妖精を捕獲せよ!! その2
「妖精を捕獲せよ!!」の続きです。
その日は、いつもと同じように始まるはずであった。
「なんじゃこりゃ――う、げふっ」
アルの後半の台詞は、驚き過ぎて吐血した時のものである。
打撃やその他諸々(もろもろ)には、やたらと耐久性がある割には、体が異常なほど弱く、頻繁に吐血するという、謎の体質故のことだ。
「ま、マスターの鬣がー!!」
アルは、この世の終わりのような顔で叫んだ。
彼の密かな野望が、打ち砕かれた瞬間であった。
「……何モ言うナ、アル…………」
アルが勤務する【銀鱗亭】を取り仕切る、マスターこと、ヴェーザス・ヴァノホルンは獣人と呼ばれる種族の血を引く。
彼のチャーミングポイントは、ズバリ、鬣である。
獅子を思わせる立派な鬣は、ふさふさとしていて、見た目でも、実際にも非常に触り心地が良い。本人は嫌がっているが、子供にとても人気がある。アルも、その鬣を一目見たときから、思う存分触ってみたいと常々思っていた(十七歳というアルの年齢では、流石のマスターもそう簡単に鬣を触らせてくれない)。
――その憧れの鬣は、膠かなにかを塗りたくったのか? と思うほど、見事なまでにがちがちに固まっていた。
「なんて勿体無いことを」
これは、紛れもないアルの本心である。
「俺がヤッタ訳じゃナイゾ」
マスターは、疲れたように突っ込んだ。
聞けば、朝起きたらすでにこんな状態になっていたらしい。
昨晩までは、マスターの鬣はふさふさのままであったので、ちょっとした怪奇現象である。
「なんでまたこんなことに?」
アルは首を捻った。
「知っテいたラ、モウとっくニ直しテるゾ」
マスターはげんなりとして息を吐く。
こんな様では恥ずかしくて、とてもではないが店を開けない。
「……あの、マスター」
妙な形状になってしまった頭を抱えたマスターに、控えめな声がかけられた。
「あ、ティナ、おはよう――って、どうしたんだ?」
アルの疑問ももっともで、彼の同僚である少女は、何故か顔を隠すように肩掛けを頭に被っていた。
「……今日は、お店を休んでいいですか……?」
蚊の鳴くような声は、今にも泣きそうだった。
「へ? なんでまた」
アルはまたもや首を捻る。
ティナもまた、昨晩までは何事もないように顔を晒していたのだ。
何処かに顔をぶつけたのかと、アルはティナの顔を覗き込もうとしたが、ティナが嫌がったので止めた。
「大丈夫か? 痛いとこないか?」
心配になって、アルはそういったが、ティナは首を振る。
「痛くないけど、……見せたくない」
うら若き乙女としては、非常に困った事態になっているらしい。
「何ガあっタンダ?」
マスターも心配そうである。彼は、ティナの兄夫婦と知り合いなので、尚更そうかもしれない。
ティナはしばらく躊躇っていたが、意を決したように口を開いた。
「朝起きたら、顔に落書きがあったの。いくら洗っても、とれなくて……」
恥ずかしいのか、とても小さな声だった。
マスターも、アルも目を丸くした。
「ナンだ、それハ」
それでは顔を見せられない訳である。
「……もしカしなくテモ、お前ジャナイよナ、アル」
マスターが疑いの目をアルに向けた。
【銀鱗亭】に所属している面々の中で、何事もなかったのはアルだけである。
「なんでそうなるんだっ!」
アルは、ぶんぶんと首を振った。
俺はやってないっ!! と、全身で主張している。
「それジャ、何カ、心当たりハあるカ?」
それは、マスター自身も含めた、その場にいる者への質問だった。
アルは、ふと考え込んだ。
昨晩、祖母への手紙を書き終えたときに感じた気配。
王都へ来る前に、最も馴染んでいたものと似て非なる、しかし、知らない訳ではないもの。
あれは、確か――
「邪魔するぞ」
アルの思考を、凛とした声が遮った。