ故、今回ティーアは、アナから魔物除けの役割を仰せつかっているのである。竜が近くにいるとなると、流石に魔物も町には寄ってこないだろう。なぜなら、魔物にも生物の本能というものがあり、そうそう自分より格上の存在に挑むということはないからだ。
『ま、これぐらいならいいんだけどね。 アシュにはすっごい借りがあるし』
ティーアは器用にも、竜態のまま肩をすくめた。アシュとは、この国の王、アナの夫のことである。
――正直なところ、不思議でもある。双子の片割れの狂気を、大して力のない人間が止めることができるのが。それとも、それが妥当であるのか。人間の娘を愛するあまり、狂いかけている竜を、同じ人間が止めるのは。これに関しては、ティーアは片割れに対して何もできない。ティーアよりも長い年月を生き、多くの知識を蓄えてきた筈の、他の竜達にもできることはなかった。何かできるのは、アシュだけだ。
ティーアはお人好しではないので、積極的に人に手を貸したいと思ったことはない。けれど、この借りに免じて、今代の王とその伴侶だけは、何かあったら手助けしてもいいと思っている。
ティーアがアナに目を転じると、王の伴侶は、遠くで行われる戦闘を静かな目で眺めていた。近衛隊と魔物たちの戦闘は、近衛隊の有利に進んでいる。このままいけば、遠からず合成獣を討ち取ることができるだろう。
と、周囲から離れたところで佇んでいるアナとティーアの元に、駆け寄る者がいた。
「アナ様、町の守りが整いました」
「遅い」
申し訳ございません、と頭を下げる近衛隊の隊員を、ティーアは物珍しげに見る。
『わー、珍しい。 毒の加護持ち?』
「大して使えないけどな」
はしゃいだ声を出すティーアを、アナが切って捨てた。
加護持ちとは、この世の森羅万象に宿ると言われる精霊の寵愛を受け、その力を借りることができる者のことである。アナもまた、水の精霊の加護を受けている。火、水、土、風、光、闇の精霊は、世界を構成する主要な存在であるため、それらの加護持ちの割合は多くなるが、そうではない精霊の加護持ちは、一般的に少ない傾向にある。
「ルウと申します。光の君」
そう言うと、その近衛は艶やかに笑んだ。見る者を惹き寄せずにはいられない、蠱惑を孕んだ微笑。それはあたかも美しい毒花のようだ。その先にある破滅を予感させて尚、手を伸ばさずにはいられない。
「……男の癖に、無駄に色気を出すな」
アナが呆れたように言った。
そう、ルウは男だった。しかし、毒の精霊の加護の影響か、容姿端麗の上に妙に色っぽいため、老若男女問わず他者を惑わしてしまう。もし彼が女だったら、余裕で国を堕落させただろうと言われる程である。だからアナやティーアのように、彼を見て尚平然としていられる者は希少だ。ちなみに、町の守りの完了が遅れた理由の九割方は、彼のせいである(多くの者がルウに見惚れていた)。また、加護持ちである故に、ルウの戦闘能力は、近衛隊の中でもそれなりに高い。しかし、その属性が毒ということで、いろいろな意味で周囲に及ぼす影響が大き過ぎ、なかなかに扱いづらい人材であった。
アナの言葉に落ち込んだのか、ルウはその紫の瞳に憂いを滲ませる。速やかなる永久の眠りに誘う妖花の様に毒々しくも、夜明け前の空の様に清々しくも見える、紫。それに密やかな翳が落ちる様は、人の心を酷く掻き乱す。
『う~ん、ちょっとこれはうざいかも。 ほんとに無駄なくらい色っぽいわね』
ティーアは妙な事に感心している。ルウの陰を含んだ魅力も、最強の魔獣の前には効果がないらしい。
《姉御~、まずいよ~!なんか魔物がそっちの方に行っちゃった~!!》
突然、焦りを多分に含んだ声が響いた。魔物との戦闘に同行させた連絡係が、風にその声を乗せたらしい。
「なんだと!?」
驚いたアナが見ると、確かに、近衛隊と戦闘を行っていた筈の魔物の大群が、真っ直ぐに町の方へと迫ってくる。
「一体何故でしょうか?」
困惑するルウの姿は、あくまでも色気がある。
『犯人はお前だ!!』
ビシッとティーアがルウを指差した。
彼らがいたのは風上。ルウから漂う香りが、魔物達まで届く場所だった。そこに最大級の天敵がいようとも、抗うことのできぬ魅惑の芳香に引き寄せられて、魔物達は群がる。……ルウが有する魅了の魔力は、魔物にも有効であったらしい。
「連れてくるんじゃなかった……」
疲れたように、アナは呟いた。
「責任を以て、殲滅致します」
「止めろ、ど阿呆!!」
きりりと顔を引き締めたルウに、アナは怒鳴る。
ルウに加護を与えたのは、毒の精霊。彼は、そこに在る生命を侵し、大地を腐らし、空気までをも汚すことができる。町のすぐ近くを、不毛の地どころか、踏み入れた者の命すら奪う魔境にされては堪ったのもではない。
『あたしに頼まないでね~。 町を巻き込まない自信がないから』
「当たり前だ……」
ティーアは巨大な力を持つが、細かな操作は苦手だ。倒すべき魔物達はおろか、守るべき町まで消し飛ばしてしまったら、本末転倒である。
「私がやる」
有無を言わせぬ声。それは、王たる者の言葉。
アナは前に歩を進めた。銀糸の如きその髪が、風を受けて翻る。
アナは一瞬、瞼を伏せた。胸中に湧き上がった迷いも感傷も、全て捨て去る。必要とするのは、覚悟のみ。
――そして。
歌声が、その場を支配した。
決して上手いとは言えないが、ただただ透明な歌。アナの魂に刻まれた、言葉無き讃歌。それは、世界に沁みわたり、姿なき者達の心を震わす。
――異変は、すぐに表れた。
魔物達の姿が、削れていく。少しずつ、塵と化していく。あたかも、それらが初めから、砂で作られていたかのように。嘗て魔物の一部であったものは、風に紛れ、何処かへ去っていく。
「『王の愛し子』……」
ルウの赤い唇から零れ落ちた言葉には、紛れもない畏怖が込められていた。
精霊の加護を持ち、その力を借りられる者のことを、加護持ちといい、その中でも、特に精霊に愛された者を、『精霊の愛し子』と呼ぶ。『精霊の愛し子』は、精霊から多大なる守護と力を授けられる。ルウやアナがこれにあたり、その証はその稀有な瞳の色に表れている。
その中でも、アナは特異な存在だった。通常、『精霊の愛し子』といえど、生きとし生けるものに宿る精霊には、干渉することができない。生き物に宿る精霊は、その魂と密接に繋がっているために、引き離すことは不可能に近い。しかし、アナにはそれができた。それは最早、精霊の助力を得るという問題ではなく、精霊を隷属させているにも等しい。
魔物達が塵と化していくのは、アナが魔物達の身体から水の精霊を奪っているからだ。其の魔が歌に抗することができるものは、ごく一握り。残念ながら、稀な特例は、魔物の達の中に存在していない。
人の身に余りに過ぎた、精霊の寵愛。故に、アナは『精霊の愛し子』ではなく、こう呼ばれることがある。
『王の愛し子』と。
異界に存在するという精霊達の王から、直に祝福を受けし者。
また口さがない者達は、彼女をこう呼ぶ。
『神の忌み子』と。
アナの尖った耳と小麦色の肌は、光と闇、相反する性を持つ妖精族同士の狭間に在る者の証。すでに混血の者が大半であるフェルメリアには珍しく、彼女は、生粋のエルフと、生粋のダークエルフとの間に生まれた。――エルフに加護を与える光の神にも、ダークエルフに加護を与える闇の神にも見捨てられたから、彼女を憐れんだ水の精霊の王が寵を与えたのだと、愚か者達は言う。けれど、真実は誰も知らないのだ。
そして、過ぎたる祝福は呪詛と変わりがない。大き過ぎる力は、アナに孤独を招いた。
初めて、何の打算もなく恐れもなく、差し出された手は、後に生涯の伴侶となる男のものだった。その手を取ったその時から、彼が、彼女の、世界の全て。男が王に選ばれてしまった時、彼は彼女の手を離そうとした。その重責を、彼女まで背負う必要はないからと。それでも、彼女はその手を離さなかった。自由は、必要ない。国なんて、いらない。彼が、欲しかった。彼がいない世界など、彼女には、何の意味も成さないから。
愛する男が負うものを、ほんの少しでも減らせるなら、どんな力であっても、いくらでも振るおう。彼を害そうとするものがいるならば、全て屠ってしまおう。彼がいなくなることが、何よりも、恐ろしい。誰に忌み嫌われようと、構わない。彼に、愛されていられるならば。
恐ろしくも、無垢なる響きを持つ歌が終わった時、魔物の大群は姿を消していた。あとには、近衛隊の面々が、立ち尽くすのみ。
皮肉に思えるほど青く澄んだ空は、アナに夫の瞳の色を連想させた。アシュに会いたい、と無性に思った。
ルウさんは傾国級の超絶美形なので、美醜に疎いフェルメリアの民に対しても破壊力抜群の顔をしています。