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妹に婚約者を奪われたので譲りますが、後始末はお断りです~今さら家族ぶられても、こちらから願い下げです~

作者: アトハ
掲載日:2026/03/10

 私の婚約披露の席で、婚約者は妹の腰を抱いていた。


 伯爵家の春の夜会。

 本来なら、七年越しの婚約を披露する私のための席だった。

 花も席順も招待客も、そのために整えられていた。

 ──少なくとも、私はそう聞かされていた。


 けれど壇上の中央に立っているのは私ではない。

 父が何より重く見ていたヴァレントン伯爵家との縁。その婚約相手であるフレデリック・ヴァレントン伯爵令息に寄り添い、恥じらったように微笑んでいるのは、妹のセシルだった。

 父も母も、それを止めない。


「皆さま、本日はお集まりいただき感謝する」


 フレデリックが、グラスを掲げる。

 ざわついていた会場が静まった。


 シャンデリアの光が、セシルの蜂蜜色の髪に絡む。

 まるで、最初から彼女のための舞台だったみたいに、よく似合っていた。

 私だけが、壇上の端に立たされている。



「今宵、皆さまにお伝えしたいことがある」


 客たちの間に期待を含んださざめきが広がる。

 何も知らされていないのは、どうやら私だけではなかったらしい。


 それでも、もう分かってしまった。


 フレデリックが私を見ようとしないこと。

 母が落ち着かなげに扇を開いたり閉じたりしていること。

 父が私にだけ視線を合わせないこと。

 そしてセシルが泣きそうな顔をしながら、少しも怯えていないこと。


 ああ、と胸の内でだけ思う。

 またなのね、と。


「リディア・エヴァンズ」


 名を呼ばれ、私は一歩前へ出た。

 その瞬間、会場中の視線が私に集まる。


「君との婚約を、ここで破棄する」


 はっきりと、よく通る声だった。


 一拍遅れて会場がどよめく。

 義憤でも困惑でもない。思いがけず、上等な余興が始まったとでも言わんばかりの空気だった。


 フレデリックの隣に立つセシルを見て、客たちはすぐに事情を飲み込んだのだろう。扇が開き、笑みを隠した視線が私に集まる。


 七年も婚約していた相手なのだ。

 悲しくないわけではない。それでも、胸の奥に最初に浮かんだのは、悲鳴でも涙でもなかった。


 ――ああ、これで終わるのね。

 そんな、ひどく静かな安堵だった。



「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 私が問うと、フレデリックは予想どおり眉をひそめた。


「理由だと?」

「はい。婚約の破棄には、それなりの説明が必要かと存じますが」

「そういうところだ」


 苛立った声が返る。


「君はいつも正しいことばかり言う。礼儀だ、筋だ、責任だと、そんな話ばかりだ」

「……婚約に関する話ですから、当然では?」

「そうやってすぐ理屈を並べる」


 彼は周囲を見回し、ますます声を張った。


「可愛げがない。男を立てることも知らない。婚約者のくせに私の判断に意見して、伯爵家のことにまで口を出す。そんな女と結婚して、誰が安らげる?」


 ひどい言い草だ。

 けれど腹が立つより先に、妙な納得が来た。


 ──ああ、この人は本気でそう思っていたのだ、と。

 帳簿も契約も予算も、全部「婚約者のくせに口を出す」の一言で片づけられる程度のものだったらしい。


 そこで、セシルが控えめに口を開いた。


「お姉様を責めないでくださいませ、フレデリック様」


 可愛らしく震える声だった。昔から、そういう声の出し方だけは上手かった。


「お姉様はとても立派な方なのです。私なんかよりずっと賢くて、なんでもできて……。でも、だからこそ殿方の気持ちは分からなかったのです」


 はらり、と長い睫毛が伏せられる。


「お姉様はお強いから。誰かに寄りかからなくても、おひとりで何でもできてしまうもの。でも私は、そんな風にはなれません。私は……、いつもこれで正しいのかって不安で……」


 そしてセシルは、ためらうようにフレデリックの袖を掴んだ。


「お姉様なら平気ですわ。昔から、何でもおひとりでできましたもの」

「セシル。あなたは──」


「お父様、お母様……」


 私が口を開いたその時、セシルが不安そうに両親を振り返る。

 すると母は、待っていましたとばかりに前へ出た。


「リディア。もうおやめなさい」

「何を、でしょうか」

「その顔よ。被害者みたいな顔をするのはおやめなさい」

「被害者みたいな、顔」


 ここまでしてでも、私を悪役にしなければ気が済まないらしい。

 胸の奥が、すうっと冷えていく。


「フレデリック様は正直におっしゃってくださったのよ。あなたのためでもあるのよ」

「私のため?」

「そうよ。愛されもしない相手に縋りつくより、潔く身を引く方がまだ見苦しくないわ」


 母は扇を閉じ、きっぱりと言った。


「あなたは昔から真面目すぎるの。女は愛嬌。少しくらい隙があって、甘え上手でなくては愛されないのよ」

「……」

「セシルの方がフレデリック様に相応しいのは、見れば分かるでしょう」


 父も低い声で続ける。


「フレデリック様の心を繋ぎ止められなかったのは、おまえの落ち度だ。ヴァレントン伯爵家との縁がどれほど重要か、おまえにも分かっているはずだ。ここで関係を損ねるような真似は許さん」

「……」

「セシルなら妻にしてもいいと望まれたのだ。お前は賢いのだから、家のために黙って譲ればいい」


 見事なくらい、自分たちの都合しか考えていない。


 けれど不思議と、今さら深くは傷つかなかった。

 今に始まった話ではない。この両親にとって娘とは、自分たちに都合よく動く駒でしかないのだろう。



「承知いたしました」


 私は、表情を見せずに静かにカーテンシーした。

 一瞬、会場が静まった。


「婚約破棄を受け入れます」

「……ずいぶんあっさりしているな」


 フレデリックの声には、なぜか不満が滲んでいた。


「では、どう反応すればご満足でしたか?」

「何?」

「泣いて謝れば良かったのでしょうか。あるいは、セシルに譲りたくないと取り乱せば?」

「そういう言い方が可愛くないんだ!」


 私は小さく息をつく。

 最後まで、話の通じない人だ。


「かしこまりました。では今後は、そうした可愛らしい対応はセシルにお求めください」

「リディア!」

「ただ、ひとつだけ確認してもよろしいでしょうか」


 父が顔をしかめ、母は露骨に嫌そうな顔をした。

 でも、もう止まるつもりはなかった。


「婚約破棄そのものは承知いたしました。では、婚約者として私が預かっていた伯爵家の書類は、今後どうなさるおつもりですか」

「……は?」

「共同事業の帳簿、春の納品契約の更新、秋の慈善茶会の予算案、来月の領地視察の日程調整。引き継ぎが必要なものは少なくありません」

「何の話だ」


 フレデリックが、初めて本気で戸惑った顔をした。


「そんなもの、君が勝手にやっていただけだろう」

「伯爵家の執事長には確認を取っておりましたが」

「聞いていないぞ!」


 知らなかったのだ、この人は。

 しっかり者の婚約者くらいにしか思っていなかった女が、どれだけ自分の足元を整えていたのか。


「まさか、なにもご存じないまま婚約破棄なさったのですか」

「……っ」

「お言葉ですが、何度かご説明はいたしました」

「そんな細かいことまで覚えているものか!」

「左様でございますか」


 周囲の空気が少し変わった。

 面白がるだけだった視線の中に、値踏みするような色が混じる。


 セシルの顔から、かすかに笑みが消えた。


「お姉様……。今は、そんなお話をする場では……」

「そう? でも大事なことでしょう」


 私は初めて、まっすぐに妹を見た。


「これからあなたがフレデリック様の隣に立つのなら、避けては通れないわ。その覚悟があって彼を選んだのでしょう?」


 セシルの唇がひくりと震えた。


「お姉様、ひどい……。そんな風に言われたら、私……」


 セシルがいつものように瞳を潤ませる。

 それだけで父と母は非難するような目を私に向けてきた。

 毎度、飽きもしないでよくやることだ。



 ──そのときだった。


「随分と賑やかだな」


 低く、よく通る声が、広間のざわめきを断ち切った。


 振り向くと、階段脇の柱にもたれるようにして、一人の男がこちらを見ていた。


 黒髪に、夜を思わせる濃い瞳。感情の薄い端正な顔立ち。

 王国北方を治める、アシュレイ・グレンフォード公爵。


 いつから見ていたのだろう。

 その視線は冷静なのに、ひどく温度が低く見えた。


「夜会の場だ。これ以上は、伯爵家の品位に関わる」


 その声に広間が静まり返る。


 けれど次の瞬間、セシルがハッとしたように顔を上げた。

 目元に残った涙を押さえ、怯えたように、それでいて可憐さを崩さない仕草でアシュレイ様を見上げる。


「公爵閣下……。わ、私は……」


 昔からセシルは、ああいう顔で欲しいものを手に入れてきた。

 けれどアシュレイ様は、セシルには一瞥もくれなかった。

 それどころか私の元に歩み寄り、


「こちらへ」


 その声は低く静かだったのに、逆らえない強さがあった。


「失礼いたしました」


 私は深く一礼した。

 アシュレイ様の差し出した手を取り、壇を下りる。

 もうこの場にいる意味はない。


 背中にいくつもの視線が刺さる。

 でも振り返らず、そのまま大広間を抜けて中庭へ出た。


 夜風が頬に触れた瞬間、ようやく息ができるようになった気がした。


「……やっと、終わった」


 思った以上に疲れていた。

 それでも、不思議と清々しい気持ちだ。


 私は七年間、ヴァレントン伯爵家に相応しい婚約者でいようと努めてきた。

 礼儀作法も、帳簿も、社交も、領地経営の勉強も。彼の足を引っ張らないように、少しでも支えになれるようにと。


 けれどフレデリックが欲しかったのは、意見を言う婚約者ではなかった。

 甘えて、頼って、褒めてくれる女だった。


「ようやく、解放してくれたってところかしらね」

「同感だ」


 低い声が、すぐ傍から落ちてきた。

 振り返ると、アシュレイ様が静かにこちらを見ていた。


「お見苦しいところをお見せしました」

「見苦しくはなかった」

「ですが……」

「泣かなかったからといって、平気だったとは思わない」


 息が止まった。

 弱みを見せたつもりはない──それでも、私が平気ではないと見抜く声だった。


「なぜ、このような事を?」

「……見ていて腹が立っただけだ。あの場で君だけが、最初から最後まで一人だった」

「……」

「少なくとも、娘にする扱いではない」


 その一言は、胸の奥に静かに沈んでいった。

 私が返す言葉を見つけられずにいるうちに、アシュレイ様は外套を脱ぎ、それを私の肩にそっと掛ける。


「……ありがとうございます」

「礼は不要だ」

「ですが……」

「今夜、君をあの家に戻す気はない」


 低い声は静かなのに、有無を言わせない強さがあった。


「馬車を回してある。王都の別邸だ。侍女もいる」

「……どうして、そこまで?」

「今の君を、あの家族のところへ返したくない」


 あまりにもまっすぐで、返す言葉が見つからなかった。


 実家へ戻れば、また父と母が待っている。

 何事もなかったように、妹を思いやれと諭されるだけだろう。



 ──想像するだけで、うんざりした。


「……少し休んでから、考えてもよろしいでしょうか」

「構わない」


 短い返事だった。

 けれど、それで十分だった。


「……では、お言葉に甘えます」


 私がそう言うと、アシュレイ様は小さく頷いた。

 余計なことは何も言わない。ただ当然のように隣へ並び、歩幅を合わせてくれる。


 馬車の中でも、アシュレイ様はほとんど何も聞かなかった。慰めの言葉を並べることもなく、ただ静かに向かいに座っていた。

 その沈黙が、今の私にはありがたかった。




***


 その夜は、アシュレイ様の厚意に甘えて王都の別邸で休ませてもらった。

 勧められるまま湯を使い、柔らかな寝台に身を沈めた途端、張りつめていたものが切れたように眠りに落ちた。誰にも責められず、何も求められないまま眠ったのは、ひどく久しぶりだった気がする。


 翌朝、目を覚ますと、侍女は困ったようにこう言った。


「アシュレイ様からは、気が済むまでお休みいただくようにと。むしろ、お引き止めしろと仰せつかっております」

「お気持ちはありがたいです。ですが、やらないといけないことがあるのです」


 一晩休んだおかげで、頭も気持ちも昨日よりはずっと冷えていた。

 何もかも向こうの都合で決められたまま終わるのは、許せなかった。



 その日のうちに、私は実家へ戻った。


 案の定、屋敷の空気は冷え切っていた。

 帰るなり応接間へ通され、労わりの言葉ひとつなかった。


「ずいぶん勝手なことをしてくれたわね」


 最初に口を開いたのは母だった。


「セシルとフレデリック様の大事な発表のあとに、あなたがあんな顔で消えるから、どれだけ周りに気を遣わせたと思っているの」

「……私の婚約披露の場でもあったはずですが」

「終わったことを、いつまでも引きずらないでちょうだい」


 終わったこと。ずいぶん便利な言葉だと思う。

 七年の婚約も、あの場で受けた侮辱も、この人たちにとってはもう片づいた話らしい。


 父も低い声で続けた。


「これ以上の恥をさらすな。家のためを思うなら、素直に祝福するべきだったな」

「家のため、ですか」

「どうせお前にはヴァレントン伯爵家は向いていなかった。むしろ、ああして早いうちに話が収まって良かったと思え」

「……左様でございますか」

「何だ、その言い方は」


 責めるような目が向けられる。


 ――どうして私は、こんな人たちにどう思われるかを気にしていたのだろう。

 一度どうでもよくなると、目の前の茶番が馬鹿らしく見えた。


「……いえ。よく分かりましたので」


 私が無感情にそう答えると、父と母は露骨に眉をひそめた。


「分かったのならいいのよ。セシルも繊細なのだから、今後は余計な刺激を与えないでちょうだい」

「刺激? 事業の引き継ぎは必要かと思いますが」

「余計なことはしないでと言っているの。事業だなんて、どうせ嫉妬で口からでまかせを言っただけでしょう」


 昨日、あれほど大勢の前で婚約を破棄されてもなお、私が悪いことになるらしい。

 笑ってしまいそうだった。



 翌日、一通の手紙が届いた。

 差出人を見た瞬間、私は息を呑む。


 アシュレイ・グレンフォード公爵からだった。


『突然の手紙を許してほしい。

 率直に申し上げる。リディア嬢、私と結婚していただけないだろうか』


 私はしばらく、その一文を見つめたまま動けなかった。


「……結婚?」


 読み返しても、文面は変わらない。


『昨夜の君を見て、確信した。

 理不尽に軽んじられながら、君は品位を失わなかった。

 だが、強くあろうとする人間が傷ついていないはずもない。私は、君があのような場所へ戻るべきだとは思わない。


 結婚の返事を急がせるつもりはない。

 ただ、君があの家を離れたいと望むなら、身を落ち着ける場所はすぐに用意できる。

 そのうえで願えるのなら、君に私の伴侶になってほしい』


 胸の奥が、静かに熱くなった。

 飾りのない言葉なのに、不思議なほど真っ直ぐだった。



 ノックもなく扉が開いたのは、そのときだった。


「リディア、少しよろしいかしら」


 母が入ってきて、私の手元の便箋に目を留める。


「……それ、どなたから?」

「グレンフォード公爵閣下です」

「公爵閣下?」


 母の表情が変わった。


「何のご用件で?」

「求婚されました」

「……は?」


 母の手から扇が滑り落ちそうになる。


「きゅ、求婚ですって? どうしてあなたに?」

「理由は手紙に書かれております」

「そんな、まさか……」


 信じられないと呟きながら、母はひったくるように手紙を見ようとした。

 私は、するりと便箋をたたんで避ける。


「お見せする必要はありませんわ」

「あなた、何を──」

「私宛の手紙ですもの」


 昼には父も知った。夕方には当然のようにセシルも知った。

 そして、屋敷の空気は驚くほどあっさりと変わった。


「リディア、お前は昔から慎み深くて良い娘だった」

「そうよ。落ち着いたところが、むしろ公爵様には好まれたのかもしれないわね」


 昨日まで私を家の恥のように扱っていたのが嘘のようだった。

 セシルも可愛らしく微笑んだ。けれど、目の奥だけは少しも笑っていない。


「公爵家との縁が結べれば、家の格も一段上がる」

「北方との繋がりもできますものね」

「支度金の話も早めに進めるべきだな」


 話題は、グレンフォード家がエヴァンズ家になにをもたらすのかということばかりだった。

 本人を蚊帳の外に、よくぞそこまで盛り上がれるものだ。


「返事はまだしておりません」

「何を迷う必要がある!」


 父が身を乗り出す。


「グレンフォード公爵家だぞ。これ以上ない縁談ではないか」

「そうよ。ありがたく受けるべきだわ」

「家のためにも、必ず受けなさい」

「家のため?」


 私が聞き返すと、父は不快そうに眉をひそめた。


「当然だろう。お前はエヴァンズ家の娘だ」

「昨日の時点では、私は家の恥だったはずですが」

「リディア!」


 母が甲高い声を上げる。


「そんな言い方をするものではありません。私たちはあなたの将来を思って──」

「将来を?」

「そうよ。公爵家に見初められるなんて、普通なら望んでもない幸運なのよ」


 その声は優しいふりをしていたが、その実、必ず受けろと急き立てているだけだった。


「ご心配なく」


 私は薄く笑みを浮かべる。


「今回は、私の意思で決めます」

「リディア!」

「私は一度、家の都合で婚約し、家の都合で切り捨てられました。次まで家の都合で決められるつもりはありません」


 ――アシュレイ様からの求婚は驚いた。

 正直に言えば嬉しい。


 あの人の言葉は、ちゃんと私を見ていた。

 だからこそ、軽い気持ちでうなずくわけにはいかなかった。


 結局、その日のうちに私は返事を出さず、まず一度お会いして話したいと公爵家へ手紙を送った。




***


 三日後、王都のグレンフォード公爵邸を訪れた。


 通された応接間は、上質なのに嫌味がなかった。

 豪華さを誇るというより、住む人間が余計なものを好まないのだと分かる部屋だった。


 やがて現れたアシュレイ様は、夜会のときと同じく無駄のない立ち姿のまま、私の向かいに腰を下ろした。


「来てくれて感謝する」

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」


 挨拶を終えると、私はすぐに本題へ入った。


「率直にお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「もちろんだ」

「なぜ私に求婚なさったのですか」


 アシュレイ様は、一切視線をそらさなかった。

 けれど、すぐには答えなかった。


「うまく言える自信はない」

「……」

「それでも聞くか」

「はい」


 短い沈黙のあと、アシュレイ様は静かに口を開いた。


「あの夜、君をあの場に残して帰る気になれなかった」

「……」

「なぜそう思ったのかは、あとから分かった」

「後から?」

「先に体が動いた。そういうことは、今までなかった」


 整えた言葉ではなかった。

 それでも、ごまかしはなかった。


「それが求婚の理由、ですか?」

「いいや、あれは始まりだ」

「始まり」

「ああ」


 アシュレイ様はわずかに目を伏せ、それから続けた。


「以前から、君がヴァレントン家のことをよく支えているとは聞いていた。だが、知っていたつもりだっただけだ」

「……」

「あの夜、実際に見た」

「何をでしょう」

「君が、誰かを引きずり落とす方へ行かなかったことだ」


 息をするのを忘れた。


「理不尽に侮辱されて、黙っていられない人間もいる」

「はい」

「泣いて訴えることもできた。他の誰かを悪者にして、その場をひっくり返すこともできた」

「……」

「だが、君はそうしなかった」


 低い声は静かだった。

 責めるでもなく、褒めそやすでもなく、ただ事実のみを告げるような言い方だった。


「それは、そうするしかなかっただけです」

「かもしれない」

「……なら、それは褒められるようなことではありません」

「それでも、できる人間ばかりではない」


 私は答えられなかった。


「あれを強さと呼ぶのは、少し違う気がする」

「では、何だと思われたのですか」

「品位だ」


 その一言が、思いのほか深く胸に落ちた。


 笑われるか、哀れまれるか、そのどちらかだと思っていた。

 あの夜の私を、そんなふうに見ていた人がいたなんて。


「……」

「だが、品位があることと、踏みにじられ続けることは別だ」


 私は思わず顔を上げた。


「私は、軽んじられてもいい人間に見えましたか」

「見えない」

「……」

「だから、あのままにはしておけなかった」


 あまりにも真っ直ぐで、私は一瞬言葉を失った。


「ですが、助けるだけなら別邸に泊めるだけでも十分だったはずです」

「そうだな」

「では、どうして……」

「手放したくないと思った」


 今度こそ、息が止まった。


 アシュレイ様はわずかに眉を寄せた。

 自分で口にしておいて、その重さを測りかねているようにも見えた。


「私は社交の場で気の利いた言葉を並べるのは得意ではない」

「はい」

「だが、君を軽んじるつもりはない。それだけは約束できる」

「……」

「君があの家を離れたいと望むなら、まず居場所を用意する。そのうえで、私を選ぶかどうか考えてくれればいい」


 やはり不器用だと思った。

 求婚の言葉なのに、先に逃げ道を用意してしまうあたりが、この人らしい。


「普通は逆ではありませんか」

「逆では困るのか」

「いいえ。ただ……」

「ただ?」

「ずいぶん不器用な方なのだと思いまして」

「否定はしない」


 真顔で返されて、私は小さく笑った。

 するとアシュレイ様の目元が、ごくわずかにやわらぐ。



「君は……笑った方がいい」

「え?」

「その方が、いい」


 今度は私が黙る番だった。

 そんな私を見て、アシュレイ様はわずかに視線を逸らした。


「……今のは、忘れてくれ」

「忘れられません」

「そうか」

「はい。……ありがとうございます」


 こんなふうに、肩の力を抜いて話せたのはいつぶりだろうと思った。

 この人の前では、必要以上に身構えなくていいのかもしれない。


「ひとつ、よろしいでしょうか」

「何だ」

「もし私が、あなたの求婚を断ったとして──」

「……ああ」

「後悔なさいますか?」


 アシュレイ様は少しも迷わなかった。


「する」

「……そうなのですね」

「だが、それでも無理に頷かせる気はない」


 その答えが、なぜだか嬉しかった。


 この人となら、少なくとも軽んじられることはない。

 救われるためではなく、自分の意思で隣に立ちたいと、初めて思えた。


 その場で返事はしなかった。

 けれど帰る頃には、心はかなり決まっていた。




***


 グレンフォード公爵との婚約は、王都で大きな話題になった。


 フレデリックは感情に任せて婚約を破棄した。

 セシルは姉の婚約者を奪った。

 エヴァンズ伯爵夫妻は長女を守らなかった。

 そして何より、あの夜、私が口にした帳簿や契約の話が、じわじわと広がり始めていた。


 春の納品契約に不備が見つかり、共同事業の支払いが滞る。

 慈善茶会の準備も進まず、ヴァレントン伯爵家の執事長が何度もエヴァンズ家へ確認に来た。

 私が当然のように引き受けていた書類整理も、日程調整も、先方との細かな折衝も、丸ごと抜け落ちたからだ。


 当たり前と思われていたことは、なくなってからようやく重さが知れるらしい。



 実家を出る前の最後の日、ついにセシルが声を荒げた。


「どうしてこんなことになるのよ!」


 泣きそうな目をしているのに、そこに宿っているのは可憐さではなく苛立ちだった。


「お姉様がいなくなっただけでしょう!? 帳簿だの契約だの、そんなの執事たちにやらせればいいじゃない!」

「それで回るなら、最初からそうしていたでしょう」

「何よ、その言い方!」

「……セシル。今回の件は、欲しいものだけ手に入れて終わりにできる話ではないの」


 セシルが息を呑む。


「私はただ、選ばれただけよ!」

「ええ」

「私は悪くないわ! 好きになられただけじゃない!」

「選ばれたのなら、その結果くらい引き受けなさい」


 セシルの目にみるみる涙が溜まる。


「どうしてそんな言い方をするの……」

「初めて責任がついてきたから?」

「お姉様ばっかり……!」


 そのとき、父が苛立った声を上げた。


「もういい、二人とも。リディア。出ていく前に引き継ぎくらいはしていけ」

「なぜです?」

「家族だからだ!」


 私はしばらく父の顔を見つめた。


「婚約を破棄された翌朝、お母様は私よりセシルを優先しました。お父様は私を家の恥だとおっしゃった。セシルは私のものを奪って当然だと思っていた。それでも、まだ家族と呼べるのでしょうか」


 母が青ざめた顔で口を開く。


「あなた、それは……言い過ぎよ」

「言い過ぎではありません」

「私たちは、あなたのこともちゃんと……」

「大切にしてくださったと?」

「リディア、どうしてしまったの。あなたは昔はもっと聞き分けのいい子だったでしょう」


 その言葉に、私はほんの一瞬だけ目を伏せた。


「ええ。お母様にとって私は、昔から『聞き分けのいい子』ではなく『都合のいい子』でしたものね」

「……っ」

「私は平気だったのではありません。我慢していただけです。……家族でいたかったのは、私の方でした」


 その言葉で、部屋がしんと静まった。


「さようなら。……安心してください、恨んではいませんから」

「……それなら!」

「ただ、もう戻りません」


 私は静かに立ち上がる。


 母の慌てたような声が追ってきた。

 けれど、私は振り返らなかった。


 もう、この人たちに私の行き先を決めさせるつもりはない。




***


 グレンフォード公爵領へ移ってから、私は少しずつ領地の仕事を手伝うようになった。


 帳簿の見直し、寄付の配分、学校運営の補助、医療院の支援。

 やることは多かったが、不思議と苦ではない。


 何よりアシュレイ様は、私をきちんと対等に扱ってくれた。


「この案についてはどう思う」

「費用はかかりますが、長い目で見れば必要です」

「君もそう思うなら進めよう」


 意見を聞かれ、説明を受け、判断を任せられる。

 それだけのことが、こんなにも嬉しかった。


 視察の帰り際、学校の教師が深く頭を下げた。


「奥様、この前の学校の件、本当にありがとうございます」

「……奥様、という呼び方には、まだ慣れませんね」


 思わずそう返すと、教師は少しだけ困ったように笑った。


「ですが、皆そう思っております。新しい机も本も、子どもたちは本当に喜んでおります」

「いいえ。現場の声を聞かせていただけて、こちらこそ助かりました」


 今度は医療院の職員が続ける。


「備品も揃って、熱病の子にもすぐ対応できるようになりました。感謝しております」

「私ひとりの力ではありませんわ。必要なものを教えていただけたからです」


 そう答えながらも、胸の奥がじんわりと温かかった。


 ここでは、私の手が届いた先で、ちゃんと誰かが助かっている。

 そう思えた。



 ある雪の日の夜、執務室で書類を片づけていると、アシュレイ様が温かい紅茶を置いてくれた。


「少し休もう」

「ありがとうございます」

「君は頑張りすぎる」

「そんなことは」

「ある。疲れている顔をしている」


 しばらく静かな時間が流れる。

 窓の外では雪が音もなく降り続けていて、執務室の灯りだけが、そこだけ別の季節みたいに温かかった。


 アシュレイ様が椅子に腰を下ろし、私を見た。


「聞きたいことがある」

「何でしょう」

「君は今、幸せだろうか」


 思いがけない問いだった。

 けれど、答えに迷いはなかった。


「はい」


 そう返すと、アシュレイ様はほんのわずかに息をついた。

 安堵したのだと、顔を見るまでもなく分かった。


「私の幸せを、そんなに気にしてくださるのですね」

「気になる」

「どうしてですか」


 アシュレイ様は少し黙った。

 視線が、机の上の書類へ落ちる。

 けれど逃げるようには見えなかった。ただ、言葉を探しているだけだった。


「君に嫌われたくないからだ」


 胸の奥が、どくりと鳴った。


「……嫌うわけがありません」

「それは分からない」

「分かります」

「分からない」


 珍しく言い切るように返されて、私は目を瞬いた。

 アシュレイ様は少しだけ眉を寄せる。


「私は、君の前でいつでも正しいことばかり言える人間ではない」


 その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。


「……アシュレイ様」

「何だ」

「それは、どういう意味ですか」


 問い返す声が、思ったより小さくなる。

 アシュレイ様はしばらく私を見つめ、それから低く言った。


「君を前にすると、思っていたより理性が利かない」


 息が止まった。


「あの夜も、そうだった」

「……」

「君をあのまま帰したくなかった」


 たったそれだけの言葉なのに、胸が詰まる。

 苦しいのに、少しも嫌ではなかった。


「もしまだ、君に無理をさせているのなら言ってくれ」

「無理なんて」

「していないと言い切れるか」

「……少しは、しているかもしれません」

「やはりな」


 低い声に責める色はなくて、私は小さく笑った。


「でも、前とは違います」

「何が」

「ここでの我慢は、失わないためのものではありませんから」

「……」

「頑張りたいから、頑張っているのです」


 アシュレイ様が、じっと私を見る。

 その視線がまっすぐすぎて、今度は私の方が先に耐えられなくなった。


「そんなふうに見ないでください」

「なぜだ」

「……困るからです」

「困っているのは私の方だ」


 思わず顔を上げると、アシュレイ様は本気でそう言っていた。


「君は、時々ひどく無防備だ」

「そうでしょうか」

「そうだ」

「そんなつもりはないのですが」

「なら、なお悪い」


 真顔のまま言われて、とうとう私は吹き出してしまった。

 アシュレイ様は一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ目元をやわらげる。


「……やはり、君は笑った方がいい」

「またそれをおっしゃるのですね」

「本当のことだ」


 不意に、胸の奥の緊張がほどけた。

 この人の前で笑っている自分が、少しだけ好きだと思えた。


「アシュレイ様」

「何だ」

「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」

「言ってみろ」

「私が、まだ誰かを好きになる余裕がない人間だったら、どうなさるおつもりだったのです」


 アシュレイ様は答えるまでに、ほんの少しだけ間を置いた。


「待つつもりだった」

「どれくらいですか」

「必要なだけ」

「ずいぶん気の長いお話ですのね」

「そうでもない」

「そうでもない?」

「待つだけで済むなら、安い」


 冗談でも気障でもなく、本気で言っているのだと分かる声だった。


 どうしてこの人は、こういうところだけ迷いがないのだろう。

 ずるい。


「ずるいです」

「何がだ」

「そんなふうに言われたら」

「……」

「好きになってしまいます」


 言った瞬間、自分で何を口にしたのか分かって、顔が熱くなった。

 逃げるように視線を落としかけた、そのときだった。


 大きな手が、そっと私の頬に触れた。


 反射的に顔を上げる。

 アシュレイ様の指先は驚くほど優しくて、けれど逃がす気のない手つきだった。


「今さら下を向くな」

「そんなことを言われても……」

「言ったのは君だ」

「はい……」

「なら、私も遠慮しない」


 胸が、痛いほど鳴る。


「君はもう、譲らなくていい」

「……」

「欲しいものがあるなら、欲しいと言えばいい。ここでは、それを我慢しなくていい」


 その言葉に、胸の奥のどこかがほどけた。

 ずっと固く閉じていたものが、静かにひらいていくみたいだった。


「では……」


 喉が震える。

 それでも、今だけは言わなければいけないと思った。


「では、あなたが欲しいです。アシュレイ様」


 一瞬、空気が止まった。


 アシュレイ様は目を閉じるでもなく、逸らすでもなく、ただ困ったように私を見つめる。


「そんな顔で言うな」

「どんな顔ですか」

「……これ以上、理性が利かなくなる顔だ」


 あまりに率直で、笑いそうになる。

 けれど次の瞬間には、泣きたくなるほど嬉しかった。


「我慢なさらなくて結構です」

「本気で言っているのか」

「冗談でこんなことは申しません」


 その答えを聞いたアシュレイ様が、ゆっくりと私を引き寄せる。

 強い腕なのに、壊れものを扱うみたいに丁寧だった。


 額が肩口に触れる。

 そのまま抱き締められて、私はそっと目を閉じた。


「……困った」

「何がですか」

「もう、手放せそうにない」


 胸の奥が、いっぱいになる。


「手放さないでください」

「言われなくても、そのつもりだ」


 低い声がすぐ耳元で響く。

 それだけで、どうしようもなく満たされる。


 やがて、アシュレイ様がほんの少しだけ身を離した。

 触れるか触れないかの距離で、私を見る。


 許しを求めるような目ではなかった。

 でも、私の拒絶だけは見逃すまいとする目だった。


 だから私は、自分から少しだけ顔を上げた。


 次の口づけは短く、けれど胸が震えるほど甘かった。

 唇が離れたあとも、アシュレイ様の手はまだ私の頬に触れている。


「……愛している」


 今度は不思議と、ためらわずに答えられた。


「私も、お慕いしています」


 その言葉に、アシュレイ様はほんの少しだけ目を細めた。

 それが、この人の精いっぱいの笑みに見えて、私はまた笑ってしまった。




***


 春が近づいた頃。

 学校への寄付金の配分を見直していた私に、侍女が一礼して告げる。


「奥様、エヴァンズ伯爵夫人とセシル様、それからヴァレントン伯爵令息がお見えです」

「……そう」


 厄介な顔ぶれが揃ったものだと思った。

 侍女も困ったように目を伏せた。


「お約束はないそうですが、どうしても奥様にお会いしたいと」


 ちょうどそのとき、向かいにいたアシュレイ様が静かに口を開いた。


「会いたくないなら断る。ここは君の家だ」

「……いいえ、会います」


 少しだけ考えてから、私は頷いた。


「きちんと終わらせたいのです」

「分かった。無理はするな」


 アシュレイ様は私を見つめ、それから小さく頷いた。


 応接間へ入ると、母がいかにも安心したように立ち上がった。

 セシルは沈んだ顔で座っている。フレデリックはその隣で、硬い表情のまま口を閉ざしていた。


「リディア! よかった、元気そうで」

「……本日はどのようなご用件で?」


 私は勧められるまま腰を下ろし、最初から用件を促した。

 母の笑みがわずかに引きつる。


「そんなに構えなくてもよろしいでしょう。わたくしたちは家族なのだから」

「用件をお願いします」


 きっぱり言うと、母は視線を泳がせ、それから諦めたように息をついた。


「少しだけ、手を貸してほしいの」

「何に、ですか」

「ヴァレントン伯爵家との書類のことや、春の催しの調整や……その、いろいろと」


 私は静かに母を見た。


「謝罪のためにいらしたのではないのですね」

「謝罪?」

「私を婚約披露の場で切り捨て、今になって助力を求める。まず言うことがあるのでは、と伺っているのです」

「家族の間で、そんな昔のことを蒸し返すものではないわ」


 母は少し不快そうに言った。


「終わった話でしょう」

「私にとっては終わったからこそ、いまここでお断りしているのです」


 セシルが、慌てたように口を挟んだ。


「お姉様、そんな言い方なさらないで。わたくしたち、本当に困っているの」

「そうでしょうね」

「少し見てくださるだけでいいのよ? お姉様なら、こういうことはすぐお分かりになるでしょう?」


 昔と同じだった。

 欲しいものがあるときだけ、甘く縋るような声を出す。


「お断りします」

「どうして……?」

「私はもう、あなたたちの後始末をするつもりはないからよ」


 セシルの目が揺れる。

 母がたしなめるように眉を寄せた。


「後始末だなんて、人聞きの悪いことを」

「違いますか?」


 私は問い返した。


「欲しいものだけ手に入れて、整えるのは私の役目。ずっとそう思っていらしたのでしょう」


 母が言葉に詰まる。

 その隣で、セシルの顔がわずかに強ばった。


「お姉様、そんなつもりじゃ……」

「では、どんなつもりだったの?」


 まっすぐ問うと、セシルは答えられなかった。


 私はそのまま静かに言葉を重ねる。


「婚約披露の夜、私は申し上げたはずよ。あなたが彼の隣に立つなら、避けては通れないものがあると」

「わたくしは……」

「でも、あなたは婚約者だけを欲しがって、その隣に立つ責任の方は見ようとしなかった」


 セシルの唇が震える。


「そんなこと……」

「違うの?」


 小さく首を傾げると、セシルの目にみるみる涙が溜まった。


「だって……わたくし、本当に困っているのよ……!」

「ええ」

「お姉様がいなくなってから、何もかもおかしくなったの! 書類も予定も分からないし、屋敷の者たちも気が利かないし、お父様もお母様も苛立っていて……っ」


 そこでとうとう、セシルは取り繕うのをやめた。


「どうしてわたくしばっかり、こんな思いをしなくちゃいけないの!? お姉様だって、いつも最後には譲ってきたじゃない!」

「セシル!」

「だってそうでしょう、お母様!」


 頬を赤くして叫ぶその顔には、もう可憐さの欠片もなかった。


「お姉様は昔から何でもできたじゃない! このくらい、少し手を貸してくださってもいいはずだわ! どうして急にそんなに冷たくなるの!?」


 応接間がしんと静まる。

 私はただ、静かに妹を見つめた。


「やっぱり、それが本音なのね」

「……っ」

「欲しがって手に入れるだけ。都合の悪いことは、いつも私に押しつける。昔から何も変わらないのね」


 セシルの目から、大粒の涙がこぼれた。


「お姉様なんて、大嫌い!」

「そう」


 私は淡々と答えた。


「それで結構よ」


 その一言で、セシルは完全に泣き崩れた。

 母は呆然と立ち尽くし、何も言えない。

 フレデリックも、ただ険しい顔のままそれを見ていた。


 私はゆっくりと視線を動かし、フレデリックを見た。


 目が合った瞬間、彼の喉がわずかに動く。

 何か言いたげだった。けれど、言葉にならないらしい。


「……リディア」


 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「何を今さら」


 眉を寄せるフレデリックに、私は淡々と告げた。


「惜しいのは私ではなく、私の便利さでしょう」


 その一言に、フレデリックの表情が目に見えて歪んだ。


 否定したいのに、できない。

 そんな顔だった。



 ──そのときだった。


「話は終わったか」


 低く静かな声が、扉の方から落ちた。


 振り向くと、アシュレイ様がそこに立っていた。

 その眼差しは、冬の夜気のように冷たい。


「こ、公爵閣下……これは家族の話でして……」

「だから何だ」


 母の言葉を、アシュレイ様は一息で切り捨てた。


「妻が断った。ならば終わりだ」

「ですが、少し力を貸してもらえれば――」

「なぜ妻が、お前たちの後始末を引き受ける必要がある」


 母は言葉に詰まり、セシルは泣き崩れたまま顔を上げられない。

 フレデリックだけが、かろうじて口を開いた。


「これは両家の問題です」

「違うな」


 アシュレイ様の声は低く、揺るがなかった。


「一度は捨てた相手に、今さら都合よく頼ろうとしているだけだ」

「……」

「手放した相手を便利に使えると思うな」


 フレデリックの顔が赤くなる。

 だが、何も言い返せない。


 アシュレイ様は三人を順に見渡し、最後に淡々と言い切った。


「妻を都合のよい駒のように扱う相手に、二度と触れさせるつもりはない」


 応接間は、水を打ったように静まり返った。


 私は静かに立ち上がる。


「お帰りください」


 母が最後の悪あがきのように声を絞り出す。


「リディア……本当に、こんな形で家族を追い返すつもりなの?」

「はい」

「後悔するわよ」

「しません」


 間を置かずに答える。


「あなたたちを失うことより、自分を失う方が、ずっとつらかったもの」


 母は息を呑み、セシルは泣き崩れたまま動けない。

 フレデリックは黙ったまま目を伏せた。


 三人は使用人に促されるようにして、惨めなほど静かに応接間を出ていく。



 ──扉が閉まる。

 ようやく、長くまとわりついていた何かが、完全に断ち切れた気がした。


 小さく息を吐くと、隣にアシュレイ様が立つ。


「疲れたか」

「少しだけ」

「よく言った」

「……はい」


 その短い言葉が、驚くほど胸にしみた。


 アシュレイ様は私の肩をそっと抱き寄せる。


「もう、あれに譲る必要はない」

「ええ」

「君は、ここにいればいい」


 私はその胸元に額を預けた。

 そうしていると、ようやく本当に終わったのだと思えた。



「婚約を破棄されたあの日、私は捨てられたのだと思っていました」

「違う」

「ええ。今なら分かります」

「言ってみろ」


 促されて、私は少し笑った。


「見る目のない人たちが、勝手に手放しただけです」

「その通りだ」


 アシュレイ様は満足そうに頷いた。

 私はその胸元に額を寄せたまま、小さく続ける。


「それでも、あなたに助けられたことは変わりません」

「助けたつもりはある」

「では、私は運よく拾われたのでしょうか」

「違う」


 抱き寄せる腕に、少しだけ力がこもる。


「私は君を同情で迎えたつもりはない」

「では?」

「望んで迎えた」


 その言葉が嬉しくて、私は彼の胸にそっと頬を寄せた。


「私も、ここへ来られて良かったと思っています」

「良かった、だけでは困る」

「困るのですか」

「ああ。もう二度と離す気はない」


 その言葉が、不思議なくらい嬉しかった。

 もう、この人の腕の中で怯える理由は、どこにもなかった。



 私を大切にしない人のために、自分を差し出し続ける必要はなかった。

 あの夜会で、私はたしかにひとつの場所を失った。

 けれどその先で、ようやく見つけた。


 安心して息ができる場所を。

 そのままの私で笑っていられる日々を。

 そして、隣で同じ温度で手を握ってくれる人を。


 もう、誰かのために譲るつもりはない。

 私の幸せは、私が選ぶのだから。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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フレデリックの両親はいないんですかね?ヴァレントン伯爵家との繋がりが重要だとヒロインの父親が言ってるので、現在伯爵家を担っているヴァレントン伯爵と夫人がいるはずですよね。 こういう婚約者の女性が一手に…
真面目で不器用でコツコツ頑張る人達が幸せになるお話が好きです。特別派手な山場やオチがなくても、穏やかな時間を2人で微笑みながらお茶を飲んでいるそんなシーンが一番幸せを感じます。 素敵なお話を、ありが…
馬鹿「可愛いだけじゃ、駄目ですか?」 駄目ですヾ(o´∀`o)ノ
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