旅の一行その三と怪盗騒ぎ その3
「――ああ、長かった」
ほっそりした手が、涙の形をした黒い魔石を持ち上げた。
「メティ―――――――――――――――っっっっ!!!!!!!」
甲高い声が絶叫する。
声の主である紅いハムスターに、侵入者であった女を屠った魔道師――この国の宮廷魔導士は忌々しげな目を向けた。
「よくも、今まで邪魔してくれたな。お前たちさえいなければ、もっと早くことが済んだというのに」
そして、動かなくなった躰を苛立たしげに蹴り上げた。
「おい」
腹の底まで響くような低い声が、大気を震わせた。
「うちのルドになにすんだ」
その声を発したのは、ぶかぶかのシルクハットにだぼだぼのコート姿の男だ。
どこからどう見ても怪しいうえに、あまり格好のつかない姿の男だが、しかし、今は凄まじい圧力を身に纏い、中肉中背の体が何倍にも膨れ上がっているように見えた。
見た目不審者な男に魔導士は気圧され、けれど、場違いなプライドによりそんな自分から目を逸らした。
「それがどうした。荒事に身を置くなら、死など――」
一歩間違えれば殺めていたかもしれない少年を見やり、魔導士は大きく目を見開く。
「――テオドール殿下? いや、まさか――」
「お前の目は腐ってんのか?」
金の輝きが魔導士の首筋に走る。
冷ややかな声を魔導士に向けた男は、一瞬の隙を逃すことはしなかった。
驚異的な身体能力により、男は瞬く間に数十歩の距離を詰め、魔導士の首に金色の剣を添えたのである。
ぶかぶかのシルクハットの下から、硬質な輝きが魔導士を射ていた。
得体のしれない脅威を前に、胸中に湧き上がってくる恐れを押し殺し、魔導士は嗤う。
「馬鹿が。独りで国宝に手を出すとでも?」
男がその意味を理解したとき、紫色の子熊を抱きしめ、壁際で眠りこけていた子供に、魔導士の協力者が剣を振り下ろしていた。
「あほかぁっ!!!!!!!!!!」
不可視の力が、襲撃者を吹き飛ばすのと同時。
一拍前まで襲撃者の首が存在していた空間を、白刃が薙いだ。
とろんとした寝ぼけ眼でぼんやりと佇む子供の手には、いつの間にか華奢な剣が握られていた。
子供は不思議そうに目の前の襲撃者を見ている。
まるで、どうして生きているのだろう、というように。
そして、子供が無造作に振り上げた剣に、襲撃者は全く反応できなかった。
それは、生き物が呼吸をするような、歩くような、あまりにも自然な動作だったので。
音もなく迫る死。
しかし、襲撃者の命脈を断ち切るはずだった刃は、金の光に弾かれた。
「エドっ! 起きろっ!! 頼むからっ!!!」
金色の双剣を手にした男の、悲鳴混じりの怒鳴り声に、きょとんと子供は眼鏡の奥の瞳を瞬かせ、次の瞬間、火傷でもしたように剣を取り落した。
「――あ、ぅ……」
子供は、己が何をしかけたのか悟った。
未だ幼さが色濃く残る顔に広がるのは、一つ間違えれば取り返しがつかないことを引き起こしたことに対する恐怖。
「エド、落ち着け」
男は躊躇うことなく子供を抱きしめた。
「まだ、誰も死んでない」
あやすような声と共に、震える子供の頭を無骨が撫でる。
こくりと子供が頷くのを確認すると、男はぎろりと襲撃者を睨んだ。
「なにエドを襲ってくれてんだこの野郎っ! お前の自殺にエドを巻き込むなっ! こいつ剣が下手すぎて全然手加減ができないから、襲ってきた奴うっかり殺しちゃうんだよっ!!」
天性の殺戮者。
男の腕の中で震えている子供は、そう表現するに相応しかった。
冥王に嘉されたが如きその剣の腕は、もはや天与の才の域に留まらず、異能と呼ぶべきほどのもの。
それでも、他者を害することを厭う優しさを持っていたことは、果たしてこの子供にとって幸いだったのか否か。
とんでもない男の言い分に目を剥く周囲をよそに、男の怒りは増すばかりだった。
大事な養子に怪我を負わしかけるは、頼むという言葉と信頼と共に託された親友の次男をうっかり人殺しにしかけるは、碌なことをしない。
仕方がないこととはいえ、我が子を手放さざるおえなかった親友の顔を思い出し、男は苦い顔をした。
危うく、親友と顔を合わせられなくなるところだった。
許さん。
不幸にも、魔導士が敵にしてはならない存在を敵に回した瞬間だった。
「――あ~、びっくりした」
呑気な女の声に、旅の道連れ達の方へ気を取られていた少年はぎょっとした。
頭が潰れて生きていける人間などいない筈なのに、目の前の女は動いている。
引き攣った悲鳴を上げる魔導士に、女は唇を尖らせる。
「何さ。攻撃してきたのは、そっちでしょ」
「――お前は、何だ?」
身構えた少年の問いかけに、女はへらっと笑った。
顔が半ば崩れたままなので、なかなかに壮絶な形相である。
「あたし? 人形だよ。魔道人形ってやつ。けっこう高性能なんだよ」
そういっている間にも、女の顔は時が巻き戻るかのように修復されている。
魔道人形というのは、魔法によって作られた、人間を模した存在のことである。
しかしながら、所詮は人形、魔道人形が如何に人間のように振る舞おうと、どこかしらに齟齬が出る。
筈だ。
この女のように、人間にしか見えない振る舞いをする魔道人形など、聞いたことがない。
困惑する少年をよそに、女は魔導士にビシッと指を突き付けた。
この時にはもう、女の顔は生身の人間にしか見えなくなっていた。
「悪い奴にはお仕置きだからね!」
そして数拍後、女は少年振り返る。
「あの~、悪いんだけど、《封魔の環》とってくれない? 魔法が使えないんだけど……」
締まらない。
少年が呆然としていたところで、魔導士が動いた。
「あっ! なにすんねんっ!」
魔導士は《闇夜の涙》を持ったまま、何かを地面に叩きつけた。
「どりゃぁ~っ!」
ハムスターの跳び蹴りは、魔導士がいた空間を素通りする。
「に、逃げられたっ!」
「ま、まずいねんっ!」
慌てふためくハムスターと女。
「なに逃がしてんだっ!」
魔導士に対して鬱憤を晴らし損ねた男は、ハムスター達に八つ当たりした。
「どど、ど~しよ、ど~しよ~っ!」
「まま、まずいんや~! まずいんや~っ!!」
「何が?」
ただ魔導士を逃がしただけにしては、ハムスターと女の慌て方は大げさだ。逃してしまったのは仕方がないが、すぐに捜索を開始すればいい。
訝しげな少年の問いかけに、無駄に走り回っていたハムスターと女はピタリと動きを止めた。
「い、いや~、あのね」
「《闇夜の涙》って、ほんとにただの魔石じゃないんよ」
女は乾いた笑いを浮かべる。
「異界への鍵みたいなものなんだけど、通じているの、《侵食界》なんだよね~……」
「なんだって?」
男の低い声に、ハムスターは頭をかいた。
世界というのは、重なり合っている。不可視の膜が世界と世界を隔てている。その膜の厚さは一定ではなく、限りなく膜が薄くなると、異なる世界から異界の民が堕ちてくることがある。
世界は多様だ。
この世界と同じように魔法が存在する世界があれば、魔法が存在せず、《科学技術》というものが魔法の代わりになっている世界もある。この世界と同じような魔物が存在している世界があれば、魔物の定義が全く異なる世界もある。
《侵食界》というのは、数ある世界の中でもある種の世界を指す言葉だ。
その名の通り、他の世界を侵食し、最終的には呑み込んでしまう世界。《侵食界》に取り込まれた世界の住人には、死か己であることを放棄するしか道はない。
この世界は遥かなる昔から、《侵食界》の脅威に晒されてきた。
特に、この国の東にある『異端の王国』は、その名残を多く残していると言われる。
「あの魔導士、《闇夜の涙》が《侵食界》に繋がる鍵だっていうことは、知ってるみたいやけど、《侵食界》についてはあんまり知らないみたいなんよ~。多分、《闇夜の涙》を持ってたら、すぐに路を開きそうなんや」
ハムスターが言った途端、世界が震えた。
どうしようもない異質が、この世界にねじ込まれ、周囲のものを変質させていく。
世界を支えるものたちの、声なき悲鳴が心を揺らす。
「《門》が、空いた……?」
少年の唇から、無意識の呟きが漏れた。
「――それは早く言おうなっ!」
男の悲鳴は、もっともだった。