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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第9巻 東方の神木と蒼き旋律

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第89章:風読みの少女と神木の伝承

 学園都市エーテルガードをあとにした『ステラ・アンカー号』は、どこまでも広がる大空を東へ向かって進んでいた。

 雲の海の上をすべり出すように飛ぶ船体を、爽やかな風が通り抜けていく。朝の光が蒼と銀の甲板をやさしく包み込み、陽射しが温かなぬくもりを届けていた。

 学園長室でのエレアノールとの別れ、そして最期に交わした言葉。そのおだやかな余韻は、今も仲間たちの心に小さな切なさとなって残っている。けれど、誰の顔にももう迷いはなかった。

 操舵室ではナディアが胸元の羅針盤と空の様子を見比べながら、手慣れた手つきで大きな舵を握っている。甲板の木製ベンチには、フィリーネが温かいお茶を入れた木コップを両手で包むようにして座っていた。


「少し、空気がひんやりしてきたね」


 隣に腰かけたテオが、肩をすくめながらそっと笑いかける。


「ええ。でも、とても心地よい風です。……この新しい船で、お兄様たちとこうして旅を続けられることが、なんだかとても誇らしいです」


 フィリーネは木コップから立ち上る湯気を見つめ、ほほえみを返した。

 甲板の少し離れた場所では、ガイルが遠くの雲の形をじっと観察し、マストの陰ではカシムが壁に背をもたせかけている。ルカスは胸のポーチから小さな工具を取り出し、手元の計測器をカチカチと調整していた。エレナも手すりに寄りかかり、流れる雲を眺めている。

 ゼノリスは船の先頭に立ち、一人で風を受けている少女の背中に向かって歩み寄った。

 リィンだ。彼女の肩にかかった『風読みの衣』が、東から吹き寄せる空気に合わせて、生き物のようにゆらゆらとなびいている。


「リィン、風の音を聞いていたのかい?」


 ゼノリスが声をかけると、リィンはゆっくりと振り向き、黒い髪を耳の後ろへとそっと流した。


「……ええ。風の匂いが、少しずつ変わってきたのを感じていたの。……故郷の、懐かしい草と木の匂いが、ほんの少しだけ混ざり始めているわ」


「そうか。もうすぐなんだね」


 二人の会話に気づき、フィリーネやテオが集まってきた。操舵室の大きな窓からはナディアがひょっこりと顔を出し、カシムやガイル、ルカス、エレナも、作業の手を止めて輪に加わる。

 ナディアが明るい声を弾ませた。


「ねえリィン、私たちがこれから向かう『シルフィード東方霊樹国』って、どんな場所なの? リィンが育った故郷のお話、聞かせてほしいな」


 リィンはみんなの温かな視線を感じると、少し照れたように頬を緩めた。それから、甲板の手すりにそっと手を置き、遠く広がる空を見つめながら話し始めた。


「私の故郷は……見渡す限り青々とした大森林と、見たこともないほど大きな古い木々に守られた国よ。街というよりも、緑の葉っぱの屋根の下で、人々が寄せ合って暮らしているような場所なの」


「緑の屋根の下……! なんだか、童話に出てくるおとぎの国みたいだね」


 テオが興味津々といった様子で身を乗り出す。


「ええ、本当に緑が豊かな場所なの。私の家は、代々『風読み』と呼ばれる役目を担ってきた一族だったわ。幼い頃、長老たちから最初に教わったのは、剣の振り方や魔法の使い方ではなくて、『風の音をちゃんと聞くこと』だったの」


「風の音を聞く……か。言葉で言うのは簡単そうだが、実際に聞き分けるのは難しそうだな」


 ガイルが腕を組み、感心したように頷く。リィンは小さく頭を横に振って、やわらかな声で続けた。


「ううん、特別な魔法を使うわけじゃないのよ。風はただの空気の動きじゃなくて、遠くの山を越えてきた雨の匂いや、そこに住む生き物たちの息遣い、そして人々の喜びや悲しみの気持ちまで……全部を乗せて運んでくる『世界のおしゃべり』なんだって、おじいさんたちが教えてくれたわ。風読みの子供は、その声にじっと耳を傾ける練習から始めるの」


「世界のおしゃべり……素敵な表現ですね」


 フィリーネが木コップを抱えながら、感銘を受けたように呟く。


「そうね。それと、一族の大人たちはよく、国の真ん中にそびえ立つ神木……『生命の源木』についてのお話をしてくれたわ」


 リィンの語り口が、より柔らかさを帯びていく。


「その神木は、東の国のちょうど中心に立っていてね。雲を突き抜けるほど高くて、何十人もの大人が手を繋いでも囲みきれないほど、大きな幹をしているの。大昔からその地に根を張り、世界中から流れこむ風や澱(よど)みをその大きな枝葉で受けとめて、清らかな風に変えて世界へ巡らせているの。私たちの故郷が豊かな緑に包まれているのも、この神木が風を澄ませてくれているおかげなのよ」


「へえ! 世界中の風を、一本の大樹だけで浄化して巡らせているのか……! 想像もつかないスケールだな。……まるで、ルカスの作る魔導具の親玉みたいだな」


 カシムが珍しく口を開くと、ルカスが苦笑いしながら手を振った。


「僕の機械なんかと一緒にしちゃダメだよ、カシム。自然の力で作られた神木の仕組みは、人工の魔導具なんて遥かに凌ぐ神秘なんだから」


リィンはルカスの言葉に微笑みながら、うなずいた。


「ええ。神木の周りにはいつも清らかな水が湧き出ていて、春には若葉が光を浴びてキラキラと輝き、秋には黄金色の葉が美しい音を立てて揺れるの。東の国の人々は、誰もが神木を『命のお母さん』みたいに大切にしていて、美味しい木の実やきれいな花をお供えして、毎日感謝のお祈りを捧げていたわ」


 リィンのお話を聞いていた仲間たちは、学園長エレアノールが最期に語っていた言葉を思い出していた。


『あの大神木は……東方の地に生きる、すべての民の息吹そのもの……』


 エレアノールの言っていた意味が、リィンの言葉を通して、みんなの胸にしっかりと伝わっていた。神木は、東の国に生きる人々にとって、かけがえのない命の源であり、心の拠り所なのだ。

 ゼノリスは、リィンの言葉にじっと耳を傾けながら、まっすぐに東の空を見つめた。


「そんな大切な神木が今、ルシオンという存在に脅かされているんだね」


「……ええ。神木の力が弱まれば、東の国の森も、人々の暮らしも成り立たなくなってしまうわ。だから私、どうしても神木を守りたいの」


 リィンは自分の胸元にそっと手をあて、しっかりとした声で言った。


「ありがとう、みんな。私のお話を聞いてくれて。故郷の風を感じながらこうしてみんなと話していると、自分が何をすべきなのか、もっとハッキリ分かってくる気がするわ」


「へえぇ、そんなすごい大樹があるんだ! 聞いてるだけでワクワクしてくるね。よーし、この風に乗って一気に飛ばしていくよー!」


 ナディアが操舵輪をパンと叩き、元気いっぱいに微笑む。

 フィリーネもゼノリスの隣で、リィンへ向けて穏やかな笑みを向けた。


「ええ。私たちがついています。大切な神木と東の国を、みんなで守り抜きましょう」


 柔らかな日差しの中、『ステラ・アンカー号』は仲間の絆と誓いを乗せて、黄金色に輝く雲の海を突き進んでいった。

 リィンは、遠ざかる雲の向こうを見つめながら、そっと胸の奥に眠る幼い頃の記憶——あの懐かしい神木の木漏れ日の中へ、思いを馳せ始めていた。



 雲を分かつ『ステラ・アンカー号』の船首で、リィンは一人、そっと目を閉じていた。

 頬を撫でて吹き抜けていく風は、学園都市の初冬の冷気とは明らかに異なっていた。湿り気を帯びた空気の奥底に、どこか懐かしい青く甘い香りが混ざり合っている。それは東方の森が放つ、豊かな土と樹液の匂いだった。

 風の束が髪を揺らし、肩にかかる銀色の羽衣を柔らかく押し開く。その微かな振動が、彼女の意識を遠い昔……まだ自分が小さな子どもだった頃の記憶へと優しく導いていった。


 幼い日のリィンは、いつもその大樹の下にいた。

 見上げる空を埋め尽くすほど巨大な枝葉。何重にも重なり合った葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日は、まるで金の粉を撒き散らしたように地面を優しく彩っていた。大人が何十人手をつないでも囲みきれないほどの太い幹は、固く、ゴツゴツとしていながらも、掌をあてると微かな温もりが伝わってきた。


「耳をすませてごらん、リィン」


 隣で静かに膝をついたのは、一族の老長老であるハルカだった。白髪を綺麗に結い上げた彼女は、幼いリィンの小さな手を包み込み、大樹の幹へとそっと導いてくれた。


「この大樹はね、世界の息吹を抱きとめているのよ。遠い国から流れてくる苦しみや喜び、吹きすさぶ嵐の欠片までをも大きな枝で優しく受け止めて、清らかな風へと変えて巡らせているの。私たちがこうして健やかに呼吸できるのも、すべてこの木が寄り添ってくれているおかげなのよ」


 幼かったリィンは息を殺し、そっと幹に額を寄せた。

 すると、木肌の奥から低く朗らかな響きが伝わってきた。それは単なる風の音ではなく、まるで大きな生き物が歌を口ずさんでいるかのような、どこまでも温かい音色だった。葉と葉が擦れ合い、光が揺れるたびに、風がリィンの幼い身体を通り抜けていく。その瞬間、幼い胸の中に「自分は決して一人ではない」という、言葉にならない満ち足りた安心感が満ち溢れたのだった。

 生まれたばかりの赤ん坊は、まず神木の木漏れ日の中へ抱かれて連れていかれ、澄んだ風に触れることで健やかな生を祝福された。人々が人生の節目で悩むときも、愛する者との別れに涙するときも、誰もがこの大きな根元へと足を進めた。

 嬉しい報告があれば幹に触れて喜びを分かち合い、胸が押し潰されそうな悲しみがあれば、その木陰で静かに涙を流した。大樹はどんな者をも拒むことなく、ただ黙って豊かな枝葉を広げ、人々の喜びや痛みをすべて包み込んでくれた。民にとって神木は、命の源であり、心を預ける唯一の拠り所だったのである。


 だが、その暖かな日だまりのような日々は、永遠には続かなかった。

 リィンの脳裏に、降りしきる雨の匂いが蘇る。

 三千年前、先祖が民の平穏を守るために苦渋の決断を下し、帝国の圧力に屈して秘宝を差し出したという過去。その真実は長い時の流れの中で歪められ、いつしか「誇りを捨てて国を売った卑怯者」という不条理な汚名となって一族へ覆いかぶさっていた。

 やがて集落で不可解な事故や異変が起きるたび、人々はその原因を「裏切り者の血筋」のせいにして一族を不当に責め立てるようになっていった。

 あの日、ついに排斥の目に耐えかねて一族が集落を去ることを余儀なくされた朝、空は濁った灰色に染まっていた。

 ついこの前まで一緒に木漏れ日の中で笑い合ったはずの者たちが、戸口を固く閉ざし、刺すような視線で通り過ぎる一族を見送っていた。

 幼いリィンは、なぜ自分たちが排斥されるのか理解できず、母の衣の裾を強く握りしめながら、溢れ出る涙を必死に堪えて歩いた。大人たちは一言の言い訳もせず、ただ静かに背筋を伸ばし、泥に濡れる道を歩み続けた。自分たちの先祖が選んだ「命を繋ぐための道」を、誰よりも自分自身が信じていたからこそ、彼らは他者を責める言葉を口にしなかったのだ。


 村の境を抜ける間際、リィンは一度だけ振り返った。

 雨に煙る遠くの景色の中で、神木だけが以前と変わらぬ姿でそびえ立っていた。民からどんな厳しい言葉が投げかけられようとも、大樹はただ静かに枝を揺らし、去りゆく一族に対しても優しく清らかな風を送り届けてくれていた。その優しさが、幼いリィンの胸を静かに締めつけた。


「あの風は……ずっと、私達を見守ってくれていた……」


 リィンはかすれた声で呟き、ゆっくりとまぶたを開いた。

 目の前には、どこまでも高く澄み渡る大空と、幾重にも重なる黄金色の雲海が広がっている。

 背後からは、仲間たちの気配が伝わってきた。

 操舵輪を握るナディアの快活な声、機械の数値を確かめるルカスの指先が奏でる軽快な操作音、東方の豊かなハーブや土の匂いを感じ取って鼻を鳴らすテオの気配、そして何より、自分たちの前を歩むゼノリスとフィリーネの確かな存在感。

 孤独の中で一人剣を研いでいた少女は、今やかけがえのない仲間たちと共に同じ風に乗っている。

肩を包む銀色の羽衣が東方からの風を孕み、まるで自分を前方へ押し進めてくれるかのように優しく揺れていた。


 東の空の向こうには、幼い自分を育み、民の心を包み込んでいた大神木が待っている。だが今、その尊い生命力に、ルシオンの魔の手が伸ばされようとしていた。


「絶対に……渡さない」


 リィンは刀の柄にそっと手を添えた。折れた刀身の先から、澄み切ったエメラルド色の風が立ち上り、彼女の黒髪を静かに揺らす。

 神木が民の心を支えてくれたように、今度は自分が、この絆で結ばれた仲間たちと共に、神木と東の国を守り抜く。切ない過去の記憶は、いまや彼女の胸の中で、決して折れることのない強靭な誓いの火となって、静かに、けれど強く燃え上がっていた。



 ステラ・アンカー号は雲海を切り裂き、さらに高度を上げていった。

 前方に立ち塞がったのは、シルフィード東方霊樹国の領空を覆う霊霧と、荒れ狂う嵐だった。大気の渦が船体を呑み込もうと荒々しく吹き荒れている。


「前方から強い乱気流! 羅針盤の針が急激に跳ね上がってるわ!」


 艦橋(ブリッジ)の操舵輪を強く握りしめたナディアの声が響いた。彼女の胸元で『黄金の羅針盤』が鮮やかな光を放ち、激しく渦巻く風の隙間――安全な航路を正確に指し示していく。


「ルカス、エンジン出力を三割引き上げて! ガイル、気流の下降ポイントを教えて!」


「任せろ! 風の圧力が一番薄いのは、二時方向の雲の切れ目だ!」


 右目の解析眼(アナライズ)で気流を見抜いたガイルが叫び、ルカスが手際よくレバーを押し込んだ。重厚なエンジン音が響き渡り、蒼銀の船体が傾きながら雲の壁へと突入する。

 激しい揺れに艦橋の床と壁がミシリと鳴った。


「みんな、手すりにしっかり掴まってて!」


 テオが手すりを背に足元を固め、その頑丈な身体でフィリーネを庇うようにして押し寄せる揺れを支える。

 だが、東の国を包む霊霧は深く、艦橋の窓の外は瞬く間に真っ白な世界へと閉ざされた。魔力を乱す密度の高い霧が、船の進路を拒むように漂う。


「視界が……道が見えないわ!」


 ナディアが歯を噛み締めたその時、窓の前に立つリィンが静かに前へ踏み出した。


「……大丈夫。風の道は、途絶えていないわ」


 リィンが刀の柄にそっと手を添えると、澄み切ったエメラルド色の風が旋風となって立ち上った。折れた刀身の先から伸びる旋律のような風は宙を舞い、窓の向こうの濃密な霧へと吸い込まれていく。

 風読みの一族として生まれ、故郷の大気の呼吸を知るリィンの知覚が、嵐と霧の奥深くにある自然の脈動を捉えていた。


「ナディア、操舵輪をそのまま左へ十五度。今、風が道をあけてくれる」


「了解!」


 リィンが鋭く刀を振り抜くと、エメラルド色の風が帯となって伸び、眼前の霧を一気に切り裂いた。同時にナディアが操舵輪を思い切り切り倒す。

二人の確かな呼吸が噛み合った瞬間だった。

 空間が弾けるような音とともに嵐と白霧が左右へ弾け飛び、艦橋の室内へ鮮やかな陽光が差し込んできた。

 激しい振動が嘘のように収まり、頭上には澄み渡る秋の青空が広がる。


「……抜けたわ!」


 ナディアの歓声とともに、大きな窓の向こうに雄大な情景が広がった。

 地平線まで波打つ、深緑の広大な大森林。木々の海の中央には、天を突くほど巨大な神木――東方霊樹国の象徴である『生命の源木』が、神々しい光を放ってそびえ立っていた。その周囲には、豊かな緑と清らかな水脈に抱かれた美しい霊樹の都が広がっている。


「あれが……東方霊樹国……」


 ゼノリスが窓越しに息を呑んだ。隣に立つフィリーネの胸元でも『星刻のペンダント』が、大神木の放つ息吹に呼応するように穏やかな光を返している。


「着いたんだね、リィン」


 ゼノリスが振り返ると、リィンは銀色の羽衣を揺らし、故郷の匂いを慈しむように目を細めていた。


「ええ。……優しい風ね」


 ステラ・アンカー号は滑らかに高度を下げ、巨木の枝葉に抱かれた緑豊かな停泊場へ向かって降り立っていく。

 窓の向こうには、大神木を中心に広がる清らかな生命の輝きが満ちていた。

 だが今、その尊い生命力に、ルシオンの魔手が伸ばされようとしていた。


「――この豊かな国と、大神木を守り抜くんだ」


 ゼノリスの力強い言葉に星屑の仲間たちは深く頷き、新たな決戦の地へ向けて力強く踏み出していった。

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