第十九話:彼の職場はいい湯だな
第十九話:彼の職場はいい湯だな
家というのはとてもありがたいものだ。なにせ中に入るだけで、風に吹かれることも雨に打たれることもなく、床があるから物を置いたって汚れない。きっと家を初めて作った人はみんなに感謝されて胴上げされたに違いない。その進化はとどまるところを知らず、水道が流れ、電気が来るようになり、鍵をかければ知らない人は入れない。きっとこの先も永劫の進化を遂げて人々の暮らしを支えるだろう。オレんち以外は。
来る前から知ってはいた。間取りは見たんだし、水道にトイレに、コンセントだってある。なんと二つも! 部屋の外とはいえ洗濯機もあるから、一人で暮らすにはそれほど困らない。一番の特徴である家賃が安いという点は、物件の情報の中でもう7割くらいの価値を占めてしまうので、最低限生活ができそうとなれば最優先されるのだ。
でも、ここまですごいとは思わなかった。隙間風が吹き込むとか、西日が入るなんて当たり前。うーんと背伸びをして壁にもたれかかるとミシミシと嫌な音がしたので怖くなって飛び退いた。水道はお湯をひねっているのに温かくなる気配なんて微塵もないから、きっとジョークグッズでも買ってきて取り付けたのだろう。窓はすりガラスがはまっている。半分だけ。窓というのは全部埋めることに意味があり、半分だけガラスがあってもさほどありがたみはなく、来た当日にダンボールをあてがってそのままだ。そろそろ取り替えないとカビる。部屋を歩けば畳がグラグラ。もっともこれは自分でやったので仕方がない。
そんな欠陥住宅に住んでいるのは、自分で見に来なかったというオレの完全な手落ちなので、文句も言いづらい。お袋は部屋の内情を知っていたはずだ。……でも、知っていただけだ。聞いてない。家賃と間取りと、ネットを検索したらもう少し気の利いた物があるだろうという手書きの地図。オレがこの部屋に来る前に知っていたすべてである。見に来なかったのだから仕方がない。お袋に当たりたいけど、泥仕合になりそうだからいっそ言わずに黙っている。
とりあえずどうにかしないといけないことをリストアップして順序を立てた。本来リストアップされた時点で全部大急ぎなのだが、オレは一人しかいないので順番に片付けないと進まない。そして、この部屋に来て二日目か三日目に大問題に気がついた。
「風呂どうするんだよ!」
そう、風呂がないのだ。家庭内水回り最大規模を誇る豪華設備だが、日本は恵まれすぎているので風呂に入るなんて当たり前とされている。オレも実家にいたときはそう思っていたが、風呂に入るには絶対に満たさなければいけない条件がある。その条件とは「風呂がある」というかなり難度の高い物だ。みんなあるのが当たり前だと思っているので、どうやら世の中はどうかしている。
風呂は大規模設備なので、工夫して代用することができない。流しですませるという偉大な先人の話はたまに聞くので、水道でやってみようとお湯を出してみた。……そうだった、出ないんだ。まったくこんなつまらないジョークグッズがよく一個売れたものだ。その時点でオレは手詰まり、外部に風呂を求める羽目になった。そして、幸運にも近所に古い銭湯を見つけた。お袋は知っていたんだろうか。教えてくれればいいのに。もしかしたら、知っている知っていない以前に考えていない可能性があるから、やっぱり聞かずに黙っておこう。
夏だったら水道ですませることもあったかもしれないけど、日本では高校は春に始まるとされている。雪が溶け、草花が芽吹き、生き物が世界にあふれ出す。ただし水ではまだ寒いというくそったれな時期である。もう春だしいけるでしょ! なんていうヤツは自分でやってみればいい。凍死は免れないだろう。これから世界が生命であふれると知っているのに一人で凍え死ぬのはごめんなので、泣く泣く週3、4回のペースでその銭湯に通っていた。すると、かなり早い段階で張り紙を見つけた。求人があるらしい。
土日入れる人、高校生可。一日5時間から、時給640円~。すごい! オレが思っている法定最低賃金を割っている気がするが、そんなことはどうでもいい。無理なくバイトをして、お金がもらえる! しかもここは行きつけの銭湯だ。バイトをしていれば、関係者だから安くなったり、なんだったらただで入れてもらえるかもしれない。絶対に風呂には入りに来るんだからその分を差し引けば、時給はむしろ高くなる計算だ。ちゃんと計算してないけど、きっとそうに違いない! そう思ってすぐに交渉した。高校にも許可を取って、就業開始。ただ、関係者だから安くなりますよね? という話は揉めかけた。まあ、ねじ込んだけど。
だから、結構早い段階から同居人も知っている。この同居人は女の子なのに風呂なんて入らない。風呂がないから入らないわけではなく、そもそも身体を持っていないので、浸かる部分がないから入っても仕方がないらしい。幽霊というのは気の毒だ。生きていれば現世にいても、極楽極楽などとのたまうことができるのに。まあいいか。彼女は極楽に行きたかったらモノホンの極楽に行けるのだ。むしろ恵まれているのかもしれない。うらやましくはないが。とりあえず銭湯で働くことを告げると、同居人の雛菊はえらく怒っていた。
「ダメです! ダメです! 銭湯で働いたら、番台に座ったり、女湯に入ったり、背中を流してくださいなんて言われたらどうするんですか!」
何を言ってるんだ、こいつは。そんなバイト先は、興味がないわけではないがとても高校には相談できない。オレはスケベをそこまでオープンにはしていないのに変態まっしぐら、隠していたって誰かが嗅ぎつけて噂になり女子に村八分にされてしまう。だからそんな仕事先は、あってももう少し人生なんてどうでもいいと達観しなければ行こうと思わない。銭湯とは何かを知らないのだろうか。彼女は大正時代に生きていた人なので、むしろ銭湯文化のまっただ中、毎日行っていたとしても別におかしくはないが、案外大正時代にはまだなかったのだろうか。江戸時代にはあったと聞くけど。実際には空の湯船をデッキブラシで磨く仕事なので、そんなことは起こらない。そう言ってなだめていたら、そのうちわかってくれた。三日くらいかかったかな。
初出勤の日は「私も行っていいですか?」と聞かれたので連れてきた。これが会社だったら大問題だが、銭湯は営業時間中なら小銭を払えば誰でも出入りできるスペースな上に、雛菊は幽霊なので誰にも見えないし、いることも知らない。あくまで理論上だが、いたっていないのと同じだし。むしろ「連れてきたけどいいですか?」なんて言ったら即日「もう来なくていいからね」と言われて腕のいい医者でも紹介されるかもしれない。通院する金はないので、黙っておいた。
デッキブラシで湯船をこすっていく。更衣室とともに、土日でそれぞれ男湯と女湯を掃除する。軽い掃除は随時しているが、週末には開業前に入念にきれいにしておくそうだ。イメージよりハードなので働き手がいなかったという。オレは実家でよく風呂掃除をしていたから段取りは心得ている。むしろお袋が風呂掃除をしていたことはあっただろうかと思うが、まあ覚えていないだけでやっていたのだろう。どの家庭でもお袋ってだいたいするらしいし。
「うわあ! モダンな絵ですね!」
雛菊が壁の絵を見て感心していた。普通に富士山を描けばいいのに、ちょっと奇をてらって変わった山を描いた結果、ものすごく地味な仕上がりになっているように見えるが、わかる人にはわかるのだろう。雛菊にそんなことがわかるなんて微塵も知らなかったし、思わなかった。でもわかるんだな。……わかるんだよな? 別にほっといてもいいけど一応聞いてみた。
「どの辺がモダンなの?」
「えーと……」
……沈黙。雛菊はそもそもモダンという言葉の意味を知っているのだろうか。知っているならもう少しこじつけられると思う。真剣に考えて固まっている雛菊に「知らないことは考えてもわからない」という真理を教えると「そうですね!」と言っていたので、その後は無視して掃除に打ち込んだ。その日の帰り際、銭湯のおじさんに思ったよりも手際がいいと褒められた。初日だから終わらないと思っていたら、少し早めに終わったから驚いたらしい。そりゃ、これくらいはできますよ、と答えて上がろうとすると、一つだけ注意された。独り言が多い。会話をしているみたいでちょっと怖かったそうだ。……ごもっともです。気をつけます。
大変にありがたいことに、大量の汗をかく夏の前にバイトを始めたので、夏場は困らなかった。そればかりか、現金収入というおまけがついてくる。世界広しといえども、働いた末の現金収入をおまけだと思う高校生はオレだけだろう。でも、第一は風呂の確保。ついでにお金が入るから一石二鳥だ! 実に理にかなった考え方だと思う。毎月20000円ほどの高額。お金の価値は人によって様々だが、オレには目もくらむような大金だ。こんな額があれば、贅沢し放題! 一回の洗濯で洗剤を一回分使えるし、部屋に扇風機だって置ける! 隙間風を防ぐダンボールをベニヤ板にだって変えられる! お金の価値が人それぞれなのと同じで、贅沢の基準も人それぞれなので間違えないように。なんて贅沢なんだ。
夏をしのいで、冬が迫ってきた。ある日、雇い主のおじさんが神妙な様子で話しかけてきた。なんでも、近くにスーパー銭湯が開業して、客足が激減。もう経営難らしく、バイトに来てもらうのも難しいそうだ。オレは慌てておじさんを説得した。そんな! これからってときじゃないですか! その言葉に嘘偽りはない。これから冬なのでいよいよ風呂が必要になってくる。むしろ夏よりも需要が高いかもしれない。だから、オレは冬に向けて風呂が確保できたことを何より喜んでいたのだ。だから、これからってときにやめないでください! と主張した。語弊があった気もするが、おじさんは喜んでくれたので別にいいだろう。おじさんは仕方ないよ、来月まではやってるから、と言い残した。
ネットで近所のスーパー銭湯を調べてみた。一度行ってみないといけない。今行っている銭湯が潰れてからでは、どんな銭湯かわからないのに行かないといけない、という状況が発生する。今なら選択の余地があるかもしれないから、一度見に行こうと思ったが……高い。風呂とは当たり前に入っている割に、贅沢であるという価値観はみんな持っていると見える。でなければお湯を求めてこんな額は払うまい。それでも、風呂なんていらねえや、とは言えない。青春謳歌中の高校生なのにくさいなんて言われたらたまらない。そんなこと言うのは最低だ、とどれだけ相手を非難したくても、オレの場合は本当にくさくて相手がくさいと言っているのだから、たぶん相手に非はないだろう。言い返すこともできないので風呂に入って予防しなければいけない。だから、一度行ってみることにした。
最低限の荷物で少し離れた銭湯まで歩く。みんなはこの距離なら電車を使うのだろうが、そんなの贅沢だ。一回行ってみるだけだからてくてく歩いた。駅を三つほど通り過ぎ、結構豪華なスーパー銭湯に着いた。そして、それを見て一言。
「うわあ! すごい! お城みたい!」
もちろん言ったのはオレではなく雛菊だ。雛菊は風呂なんて入らないと聞いていたので、じゃあ行ってくるよ、と家を出たらずっとついてくる。バイト先の銭湯は遠慮してもらっているのだが、今回は違うからいいですよね! というのが雛菊の言い分だ。まあ、そうだが……なんだか嫌なのはなんでだろう。
まあ、別に風呂に入って帰るだけだし、特別なことはないから、金を払って鍵を借り、脱衣所で服を脱ぐ。上を脱いでズボンに手をかける。ふと気がつくと、雛菊が見ていた。……何見てんの? と聞くと、気にしないでください! とやたら大声だ。周りの人がキョロキョロしているので、聞こえていたんじゃないだろうか。ここは男湯だからと言ったのだが、ぜひ背中を流したいらしい。まあ悪気はないのだろうと思っていたら、何もしませんから! と付け加えられて急に怖くなった。何もしないんだな? じゃあ顔が赤い理由を言ってみろ。あと、よだれをふけ。さすがに汚いから。どう理屈を説いても全然納得しないのに、オレは風呂では女湯に入ろうというくらい慎みのある女性が好きなんだ、と言うと飛んでいった。言われなくても当たり前のことだと思うが、初めて知ったらしい。どんな女性でも堂々と男湯に入ってきたらみんな引くだろう。今日で学んで覚えておくように。
だだっ広い風呂、風呂、風呂。何かの花でも入っているらしいが、花を入れたからってこんな炭酸飲料みたいな色になるのだろうか。炭酸飲料は色素を取ると透明になるが味は同じらしい。でも、きっと視覚効果がついてみんな気分がいいのだろう。なぜか企業側の言い分を考えて、風呂に浸かる前に身体を洗う。すると、背筋がヒヤリ。ひっ! と声を上げて目の前の鏡を見ると、雛菊が映っていた。
「大丈夫ですよ、鏡にしか映ってないんで」
そうか、なるほど。それは余計に怖いだろう。何をしに来たのかと思えば、サウナって何ですか? と聞いてきた。女湯で見たらしい。中に入って汗をかくと気持ちいいらしい、とざっくり教えるとなんで? どうして? の質問攻め。いいから女湯に戻れ。あとで教えるから。顔が赤くてにやけてるのも怖い。幽霊じゃない意味で怖いから。オレは女性は女湯に入ろうという人の方が素敵だと思う、と言うとまた飛んでいった。……すごい攻略法だ。これからちょくちょく試そう。
風呂から上がってもう帰ろうかと思っていると、雛菊が何かを見ている。クレーンゲームとか、エアホッケーの手前にある売店。観光地でもないのに土産物売り場を作って誰が買うんだろうと思うが、結構賑わっているのでみんな買うらしい。商売とは奥が深い。雛菊が見ていたのは、キーホルダーだ。地味な上に小さい。どうしたの? と聞くと、父親が大事にしていた根付に似ているらしい。子供の頃に触っていて怒られたが、大人になったらあげるから、と聞いて楽しみにしていたのだそうだ。雛菊は懐かしむようにキーホルダーを見ていた。
「……欲しい?」
聞いてみると答えづらそうだ。言いにくいということは、欲しいのだろう。それなら、と雛菊の持っていたキーホルダーを手に取ってレジへ。……600円。どこにそんな価値があるのだろう。もう一回風呂に入れる額だ。きっと原価率が良くて、利益を生みやすいドル箱商品だ。一人なら絶対に買わない。でも渡された雛菊が、なんだか嬉しそうにしていた。600円か。そんなに嬉しいなら、出したらいいか。
スーパー銭湯自体は別になんということのない風呂なので、いよいよとなったら行くだろうが他にも手はないか……と思ってバイト先に風呂をもらいに行くと、いつもの銭湯が大盛況。スーパー銭湯の開業前に戻ったようだ。経営が持ち直し、これならまだしばらく続けられるという。何があったんですか? と聞くと、数日前くだんのスーパー銭湯で怪現象が多発して評判ががた落ちしているという。主に女湯でたくさん起きたそうだ。……何があったかは知らない。真実も知らないし、真相も知らない。でも、これだけは言える。ごめんなさい。




