ただ、それだけのこと 三
クーさん登場!
クライドロは仕事の手を休めて首を傾げた。
最近、精霊の様子がおかしいのである。
精霊というものには、極めて薄いが自我がある。故に、乳幼児並みに単純であっても、感情もまた有している。だが、基本的に感情の希薄な精霊が、数日以上の間同じ感情の発露を続けていることは、はっきり言って異常事態なのだ。
ここのところ精霊達が懐いている感情は、歓喜。
特に喜びを表しているのは風の精霊だ。他の精霊は、どちらかといえば風の精霊の歓喜に当てられたといった方が正しい。
精霊が喜ぶ場面というのは実は意外に少ない。精霊の寵を受ける『加護持ち』が近くにいたとして、それでも機嫌が良くなる程度なのだ。クライドロが、これほどまでに精霊が歓喜に震える場面を見たのは、――『王の愛し子』と呼ばれた女性の周辺ぐらいか。彼女の場合は絶大なる水の精霊の寵愛を受けていたため、彼女がそこにいるだけで水の精霊が狂気乱舞していたのだった。
「風の『王の愛し子』って、可能性が高いんだけどな~。でも、『王の愛し子』がたかだか数年ぐらいでまた生まれるのも異常だしな~」
クライドロは、黒と緑の互い違いの双眸を細め、独り言をこぼした。『加護持ち』の中でも特に精霊の寵を受け、多大なる守護と力を授けられる者を『精霊の愛し子』と呼ぶが、その中でもさらに一握りに属するのが『王の愛し子』だ。異界に在るという精霊王の加護を受けたとされる者達は、精霊の力を借りるだけでは飽き足らず、時に精霊の隷属すら行い得る。『王の愛し子』は非常に稀な存在であり、数百年に一人出現すれば十分多いといえるのだ。
うんうん唸っていたクライドロは、唐突に身体を折り曲げ屈みこんだ。そんな彼の頭上を火球が通り過ぎる。チッと、誰かの舌打ちがした。
「陛下、仕事してください」
「……今、舌打ちした? 舌打ちしたよな?」
「陛下、仕事を……」
「うん、するからそんなに火の玉を出すのは止めような。また壁の修理するの面倒臭いから」
幽鬼の様な暗過ぎる空気を身に纏い、周りに数十もの火球を顕現させている部下を、クライドロは宥めた。制度上は一国の主である筈なのだが、部下からのクライドロの扱いはどうにも悪い。それはひとえに、隙あらば臣下に仕事を押し付けてあちこち放浪して回る、クライドロの普段の行いのためであるのだが。
「ちょっと精霊の様子がおかしいのが気になっただけなんだ」
「知りませんよ」
クライドロの言い訳を、部下は一蹴した。ちなみに、クライドロは精霊の加護を有しており彼等を感じ取ることが出来るが、部下は精霊の寵愛無き故にそれが出来ない。しかしながら、部下が絶対零度の眼差しをクライドロに向けるのは、クライドロを信用していないのもあるだろう。一応、臣下たちがクライドロに向ける目の十割のうち九分ぐらいは信頼であるが、信じて頼るのはクライドロの能力のみである。一方のクライドロのやる気の方は、全く信じられていない。
部下から冷たい目で見られたクライドロは、そのまま頭を掻きながら仕事に戻ろうとした。
ぞわりと。
空気が変わった。
精霊達に走った緊張。
そして。
声無き絶叫が辺りを震わせた。
――クル――
――アレガ――
――タスケテ――
――マモッテ――
――アノコ――
――アブナイ――
――タスケテ――
――アノコ、ヲ、タスケテ――
この時、五十数年の歳月を生きてきたクライドロが、初めて目にした精霊達の狂乱。その根底にある恐怖という感情を、精霊達が懐いている場面に遭遇することも、クライドロは初めてだった。
クライドロの双眸が、どこか呑気なものから一転、切り裂く様な鋭さを帯びる。
扉も窓も閉め切られた室内で、クライドロを起点に風が巻き起こった。
『加護持ち』しか知りえぬ、精霊達の気配が色濃くなる。分からぬ者には、万の言葉を尽くそうが決して伝わらぬ感覚。
クライドロは、見えることの無い意思の手を四方八方に伸ばした。
魂が、精霊達と共振を起こす。
どうか、とクライドロは彼の守護者たる風の精霊達に念じる。
――どうか、力を貸してほしいと。
姿無き隣人達の力を借りるために必要なのは、ただ己の意思のみ。
そして、クライドロが感じる世界が、果てが無いほどに広がった。
「――って、ちょっと。おいおいおいおい――」
風の精霊の力を以て探査を行ったクライドロの口から、呻き声が漏れる。
「――〈精霊食い〉ぃっ!?」
何事かとクライドロを見ていた部下は、その単語に目を剥いた。
クーさんに対する部下さんの扱いはこれが通常運行。
クーさん、信頼はありますが、信用も尊敬もありません。