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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
運命の種火

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第7章:鉄の皇子と銀の聖女

 旧時計塔の最上階。そこに差し込む朝の光は、白亜の巨塔の上層階で見られるような計算された眩しさではなく、もっと素朴で、どこか慈しむようなあたたかさを持っていた。窓からこぼれ落ちたお日さまの粉が、古い木の床に刻まれた無数の傷跡――かつての学者たちが星を追うために椅子を引き、足を踏み鳴らした歴史の跡をひとつひとつ優しくなでている。その光の粒の中で、埃たちがまるで小さな精霊のように、ゆったりとした円を描いて踊っていた。それは、昨夜ゼノリスがしたためたフィリーネへの手紙が、まだこの部屋に温かな熱を残しているあかしのようでもあった。

「……ふぅ、今日もいい天気だね」

 ゼノリスは、使い古された銅のケトルから立ち上る湯気を眺めながら、独り言をつぶやいた。部屋の中に広がるのは、母ミリアが持たせてくれた薬草の、雨上がりの森を思わせるしっとりとした落ち着いた香りだ。それは、この学園の冷徹で凛とした魔力の匂いを、ほんの一時だけ忘れさせてくれる「家族の匂い」でもあった。ゼノリスにとって、このお茶の湯気に包まれる時間は、荒れ狂う内なる二つの鼓動を、人間の温もりという名の鎖で繋ぎ止めておくための大切な儀式だった。

「おいおい、ゼノリス。朝っぱらからそんな隠居した老魔導師みたいな、枯れた顔をするなよ。解析アナライズするまでもなく、お前の心臓はもっと『これから一荒れくるぞ』って、火薬庫に火を点ける寸前の騒ぎ方をしてるぜ」

 ベッドの上で大きく伸びをしたのは、同室のガイルだった。彼はボサボサの茶髪を掻き回しながら、ゼノリスがいれたお茶の香りを鼻いっぱいに吸い込む。彼の「解析」の力は、淹れたてのお茶に含まれる薬草の配合率から、ゼノリスの血管を流れる魔力の微妙な震えまでをも暴き出してしまう。

「おはよう、ガイル。一荒れ、か……。確かに、窓の外を通り抜ける風が、少しだけ、ヴェルンドの鉄の匂いを運んできている気がするんだ。あの、重油と錆が混じった、肺を重くさせる匂いを」

 ゼノリスの言葉に、ガイルは不敵な笑みを浮かべた。

「ハッ、そいつはいい。お日さまに一番近いこの屋根裏部屋が、ただの昼寝場所じゃないことを、ゴールドクラスの鼻持ちならない連中に教えてやる絶好の機会だ。……なあ、ゼノリス。お前、昨日の実習で古い歯車を動かした時、どんな気分だった?」

「……そうだね。何十年も、あるいは何百年も、誰にも思い出されずに凍りついていた時間が、僕の指先から溶けて流れ出していくような感覚だった。それは、僕がこれまでずっと『まもるために隠してきた力』が、初めて世界と仲直りできたような……嬉しかったよ」

 その時、テラスへと続く古い扉が、潮騒のような音を立てて静かに開いた。朝の冷たい空気を青い衣に纏って現れたのは、セレスティアだった。彼女の銀色の髪は、朝日を浴びて白銀の糸のように輝き、その青い瞳は、澄み渡った冬の空のように一点の曇りもなくゼノリスを見つめた。

「おはよう、二人とも。……ゼノリスくん、右手の具合はどう? 昨夜、あなたが遅くまでペンを走らせている音が、風に乗って私の部屋まで届いていたけれど」

 セレスティアの声は、透明な雫が静かな湖面に落ちたときのような、凛とした響きを持っていた。彼女の視線は、ゼノリスが厳重に包帯を巻いている右手の掌へと向けられる。

「大丈夫だよ。先生の手のおかげかな、あんなに嫌だった痛みが、今は自分を支えてくれる重みのように感じるんだ。……春を待つ種が、土の重さを心地よく感じているみたいに」

 ゼノリスは、包帯の上から自分の掌を握りしめた。あの日、地下書庫で宿した三つ目の鼓動。それは魔王の破壊衝動でも、勇者の冷徹な正義でもない、自分自身の意志が紡ぎ出した、誰かをまもりたいという切実な「人間の体温」だった。

「鉛は光を跳ね返さず、内側に熱を蓄える……。ガンド先生の言った通りね」

 セレスティアは窓辺に歩み寄り、遠くの地平線に広がる黄金色の麦畑の幻影を追うように目を細めた。

「私たちは、まだゴールドにはなれない。けれど、このにび色の体の中には、誰よりも熱い太陽を隠し持っている。……今日、私たちはそれを、初めて世界に見せることになるのかもしれないわ。……たとえそれが、鉄の嵐を呼ぶことになったとしても」

 彼女の言葉は、預言者のように重く、そして誇らしげに屋根裏部屋の空気を震わせた。ゼノリスはその言葉を聞きながら、昨夜書いた手紙を思い出した。フィリーネに宛てた、ありふれた、けれど真実の言葉。その言葉たちが、これからの激動の中で自分を繋ぎ止める最後の一線になることを、彼はまだ知る由もなかった。


 鉛クラスの穏やかな朝のひとときを粉々に砕いたのは、時計塔の螺旋らせん階段を「ダダダダッ!」と駆け上がる、猛烈な足音だった。それはまるで、春の嵐が無理やり扉をこじ開けようとしているかのような、迷いのない、そして圧倒的な「重力」を伴っていた。古い木製の階段が、その激しい情熱に耐えかねて、悲鳴のような音を上げている。

「――兄さまぁぁぁっ!! フィリーが、フィリーがまた助けに来てあげたわよ!」

 バンッ! と爆発したような音を立てて扉が開き、そこになだれ込んできたのは、顔を真っ赤に上気させた八歳のフィリーネだった。彼女は、学園の衛兵たちの制止を魔法で(あるいは持ち前の気合で)振り切ってきたらしく、その銀色の髪には中庭の生け垣を突き抜けてきた証拠のように、黄金色の花びらがいくつも付着していた。

「フィ、フィリー!? また君は……! 昨日の手紙で、ちゃんとお留守番してるって、指切りして約束したじゃないか」

 ゼノリスが慌てて駆け寄るが、フィリーネはその制止を全く聞く耳を持たない。彼女はゼノリスの胸に弾丸のような勢いで飛び込むと、その腰を折れんばかりの力で抱きしめた。彼女の小さな体からは、お日さまのような温もりに混じって、心のざわめきが、熱を帯びて伝わってくるようだった。

「やだ! だって、兄さまが夢の中で『フィリー、助けて、オーグっていう金ピカの悪魔がいじめてくるよぉ』って、シクシク泣いてたんだもん! フィリー、心配で心配で、昨日の夜は苺のハチミツ漬けをたった三瓶しか食べられなかったのよ!」

「三瓶も食べたなら十分すぎると思うけど……」

 ガイルが呆れ顔で横から口を挟むが、フィリーネは彼を「ふんっ!」と一瞥いちべつし、再びゼノリスの服に顔を埋めた。彼女にとって、ゼノリス以外の人間は、風景の中に置かれた石ころと同義だった。

「兄さま、いい? フィリーが調べたところによると、この学園には『ゴールドクラス』っていう、名前からして成金趣味の悪い子たちがいるんでしょう? もしその中の『オーグ』っていうのが兄さまに指一本でも触れたら……。フィリー、この学園の地下にあるっていうお宝ごと、そいつをヴェルンドの鉱山の底まで吹き飛ばしてあげるからね!」

 フィリーネの青い瞳には、八歳児とは思えぬほどの、底なしの情愛と、それを実行に移せてしまうほどの強大な魔力の片鱗が渦巻いていた。彼女の周囲では、その激しい感情に呼応するように、時計塔の床の隙間から、季節外れの黄金色の花々が、むせ返るような香りを放ちながら次々と芽吹き始めていた。それは彼女の魔力が、もはや本人にも制御しきれないほど、ゼノリスという存在に執着し、肥大化している証だった。

「わかった、わかったから……。落ち着いて、フィリー。僕なら大丈夫だよ。ほら、この時計塔はこんなに日当たりが良くて、空に近いんだ。君がまもってくれるなら、僕に敵なんていないよ」

 ゼノリスが、かつて黄金の麦畑でそうしたように、彼女の銀色の髪を優しく、慈しむように撫でると、荒れ狂っていたフィリーネの魔力は、冬の終わりに溶け出す雪のように静まり返った。彼女はうっとりと目を閉じ、兄の心臓の音を確認するように耳を当てる。

「……うん。兄さまの音、大好き。……でも、ダメ。フィリー、今日は絶対に帰らないわ。兄さまが今日、あの金ピカと対決するんでしょう? フィリー、特等席で見守ってあげる。兄さまがカッコよく勝つところを、目に焼き付けておかないとね」

「対決だなんて、そんな物騒な……。ただの実技演習だよ」

 ゼノリスは、冷や汗を流しながら、時計塔の窓から見える「白亜の塔」の威容を見上げた。そこは、かつて自分が聖域で見た記憶の中の空中都市のように、傲慢なまでに美しくそびえ立っている。そこには、オーグ・ファン・ヴェルンドという名の、冷徹な「鉄」の意志が待ち構えている。そして、自らの中に眠る「魔王」と「勇者」の鼓動もまた、フィリーネの来訪という名の触媒によって、かつてないほど激しく、共鳴し始めていた。


 フィリーネをどうにかセレスティアに預け(彼女たちは、なぜか「兄さま(ゼノリス)をいかに害虫から守るか」という話題で、奇妙な意気投合を見せていた)、ゼノリスとガイルが午後の実技演習のために中庭へと下りた時のことだ。

 中庭の空気は、朝の穏やかさが嘘のように、ピリピリとした、皮膚を刺すような緊張感に包まれていた。そこには、紺青こんじょうの制服を完璧に着こなしたゴールドクラスの生徒たちが、まるで見せ物を見るような、あるいは泥の中にうごめく虫を観察するような冷ややかな視線を、鉛クラスの生徒たちへと投げかけていた。

「――遅かったな。鉛のクズ共は、時計塔の埃を一つずつ数えるのに時間がかかったのか? それとも、地下のねずみとのおしゃべりが長引いたか?」

 人混みを割り、悠然と現れたのは、オーグ・ファン・ヴェルンドだった。彼の金髪は陽光を弾いて傲慢に輝き、その瞳には、かつてヴェルンドの小隊長カイルが浮かべていたものと同じ、弱者に対する徹底的な選別意識と、支配者としての冷酷な光が宿っていた。

 オーグの周囲だけ、空気が不自然に重く、鉄の錆びたような冷たく硬い匂いが漂っている。彼はゼノリスの前に立つと、わざとらしく鼻をつまみ、眉をひそめて見せた。

「……ふん、やはりすす臭いな。ルーツ家の没落者。……お前がガンドとかいう、いつ死んでもおかしくない正体不明の老いぼれと、地下でコソコソと帝国のガラクタをいじっているという噂を聞いたぞ。鉛のクズには、ガラクタの煤払いが最高の教育というわけか」

「……実技実習だよ。ガラクタじゃない。三千年の時を経てなお息づいている、かつての知恵の破片だ。……鉄を叩く音を知らない君には、わからないかもしれないけれど」

 ゼノリスは、静かに、けれど石碑のように一歩も引かずにオーグの視線を受け止めた。  彼の内側では、魔王の脈動が「この傲慢な男を今すぐ沈黙させろ。その鼻柱をへし折れ」と激しく吠え、勇者の脈動が「秩序を乱し、弱者を虐げる悪を裁け」と厳しく戒めていた。二つの巨大な力が、ひとつの器の中でせめぎ合うたびに、右手の刻印が、包帯の下で白熱し、皮膚を焼き切るような激痛を放つ。その痛みは、彼にとって「人間」でい続けるための、最後の手綱(たづなだった。

「知恵だと? 笑わせるな。帝国が滅んだのは、そんな古臭く脆弱な知恵とやらが、我らヴェルンドの『鉄のことわり』の前に屈したからだ。……力こそが唯一の正解であり、弱者は強者の糧となる。それがこの世界の美しき真理なのだよ、魔力量5の無能くん」

 オーグは右手を優雅に、けれど死の宣告のように軽く挙げた。瞬間、彼の周囲に十数本の「鉄のやり」が、虚空から実体化して現れた。それらは鋭い切っ先をゼノリスの喉元へと向け、獲物の息の根を止める機会を狙う飢えたけだもののような冷徹な殺気を放っている。

「……今日の演習は『対人魔導戦』だ。学園の規則では、魔力量の差は関係ない。……鉛のクズが、どれだけ頑丈な盾になれるか。……俺が直々に、その汚い包帯の下にある『無能の証明』を引きずり出してやろう。覚悟しろ、ルーツ家のゼノ」

 オーグの言葉とともに、背後のゴールドクラスの生徒たちから下卑げびた笑い声が、さざなみのように上がった。ゼノリスは、深く、深く息を吐き、父ロランから授かった「まもるための技」の重心の置き方を意識した。彼にとって、この演習は単なる訓練ではない。それは、自分たち「鉛」の者が、この世界で確かに生きていることを証明するための、静かなる宣戦布告だった。

 中庭の木々が、迫り来る嵐を予感してザワザワと騒ぎ始める。お日さまの光は、オーグの鉄の槍に反射して鋭い凶器へと姿を変え、ゼノリスの視界を、そして彼が守ろうとしている平穏を、真っ白に焼き尽くそうとしていた。

(……来る。……でも、今の僕は、あの麦畑にいた時のような、ただの泣き虫じゃない。……僕には、背中を任せられる仲間がいるんだ)

 ゼノリスの視線の先には、時計塔の窓から身を乗り出し、今にも飛び降りてきそうな勢いで、小さな拳を握って自分を応援しているフィリーネの姿があった。そして隣には、退屈そうにあくびをしながらも、その瞳に膨大な計算式と魔力の流れを浮かべてオーグの弱点を解析しているガイルがいた。

 「鉄の皇子」オーグの冷徹な重圧が、中庭の石畳をミシミシときしませる中、ゼノリスの右手の銀色の刻印が、静かに、けれど決して消えることのない「種火」の輝きを放ち始めたのである。


 オーグの指先が、まるで楽器の弦をはじくように小さく動いた。その瞬間、空中に浮かんでいた十数本の鉄の槍が、重力のかせを振り払って一斉に解き放たれた。それは目に見える武器というよりも、空気を無理やり切り裂いて走る黒い稲妻のようだった。鉄と鉄が激しくこすれ合うような、耳の奥をかき乱す高い音が響き渡り、中庭を包んでいた春のあたたかな空気は、一瞬にして肌を刺すような冷たさに塗り替えられた。

 ゼノリスは、父ロランから授かった「まもるための技」の感覚を、自分の体の芯へと呼び戻した。彼は魔法を使おうとはしなかった。ただ、深く、深く息を吐いて、膝を軽く曲げて体の重みを下へと落とした。父と過ごしたあの逃げ惑う日々、道なき山道を歩き続け、泥にまみれながら重い荷物を背負って鍛え上げた足腰が、石畳の上でしっかりと自分を支えてくれるのを感じていた。

 一本目の槍が、鼻の先を数ミリの差でかすめていく。ゼノリスは、まるで風に吹かれた麦の穂のように、わずかな動きでその鋭い一撃を受け流した。続いてくる二本、三本の槍も、まるで彼を避けて通るかのように、体のすぐ脇を通り抜けてゆく。

「……なぜだ。なぜ、一本も当たらない。ちょこまかと動くな!」

 オーグの口から、隠しきれないいら立ちの声が漏れた。彼の目には、魔力量がたったの「5」であるはずの少年が、魔法も使わずに自分の自慢の攻撃をすべて見切っていることが、どうしても信じられなかったのだ。オーグは怒りを力に変えるように指を激しく動かし、槍の速度をさらに上げた。

 それを見ていたゴールドクラスの生徒たちの間には、不気味な静けさが広がっていた。  さっきまで「プルンブムのクズを痛めつけてやれ」と笑い声を上げていた彼らの顔から、次第に余裕が消え失せてゆく。彼らの心の中には、自分たちが信じてきた「魔力量の高さこそが正義」という決まりごとが、足元から崩れ去っていくような、得体の知れない不安が芽生えていた。彼らには、ゼノリスの動きがどうしても理解できなかった。まるでお日さまの光を浴びて踊る埃のように、ゼノリスは槍の雨の中を、危うくも美しい足取りで歩き続けていたからだ。

(……熱い。右手の星が、怒っているみたいだ)

 ゼノリスは、包帯を巻いた右手が、オーグの放つ冷たい鉄の魔力に反応して熱くなっているのを感じていた。それは、あの大嵐の夜に刻まれた火傷の痛みでもあったが、今のゼノリスにとっては、自分がここにいて、仲間をまもるために立っていることを教えてくれる、力強い鼓動そのものだった。


 ガイルは、手に持っていたマグカップを握りしめた。その掌には、びっしょりと汗がにじんでいる。彼は鋭い瞳でオーグの指先の震えを読み解き、ゼノリスに勝利への道を伝えようとしていた。ガイルの心の中には、自分を対等な仲間として受け入れてくれた「魔力量5」の少年への、熱い友情が込み上げていた。自分にできることは、この「解析かいせき」の力で、彼の盾になることだけだ。

「次だ! 三秒後に、上からまとめてくる。右に跳べ!」

 ガイルの言葉は、まるでゼノリス自身の予感のように、真っ直ぐに彼の心へと届いた。  ゼノリスは石畳を強く蹴り、ガイルの言った通りに身を翻した。その直後、彼がさっきまでいた場所に、数本の槍が激しい音を立てて突き刺さり、火花が散った。


 中庭の空気は、オーグのいら立ちとともに、ますます冷たく、鉛のように重くなっていった。オーグの心は今、かつてないほどの屈辱に焼かれていた。一国の皇子である自分が、名もなき没落者に手こずっている。その事実が、彼の誇りを泥靴で踏みにじるように痛めつけていた。

「逃げ回るばかりか。いい加減にしろ!」

 オーグは吐き捨てるように言うと、両手を大きく左右に広げた。すると、中庭の地面から、無数の鉄の鎖が、まるで地の下で眠っていた不気味な蛇が目覚めたかのように、音を立ててゼノリスの足元へ襲いかかった。その鎖は、槍のように突き刺すのではなく、獲物の手足を縛り上げ、その自由を力ずくで奪うためのものだった。

「ゼノリスくん、気をつけて! あの鎖には、触れた者の力を吸い取る力が込められているわ!」

 時計塔の窓から、セレスティアの澄んだ声が響いた。彼女の青い瞳は、オーグが放つ魔法の「色」を、まるで水面の反射を読み取るように正確に見抜いていた。セレスティアは、窓枠の木を白くなるほど強く握りしめていた。彼女の心の中には、ゼノリスを助けに行きたいという強い願いと、彼が自分たちの「居場所」をまもるために一人で泥にまみれていることへの、切ないまでの愛おしさが混じり合っていた。彼女の目には、ゼノリスの背中に、かつての帝国の騎士たちが背負っていた孤独な影が重なって見えていた。

 ゼノリスは、セレスティアの声を聞き、自分の立ち位置をわずかに変えた。鎖が四方八方から、まるで逃げ場を塞ぐ檻のように迫ってくる。その絶体絶命の瞬間、ゼノリスはあえて、一本の鎖を自らの右手で掴んだ。

「なっ……バカな! 素手で私の鉄に触れるなど!」

 オーグの顔が驚きで大きく歪んだ。魔力で熱せられた鉄の鎖は、肉を焼くほどの熱さを持っていた。ゼノリスの包帯がじりじりと焦げ、右手の火傷が再び激しく疼く。けれど、ゼノリスは手を離さなかった。彼は、父から教わった「大地から力を借りる重心」を使い、自分の体重すべてを鎖に乗せて、一気にオーグの方へ引き寄せた。

「僕の手は、誰かを傷つけるためのものじゃない。誰かをまもるためにあるんだ!」

 ゼノリスの強い意志が、右手の刻印を通じて鎖へと流れ込んだ。ガシャン! という凄まじい音が中庭全体に響き渡り、自分の放った魔法に引っ張られたオーグが、無様に石畳の上をつんのめった。

 それを見ていた生徒たちの中から、悲鳴のような驚きの声が上がった。

「嘘だろ……。あのオーグ様が、力比べで負けたのか?」

「あいつ……いったい、なにものなんだ?」

 そのざわめきは、オーグにとって死よりも耐えがたい恥辱だった。彼は立ち上がり、服についた汚れを払うこともせず、ゼノリスを殺さんばかりの瞳で見つめた。オーグの誇りは今、泥にまみれた鉛の少年の手によって、二度と元には戻らないほど深く傷ついていたのだ。


 その一部始終を、時計塔の窓から見守っていたフィリーネの心は、すでに限界を超えていた。彼女にとって、ゼノリスは世界を照らすたった一つの光であり、自分が生きる理由そのものだった。その光が、あんな汚れた冷たい鉄の塊に触れられ、傷ついている。その事実が、彼女の幼い魂を、鋭い刃で掻きむしるように苦しめていた。

「やめて……。兄さまを、痛くしないで……」

 フィリーネの声は、最初は自分にしか聞こえないほどの小ささだった。けれど、彼女の小さな掌から漏れ出す黄金色の魔力は、彼女の「悲しみ」に呼応するように、じわりじわりと周囲の壁を溶かし始めていた。彼女の目には、オーグが次の攻撃のために、これまでとは比べものにならないほどの、まがまがしい破壊の力を溜めているのがはっきりと見えていた。

 オーグが両手を空高くかかげた。「鉄の牢獄アイアン・ジェイル」――中庭全体を覆い尽くすほどの巨大な鉄の格子が、まるで空から降ってきた呪いの網のように、ゼノリスたちの頭上を塞いだ。真昼だというのに、降り注いでいたお日さまの光が完全に遮られ、ゼノリスの視界は一瞬にして夜へと変わった。

「もう、おしまいだ。鉛のクズは、そこで静かにしていろ」

 オーグの冷たい言葉が、鉄の檻の中で反響した。その暗闇は、かつて家族で逃げ惑った原生林の夜のように、重苦しく、救いのないものだった。

「――兄さまぁぁぁぁぁっ!!」

 その瞬間、フィリーネの中で、彼女を繋ぎ止めていた理性が音を立てて砕け散った。彼女をまもっていたはずの優しさや、兄を慕う純粋な想いが、一気に「暴走」という名の銀色の光となって溢れ出したのだ。

 フィリーネの青い瞳から光が消え、代わりに、この世のものとは思えないほどまばゆく峻烈な、銀色の輝きが溢れ出した。彼女の背中から、光の翼のようなものが大きく広がり、時計塔全体が、まるでお祭りの日のように輝き始める。

「兄さまをいじめる悪い子、フィリーが許さない。ぜんぶ、ぜんぶ消えちゃえ!!」

 フィリーネが窓から身を乗り出すと、学園中の空気が、キィィィィィィン、という高い悲鳴を上げた。中庭の木々が一瞬で白く凍りつき、代わりに、巨大な銀色の光の柱が、フィリーネのいる時計塔から空に向かって突き抜けた。

 その光は、オーグが作り出した自慢の鉄の檻さえも、熱したナイフで冷たいバターを切るように、軽々と溶かして消し去っていった。学園の生徒たちが、そして先生たちが、何事かと驚いて空を見上げた。そこには、八歳の少女が引き起こした、世界の終わりと始まりを同時に告げるような、恐ろしくも美しい「銀の嵐」が吹き荒れていたのである。

 ゼノリスは、その銀色の嵐の中で、一人立ち尽くしていた。

(フィリー……。ごめん。また君に、こんなに苦しい思いをさせて……)

彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、フィリーネの放つ銀色の光に照らされて、どんな宝石よりも美しく、そして悲しく輝いていた。


 空を突き抜けるような銀色の光の柱が、旧時計塔から立ち昇り、学園全体を昼間よりもまばゆい白一色の世界へと変えていた。その光はあたたかくはなく、触れるものすべてを凍らせるような、恐ろしいほどの静かさを持っていた。中庭の石畳の上には、季節外れの真っ白な霜が降り、ついさっきまで戦っていた熱気を力ずくで奪い去っていく。

「兄……さま……」

 光の中心にいるフィリーネの声は、まるで遠い場所から聞こえてくるような、透き通った響きを持っていた。彼女の背中からは、光で編まれた大きな羽のようなものが広がり、その一振りごとに、学園の空気が震え、窓ガラスが悲鳴を上げていた。

「な、なんだ、この力は……。八歳の子供が、こんなデタラメな魔力を……」

 オーグは、自慢の鉄の槍が光に溶かされ、消えていくのを呆然と見つめていた。彼の誇りであった「鉄の理」は、今、目の前にある圧倒的な銀色の力の前に、塵となって消えようとしている。オーグの顔からは、先ほどまでの傲慢さは消え失せ、代わりに、逃げ場を失った小動物のような、情けない恐怖が張り付いていた。

 「危ない! ゼノリス、逃げろ! その光に触れたら、お前の魔力ごと魂まで凍らされるぞ!」

 ガイルが必死に叫びながら、ゼノリスの方へ駆け寄ろうとする。けれど、フィリーネから放たれる銀色の嵐は、近づく者すべてを拒絶するように、中庭を大きな檻のように囲んでいた。

 ゼノリスは、その嵐の真ん中で、一人立ち尽くしていた。お日さまの光を遮るほどの銀色のまぶしさの中で、彼の瞳だけは、真っ直ぐにフィリーネを見つめていた。

(フィリー……。あんなに悲しい顔をして。……僕が、君を一人にしてしまったせいだね)

 ゼノリスの胸の奥で、二つの大きな鼓動が、かつてないほど激しくぶつかり合っていた。  魔王の破壊したいという願いと、勇者のすべてを正したいという願い。その二つが混ざり合い、彼の体の中から、どろりとした熱い何かがあふれ出そうとする。

「……やめて、フィリー。もう、いいんだ」

 ゼノリスの声は、嵐にかき消されることなく、真っ直ぐに彼女へと届いた。彼は右手の包帯を、自らの手でゆっくりと解き始めた。赤黒くただれた火傷の跡が、銀色の光に照らされて、不気味に浮かび上がる。その火傷の跡の上に、あの日、地下書庫で授かった「三つ目の星」が、静かに、けれど力強くまたたき始めた。


 ゼノリスが右手を天に掲げた瞬間、学園中を支配していた銀色の嵐が、ぴたりと動きを止めた。それは、時間が凍りついたかのような、不自然で、けれどどこか懐かしい静寂だった。

「見て、ゼノリスくんの手……。あれは、魔王でも勇者でもない光……」

 石造りの廊下の影で祈るように見守っていたセレスティアが、震える声でつぶやいた。  彼女の青い瞳には、ゼノリスの右手から溢れ出す、銀色の粉のような不思議な光が映っていた。その光は、フィリーネの冷たい光とは違い、まるで冬の夜の暖炉の火のように、見守る者たちの心を芯から温めてくれるものだった。

「――これは、僕自身の意志だ」

 ゼノリスは、自分の中に渦巻く巨大な二つの力を、その三つ目の鼓動で包み込んだ。それは、父ロランが教えてくれた「まもるための剣」のリズムであり、母ミリアがいれてくれたお茶の「あたたかな匂い」だった。魔王の力でもなく、勇者の力でもない。ただの「ゼノ」として、大好きな妹を助けたいと願う、切実な人間の体温だった。

 ゼノリスは一歩、また一歩と、フィリーネに向かって歩き出した。足を動かすたびに、石畳に降りていた霜が溶け、そこから黄金色の小さな花たちが、今度こそ穏やかに顔を出す。

「こっちにおいで、フィリー。もう、怖くないよ」

 嵐の中心に手を差し出すゼノリスの姿は、見ている者たちの目には、まるで泥の中に咲く一輪の銀色の花のようにも、あるいはすべてを受け入れる大きな大地のようにも見えた。

 フィリーネの瞳に、わずかな正気が戻る。

「にい……さま……? フィリー、悪い子になっちゃった。兄さまを、傷つけちゃう……」

「大丈夫だ。君の光も、僕のこの熱も、誰かを傷つけるためのものじゃないはずだよ」

 ゼノリスは、フィリーネの冷たい光の羽に、あえてその身をさらした。衣服が白く凍り、肌を突き刺すような痛みが走る。けれど、彼の右手の星が放つ柔らかな光は、その冷たさを優しく溶かし、彼女の孤独な心を包み込んでいった。

 ついにゼノリスの手が、フィリーネの小さな肩に触れた。その瞬間、学園を飲み込もうとしていた銀色の光の柱は、小さな粒となって夜空へと消えていった。

 崩れ落ちるフィリーネを、ゼノリスはしっかりと両腕で受け止めた。

「よく頑張ったね、フィリー。……さあ、一緒に帰ろう」

 中庭には再び、穏やかな春の陽光が差し込み始めた。けれど、そこにはもう、プルンブムクラスをあざ笑う者は一人もいなかった。生徒たちはみな、泥にまみれながらも銀色の光を纏って立った少年の姿を、畏れと尊敬の混じった瞳で見つめていたのである。


 静寂が戻った中庭で、オーグは膝をついたまま、震える手で自分の胸元を握りしめていた。  彼の周りにあった鉄の檻は跡形もなく消え、あとに残ったのは、ただの冷たい石畳だけだった。

「……ありえない。私は皇子だ。この国の、次なる鉄の王だぞ。あんな、どこの誰ともわからぬクズに、力負けするなど……」

 オーグの言葉は、乾いた砂のように力なく、地面に落ちていった。彼の心の中には、ゼノリスが見せたあの「銀色の光」が、消えない火傷の跡のように焼き付いていた。それは、力でねじ伏せる「鉄の理」を、根底から覆すような、底知れない優しさだった。

「そこまでにしなさい、オーグ・ファン・ヴェルンド」

 回廊の奥から、凛とした、けれどすべてを凍りつかせるような冷徹な声が響いた。そこに立っていたのは、学園長エレアノールだった。彼女の長い白髪が、微かな風に揺れ、その手にある杖が石畳をコツンと叩いた。

「校長……。私は、ただ、無能な鉛のクラスに教育をほどこそうとしただけで……」

 オーグが言い訳をしようとしたが、エレアノールはそれを冷たい一瞥で黙らせた。

「あなたのしたことは教育ではありません。ただの暴力です。……それに、ゼノリスくんが見せたあの力、そして彼女が見せたあの光。……それが何を意味するか、あなたには理解できていないようですね」

 エレアノールは、ゼノリスの腕の中で眠るフィリーネに視線を向けた。彼女の瞳には、かつて三千年前の記録でしか見たことのない、「星の種」の輝きが映っていた。

「鉛は、ゴールドよりも重く、より多くの熱を溜め込む……。ガンド先生が、なぜ彼らをあの旧時計塔へ導いたのか、ようやくわかった気がします」

 エレアノールがそうつぶやくと、建物の屋根の上から、低い笑い声が聞こえてきた。

「くっくっく。……ようやく気づいたか、若き校長よ」

 そこには、銀色の仮面を月光に光らせた老魔導師、ガンド先生が立っていた。彼は杖代わりにしている樫の木の枝を振り、ひらりと中庭に降り立った。

「ガンド先生……。あなたが、この事態を招いたのですか?」

「人聞きの悪いことを言うな。私はただ、彼らにふさわしい舞台を用意しただけだ。……鉛の者たちが、いつまでも泥の中に沈んでいるわけがない。彼らは、この世界を下から支え、やがてすべてを塗り替えるための、本物の『種火』なのだからな」

 

ガンドはゼノリスのそばに歩み寄り、その肩に節くれ立った大きな手を置いた。

「よくやったな、ゼノリス。お前がその右手の火傷を選んだときから、この物語は決まっていたのだ。……さあ、仲間たちを連れて、自分たちの居場所へ戻るがいい。今日の授業は、これでおしまいだ」

 ゼノリスは、ガンド先生の言葉に深く頷いた。彼はガイルに手を貸し、セレスティアを隣に迎え、腕の中のフィリーネを抱き直した。中庭に差し込むお日さまの光は、泥にまみれた彼らの背中を、どんな黄金の衣装よりも誇らしく、そしてあたたかく照らしていた。


 その日の夜、旧時計塔の屋根裏部屋は、昼間の騒ぎが嘘のように静かな落ち着きを取り戻していた。窓の外には、吸い込まれるような深い青色の空が広がり、そこには宝石を散りばめたような星たちが、優しくまたたいている。

 ベッドの上で、フィリーネがようやく目を覚ました。彼女はぼんやりとした瞳で周りを見渡し、すぐそばで座っていたゼノリスの姿を見つけると、安心したように小さく笑った。

「……兄さま。フィリー、また怒られちゃうようなことした?」

「いいや、何もしてないよ。君が、僕を助けてくれたんだ」

 ゼノリスは、彼女の銀色の髪を優しくなでた。彼の右手には、再び新しい包帯が丁寧に巻かれている。それはセレスティアが、「あなたの手は、これからもっと多くの人をまもるためのものだから」と言って、心を込めて巻いてくれたものだった。

「ねえ、兄さま。約束して」

 フィリーネが、ゼノリスの指をぎゅっと握った。

「いつかフィリーが大人になったら、兄さまの隣で、一緒にこの星をまもらせて。……もう、暴走したりしないから」

「ああ、約束だよ。僕たちは、ずっと一緒だ」

 ゼノリスの言葉に、部屋の隅で本を読んでいたセレスティアと、お茶をいれていたガイルも、ふっと微笑んだ。「鉛の騎士団」――まだ名もない、けれど世界で一番あたたかな絆が、この空に一番近い場所で、静かに、けれど力強く結ばれた瞬間だった。

 窓の外では、一筋の流れ星が、黄金色の麦畑の方へと消えていく。それは、これから始まるさらなる激動の予兆であり、同時に、少年たちが切り開く新しい時代の幕開けを祝う、帝国の種火の輝きのようでもあった。


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