終わりを願う
他の章との繋がりを書きたくて、書いてみた話。
脳天気のサボり魔王にも、大変な時はあったのです。
◆◆◆
「産むのか?」
「もちろん」
迷わず即答して、彼女は膨らんだ己の腹を撫でた。痩せこけた女の体躯が、腹の大きさを強調するようだった。
「この命を引き換えにしてでも」
そう言って彼女は美しく微笑んだ。その答えに、相手の青い双眸が揺れる。
「……幸せになれると、思うのか?」
力ある真竜の血を引く彼女は、巨大な魔力を有していた。しかし、その彼女の体さえ蝕む魔力を宿す怪物が、彼女の胎の中に存在していたのだ。強過ぎる力は、持つ者やその周囲に災禍を招く。無事に産まれ得たとして、その子はどう、生きていくのか。
「――私は、信じたい。世の中は、汚いものもあるけれど、綺麗なものも沢山あるわ。この子達には、世界を、見てほしいの」
だから、早く出ておいで。
まだ見ぬ我が子等に囁く声は、どこまでも優しかった。
◆◆◆
彼女が覚えている母の姿は、常にベッドの上にあった。
昔は店の給仕をしていたという母。けれど、彼女にはそんな母の姿が想像できなかった。
身体が弱く、よく吐血をする様な父は動き回っていられるのに、どうしてだろうと、一度だけ両親に問い掛けたことがあった。
母は、困ったように空色の目を瞬かせて。
父は、哀しそうに緑色の目を伏せた。
だから、どうしてなんて、尋ねてはいけないと思ったのだ。
◆◆◆
自分はいつか、死ぬだろう。
それは、彼にとって自明の理であった。誰もが日常の中で目を逸らす『死』の影は、いつだって彼に張り付いていたのだから。
でも。
死ぬのが怖くなってしまった。
何故、と問われれば、空色の瞳が脳裏に浮かぶ。
死んでしまったら、彼女の目に自分の姿が映ることは無くなる。
死んでしまったら、彼女に触れることができなくなる。
死んでしまったら、自分はいずれ、彼女にとって過去の人間になる。
死んで、しまったら。
彼女の横で、当然のように自分ではない誰かが笑うのだ。
それは、それだけは、嫌だ。許容できない。
彼女には、笑ってほしい。幸せになってほしい。
そう、思うのに。
――どうして、それは、自分の隣でなければいけないのだろう。
◆◆◆
取り立てて優れているとも、劣っているとも言えない、リュートの音。静かな音色は、虚無すら孕まぬ程に透明だ。
異母姉が奏でるそれを、彼は祖母の膝の上で聞いていた。彼の腕の中には、祖父の温もりがある。
父と同じ、夜の静寂を宿した異母姉の双眸は、先程からずっとリュートの方へと注がれている。
潮騒の様な旋律が眠気を誘い、彼はなんとなしに、祖母に自分の身体を預けた。異母姉と同色の彼の黒髪を、祖母の白い手が撫でた。
ぼんやりと見上げた視界には、祖母の緑色の目と、白濁した緑の髪が見えていた。
◆◆◆
彼の日常が崩れたのは、突然のこと。
高い鳴き声は、母のもの。絶望を宿した慟哭。最早、声ですらなくなった、悲痛な咆哮。
ボロボロになった母の腕の中には、父だったモノの残骸があった。ただただ叫ぶことしかできない母の周りに散らばるのは、ほんの少し前まで人のカタチをしていた赤いモノ。
どうして、という疑問の答えは、熱に侵された頭に浮かぶことは無い。
何もかもが夢の様に朧げで。唯一はっきりとしていたのは、自分を抱きしめる異母姉の温もりだけだった。
不意に、咆哮が止んだ。
自分達の方を見た母の目が、大きく見開かれる。
頭上でピカリと、何かが光った。
母の悲鳴。
衝撃。
異母姉の呻き声。
一層強く香る、鉄錆の臭い。
全ては、ただ、遠く。
一際高い咆哮と共に、母の姿がぐにゃりと歪んだのを、彼は他人事のように眺めていた。
きらきらと煌めく鱗。鳥のそれとは違う翼。鋭い牙――。
ヒトではなくなった母の、それでも変わらぬ緑色の瞳からは、幾つも幾つも、大粒の滴が零れ落ちていた。
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目覚めは最悪だった。
「ディー、起きた?」
鉛の様に重い瞼を抉じ開けると、緑と空色の互い違いの双眸と目が合った。
「――フェリ――」
双子の妹を呼ぶ声は、酷く擦れていた。
「俺は……」
「おばか」
妹の両手が、彼の頬を包み込む。
彼は今更ながら、自分が全裸の妹に膝枕をされていることに気が付いた。
「……ごめん……」
彼の妹は、別に服を着ない趣味がある訳ではない。彼女が生のままの姿であるのは、彼の暴走を止めるために、もう一つの姿をとったためであろう。人の姿が仮初である彼に対し、妹の方はどちらの姿も彼女の本性なのだ。それ故、人外の姿をとった時、如何なる理屈か、彼は身に纏った衣服に影響が出ることが無い。しかし一方、妹の方はといえば、もう一つの姿になると、それは人の姿より遥かに大きいため、身に付けている衣服が例外なく破れて用を為さなくなるのである。
己が母より彼等が受け継いだのは、力ある真竜の血脈。
彼と彼の妹に天を駆ける翼をもたらした血は、しかし、人の系譜にも連なる双子にとって、毒でもあった。
それは、血の皮肉。
彼は、弱々しく歪んだ笑みを浮かべた。
――真竜はその血を以て、気の遠くなる様な年月において積み重なった膨大なる知識を我が子に継がせる。故に、真竜の知識は身体を流れる血潮に刻まれていると言っても過言ではない。
なれば、竜の血を飲めば、彼等の叡智をヒトが手にすることが出来るのだろうか。
その答えは、否。
そもそも、真竜も竜の眷属も己の伴侶以外に自分の血を分けることなどしないが、万が一ヒトが竜の血を飲むことが出来たとして、叡智を手に入れるには至らない。
竜、特に真竜と呼ばれる存在の血は、ヒトにとって猛毒だ。それも、死を確約された。
如何に耐えられよう。
真竜より遥かに脆弱たるモノが、世界最高峰の魔力の断片に。
たかだか数十年、数百年しか生きられぬモノが、千の、万の、いや、幾億に至るだろう歳月に凝縮された、情報量に。
真竜の血が彼を蝕むのは、彼のヒトの部分が彼の真竜の部分に耐えられないからだった。
――夢を見る。
母の。祖父の。――真竜の血の源たる、曾祖母の。さらに、その祖先まで。脈々と受け継がれてきた血潮に打ち込まれた、記憶の。
――果てが無いようにも思える、過去を遡る、夢。
彼の、真竜としての精神が受け入れても、ヒトとしての心が拒絶する悪夢。
その夢から覚めた後は、決まって自分がいったい何者なのかが曖昧になって。いつか、彼の自我が嘗て存在していた誰かの記憶に溶けて消えてしまう様な、恐怖を覚えた。
また、その夢は彼の血、ひいては彼の魔力の暴走によって起こるらしい。
年経るごとに魔力が増大していくのが真竜の特徴であり、彼もまたそうであった。けれども、真竜の視点から見ても、彼の魔力の伸びは異常の一言に尽きた。おかげで、彼は魔力を制御しきれず、しばしば暴走を引き起こす。そうなってしまったら、彼の妹が竜化でもしない限り、被害なくそれを治めることは不可能だった。
「……ほんと、いつまでこうなんだろうな……」
「……わからない」
ぽつりと呟かれた言葉に、彼の妹は首を振った。
「――いつか。いつか、一緒に飛べるようになろう」
上空を見上げた妹の双眸に映ったのは、幾重にも張られた結界越しの空。そして、遠い蒼天への憧憬。
大気中の魔素の濃度が濃い故郷の空を、先天的な魔素過敏症の彼女が飛べることは無いだろうけれど。
「飛べれば、いいな」
せめて、希望をのせた約束を。
その翼が空を掴むことを。
底無しの過去の夢と、地べたを這い続ける時の終わりを、ただ願った。
クーさんの双子の妹は、裸族ではないのであしからず。