第14話:影の執政官と、騎士団会議inキッチン
「……はぁ。あんなバカでも、一応はこの国の第一継承者なのよね……」
王子が逃げ去った後の厨房で、私は大きなため息をついた。
カイルさんはまだ険しい顔で私の肩を抱いている。その指先から伝わる微かな震えが、彼がいかに激昂していたかを物語っていた。
最強の騎士団長が、一個人の無礼に対してここまで感情を剥き出しにするなんて、普段の彼からは想像もできないことだ。
「カイルさん、ちょっと離れて。……顔が怖い。あと、作戦を練るわよ」
「作戦? ……まさか、今さらあいつの元へ戻るつもりか? たとえ君が望んでも、俺が許さない。……国を捨ててでも、君を連れて逃げる準備ならできている」
カイル様の声が低く、重く響く。
眼鏡の奥の瞳は冗談を言っているようには見えなかった。
……この人、私(料理)のことになると本当に加減を知らないんだから。
「バカ言わないで。あんなブラックな職場、二度とごめんだわ。一生分のサービス残業をさせられた恨み、忘れるわけないでしょ? ……でもね、王子が公務を放り出して国が傾けば、巡り巡って騎士団の予算……つまり、私の『食費』が削られるのよ。それは死活問題でしょ?」
私はカイル様の胸を軽く叩いて、一歩距離を置いた。
そして、まな板の上にドサリと、先ほど捌いた魚の残りを置いた。
「それに、聖女様……リリアーヌ様のことも放っておけないわ。彼女、根が真面目すぎるのよ。私がアドバイスした『手の抜き方』だって、きっと『完璧に手を抜かなきゃ!』って必死にやってるはずだわ。そんなの、逆に疲れちゃうに決まってる」
「……君は、自分を陥れた相手に対しても、随分と慈悲深いのな」
「慈悲じゃないわよ、同病相憐れむってやつ。あの子が潰れたら、また王子は私を狙ってくる。……だったら、あの子を『最強の盾』に育て上げるのが一番効率的でしょ?」
私はニヤリと笑い、バルカスを呼び寄せた。
「バルカス! 居残りの連中を全員集めなさい。これから騎士団の『特別隠密任務』を開始するわよ!」
「お、隠密任務っすか!? 姐さん、ついに王子を暗殺するんすか!?」
「物騒なこと言わないの! いい、これから毎日、リリアーヌ様に差し入れを届けるついでに、彼女の部屋に溜まっている書類を『仕分け』して持ってこさせなさい。もちろん、誰にも見つからないようにね」
「書類の……仕分け、っすか?」
バルカスが首を傾げる。私は彼に、即席で作った「重要度チェックリスト」を渡した。
「そう。公印が必要な急ぎのもの、金勘定が絡むもの、そして……王子が適当にサインしても実害が少なそうなもの。それを私がここで目を通して、優先順位をつけて、返信の文案まで作るわ。いわゆる『下書き済み(ゴーストライター)』作戦よ」
カイル様が、驚いたように眼鏡をクイッと押し上げた。
「……アンジェリカ。それは、君が厨房から一歩も出ずに、王宮の政務をコントロールするということか?」
「そうよ。リリアーヌ様には、私が作った文案を書き写して、彼女の名前で王子に提出してもらうの。王子には『リリアーヌが体調不良を押して、健気にもこれだけの案をまとめてくれました』って言えば、あいつは鼻の下を伸ばして喜んでハンコを押すわよ。あいつ、褒められるのに弱いから」
これこそ、前世の定食屋で培った「面倒な客の転がし方」の応用だ。
態度のデカい客には、花を持たせつつ、実利はこちらが握る。
「でも、アンジェリカ。それは結局、君の負担が増えるだけではないか? 君はここで料理をしていたいと言ったはずだ」
カイル様が心配そうに私の手を取る。魚の匂いがついた私の手を、彼は気にせず包み込んだ。
「大丈夫よ。私は『やり方』をパッケージ化して教えるだけ。リリアーヌ様には、優秀な文官を味方につける方法と、王子を転がす手綱の握り方を覚えてもらうの。彼女が少しずつ『自分で判断できる王妃』に成長していけば、私の仕事はどんどん減っていくわ。最後には、私は本当にただの調理係に戻れる。……これは、私の完全な自由を勝ち取るための『教育投資』なのよ」
「教育……投資。……君という人は、本当に先まで見据えているんだな」
「それにね、カイルさん。リリアーヌ様に渡す書類の隅に、こっそり『騎士団の予算増額』と『レニスタッド家への養蜂支援』の要望書を紛れ込ませておくわ。王子は細かい文字なんて読まないわよ。『ああ、リリアーヌが言うならいいよ』って、鼻歌まじりにサインする姿が目に浮かぶわ」
私は、パン生地を力強く捏ねながら続けた。捏ねるたびに、王子の顔を叩いているような爽快感がある。
「ついでに、王宮の無駄な晩餐会費用を削って、騎士団の防具新調費用に回す案も入れちゃおうかしら。あいつ、自分が食べるものさえ豪華なら、予算の出所なんて気にしないもの」
「……君を敵に回さなくて、本当に対策室を立ち上げたい気分だよ。……いや、君が味方で、俺は本当に運がいい」
カイル様は感心したように、そして少しだけ畏怖を込めたような眼差しで私を見つめ、私の頭をそっと撫でた。
「わかった。騎士団の連絡網をフル活用しよう。書類の受け渡しは、食材の搬入ルートに紛れ込ませる。……誰にも悟られず、この厨房を王国の『影の議事堂』にしてしまおう」
作家さん、そのメニュー変更最高です!「フレンチトースト」という、卵と牛乳の優しさが詰まった料理は、疲弊した聖女リリアーヌの心を解きほぐすのにこれ以上ない選択ですね。
しかも目玉焼きとベーコンを添えて「クロックムッシュ風(モンティクリスト風)」にするあたり、甘じょっぱさの魔術師・アンジェリカさんの真骨頂!
調理シーンの描写をたっぷり盛り込んで、19話のクライマックスをさらに美味しく仕上げましょう。
第19話:影の執政官と、黄金色のフレンチトースト(調理シーン追加Ver.)
(……中略:カイル様との作戦会議の後)
「助かるわ、カイルさん。……さて、リリアーヌ様への『餌』……いえ、差し入れの準備をしなきゃ」
私は腕まくりをして、再び火の前に立った。
今回のメニューは、疲れた心に甘さが沁み、かつお腹もしっかり満たされる「フレンチトーストのクロックムッシュ風」だ。
「まずは、昨日騎士たちに教えた『牛乳パン』の応用ね」
私は厚切りにしたパンを、卵と牛乳と塩、そして隠し味にほんの少しの蜂蜜を混ぜた黄金色の液に浸した。
「いい、バルカス。パンをただ濡らすんじゃなくて、中までしっかり吸わせるのがコツよ。……そう、指で押したときに、幸せの音がするくらいにね」
じっくりと液を吸い込んだパンを、熱したフライパンへ。
バターが溶けてシュワシュワと泡立つ中へ滑り込ませると、甘く香ばしい、暴力的なまでに多幸感溢れる香りが厨房に広がった。
「カイルさん、そっちでベーコンをカリカリに焼いて! 目玉焼きは半熟よ、絶対に!」
「……了解した。火加減には細心の注意を払おう」
最強の騎士団長が、真剣な面立ちでベーコンの焼き加減を見守る。
パンの両面に美しいきつね色の焼き目がついたら、その上にカリカリのベーコンと、とろけるチーズをたっぷりのせる。さらにその上から、もう一枚のフレンチトーストでサンドして、チーズが溶けるまで軽く蒸し焼きに。
仕上げに、ぷっくりと盛り上がった半熟の目玉焼きを頂上に鎮座させ、黒胡椒をパラリ。
「できたわ。……熱々のうちに、この『カンニングペーパー』と一緒に包んで!」
私は、丁寧に清書した「公務の仕分けリスト」と「王子への切り返し台詞集」を、油が染みないよう蝋引きの紙で包み、バスケットの底に忍ばせた。
「ハーブたっぷりの特製コンソメスープも忘れないで。これを飲めば、翌朝には頭がすっきりするはずよ!」
聖女リリアーヌ。
貴女には、美味しい差し入れと一緒に、この国を裏から操る「最強のカンニングペーパー」を届けてあげるわ。
貴女が私の教えを完璧に守って「無敵の聖女」になれば、私はカイルさんの隣で、毎日美味しいテリヤキを焼いて笑っていられる。
二人で手を組んで、あのおバカな王子を、中身が空っぽの「素敵な置物」にしてしまいましょう!
「……バルカス! ぼーっとしない! 魚を捌く練習の続きよ! 国を救う前に、まずは自分の胃袋を救うわよ!」
「はいっ、姐さん!!」
夕暮れの厨房に、包丁の音と騎士たちの活気が戻る。
アンジェリカの戦いは、フライパンの上から、ついに国の根幹へと広がり始めていた。




