第3話:石鹸と熱湯と、私のレシピ
パングラタンの奇跡から数日。
騎士団厨房――通称「鉄の胃袋養成所」の朝は、相変わらず酷いものだった。
床は油と泥でベタつき、鍋にはいつから付いているのか分からない煤がこびりついている。
支給されるのは、相変わらず鮮度の落ちた野菜と、使い道の分からない巨大な肉の塊だけ。
おまけに、ここで働く数人の下級騎士たちは「飯炊きなんて女子供の仕事だ」とばかりに、不貞腐れて最低限の「煮るだけ」の作業しかしていない。
「……うん、最悪ね。これじゃあ美味しい料理以前の問題だわ」
私は腰に手を当てて、煤けた天井を見上げた。
前世の定食屋『幸』では、カウンターの隅から換気扇の裏までピカピカにするのが私の日課だった。
「おーい、アンジェリカ姐さん! 言われた通り、一番いい薪と、隣の牧場から掠めて……いや、買い取ってきたミルク、持ってきましたぜ!」
すっかり私の信者(犬)になったバルカスが、鼻息を荒くしてやってきた。
私は彼に、ビシッと指を突きつける。
「バルカスさん、いいところに。今日からこの厨房のルールを変えるわよ」
「る、ルール? 姐さんが包丁握ってくれれば、それでいいんじゃねえのか?」
「甘いわ! 汚い厨房からは、汚い味しか生まれないの! カイル様や騎士のみんなが、安心して背中を預けられるような『最高の食堂』にする。……そのために、私は今日から『レシピ開発兼、厨房総監督』を名乗らせてもらうわ!」
「そ、総監督……! かっこいいじゃねえか……!」
単純なバルカスを煽てて、まずは大掃除からスタートだ。
嫌がる調理担当の騎士たちに「私の新メニューを食べたければ動け!」と餌をチラつかせて脅……もとい、説得し、厨房全体を熱湯と石鹸で磨き上げさせた。
そこに、書類仕事を終えたカイル様が様子を見にやってきた。
「アンジェリカ……。この騒ぎは一体何だ? 厨房が、見たこともないほど白くなっているが……」
「カイル様、見てて! 今までの『ただ腹を膨らませるだけの場所』は、今日で終わりよ。これからは、食べれば勇気が湧いてくる、最高のレシピでこの団を埋め尽くしてあげる!」
私は昨日から考えていた「改革案」をカイル様に提示した。
一、食材の『部位』に合わせた調理法の徹底。(硬い肉は叩いて煮込め!)
二、一汁三菜――ならぬ『一汁一満足』の定食化。
三、騎士の体調によって選べる日替わりメニューと定番メニューの導入。
「……これを、君が一人でやるというのか?」
カイル様が心配そうに私を見つめる。
その瞳の奥には、自分には到底真似できない行動力を持つ私への、眩しそうな色が混じっていた。
「一人じゃないわよ。私がレシピを書いて、ここのみんなに教えるの!食堂も下級騎士たちの当番制にしましょう!野営もあるのでしょう?料理は知っていて損はないわよ!よろしければ、カイル様もご指導いたしますわよ!」
「……っ。い、嫌ではない。……むしろ、その……非常に楽しみだ」
耳まで赤くして目を逸らす騎士団長。
よし、釣れた!
こうして、アンジェリカ・ラングレイによる「騎士団食堂・大改革」の幕が上がった。
※
大掃除が終わる頃には、厨房は見違えるほどピカピカになり、バルカスは心地よい疲労感に包まれていた。
「ふぅ……。姐さん、言われた通り床まで磨き上げましたぜ。……正直、掃除がこんなに腹減るとは思わなかった……」
バルカスが、埃と石鹸の泡にまみれた顔でへたり込む。
その顔はいつもの傲慢な現場監督ではなく、仕事をやり遂げた男の顔になっていた。
「お疲れ様、バルカスさん。頑張ったわね! はい、これ。今日のお手伝いのご褒美よ」
私が差し出したのは、掃除の合間にこっそり仕込んでおいた、揚げたての『厚切りパンのシュガーバターラスク』だ。
パングラタンで余った端切れを、ミルクとたっぷりのバター、そして貴重な砂糖でコーティングして焼き上げた、甘〜い爆弾。
「……ッ!? な、なんだこの甘美な香りは! 姐さん、これ、俺が食っていいのか!?」
「もちろん! 疲れた時は甘いものが一番よ。さあ、遠慮しないで!」
バルカスがラスクを口に放り込む。カリッ、ジュワッ。砂糖の甘さとバターのコクが、疲れた体に染み渡る。
「うおおおぉぉ……! 旨い、旨すぎる! 姐さん……俺、一生あんたについていくっす!!」
涙目でラスクを頬張るバルカスを笑い飛ばし、私は厨房の奥、静かにこちらを見つめていたカイル様のもとへ歩み寄った。
「カイル様。……はい、あーん」
「なっ……!?」
私は自分用に取っておいた、一番バターが染み込んでいる特大のラスクを、彼の口元へ差し出した。
カイル様は一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、周囲がバルカスの咆哮で騒がしいのを幸いに、観念したように小さな口を開けた。
サクッ、と小気味よい音が響く。
「……甘い。……それに、温かいな」
「でしょ? みんなで掃除して、みんなで同じもの食べる。これ以上の調味料なんてないんだから!」
カイル様は、口の端に少しだけ砂糖をつけたまま、ふっと柔らかく微笑んだ。
完璧な騎士団長としてではなく、ただの青年として、私の隣で同じラスクを噛みしめている。
「……アンジェリカ。俺は、こういう時間が欲しかったのかもしれない」
「もう、しん気臭い顔しない! これからは毎日、こういう時間が待ってるんだからね!」
私は彼の口元についた砂糖を指でひょいっと拭い、自分の口に放り込んだ。
それを見たカイル様が、茹でたタコのように真っ赤になって固まったけれど。
「よし! 胃袋の準備は万端ね。明日からは本格的に、全騎士の『食』を叩き直してあげるわよ!」
「ああ。……よろしく頼む」
私たちの「異世界お料理教室」は、これ以上ないほど甘く、賑やかに幕を開けたのだった。




