ただ、それだけのこと 二
精霊。
それは、森羅万象に宿るモノ。世界を支える一欠片。不可視ながらも、ありとあらゆるところに居る隣人だ。
精霊を感じることが出来ない者の一部は、その存在を頑固に否定するが、精霊と感応する者には否定する理由が全く以て理解できなかったりする。
精霊と親しむ『加護持ち』にとって、精霊は空気と同じようなものだ。見えず、触れられず、しかし、感じ、そこに在る。そんな存在を、どうして無いと断じれよう。
しかしながら、人間というのは己の目に見える、或いは自分の信じたいものを信じる動物である。精霊を否定する徒人と、精霊の加護を受け、その力を借りることも出来る『加護持ち』の間には、酷く分厚い壁が鎮座していた。
◆◆◆
ガラガラという馬車の音。
彼等が乗っている乗合馬車が進むのは、国境付近の石畳の街道。大国の一つに数えられる故郷であっても、辺境と言ってもよい国境近くの道は、国の動脈部と同じように整備されていなかった。だから、これを初めて見た時は心底驚いた。さらに言えば、石畳の中に等間隔で魔石が埋め込まれているのも、故郷ではありえぬことである。この国では当たり前の魔物除けの結界らしいが、他国では希少な魔石が惜し気もなく使用されているのを見ると、国力の差というものを感じる。――世界の魔力とも言える魔素の結晶たる魔石は、魔法具の製作や、戦争に用いられる戦略魔法には必須のものである。そのため、魔石の所有量が、国の戦力に直結するのだ。彼等が今いる国――フェルメリアは、大陸でもずば抜けた魔石の産出量を誇り、大陸屈指の強国として名を馳せていた。
「あー、あー、う~」
彼の妻の腕の中で、赤子がしきりに声を上げる。紅葉の様な小さな手が、何かを掴もうとするように動く。赤子は国境を越えてからずっと機嫌が良く、しばしば無邪気な笑顔を見せていた。
「ルドルフ、だったか? その子、ご機嫌だな」
竜の眷属である地竜に跨る馬車の護衛役の男が、彼に声を掛けてきた。今はそれなりに温かく湿度がある時期なので、馬車の窓は大きく開け放たれ、外にいる護衛と会話が出来るようになっていたのである。エルフの血を引くらしく、先の尖った耳を有している男は、微笑ましげに赤子を見ていた。
「ああ、そうなんだ。きっとこの子は、精霊に歓迎でもされているんだろう」
そう言って彼は苦微笑した。一方、護衛の男は大きく口を開けて笑った。
「そうだろうな。滅多にいない『愛し子』だ。精霊に歓迎されない方が可笑しいだろう」
そう言う護衛の男が赤子へと向ける眼差しは、慈愛と親愛に溢れており、それとは正反対の嫌悪と怖れの目を見てきた彼は、ただ苦笑するしかなかった。
彼と彼の妻がルドルフと名付けた赤子は、彼等の故郷たるローディオでは『悪魔の子』と呼ばれる存在だった。
ルドルフが悪魔に魅入られた証とされたのが、その翠の目。ルドルフの瞳の色は、深山の湖面の色にも、命に満ちた森の色にも見える上に、 光の加減で時折晴天の空の色が混じる翠だった。フェルメリアでは精霊の多大なる寵愛を受けた『精霊の愛し子』の証とされる、独特の色彩を有した瞳は、ローディオでは忌み子の象徴であった。
そもそも、フェルメリアとローディオでは宗教観が大きく異なっている。フェルメリアは、『神に見捨てられた』が故に神に祈らず、世界を構成すると言われる精霊に助力を乞う。対して、ローディオは、大陸で広く信仰されている唯一神を奉じ、精霊を悪魔と同じ存在と見なしている。そのため、フェルメリアでは尊敬と憧憬を集める『精霊の愛し子』も、ローディオでは憎悪と侮蔑に晒される『悪魔の子』でしかなくなるのだった。
ローディオではその生を許されず、その殆どが生まれ無かったことにされる『悪魔の子』。彼と彼の妻が『悪魔の子』たるルドルフを助けようとしたのは、彼等が故郷で権勢を振るう『教会』に疑念を抱いていたからである。故郷では『教会』の異端諮問官であった彼は、フェルメリアで言うところの精霊の『加護持ち』であった。しかしながら、彼に与えられた精霊の加護は酷く弱く、精霊の力を借りるどころかその存在を感知するのがやっとであったけれども。
彼はずっと疑問に思っていたのだ。
何故、精霊を感じるだけの自分は人間の範囲に収まっているのに、精霊の助力を得られる人間は『悪魔の子』とされ、ヒトとしての扱いを受けられないのか。
異端諮問官は、地上に蔓延る『悪魔の子』を討つために、神に遣わされた英雄とされている。その異端諮問官である己と『悪魔の子』が、根本では同じものだと気付いたのは、一体何時だったろうか。
降り積もる疑念は、いつしか彼の根幹を成していた神への信仰への不信を生んだ。不信を抱えたまま続けるには、異端諮問官の責務はあまりにも血塗られていた。それでも、唯一神の教えを絶対としている故郷で生きていくためには、疑念も不信も彼の最大の理解者たる妻以外に吐露することが許されなかった。
そして、長年に亘る危うい綱渡りのせいで、彼の精神に次第に限界が見え始める。そんな時だ。異端諮問官である彼と宮廷魔道士である彼の妻に、一つの任務が与えられたのは。それは、彼等がルドルフと名付けた赤子を秘密裏に処分することだった。
もう、無理だ。
無知故に穢れを知らぬ翠の瞳を見た時、彼はそう思った。
これ以上、自分を偽り続けることも。神という名の大義名分を盾に、罪なき命を奪うことも。もう、出来ないと。
抵抗してくれれば良かった。自分を殺そうとしてくれれば良かった。そうすれば、彼は何とか自分を誤魔化して、任務を遂行できたのに。
――真っ新なままの無垢な魂は、ただただ温もりを欲していただけだった。
彼が抱き締めた途端にぴたりと泣き止んだ、『悪魔の子』。忌むべき赤子の周りには、風の精霊の歓喜と、赤子を気遣う思念が渦巻いていた。
小さな身体は、驚くほど軽く。すぐに壊れてしまいそうな弱々しい存在を、屈強な男達や様々な権威を戴く者達が恐ろしげに見ていることが、酷く滑稽に思えた。
――守らなければ。
湧き上がってきた、強烈な使命感。それは、同情ではなく、親愛の情でもなかったけれど。彼の腕の中に在る温かいモノは、災いとされ、実際に己を害そうとした騎士を葬り去った生き物とは、どうしても思えなかったから。
ふと妻を見ると、彼女は強い光を宿した目で、彼に頷いた。
妻の行為に以心伝心という言葉を実感し、彼は、慌てて気を引き締めていなければ、場の空気を弁えずに笑いだしていただろう。
――必ず、守る。
誓うべき神は、最早いない。この誓約を捧げるとするならば、最愛の女と、風の寵児たる赤子だ。
そうして彼等は故郷を捨てた。
故郷と、何より自分達の為の、彼等が出来る最大限の偽装工作をして。
彼等を亡き者にせんとする、故郷からの追手を振り切って。
漸く、『悪魔の子』が生きることを許される、異端の王国に辿り着いたのだ。
長かった、と彼は溜息を吐いた。
彼等は今、フェルメリアの王都へ向かう乗合馬車の中にいる。フェルメリアに入国した時点で追手の心配はほぼ無くなった――ローディオ、ひいては『教会』にとって、フェルメリアはある意味禁断の地だからだ――が、万全を期すには国境近くの町よりも、フェルメリアの中心たる王都にいた方が良い。それに、常に魔物の脅威に曝され続けるフェルメリアで最も安全なのは、難攻不落の結界に守られた王都なのである。王都へ向かう途中で魔物の襲撃に遭う可能性もあるが、王都行きの乗合馬車に乗って死ぬのを心配するのは、街中で事故に遭って死ぬ心配をすることと同意義であるらしい。少なくとも、他国からの輸入品の運送にも用いられる王都への街道周辺は、定期的に軍による魔物の掃討が行われる。また、魔物が出たとしても、街道には魔物除けの結界が張ってあるし、それなりに腕の立つ護衛が乗合馬車を守っている。そうは言っても、北の山脈で高位の魔物を狩る魔狩人には劣るが、とは地竜に乗った護衛の言葉である。この分だと、何事も無く王都に着くだろうと、その護衛は続けた。
王都へ続く道。
彼は、その先に希望を見ていた。