旅の一行その三と怪盗騒ぎ その4
許さない。許さない。許さない。
「——殺してやる——」
ありったけの殺意を込め、魔導士は吐き捨てた。
最初から最後まで人を馬鹿にしたような人外も、己を害そうとしたふざけた格好の男も。
魔導士にとって、自分の思い通りにならなかったことはなかった。
欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れてきた。
金も。地位も。女も。
——次は、国だ。
《闇夜の涙》を手に入れようとしたのはその一環。
その他に手に入れようとした道具は、悉く馬鹿げた怪盗に横取りされた。
「——これさえあれば——」
それでも、《闇夜の涙》さえあれば十分だ。
異界の生物を支配する術があるというのに、《侵食界》を恐れるなど馬鹿げている。
国の次は世界を手に入れて見せよう。
そして、井戸の中にいた強欲な魔導士は嗤った。
己の矮小さに見向きもせず。
◆◆◆
広範囲の知覚が可能であったために、彼らは世界を侵す猛毒を感知することができた。
「気持ち悪っ」
感じ取るだけで伝染しかねない世界の腐蝕に男が呻く横で、金髪の少年は元々色白の顔を蒼白にしていた。
「行かなあかん」
「そうだね」
ハムスターと女はきりっとした表情で背筋を伸ばしたが、如何せん、怪盗のコスプレと襤褸布のほっかむりでは実に様にならない。
「頑張ってくれ」
「そこは『俺も行く!』ってとこやないか?!」
「嫌だ、ルドもエドも《侵食》なんかに近づけたくない。そもそも、そっちがしっかりしてりゃ、こんなことにならなかったろ」
そう言いながら、徐に男は金色の剣を出現させると、己の左腕を切り裂いた。
「~っ、いってーな畜生っ!」
立ち上がる鉄錆の臭気に、周囲の者達がぎょっとする。
速やかに治療を施さねば命に関わりそうな出血量だが、男は気にした様子もない。
「……クーちゃん、マゾなん?」
「違うからっ!」
男の左手の薬指の付け根が、淡い光を発した。
男が持つ剣と同じ色の指輪は赤に塗れ、恰も血を啜っているようであった。
カリチと、遠くで鍵が回った音を男は聞く。
◆◆◆
安らぎの眠りを与える闇を拒絶するように、その城は深夜であっても灯りを絶やすことはない。
大陸の多くの国から恐れられ嫌悪される『異端の王国』。
この国の政治中枢を担う王城の一画はある意味、絶望の名を関する北の山脈に匹敵する魔境であった。
「終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない終わらない——」
「また魔道研究班が壁を爆破したって……」
「誰だ! こんな無茶苦茶な期限にしたやつ! 間に合わせられるかこん畜生っ!!!!」
「西の方で魔物の大発生の兆候が——」
「毒属性の魔物を食べて食中毒って何? っていうか、何で生きてんの?」
「……ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。——世界なんて滅べばいいのに」
「……書類がこんなに……」
「早く戻って来い、くそバカ王~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!」
文章作成機のボタンが高速で叩かれる音や、大量の紙を捲る音、どこか遠くで頻繁に起こる爆発音や破壊音をBGMに、呪詛や怒声や悲鳴、呻き声が溢れる室内。
そこにいる人間達が、健康そうな者・やつれてきた者・もはや幽鬼と大差無い者に分類できるのは、強制的に七日ごとに二日間の休暇を取らせる制度が存在しているが故だ。
まともな神経を持つ人間が見たら、即回れ右をして逃走しそうな惨状になっているが、これが通常仕様である。
その部屋の最も奥まった場所で、常に最高潮状態の書類の柱達を黙々と処理していた男は、弾かれたように顔を上げた。
魔法灯の光に照らされた顔はぞっとするほどの蠱惑を孕む。
呑み込まれそうな血色の瞳は、彼がとある闇の眷属であることを示していた。
吸血鬼。
魔力あるものの生き血を糧とする、夜の帝王。
彼は、その中でも真祖に極めて近い旧き世代の吸血鬼である。
吸血鬼という種族は、その血液を媒介として同族を殖やしていく。
吸血鬼の中でも真祖は特殊で、巨大な力を有し不老不死であるだけではなく、滅ぼされてもある程度期間を経て蘇る。それは、世界最高峰の力ある魔物である《一なるもの》達と、同じ性質であった。
そして、吸血鬼は真祖に近い世代ほど、強い力を有す。
彼は本来、高位の竜の眷属であろうと容易く下せる実力があるのだ。
が。
しかし、血さえ飲んでいれば不眠不休でいつまでも動き続けられることに目をつけられ、他の者であればあっという間に過労死しそうな大量の事務仕事を押し付けられて千年単位の年月が経過していた。——ちなみに彼は今の仕事が嫌いではないので、ある一点を除けば現状に満足している。
「……何故、大結界に手を出す? クライドロ……」
ゆっくりと、空気の密度が増していく。
彼が知る、王都に眠る機能が目覚めていく感覚。
それが動き出すことは、滅多にない。
それを扱うことができる権限を有するのは、いつの時代もただ独りだけしかいない故。
さらに、絶大な効果に見合うだけの大きな代償が必要になるからだ。
直近では、王都の結界の大規模な書き換えの折、その前だと、数百年前の聖王侵攻の話になる。
彼の近くにあった窓から、柔らかな光が差し込んだ。
夜が明けたのではない。
王都をすっぽりと覆い隠す、巨大な半球状の結界に沿って、淡い光の紋様が次々と浮かび上がっていくところであった。その密度があまりにも高いために、一時的な光源のようになっただけだ。
他の者達も異変に気付いたのであろう。
騒がしかった城内が、一気に夜にふさわしい静寂を取り戻した。
淡かった紋様の光が、カッとその強さを増した。
王都は真昼のような明るさに包まれる。
それと同時に、王都中に美しい旋律が響き渡った。
あまりにも大規模な理の歪みに世界が軋む音は、けれど、涙が出そうに優しい。
高い音、低い音、複数の音色が複雑に絡み合うそれは、まるで王都が歌っているよう。
ここに神の視点を有する者がいたならば、王都と同じ光の紋様が王国の各地に出現し、国土の中に巨大という言葉ではまだ足りない大きさの陣を描く様を見ることができただろう。
難攻不落として世に名高い、『フェルメリアの大結界』。
それは、竜脈や星辰をも利用した、大陸最大の魔法陣により生み出されていた。
「宰相様!」
唐突に吸血鬼の前に丸い鏡面が出現した。
「西方のエリヴェに《侵食界》の反応が!」
そして、フェルメリアの宰相は、己の王が何を行おうとしているのか悟ったのだった。
◆◆◆
どうしてこうなった?
めいいっぱいに引き伸ばされた意識の中で、魔導士は叫ぶ。
《門》を開けた途端、此方側に湧き出した『何か』。
透明だ。いや、深淵に沈む色だ。まっさらだ。違う、海底の淀に似ている。こびり付いて離れない。ねっとりと絡みつく。浸透していく。そうであり、そうでなく、それらである——。
《侵食界》が生み出す奔流に、魔導士は呆気なく呑み込まれた。
己が己である要素が侵食され、変質する。
自分は自分のままか?
馬鹿げている。変わるわけがない。
いや、変わってしまう。
自分はどうなる?
死ぬのか?
死なない。
でも死より酷い!
変質する自己。
侵食は止まらない。
脳裏を駆け巡るのは走馬灯。
自分は一体何を間違えた?
見ようとしなかった答えを見つけられる筈もなく。
——どうしてこうなった?
それが、魔導士が魔導士であるうちに行った、最後の思考であった。