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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第1巻 運命の種火

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第8章:五色の演習、泥の中の反旗

 学園都市エーテルガードを包む朝の霧は、いつもよりどこか、ざわざわと落ち着かない色を帯びていた。中心にそびえ立つ白亜の学園の大きな門を、一人の少女がくぐり抜けようとしていた。銀色の髪を朝の風に遊ばせ、お日さまの光を透かしたような青い瞳をきらきらと輝かせた、たった八歳の少女、フィリーネである。

 彼女が踏み出す一歩ごとに、石畳の隙間から、見たこともない鮮やかな黄金色の花々が、命を吹き込まれたように次々と顔を出していく。それは、学園をまもるために三千年前から張り巡らされてきた、古い「まもりの網」を、まるでおもちゃのように軽々と書き換えてしまう、恐ろしくも瑞々(みずみず)しい力の現れだった。

 門のそばに立っていた守衛は、持っていた槍をがたがたと震わせ、腰を抜かしてその場に座り込んだ。

「な、なんだ、あの子供は……。歩いた跡から、花が咲いているぞ……」

守衛の目には、フィリーネがただの子供ではなく、春そのものを連れてきた神様か、あるいはすべてを塗り替えてしまう恐ろしい化身のように見えていた。


その様子を、学園の高い塔にある、ひんやりとした風の吹き抜ける会議室から見つめる大人たちがいた。円卓を囲む教官たちの顔には、いつもの威厳はなく、そこにあるのは、理解できない力への戸惑いと、どろりとした欲だった。

「報告によれば、彼女が門を通った瞬間、魔力を測るための大きな石が、あまりの熱さに耐えられず、粉々に砕け散ったそうです」

土の魔法を教える恰幅の良い教官が、震える指先で眼鏡を直しながら言った。彼の前には、ひび割れた計測用の魔導具が置かれており、そこからはまだ、フィリーネが放った銀色の光の名残が、かすかに立ち上っていた。

「規則を曲げてまで、八歳の子供を入学させるなど、これまで一度もなかったことです。他の生徒たちの親がなんと言うか……。特に、北のヴェルンド王国などの大きな力を持つ家々が、黙ってはいないでしょう。学園の示しがつかなくなります」

別の教官が、冷たい声で付け加えた。けれど、その瞳の奥には、フィリーネの持つ力を自分の研究のために手に入れたいという、鋭い光が隠しきれずに宿っていた。

 学園長エレアノールは、彼らの醜い言い争いを聞きながら、窓の外の小さな背中をじっと見つめていた。彼女の掌には、杖の冷たい感触が、戒めのように残っている。

「……静かにしなさい。彼女の力は、もはや理屈や数字で測れるものではありません。……もし彼女をこのまま外の世界に置いておけば、彼女の力を欲しがる悪い大人たちが、山のように押し寄せるでしょう。……あの子を学園という名の『鳥籠とりかご』に入れて、自分たちの目の届く場所に置いておかなければ、この大陸のつりあいは、一瞬で壊れてしまうのです」

 エレアノールの言葉は、重く、そして突き放すようだった。彼女の心の中には、かつて三千年前の古い記録でしか見たことのない「星の種」の力が、目の前で芽吹いていることへの、震えるような期待と、それ以上の深い恐怖があった。

「彼女をプルンブムクラスに置きなさい。あそこなら、ゼノリスという少年が、彼女の暴走を止める最後の手綱になってくれるはずです。……彼が、あの子の心を繋ぎ止める、唯一の鎖なのですから」

 エレアノールは、自分の心が氷のように冷たくなっていくのを感じながら、そう命じた。  大人の都合で、たった八歳の少女の未来が、霧の向こう側に隠された真っ暗な道へと勝手に決められていく。その残酷さに気づいている者は、この冷え切った部屋には一人もいなかった。


 フィリーネが学園の門をくぐったその時、街の外れにある小さな家では、ロランとミリアが、娘のいなくなった部屋に立ち尽くしていた。窓から差し込む朝の光は、昨日までそこにあったはずの、明るい笑い声をすべて吸い込んでしまったかのように、ひっそりと静まり返っている。

 キッチンでは、沸騰したケトルが「ピーッ」と高い音を上げていたが、ミリアはそれを止めるのも忘れて、食卓を見つめていた。そこには、フィリーネが今朝まで使っていた、少しだけ縁が欠けた木のスープ皿が、寂しそうに置かれたままになっていた。いつもなら、彼女が「兄さま、もっと食べたい!」と言って、勢いよくスプーンを動かして、お皿の底を叩く元気な音が、朝の空気の中で弾んでいたはずだった。

 ミリアは、無意識のうちに三人分の朝食を用意しようとして、スープの入ったお玉を握ったまま、手が止まった。

「……あら、もう一人分、いらなかったのね」

ミリアがつぶやいた。彼女の声は、朝の空気に触れてすぐに消えてしまうほど、細く震えていた。彼女はフィリーネが脱ぎっぱなしにしていった、桃色のリボンがついた小さな上着を、そっと胸に抱きしめた。そこからは、娘が大好きな苺の甘い香りと、お日さまのあたたかな匂いが、まだかすかに立ち上っていた。

 ロランは、そんな妻の背中に、節くれ立った大きな手をそっと置き、低く響く声で言った。  「ミリア。あの子が自分で選んだ道だ。……ゼノを助けたいという、あの子の強い思いを、俺たちが止めることはできないんだよ」

 ロランは、玄関の隅に置かれた自分の仕事道具をじっと見つめた。かつて帝国の騎士として、命をかけて王をまもるために剣を振るっていた時よりも、今の自分ははるかに無力に感じられた。農夫として土を耕し、家族で黄金色の麦畑を眺めて、風に揺れる穂先を数えていたあの穏やかな日々が、まるで遠い昔の夢のように思えてしまう。

「……わかっているわ、ロラン。けれど、あの子はまだ八歳なのよ。……悪い大人たちが、あの子の力を利用しようとして、汚い言葉を投げかけるかもしれない。……そう思うと、心が凍りつくみたいに痛いの」

 ミリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は薬草を煎じる知識を使い、フィリーネの幼い体が強すぎる魔力に耐えられるよう、ずっと陰ながら支えてきた。けれど、今の彼女にできるのは、学園という遠い場所へ行ってしまった娘のために、ただ無事を祈ることだけだった。

「ゼノなら、きっとフィリーをまもってくれる。あの子が宿す『三つ目の鼓動』は、誰かを傷つけるためのものではなく、まもるためにあるのだから。……私たちは、あの子たちを信じましょう」

 ロランは、ミリアを強く抱きしめた。彼の脳裏には、ゼノリスに授けた短剣のずっしりとした重みが蘇っていた。

「……ああ。もし、学園の連中があの子たちの笑顔を奪おうとするなら、その時は俺が、この鉄の拳で、学園の大きな門ごと世界の掟を砕いてやる」

 それは、一人の父親としての、静かで、けれど決して折れることのない誓いだった。二人は、窓から見える学園の白い塔を見上げた。あそこには、自分たちの命よりも大切な、小さな二人の宝物がいる。冷たい風が、家のわずかな隙間から入り込み、かつて家族で囲んだあたたかな暖炉の残り火を、静かに、けれど確かに消していった。


 旧時計塔の最上階。お日さまの光が埃の粒をきらきらと輝かせている、プルンブムクラスの教室。そこには、朝の柔らかな時間が流れていた。ガイルは自分の机に足を放り出し、古い魔導回路の仕組みを調べることに没頭していた。彼の指先には、黒い油の汚れが付いていたが、その瞳はかつてないほど生き生きとしていた。セレスティアは窓辺に立ち、澄んだ青い瞳で遠くの空を見つめていた。彼女がいれてくれたお茶の香りが、埃っぽい教室の空気を、少しだけ優しく包み込んでいた。

 ゼノリスは、そんな二人の姿を見ながら、自分の机の上を整理していた。

(……今日から、ここにフィリーが来るんだ。……騒がしくなるだろうけれど、楽しみだな)

 彼の右手の刻印は、朝から不思議なほどあたたかく、まるでお祭りの日の始まりを知らせる遠くの鐘の音のように、トクン、トクンと穏やかに脈打っていた。


「兄さまっ!! フィリー、今日からここで、兄さまと一緒にお勉強するんだから!」

 静寂せいじゃくを切り裂いたのは、もはや聞き慣れた、けれど何度聞いても心臓が跳ねるような元気な叫び声だった。バンッ! と扉が開き、そこになだれ込んできたのは、入学初日の緊張などどこへやら、満面の笑顔を浮かべたフィリーネだった。

 フィリーネは風のような速さでゼノリスの胸に飛び込んだ。ゼノリスはその衝撃に耐えながらも、彼女の頭を優しくなでた。

「……本当に、入学できたんだね。フィリー、よかった」

 ゼノリスが微笑んだその時、教室の扉が再び開いた。そこに立っていたのは、高級な布で仕立てられた紺青の制服を纏った、学園の使いの者だった。彼は、鼻をつまむような失礼な仕草をしながら、鉛クラスの教室を見渡した。

「……やれやれ、こんな埃っぽい場所まで来させるとは。……鉛クラスの諸君、これを受け取れ。学園長からの通達だ」

 彼は、ゼノリスの机の上に、一枚の紙を乱暴に放り投げた。それは、ゴールドクラスに届けられるような、美しい金糸で綴られた巻物ではなかった。端が破れ、安いインクの匂いが漂う、まるでお知らせというよりは「ゴミ」のような粗末な紙だった。

 ガイルがそれを手に取り、内容を読み上げた瞬間、彼の顔からいつもの皮肉な余裕が消え失せた。

「……おいおい、正気かよ。……『五色の演習』に、俺たち鉛クラスも参加しろだって?」

「五色の演習……。学園のすべてのクラスが、それぞれの実力を競い合う、あの大規模な対抗戦のこと?」

セレスティアが、不安そうに青い瞳を揺らした。彼女の手から、飲みかけのティーカップがわずかに震え、お茶の表面に細かな波紋が広がった。

「ああ、そうだ。例年なら、俺たち鉛クラスは『参加する価値なし』として、会場のゴミ拾いやお掃除係をさせられるのが関の山だったはずだ。……なのに、今年は正式な選手として、ゴールドクラスの連中と同じ舞台に出ろと言ってきやがった。しかも、一番危険な『森林エリア』での、生き残りをかけた実戦形式だ」

 ガイルの声は、怒りで低く震えていた。彼にはわかっていた。これは、先の対人演習で皇子オーグに恥をかかせたゼノリスたちを、合法的に叩きのめし、学園から追い出すための、学園上層部による「罠」であることを。

「……僕たちの力が、そんなに怖いのか。……それとも、フィリーの力を見極めようとしているのか」

ゼノリスは、自分の右手の包帯を強く握りしめた。彼の心の中には、かつて原生林を家族で逃げ惑った時の、あの冷たい闇の記憶が、黒い霧のように蘇っていた。けれど、今の自分の隣には、知恵を持つガイルがいて、祈りを捧げてくれるセレスティアがいる。そして、誰よりも愛しすぎる妹、フィリーネが自分の手をぎゅっと握りしめていた。

「いいわよ! その演習っていうので、兄さまをいじめる悪い子たちを、フィリーがぜんぶ吹き飛ばしてあげるんだから!」

フィリーネが、ふんす、と鼻を鳴らして胸を張った。

「よせ、フィリー。君の力は、ここぞという時まで隠しておくんだ。……僕たちは、僕たちのやり方で戦おう。……泥には泥の、戦い方があるはずだ」

ゼノリスは、窓の外で不敵にそびえ立つ白亜の塔を見つめた。あそこには、自分たちを泥に沈めようとする「ゴールド」の者たちが、牙を研いで待ち構えている。

「……ガイル、セレスティア。……僕たちは『鉛の騎士団』だ。……重くて、目立たないけれど、誰よりも熱い太陽を溜め込んだ、鉛の力を、あいつらに見せてやろう」

 ゼノリスの言葉に、ガイルはニヤリと笑い、セレスティアは静かに頷いた。旧時計塔の屋根裏部屋に、かつてないほどの静かな闘志が満ちていく。外では、演習の始まりを告げる不穏な鐘の音が、学園全体に低く重く鳴り響いていた。


 学園の裏手に広がる「古の森」は、お日さまの光さえも拒むような、深い緑の静寂に包まれていた。千年以上も生き続けているであろう巨木たちの枝葉が、空を幾重にも覆い隠し、地上にはわずかな光の雫がこぼれ落ちるだけだ。その光の粒が、湿った苔の上に落ちては、小さな宝石のようにかすかにまたたいている。空気はひんやりと冷たく、肺の奥まで染み渡るような土の匂いと、古い木の葉が放つ重たい香りが混ざり合っていた。

 ゼノリスは、大きな木の根元に身を潜め、自分の心臓の音を森の音に合わせるように、深く、静かに息を吐いた。彼の制服は、すでに湿った泥と苔で汚れ、白亜の学園で見せていた気品ある姿はどこにもなかった。けれど、その泥の色こそが、今の彼を森の一部として溶け込ませる、最高の「まもりの色」になっていた。

「兄さま……。ここ、なんだか昔の森みたい。フィリー、少しだけ落ち着くわ」

 すぐ隣で、同じように泥にまみれたフィリーネが、ゼノリスの耳元でささやいた。彼女の銀色の髪には枯れ葉が混じり、青い瞳は、暗い森の中でも獲物をねらう小鳥のように鋭く輝いている。

「そうだね、フィリー。でも、油断しないで。ここはもう、僕たちの庭じゃないんだ」

「わかってるわ。でも、兄さまが隣にいるから、フィリーはちっとも怖くないの。兄さま、寒くない? 手、つないであげようか?」

「今はだめだよ。敵が近くにいるんだ。音を立てないで」

 ゼノリスが短く言うと、フィリーネは「はーい」と小さく答え、口元を両手で押さえた。  ゼノリスの右手の刻印は、森の奥底に眠る古代の魔力に呼応するように、じわりと熱を帯びていた。それは痛みというよりも、大地が「ここにいるよ」と彼に教えてくれているような、不思議な安心感だった。

 木の上から、ガイルが音もなく降りてきた。彼の服もまた、木の皮や泥で真っ黒に汚れている。

「おい、解析かいせきが終わったぜ。……前方に五人だ。間違いなくゴールドクラスの連中だ。魔導兵器を三つも引き連れて歩いてやがる。あいつら、森を散歩道だと思ってるらしいぜ」

 ガイルが鼻を鳴らしながら言う。その指先は、これから始まる戦いへの緊張で、わずかに震えていた。

「魔導兵器……。どんな形をしているんだい?」


 ゼノリスが尋ねると、ガイルは地面の泥を指でなぞりながら答えた。

「鉄で作られた大きな人型だ。背の高さは大人二人分くらいある。全身が重い鉄でできているから、まともにぶつかったら、こっちの骨がバラバラにされるぞ」

「そんなに大きいの? 怖いわね。ねえ、ガイル。あいつら、強いの?」

フィリーネが不安そうに首をかしげる。ガイルはニヤリと笑って答えた。

「ああ、魔力だけはすごいぞ。でも、ここは森だ。あんな重たい鉄の塊を連れ回すなんて、馬鹿のすることさ。ゼノリス、準備はいいか?」

「セレスティア。敵の正確な位置はわかるかい?」

 ゼノリスが問いかけると、少し離れた茂みに潜んでいたセレスティアが、青い瞳を凝らして頷いた。

「ええ。オーグ皇子が先頭にいるわ。彼は、この森を力ずくで焼き払うつもりね。……彼の持っている杖から、とても冷たい熱を感じるわ。森が、怯えているのがわかる」

 セレスティアの声は、悲しげに震えていた。彼女の瞳には、かつて自分が仰ぎ見ていた「光」の世界が、いかに冷酷にこの森の命を踏みにじろうとしているか、その姿が映っていた。

「セレスティア、無理をしないで。君は後ろで、僕たちをまもってほしい」

「わかったわ、ゼノリスくん。でも、危なくなったらすぐに言って。私の祈りで、少しでも助けになりたいの」

「ありがとう。ガイル、作戦通りに行こう。みんな、泥になれ。……僕たちが、この森の本当の主であることを、あいつらに教えてあげよう」

 ゼノリスの言葉とともに、鉛クラスの四人は、さらに深く、森の影へと沈み込んだ。お日さまの光が完全に遮られた中庭のような暗闇が、彼らを優しく包み込む。遠くから、ガシャリ、ガシャリという、森の静寂を乱す「鉄の足音」が、確実に近づいてきていた。


 森の空気が、急激に重苦しいものへと変わった。鳥たちのさえずりがぴたりと止まり、代わりに響いてきたのは、機械から蒸気が噴き出す音と、巨大な金属が地面を削る嫌な音だった。

「――探せ。鼠一匹逃がすな。鉛のクズ共を、この汚い森ごと土に埋めてやる」

 オーグの冷徹な声が、木々の間に反響した。森をかき分けて現れたのは、ヴェルンド王国の最新技術で作られた、三体の巨大な魔導人形ゴーレムだった。全身が黒い鉄で覆われ、その胸元には、不気味な赤色に光る魔石が埋め込まれている。彼らが一歩踏み出すたびに、何百年もかけて育った木の根がへし折られ、柔らかな苔の絨毯が、重油と錆の混じった匂いで汚されていった。

「見てよ。あんなに大きな足で、森を壊してる。……兄さま、あいつら、ひどいわ!」

 フィリーネが怒りで声を震わせる。ゼノリスは彼女の肩をそっと押さえた。

「落ち着くんだ、フィリー。あいつらは、自分の重さに気づいていない。……それが、あいつらの弱点だ」

 オーグは、豪華な刺繍が施された手袋をはめた手で、銀色に輝く杖を振った。

「無駄なあがきはやめろ、ゼノリス! お前たちの場所は、日の当たらない地下のお墓がお似合いだ。どこに隠れている? さっさと出てきて、跪け!」

 ゴールドクラスの生徒たちが、笑いながら後に続く。彼らは真っ白な最新の防護服に身を包み、泥一つつかないように注意深く歩いていた。

「なあ、オーグ。この森、なんだか変な匂いがしないか? 泥の匂いというか、カビ臭いというか」

 取り巻きの一人が、鼻をつまみながら不満そうに言った。

「我慢しろ。鉛のクズを掃除すれば、すぐにここを出られる。……おい、そこの魔導人形! もっと前へ出ろ! 隠れている奴らを、一歩ずつ踏み潰して進むんだ!」

 オーグが命じると、先頭の魔導人形が、ぬかるんだ地面に大きく足を踏み入れた。ズブッ。  最初は、ただの泥遊びのような音だった。けれど、その音はすぐに、底なし沼に引きずり込まれるような、不気味な音へと変わった。

「なんだ……? 動けないぞ。おい、この人形が、泥から抜けないじゃないか!」

 操作していたゴールドクラスの生徒が、焦った声を上げた。

「どうした! さっさと足を抜け! 魔力を全開にしろ!」

「やってます! でも、泥が吸い付いてくるんです! まるで生き物みたいに!」

 魔導人形が必死に腕を振り上げ、魔力を放出しようとするが、足元の泥は、さらに深く、その重厚な鉄の体を飲み込んでいく。

「今だ、ガイル!」

 ゼノリスの叫びが、森の影から響いた。木の上で身を隠していたガイルが、指を忙しく動かして、魔力の糸を操った。

「ハッ、お前たちのそのデカいおもちゃは、重すぎるんだよ! 解析の結果、この場所の地盤は、少し揺らすだけで液状化するように仕込んであるんだ。ざまあみろ!」

 ガイルが放った小さな魔力の衝撃が、森の魔力のつりあいを一気に崩した。魔導人形の周りの土が、まるで沸騰するお粥のように激しく泡立ち、その鉄の体が、みるみるうちに地面の下へと消えていく。

「おのれ……! 汚い手を使うな、鉛のクズが! 正々堂々と戦え!」

 オーグが怒りに任せて杖を突き出した。

「汚い手だって? 自分の重さもわからないで森に入ってきたのは、君たちじゃないか!」

 ゼノリスは、泥の中に膝をつき、掌を大地に強く押し当てた。彼の内側にある三つ目の鼓動が、大地の底に眠る古代の血管と繋がった。父ロランから教わった「土をなだめる方法」と、地下書庫で学んだ「帝国の地形操作術」が、一つに重なり合う。

「……兄さま、フィリーもお手伝いするわ! 土さん、この悪い人たちを、もっと深く埋めてあげて!」

 フィリーネがゼノリスの隣にひざまずき、泥だらけの手を地面に添えた。

ゴゴゴゴゴ……。

地響きとともに、オーグたちの周りの地面が、まるで巨大な波のように隆起した。

「うわあああっ! 助けてくれ、足が抜けない!」

「オーグ様! 泥が、泥が服の中にまで入ってきます!」

 ゴールドクラスの生徒たちが、次々と泥の海に足を取られ、その美しい制服を真っ黒に汚していく。彼らが大切に守ってきた「誇り」が、鉛クラスが仕掛けた泥の知恵によって、一つ、また一つと、がれ落ちていった。

「黙れ! 泣き言を言うな! 私の魔法で、この泥ごと森を焼き払ってやる!」

 オーグの瞳が、怒りと恥辱で赤く燃え上がった。


 泥の波に飲み込まれながらも、オーグは狂ったように杖を振り回した。

「認めない……。このような泥臭い戦い方、魔法への冒涜ぼうとくだ! 消えろ、すべて消えてなくなれ! ヴェルンドのいかずちよ、すべてを灰にしろ!」

 彼の杖から、これまでの演習では許可されていないはずの、黒い雷光が放たれた。それは森の木々を焼き、命を根こそぎ奪おうとする、禁じられた破壊の魔力だった。バリバリと音を立てて木々が燃え始め、森の静寂は、灼熱の地獄へと変えられようとしていた。

「兄さま! あの人、また森を痛くしているわ! 森の声が、苦しいって聞こえるの!」

 フィリーネの声が、悲しみと怒りに震えていた。彼女にとって、ゼノリスと一緒に隠れていたこの森は、黄金色の麦畑と同じくらい大切な「居場所」になりつつあった。それを、あの鉄の皇子がまた壊そうとしている。

「やめるんだ、オーグ! これ以上やったら、森の魔力が暴走するぞ!」

 ゼノリスが叫んだが、オーグの耳には届かない。

「うるさい! 無能の分際で私に指図するな! 燃えろ、燃え尽きろ!」

 フィリーネの瞳から、青い光が消え、代わりに、この世のものとは思えないほどまばゆい、銀色の光が溢れ出した。彼女がそっと地面に手を触れると、そこから爆発的なまでの命の力が解き放たれた。

「森さん、泣かないで。フィリーが、あたたかい光をあげてあげるから。……悪い火なんて、ぜんぶ食べちゃって!」

 フィリーネの祈りに呼応するように、燃え始めた木々が、一瞬で芽吹き直し、炎を飲み込むほどの緑の蔦が、オーグの放った黒い雷を絡め取っていった。

「……なんだって? 私の雷が、草に食べられただと……? そんな馬鹿なことがあってたまるか!」

 オーグは自分の瞳を疑った。杖を握る手が、初めて恐怖でがたがたと震え始める。

「兄さま、見て! 森が笑ってるわ。……兄さまとフィリーを、まもってくれるって言ってる!」

「ああ、すごいね、フィリー。君の力が、森を呼び覚ましたんだ」

 ゼノリスは、フィリーネの背後に広がる銀色の翼のような光を見つめ、彼女の小さな肩を抱き寄せた。

「セレスティア! 今だ、あいつらの魔力を抑え込んで!」

「わかったわ! 聖なる青き光よ、荒れ狂う心を静めなさい!」

 セレスティアが杖を大地に突き立てると、彼女の魔力がフィリーネの銀色の光と混ざり合い、森全体に柔らかな青い霧が広がった。その霧に触れたゴールドクラスの生徒たちは、戦う意欲を失い、その場にへなへなと座り込んでいった。

「……終わりだ、オーグ。これ以上は、君の体が持たない」

 ゼノリスは泥の中から立ち上がり、オーグの目の前まで歩み寄った。

「くっ……。なぜだ、なぜお前のようなクズに……。私は、私は選ばれた人間なんだぞ……」

「選ばれたかどうかなんて、僕にはわからないよ。でも、今の君は泥だらけだ。僕たちと同じ、ただの人間だ」

 ゼノリスの言葉は、比喩のない、真っ直ぐな真実としてオーグの胸を突いた。森の霧が、鉛クラスをまもるように深く立ち込め、敗れた者たちの姿を隠していく。

 泥だらけの「鉛の騎士団」が、最新の魔導兵器を誇るゴールドクラスを完全に包囲し、森の影から静かに、けれど逃げ場のない勝利を確定させた。

「……兄さま、お腹すいちゃった。おうちに帰ったら、苺のハチミツ漬け、食べてもいい?」

「ああ、いいよ。みんなで食べよう。……ガイル、セレスティア、帰ろうか」

 ゼノリスが微笑むと、泥だらけの仲間たちが、疲れ果てながらも晴れやかな顔で頷いた。  お日さまの光が、木々の隙間から一筋、ゼノリスの泥だらけの顔を照らした。その瞳には、かつての泣き虫だった少年の面影はなく、新しい時代を切りひらこうとする、若き帝王の片鱗が、静かに、けれど確かに宿っていたのである。


 フィリーネが放った銀色の光が、ゆっくりと森の奥へと溶けて消えていった。あとに残されたのは、真昼だというのに夜のように静かな、不思議な時間だった。オーグが力任せに焼き払おうとした木々は、今は瑞々(みずみず)しい緑の葉を広げ、雨上がりの草原のような、しっとりとしたあたたかな香りを漂わせている。

「……嘘だ。……こんなことが、あってたまるか」

 泥の中に膝をついたオーグの声は、乾いた枯れ葉がこすれ合うような、力ない響きだった。  彼の自慢だった紺青の制服は、いまや見る影もなく真っ黒な泥に汚れ、金色の髪には湿った土がべっとりと張り付いている。彼の手にある銀の杖は、主の心の折れる音に呼応するように、その輝きを失い、ただの冷たい棒へと成り下がっていた。

「オーグ様……。もう、やめましょう。……私たちの負けです」

 後ろに控えていたゴールドクラスの生徒が、震える声でつぶやいた。彼は、自分の足元で今も元気に咲き誇っている、フィリーネの魔法が生み出した黄金色の花を、畏怖の混じった瞳で見つめていた。彼らが信じてきた「魔力量こそが正義」ということわりは、この泥だらけの森の中で、跡形あとかたもなく砕け散ってしまったのだ。

「だまれ! 私は負けていない! 私は、選ばれた王の血を引く者だぞ!」

 オーグは狂ったように叫び、泥を掴んでゼノリスへと投げつけた。けれど、その泥はゼノリスに届く前に、森の風に流されて地面へと落ちた。オーグの瞳には、怒りよりも深い、底なしの恐怖が張り付いていた。自分たちを見下ろしているゼノリスの瞳が、あざ笑うわけでもなく、ただ静かに、壊れた玩具おもちゃを見るような悲しみで満ちていたからだ。

「……君のプライドは、そんなに軽いものだったのかい、オーグ」

 ゼノリスは、泥の中に立つ自分の足を一歩踏み出した。彼の周りでは、ガイルが木の上から不敵に笑い、セレスティアが静かに祈りを捧げている。そして何より、自分をまもり抜いたフィリーネが、泥だらけの手でしっかりと自分の服を握りしめていた。

「僕は、君が嫌いだった。でも、今はそれ以上に、君がかわいそうに見えるよ。……そんなに震えてまで守らなきゃいけないものなんて、ここにはもう何もないのに」

 ゼノリスの言葉は、比喩のない、鋭い刃物のようにオーグの胸を突いた。オーグはさらに何かを言い返そうとしたが、喉が震えて言葉にならない。彼はただ、泥の中に手をつき、自分が汚したはずの土の冷たさに、初めて自分自身の孤独を重ねていた。


 ゼノリスは、フィリーネの肩を優しく抱き寄せると、そのままオーグの前まで歩み寄った。  「兄さま、あいつ、まだ悪いことするの? フィリー、また吹き飛ばしてあげようか?」

 フィリーネが、少しだけ瞳を銀色に光らせながら尋ねる。

「いいよ、フィリー。もう彼は、戦う力も、戦う理由も失ってしまったんだ」

 ゼノリスはそう言うと、泥だらけの右手を、オーグに向かって差し出した。包帯が解けかけ、赤黒い火傷の跡が見えるその手は、決して美しくはなかった。けれど、その掌からは、地下書庫で授かった「三つ目の星」の、穏やかな熱が漏れ出していた。

「……なんだ、その手は。私をあわれんでいるのか。そんな汚れた手で、私に触れるな!」

 オーグが弱々しく拒絶する。

「汚れているのは、泥のせいじゃない。……君の心が、自分以外の誰かを認められないせいで、凍りついているだけだ」

 ゼノリスの声は、森の奥に響く鐘の音のように、静かで重かった。

「この泥は、僕たちが生きてきたあかしだよ。父さんが土を耕し、母さんが薬草を育てた、大切な命の色なんだ。……君がバカにしていたプルンブムは、ゴールドみたいにキラキラはしないけれど、こうして誰かの体温を伝えることができるんだよ」

 ゼノリスは無理やりではなく、添えるようにオーグの肩に手を置いた。瞬間、オーグの体から力が抜け、彼は子供のように声を上げて泣き始めた。これまで誰にも見せられなかった弱さ、期待という名の重荷、そして初めて味わった敗北の痛み。それらすべてが、ゼノリスの手から伝わる銀色の温もりによって、一気に溢れ出したのだ。

「……あいつ、意外と泣き虫なんだな」

ガイルが木の上から飛び降り、頭の後ろで手を組みながらつぶやいた。

「解析するまでもない。あいつの心は、自分を縛っていた鉄の鎖から、いま、ようやく自由になったんだよ」

 セレスティアも歩み寄り、泥にまみれたゴールドクラスの生徒たちに、自らの魔力を分けた。  

「大丈夫よ。……この森は、もうあなたたちを拒んだりはしないわ。……鉛の光が、あなたたちの恐怖を流してくれたから」

 セレスティアの青い瞳は、いつくしみに満ちていた。彼女の祈りによって、生徒たちの心に宿っていた暗い影が消え、森の霧が、彼らをまもるように優しく立ち込めた。

「……兄さま、フィリーもお手伝いするわ。……土さん、この人たちが無事におうちに帰れるように、道を教えてあげて」

フィリーネが地面に触れると、森の木々が生きているように動き、学園の出口へと続く、花が咲き誇る真っ直ぐな道を作り出した。

 泥だらけの「鉛の騎士団」が、最新の武器を誇っていたはずのゴールドクラスを、その手で救い上げた。それは、学園の歴史始まって以来の、最も無格好で、けれど最も誇らしい「勝利」の形だった。


 演習の終わりを告げる、重厚な鐘の音が、森の奥深くまで鳴り響いた。その余韻が消えぬうちに、演習場の出口である大きな広場には、何百人もの生徒や教官たちが、固唾かたずを呑んで待ち構えていた。

「……そろそろ時間だが、誰も戻ってこないな」

「ゴールドクラスの連中が、鉛のクズ共を追い詰めるのに時間がかかっているのか?」  

生徒たちの間では、相変わらずさげすむような声が上がっていた。けれど、その声は、森の奥から近づいてくる奇妙な足音によって、一瞬でかき消された。

 ガシャリ、ガシャリ……。泥を噛み締める重い足音。霧の向こう側から現れたのは、ボロボロになり、自慢の魔導人形ゴーレムを失い、泣きはらした顔をしたゴールドクラスの生徒たちだった。そして、その彼らを支えるようにして、一歩一歩、力強く歩いてくる四人の姿があった。

「……見ろ。プルンブムクラスだ」

誰かが息を呑むように言った。

 ゼノリスは、オーグの肩を支え、泥だらけの顔を真っ直ぐに上げていた。フィリーネはその手を握り、ガイルは不敵に笑い、セレスティアは気高く前を見据えている。彼らの全身を覆っている泥は、お日さまの光を浴びて、どんな高価な制服よりも深く、にび色の輝きを放っていた。

「……報告いたします。第8班、鉛クラス。演習を終了しました。……全員、無事です」  

ゼノリスの声は、広場全体を震わせるほど、真っ直ぐに響いた。

 広場の中央で待っていた学園長エレアノールは、その姿を見て、手に持っていた杖をわずかに震わせた。彼女の瞳には、泥にまみれながらも、新しい世界の光を宿した四人の姿が、かつての帝国の伝説と重なって映っていた。

「……ゼノリス。あなたは、自分が何をしたかわかっているのですか」

エレアノールの声は、冷徹な仮面の奥で、激しく揺れていた。

「はい。……僕たちは、誰にも奪われない自分の居場所を見つけました。……そして、それを守り抜きました。……泥にまみれても、僕たちは僕たちのままだということを、証明したつもりです」

 ゼノリスの言葉に、周囲の生徒たちは、石像のように固まった。彼らが「クズ」と呼び、「汚れ」として扱ってきた少年たちが、自分たちの想像もつかないような高みへ辿り着いたことを、認めざるを得なかったのだ。

 その時、広場を見下ろす高い時計塔の屋根の上から、低い笑い声が聞こえてきた。

「くっくっく。……よく言った、わが弟子よ」

 ガンド先生が、銀色の仮面を光らせながら、ひらりと中庭に降り立った。

「学園長。勝敗は決しましたな。……鉄のことわりではなく、泥の温もりが世界を救った。……これは、新しい時代の始まりですぞ」

 ガンドはゼノリスの肩を叩き、満足そうに頷いた。

「さあ、お前たちの城へ戻るがいい。今日の泥は、どんなメダルよりもお前たちを強くするだろう」

 ゼノリスたちは、静まり返った広場を、堂々と歩き抜けた。背後に残されたのは、砕かれた古い常識と、自分たちを見送る、言葉を失った人々の視線だけだった。


 その日の夜、旧時計塔の屋根裏部屋には、あたたかな暖炉の火がパチパチとはぜる、心地よい音が響いていた。泥を落とし、使い古した清潔な服に着替えた四人は、ガンド先生がどこからか持ってきた、甘い苺のハチミツ漬けを囲んで、穏やかな時間を過ごしていた。

「兄さま。フィリー、今日のこと一生忘れないわ。……あの金ピカの人も、最後は少しだけ静かになったし」

フィリーネが、口の周りをハチミツだらけにしながら笑った。彼女の瞳には、森で見せたあの鋭い光はなく、ただ、大好きな兄の隣にいられることの、純粋な喜びだけが溢れていた。

「……本当に、君には驚かされるよ。でも、ありがとう、フィリー。君がいてくれたから、僕は僕でいられたんだ」

ゼノリスは、彼女の銀色の髪を優しくなでた。彼の右手の火傷は、今は静かな熱を保ち、心地よい疲れとともに眠りについていた。

「なあ、ゼノリス。今回のことで、学園中の連中が俺たちの名前を覚えただろうな」

ガイルが、ハチミツ漬けの瓶を回しながら、不敵に笑った。

「解析するまでもない。これからは、俺たちをクズ呼ばわりする奴は、いなくなるはずだぜ」

「ええ。でも、それは私たちが、より大きな嵐の中に足を踏み入れたということでもあるわ」

 セレスティアが、窓の外に広がる深い夜の闇を見つめながら、静かにつぶやいた。彼女の青い瞳には、この勝利がもたらすであろう、国と国とのぶつかり合い、そして運命の歯車が回り始めた様子が、ぼんやりと映し出されていた。

 窓の外では、吸い込まれるような深い青色の夜空が広がり、そこには無数の星たちが、まるで何かを語りかけるようにまたたいていた。遠くからは、かつての故郷である黄金色の麦畑のざわめきが、風に乗って聞こえてくるような気がした。

(……父さん、母さん。僕は、僕たちの居場所を、絶対に守り抜くよ。……何がきても、負けたりしない)

 ゼノリスは、窓越しに夜空を見上げ、その心に、消えない「運命の種火」を灯し続けた。  

(兄さま……。フィリーも、ずっと兄さまと一緒だよ)

隣で眠りについたフィリーネの寝顔を見つめながら、ゼノリスは静かに、けれど熱い誓いを、星たちへと捧げたのである。

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