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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第9巻 東方の神木と蒼き旋律

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第91章:月下に交わる剣、歳月の面影

 ゼノリスが放った先制の横一閃――黒剣から解き放たれた白銀の衝撃波は、地表を削りながら扇状に広がり、迫り来る魔獣と魔族の先頭部隊をまとめて吹き飛ばした。

 しかし、押し寄せる敵の数があまりにも多すぎた。その絶大な一撃をもってしても、怒涛の侵略を完全に食い止めるには至らなかった。

 黒い炎に焼き払われた樹木から禍々しい黒煙が立ち上る中、奥底から地鳴りのような咆哮が響き渡る。鋼のごとき装甲に身を包んだ巨大な魔獣の群れが、死を恐れぬ凶暴さを剥き出しにして泥を蹴り、無数の魔族たちが赤い目をギラつかせながら第二波、第三波となって雪崩を打って押し寄せてきた。


「一筋縄ではいかないか……! 全員、前線を下げるな!」


 ゼノリスの叫びが響く。だが、数に物を言わせた敵の圧力を前に、防衛線を維持する「星屑の軍団(ステラ・レギオン)」と東方の戦士たちは次第に劣勢へと追い込まれていった。


「くっ、数が多すぎる! 押されるな、踏ん張れ!」


 テオが全身の筋肉を鋼に変え、漆黒の盾を石畳へ叩きつけて巨獣の突進を受け止めるが、牙と爪の凄まじい衝撃に押されて靴底が泥を深く削り取る。

 横からはカシムの影の刃が、リィンの神速の風が敵を削ぎ落としていくものの、湧き出す敵の波は一向に衰えない。後方で白銀の杖を掲げるフィリーネの治癒と氷結魔法も、多勢に無勢の戦況の中でジリジリと防壁を削られていた。

 中でも、先陣を切って「見えざる刃」の剣技を振るうエレナへの負荷は極限に達していた。


「ハァ、ハァ……ッ!」


 エレナの銀色の長剣が、迫り来る魔族の胸元を正確に穿ち、続く頭上の魔獣の爪を間一髪で受け流す。しかし、息をつく暇すらない。長年の逃亡と修練で磨き抜かれた彼女の剣技をもってしても、四方八方から隙なく突き繰り出される槍と黒炎の波を完璧に捌き切ることは不可能だった。

 右腕の筋肉が疲労で悲鳴を上げ、視界の端で黒煙が不気味に揺らめく。

 その瞬間――エレナの死角である背後の空間が、どす黒い歪みとなって急激に膨れ上がった。


「――しまっ……!?」


 気付いた時には遅かった。歪みの中から躍り出た、四本腕を持つ異形の高位魔族が、漆黒の鎌を振り上げ、無防備なエレナの首元を狙って振り下ろそうとしていた。ゼノリスも、テオも、遠くからその危機を叫ぶことしかできない。刃が衣服をかすめ、死の冷気が首筋を刺した、まさにその時。


――キィィィィィィィン……!


 耳の奥を劈(つんざ)くような、澄み切った『一音』が、戦場の喧騒を鮮やかにかき消した。

 エレナの頭上で、空間そのものが異様に『ズレ』た。

 鎌を振り下ろそうとしていた高位魔族の巨体が、そして周囲を取り囲んでいた十数体の魔獣たちが、一切の衝突音も衝撃波も発することなく、滑るように左右へ真っ二つに両断される。切断面から魔力を噴き出す間もなく、敵群は空間の崩壊に飲み込まれるようにしてサラサラと砂となって消滅した。


「……空間が、切断された……?」


 絶体絶命の危機を救われたエレナは、呆然と息を呑んだ。その太刀筋は、彼女が幼い頃から追い求め、自らの身に叩き込んできた『真の見えざる刃』そのものだった。だが、自分が放ったものではない。その精度、規模、そして圧倒的な冴えは、エレナの到達し得ていない領域の頂にあった。

 崩れ落ちる砂の渦の向こう、黒煙を割って一人の影が静かに歩み出てくる。

 古びた銀色の甲冑を纏い、身の丈を超える大剣を負った騎士。

 ゼノリスの口から、掠れた声が漏れた。


「ザガン……!」


 四魔将の一人であり、魔王ルシオンの側近。しかし、これまで幾度となく影から自分たちを救ってきた男が、いま目の前で敵の軍勢を断ち切ったのだ。

 ザガンはゼノリスの視線に答えることなく、甲冑を鳴らしてエレナの前へ歩み寄った。


「……怪我はないか」


 兜の奥から落ちてきたのは、魔将の冷たさではなく、かすかに掠れた温かな声だった。

 エレナが息を呑む前で、ザガンは無骨な手で銀の兜を外す。

 ガシャリ、と重い鉄が泥に落ち、夜風が彼の髪を揺らした。

 そこに現れたのは、醜悪な魔族の面影など微塵もない、歳月を刻んだ一人の男の素顔。

 赤みがかった栗色の髪。研ぎ澄まされた凛とした目元。そして、固く結ばれた薄い唇。

 鏡を見るまでもなく、そこに自分自身の面影があった。

 喉が引きつり、声にならない。

 母から託され、ずっと携えてきた銀の長剣。顔も知らぬまま追い続けてきた父の姿。

 全身の血が激しく波打ち、直感が真実を告げていた。


「……お父様……?」


 ザガンは寂しげに、けれど愛おしそうに目を細めると、視線を迫り来る敵群へと戻した。


「……話は後だ。今は前を見ろ、エレナ」


 背負った大剣が一気に抜き放たれる。

 刀身が描いたのは黒い炎ではなく、暗雲を切り裂く清冽な白銀の光。

 異変を察した魔獣と魔族の群れが、地鳴りのような咆哮とともに一斉に雪崩れ込んでくる。だが、ザガンが振るった一閃は、空間そのものを十重二十重に切り刻む断絶の檻となって戦場を支配した。

 ズバァァァンッ!

 地脈ごと空間が抉(えぐ)り取られ、押し寄せていた百を超える敵群が一瞬にして隙間へと呑み込まれて消え去る。

 圧倒的な剣技に息を飲むエレナへ、ザガンは横顔のまま短く告げた。


「お前の剣を見せてみろ」


 その一言が、エレナの胸の奥で燻っていた火種に火をつけた。

 喉の奥の熱を飲み込み、長剣を固く握り直す。


「……はいッ!」


 それに呼応し、ゼノリスもまた黒剣に白銀の魔力を漲(みなぎ)らせて踏み込んだ。


「押し戻す……! この地を、これ以上踏みにじらせはしない!」


 比類なき剣士の参入、そして父の背中に導かれたエレナの「見えざる刃」が覚醒の冴えを見せる。白銀の衝撃波と空間を断つ二筋の刃が連なり、防衛線は怒涛の勢いで巻き返しを始めた。



 凄絶を極めた一戦目が収束し、霊樹の都に束の間の静寂が戻った夜。

 立ち込めていた黒い戦煙は静かに風に流され、大神木の枝葉が織りなす広大な天蓋の上には、澄み渡る夜空が広がっていた。巨木の葉の隙間から降り注ぐ月光は、幾重もの透き通る光の帯となって広場を穿ち、戦火の爪痕が残る石畳を白銀色に洗っている。

 時折吹き抜ける夜風が葉を揺らし、ささやき合うような微かな音だけが空間を満たしていた。


 広場の中央には、二人きりの影が佇んでいた。

 重厚な銀の甲冑を解き、背の巨大な大剣を傍らの石柱へ立てかけたザガン。

 エレナは、母セリアから託された長剣の柄(つか)を、込み上げる感情を抑えるように固く握りしめていた。

 兜を外したザガンの素顔には、三千年という果てしない歳月が刻んだ静かな孤独と、武人としての研ぎ澄まされた凛とした気品が宿っていた。赤みがかった栗色の髪。固く結ばれた薄い唇。そして何より、まっすぐに見つめ返してくるその目元は、エレナによく似ていた。

 目の前に静かに佇む一人の男。自分が顔も知らぬまま、その背中と面影を追い続けてきた父親という存在。 エレナの喉が小さく引きつり、あふれ出す感情の波に言葉が出ない。

 息をのむような緊張の中、エレナは意を決して、胸の底に長年澱んでいた問いを絞り出した。


「……ずっと、問いかけたかったことがあります」


 エレナの声はかすかに震えていたが、夜の静寂をまっすぐに通った。


「なぜ……私と母を置いて姿を消したのですか。なぜ、あんな血塗られた魔族の甲冑を纏わねばならなかったのですか……。魔族の騎士として私たちの前に立ち塞がり、どれほど多くの血をその手に染めてきたというのですか」


 問い詰める言葉の端々に、幼い頃に感じていた置き去りにされた寂しさと、父を求めて苛まれた過酷な日々の記憶が滲んでいた。

 ザガンは何も言い返さず、静かに言葉を受け止めた。

 彼はただ、胸の奥から深く静かに息を吐き、大神木の枝葉の向こうに浮かぶ月を見上げた。その瞳には、夜の闇よりも濃い哀傷と、決して折れることのない誓いの色が揺らめいていた。


「……三千年前、帝国の呪いで理性を失いかけたゼノス様を、俺たちは何とか深い眠りにつかせた。その直前、まだ正気が残っておられた折に交わした、ひとつの固い誓いがあった」


 ザガンの低く落ち着いた声が、静かな夜気に染み渡っていく。


「『もし遙か未来、我が魂を継ぐ者が現れたなら……お前が影から支えてやってくれ』とな。三百前に目覚めて暴走されたゼノス様が封印された後も、俺はその誓いを果たすためだけに生きてきた」


 エレナは息をのんだ。ゼノリスの内に宿る初代魔王の魂。その魔王自身を、父は三千年前から知っていたのだ。


「やがて、ゼノリス様の誕生を知った。幼く己の力を制御しきれぬ真の主君を、ルシオンの狂気から守ること……それこそが俺の果たすべき第一の宿命だった。俺は魔族の騎士として敵の懐へ飛び込み、影から危険を遠ざける道を選んだのだ」


 ザガンの言葉には、ただ課せられた宿命を当然のごとく全うしてきた男の、揺るぎない覚悟だけが存在していた。


「では……母と私を置いていかれたのも……」


「そうだ」


 ザガンは切なく目元を細め、視線をエレナへと戻した。


「セリアと出会い、惹かれ合ったことに偽りはない。だが俺は、主君を守る宿命を捨てることはできなかった。未練を断ち切るように、俺はセリアのもとを去ったのだ。……あの時、セリアがお前を身ごもっていたことすら、俺は知らなかった」


 男の手が、無意識に自らの胸元へと当てられる。そこには、甲冑の下で刻まれてきた無数の傷と、娘を想い続けた痛みが隠されていた。


「お前がこの世に生まれたと知ったのは、すべてを捨てて再び影の道へ身を沈めた、ずっと後のことだった。……知った時には、もう遅かった。泥と血に汚れたこの手で、いまさら父親面をして戻ることなど許されない。お前が母からその長剣を託され、ひとりの凛とした剣士として生きている姿を……俺は、ただ見届けることしか許されなかったのだ」


「ずっと……見ていてくれたのですか……?」


 ザガンは、黙って遠い月を見上げた

 父は自分たちを見捨てたのではなかった。

 三千年の誓いを胸に、己の身を孤独と泥に沈め、ただ自分たちの未来を守るために耐え抜いていたのだ。 胸の奥を締め付けていた凍てついた塊が、熱い奔流となって溶け出していく。


「……お父様」


 ずっと呼ぶことの叶わなかった言葉が、エレナの小さく震える唇から零れ落ちた。

 頬を伝った涙が月光を浴び、一筋の透明な光となって足元の青草へ落ちていく。幼い頃からずっと胸の底に抱え続けていた寂しさと、置き去りにされたという小さな傷跡。母が夜な夜な大切に手入れしていたあの銀の長剣の意味が、今すべての線となってつながっていた。母もまた、父のその果てしない宿命と覚悟を知っていたからこそ、責めることもなく、ただ愛おしそうにあの剣を磨き続けていたのだ。

 ザガンは黙って遠い月を見上げていたが、やがてゆっくりと小さく息を吐き、夜空へ向けていた視線を娘へと戻した。

 その無骨で傷だらけの手を、エレナは自らの両手でそっと包み込んだ。

 三千年の孤独と血泥を生き抜いてきた男の手は冷たく、そしてどこまでも不器用で温かかった。手のひらに刻まれた無数の傷痕の一つ一つが、父が背負ってきた壮絶な星霜と、重ねてきた戦いの歩みを物語っていた。


「……すまなかった、エレナ。父親らしいことなど、何一つしてやれずに」


 低く掠れた声で呟くザガンに、エレナは静かに首を横に振った。


「いいえ……十分です。私を思ってくださっていたことが、分かったから……。母様も、きっと同じ気持ちでいたはずです」


 涙で濡れた青い瞳に、まっすぐな光が灯る。長年彼女の心を縛り続けていた葛藤は綺麗に消え去り、そこには父の想いと意志を受け継ぐ一人の誇り高き剣士の顔があった。

 ザガンは深く息を吐き、どこか穏やかな影をその無骨な顔に浮かべた。自らの正体を隠し、四魔将という不名誉な鎧を纏ってまで守り抜いてきた愛娘が、今、自分をまっすぐに見つめ返している。その事実だけで、三千年にわたる途方無い孤独と報われぬ苦闘のすべてが報われた気がした。


「……明日、俺がこの三千年間で辿り着いた剣の極意……そのすべてをお前に教える。我が誓いを継ぐ者として、受け取ってくれるか」


「はい……! よろしくお願いします、お父様」


 ザガンは微かに目を細め、銀色の鞘に納められた愛剣の柄へとそっと触れた。

 三千年の歳月をかけて研ぎ澄まされた『空間切断』――それは不屈の意志を刃に宿し、立ちふさがる世界の摂理すら断ち切る極意であった。この技を娘に授けることこそが、武人として、そして父親として彼が託せる唯一の証だった。


 大神木の葉が夜風にそよぎ、心地よい静かなざわめきを立てる。

 広場の少し離れた木陰では、ゼノリスたち「ステラ・レギオン」の仲間たちが、静かに二人を見守っていた。


「……よかったな、エレナ」


 ゼノリスは胸の奥で静かに呟き、右手の包帯をそっと撫でた。自らの中に眠る二つの脈動が、今は穏やかな調律の波長となって、夜の清らかな空気と同化している。

 フィリーネもまた、ゼノリスの隣で白銀の杖を静かに抱きしめながら、涙で瞳を潤ませ、優しい笑顔を浮かべていた。


「お兄様……エレナさん、とても温かいお顔をなさっていますね」


「ああ。ずっと氷のように冷たく張り詰めていた彼女の剣気が、今はとても清らかで力強い」


 他の仲間たちもまた、野暮な割り込みを避けるように、それぞれ言葉を交わさず静かに夜空を見上げていた。

 東方の風を纏うリィンは、穏やかな風の囁きに耳を澄ませている。影に潜むカシムも、不敵な笑みを引っこめ、皮肉の一つも言わずに静かに闇に溶け込んでいた。テオは大盾を地面に下ろし、巨体を預けながら安堵の息を吐き、ガイルも右目の解析の光を収めて静かに腕を組んでいた。

 全員が、この二人が辿り着いた長い遠回りの末の和解を、心から祝福し、胸を撫で下ろしていた。


「夜が更ける。明日からは厳しい修行になる。身体を休めておけ」


「はい。お父様も……どうかお体を」


 娘の言葉に静かに一度頷くと、ザガンは身を翻し、神木の影へと身を引いた。


 エレナは父の去っていった暗がりをしばらく見つめていたが、胸の中に残ったのはもはや寂しさではなかった。自らの腰に提げられた銀の長剣を力強く握り直すと、彼女はゆっくりとゼノリスたちの待つ木陰へと歩み寄った。

 仲間たちはみな穏やかな笑みをたたえて彼女を迎え、フィリーネがそっとその肩を抱き寄せる。

 月光の落ちる広場に、心地よい夜風が吹き抜けていく。仲間たちの温もりに包まれながら、夜はゆるやかに更けていった。

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