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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
運命の種火
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第6章_鉛(プルンブム)の窓辺、空に一番近い場所

 じっとりと湿った空気が足元にまとわりつく、地下最下層の教室。そこは、かつて帝国の荷物置き場だった場所であり、今は「プルンブムクラス」という名を与えられた、光から見放された子供たちの掃き溜めとなっていた。天井の隅では、古ぼけた魔導灯が「ジジ……」と、今にも消え入りそうな小さな悲鳴を上げている。ゼノリスは、ひび割れた机に積もった埃の粒を眺めながら、右手の包帯をそっとさすった。その下には、あの夜に刻まれた火傷の跡と、地下書庫で授かった銀色の星の刻印が、密やかに、けれど熱く息づいている。

「……ねえ、ゼノリス。ここ、なんだか古いお墓の中にいるみたいだと思わない?」

 銀色の髪を三つ編みにしたセレスティアが、隣の席で古びた本を閉じ、青い目の瞳で彼を見つめてきた。その声は透明で、埃っぽい教室の空気を僅かに震わせる。

「そうだね。お日さまの光が、ここまでは届くのを忘れてしまったみたいだ」

 ゼノリスが静かに答えると、後ろの席で鼻を鳴らす音が聞こえた。解析の力を持つ少年、ガイルだ。

「ハッ、お日さまなんて、ゴールドクラスの連中が独り占めしてるのさ。俺たち鉛のクズには、石壁の結露がお似合いだってよ」

 ガイルが皮肉っぽく笑った、その時だった。鉄の扉が、思いがけないほど軽やかな音を立てて開いた。

「あらあら。随分と、もったいない時間を過ごしているのね」

 入ってきたのは、柔らかな琥珀色の髪を揺らす、一人の女性だった。その身に纏うのは、学園の最高責任者のみが許される、星の刺繍が施された白亜のローブ。帝国魔導院学園の校長、エレアノールだった。彼女が足を踏み入れた途端、よどんでいた地下の空気が、まるで春の野原を吹き抜ける風が混じったかのように、ふわりと軽くなった。

「校長先生……? どうして、こんな場所に」

 驚いて立ち上がろうとする生徒たちを、エレアノールは穏やかな手つきで制した。彼女の瞳は、慈しむように教室内の一人一人を見渡し、最後にゼノリスのところで、春の陽だまりのような微笑みをたたえて止まった。

「伝統というのは時に、大切なものが見えなくなるほどの分厚い雲を作ってしまうわ。……私はね、才能というのは地下に埋めておくものではなく、空に向かって芽吹かせるものだと信じているの」

彼女は茶目っ気たっぷりに人差し指を口元に当て、窓のない壁を杖で軽く叩いた。

プルンブムクラスの皆さん。今日からこのカビ臭い地下室とはさよならよ。……あなたたちには、学園で最も空に近い場所――旧時計塔の最上階を新しい教室として用意したわ」


 エレアノール校長に導かれ、ゼノリスたちは迷路のような地下廊下を抜け、学園の北側にひっそりと佇む古い時計塔へと移動した。長い間、誰にも使われていなかったというその塔の階段は、一歩登るごとに「テケテケ」と木の精霊が歌うような心地よい音を響かせる。

「わあ……っ!」

 最上階の扉を開けた瞬間、一行を迎え入れたのは、暴力的なほどにまぶしい黄金の光だった。そこは、かつて帝国の天文学者たちが星を数えるために使っていたという、円形の広い部屋。天井は高いドーム状になっており、壁のほとんどが大きなガラス窓でできている。窓からは、学園都市エーテルガードの街並みが箱庭のように見渡せ、遠くには黄金色の麦畑を思い出させるような、なだらかな丘が連なっていた。

「すごい……。ここなら、風が直接、髪をなでてくれるわ」

 セレスティアが嬉しそうに窓辺へ駆け寄る。差し込んだお日さまの粉が、彼女の銀色の髪を一筋ずつ、きらきらと輝かせていた。ゼノリスもまた、窓から差し込む光に目を細めた。地下での一件以来、自分の内側でせめぎ合っていた魔王と勇者の鼓動が、この穏やかな光に包まれて、まるでひなたぼっこをする猫のように静かに凪いでいくのを感じた。

「……いい場所だね。父さんや母さんにも、この景色を見せてあげたいな」

 ゼノリスが呟くと、後ろからガイルがどさりと椅子に腰を下ろした。

「ハッ、相変わらずおめでたい奴だ。……まあ、あの地下牢に比べりゃ、ここは天国だな。……よし、この一番日当たりのいい席は俺の特等席に決まりだ」

 そう言って笑うガイルの横顔には、さっきまでの尖った表情は消え、年相応の少年らしい無邪気さがあふれていた。プルンブムという重い鎖に繋がれたはずの彼らの心は、この空に近い場所で、少しずつ、けれど確かに解きほぐされようとしていた。


 引っ越しの片付けも一段落し、ゼノリスが新しい机の拭き掃除をしていた時のことだった。階下の広場から、何やら騒がしい叫び声と、衛兵たちの慌てた足音が聞こえてきた。

「兄さま! 兄さま、どこなの!? フィリーが助けに来たわよ! 今すぐその汚い地下から、兄さまを連れ戻してあげるから!」

 ゼノリスは、持っていた雑巾を落としそうになった。その、鈴を転がしたような、けれど火薬のような危うさを秘めた声は、間違いなくフィリーネのものだった。

 慌てて窓から身を乗り出して見下ろすと、そこには、学園の制服でもない、動きやすさを重視した(というより、ほとんど潜入工作員のような)服装に身を包んだ八歳のフィリーネがいた。彼女は、山のような高さに積まれた豪華な三段重ねのお弁当箱を抱え、今まさに学園の防壁をよじ登ろうとしているところだった。

「に、兄さまが地下でいじめられて、冷たい泥水をすすっているって……フィリー、夢で見たの! 兄さま、待ってて! 今、フィリーがこの学園を魔法で消し飛ばして、兄さまを自由に……あ、離しなさい、この無礼者め! フィリーは兄さまの、世界でたった一人のお嫁さんになる人よ!」

「お、落ち着いてください、お嬢さん! ここは学園の神聖な敷地内で……!」

 庭師と衛兵たちが、必死になって彼女の腰を掴み、引きずり下ろそうとしている。だが、フィリーネの瞳には、ゼノリスという光を見失ったことへの、狂おしいまでの焦燥と情愛が燃えていた。彼女の周囲では、その激しい感情に呼応するように、季節外れの黄金色の花々が、石畳の隙間から次々と芽吹いている。

「……フィリー!」

 ゼノリスが時計塔の窓から身を乗り出して叫ぶと、フィリーネはぴたりと動きを止めた。彼女は大きく首をのけぞらせ、空に一番近い窓に立つ兄の姿を見上げると、その瞳を一瞬で春の泉のようなきらきらとした輝きで満たした。

「……兄さま? ……地下じゃなくて、お空にいるの?」

「ああ、そうなんだ。エレアノール校長先生のおかげで、こんなに素敵な場所に引っ越せたんだよ。……だから、学園を消し飛ばすのは待ってくれないかな」

 ゼノリスが困ったように笑いかけると、フィリーネは頬を赤らめ、抱えていたお弁当箱をぎゅっと抱きしめ直した。

「……そうなの。……兄さまがいじめられていないなら、フィリー、今日は許してあげる。……でも、兄さま! このお弁当、兄さまの好きな苺のハチミツ漬けをたくさん入れたの! 早く下りてきて、フィリーに『あーん』して食べさせてくれないと、フィリー、ここで魔法を暴走させちゃうんだから!」

「わかった、わかったから……! 今、すぐに行くよ」

 ゼノリスは、呆れ顔で見守るガイルとセレスティアに

「ちょっと、行ってくる」

と告げ、飛ぶような足取りで時計塔の階段を駆け下りた。背後で、ガイルの

「……あいつ、本当に魔力量5の平凡な奴か? 背負ってるものが重すぎるだろ」

というつぶやきが聞こえたが、今のゼノリスには、早くあの愛らしくも騒がしい「妹」を抱きしめてやることで頭がいっぱいだった。

 白亜の塔の、一番高い場所。プルンブムという不器用な名前を与えられた少年たちは、こうして新しい、光あふれる日常の第一歩を踏み出したのである。


 旧時計塔の最上階。かつて星を追う人々がいたその場所は、今では「プルンブム」という、不器用で重たい名前を背負わされた子供たちの新しい隠れ家となっていた。大きな窓からこぼれ落ちたお日さまの粉が、古い木の床の傷跡をひとつひとつ優しくなでている。その部屋の真ん中に、フィリーネが命懸けで運んできた三段重ねの大きなお弁当箱が、まるで大切な秘密を打ち明けるような仕草で広げられた。

「さあ、兄さま! フィリーが昨日の夜から、兄さまのことだけを考えて、一つ一つに『兄さま大好き』の魔法を込めた特別なご馳走よ。一口食べるごとに、兄さまの心にある嫌なトゲが、春の光に溶ける雪みたいに消えていくんだから!」

 八歳になったフィリーネは、ふんす、と可愛らしく鼻を鳴らして胸を張った。彼女の瞳は、大好きな兄を前にして、雨上がりの泉のようにきらきらと跳ねている。お弁当の蓋を開けた瞬間、部屋の中にふわりと広がったのは、甘くて、どこか懐かしい、お日さまのような香りだった。それは、かつて家族で囲んだ黄金色の麦畑の食卓を思い出させる、香ばしく焼けたパンの匂い。そして、その横には、真っ赤な実を宝石のように並べた「いちごのハチミツ漬け」が、溢れんばかりに詰められていた。

「……これ、あの時の苺かな」

 ゼノリスは、かつて逃亡の最中、冷たい岩肌で見つけ出した一粒の小さな命を思い出した。あの時、凍えるような指先で、妹のためにと摘み取った苺の「あまくて、ちょっと酸っぱい」味。それを知恵と愛情でさらに磨き上げたようなご馳走を前にして、ゼノリスの胸の奥に固まっていた冷たい塊が、お茶の湯気に溶かされるようにゆっくりとほどけていくのを感じた。

「兄さま、あーんして? フィリーが、兄さまのお口に直接、幸せを運んであげるんだから。あ、動いちゃダメよ。兄さまは、フィリーが運ぶ幸せをじっと待っていればいいの!」

「あ、ああ。ありがとう、フィリー。……でも、皆も見てるから、自分で食べられるよ」

 ゼノリスが顔を赤らめて周囲をうかがうと、そこには「解析」の力を持つ少年・ガイルが、鼻をヒクヒクさせながら、今にも飛びかからんばかりの勢いで身を乗り出していた。

「おいおい、没落貴族の妹さんは随分と豪勢なものを持ってるな。その苺の輝き……解析しなくても分かるぜ。これは、ただの食べ物じゃねえ。……作った奴の執念が、あまりにも純粋な魔力になってこびりついてやがる。これを食べたら、俺のひねくれた性格まで真っ直ぐに直されちまいそうだ」

「あら、そこのボサボサ頭のあなた。兄さまの仲良しさんなら、少しだけなら分けてあげてもいいわよ。ただし! 食べ終わった後は、兄さまに意地悪をする悪い子たちを、フィリーと一緒に、魔法で遠くの星まで飛ばすお手伝いをすること。わかった?」

「……条件が物凄く物騒だが、この匂いには抗えねえ。俺の知略とやらを、その苺一粒で一週間分くらい貸し出してやるよ」

 ガイルが苦笑しながら、フィリーネから「特別に」手渡されたパンに手を伸ばし、それを見たセレスティアも

「私も、その美しい赤色を一口いただこうかしら。この時計塔に、ようやく本物のいろどりが届いたみたいね」

と、気品ある仕草で輪に加わった。

白亜の学園の片隅、空に一番近い屋根裏部屋で、賑やかな笑い声が風に乗ってさらさらと流れていく。それは、つい数時間前まで地下の暗がりにいたことが嘘のような、穏やかで優しい、まどろみの時間だった。ゼノリスは、フィリーネの熱すぎる愛情に困りながらも、自分がまもるべきはこの温かな光なのだと、掌の火傷をそっとなでて再確認していた。


 賑やかな放課後が終わり、夜のとばりが学園を深い青色で包み込む頃。ゼノリスは、全寮制の男子寮にある、古びた木の温もりが残る二人部屋の一角に腰を下ろしていた。同室になったのは、やはり「解析」の力を持つ少年、ガイルだった。昼間の快活さはどこへやら、ガイルは自分のベッドに大の字になって転がり、高い天井をじっと見つめている。解析の力で世界を読み解きすぎる彼は、人一倍、情報の波に疲れ果ててしまうのかもしれない。

「……ガイル、起きてる?」

 ゼノリスは、母ミリアから持たせられた小さな薬草の袋を取り出した。母は街の薬草店を切り盛りしながら、息子が慣れない場所で眠れない夜を過ごさぬよう、心を落ち着かせるハーブをいくつも持たせてくれたのだ。使い古された銅のケトルでお湯を沸かすと、部屋の中に、雨上がりの森のような、しっとりと落ち着いた香りが広がり始めた。

「……なんだよ、その匂い。……鼻の奥に刺さっていた数字のとげが、すうっと抜けていくじゃねえか」

 ガイルが身を起こし、ゼノリスが差し出した、少し欠けたマグカップを両手で包み込んだ。  お茶から立ち上る湯気が、二人の間の張り詰めた空気を、春の陽だまりのように柔らかくほどかしていく。

「これは母さんが調合してくれたお茶なんだ。……僕たちの村は、地平線まで黄金色の麦畑が広がっていてね。夜になると、草の匂いと星の光が、毛布みたいに僕たちを優しく包んでくれたんだよ」

 ゼノリスの語る言葉は、物語を聞かせるように穏やかだった。難しい言葉を並べるのではなく、情景が目に浮かぶような、どこか懐かしい響き。ガイルはその話を聞きながら、ゆっくりとお茶をすすった。

「……俺の家は、ずっと昔に『解析』の力を王家に恐れられて、名前を奪われた没落貴族さ。……見えすぎるってのは、辛いんだぜ。他人の隠した意欲も、この世界の崩れかけたほころびも、全部数字になって脳内に流れ込んでくる。……でも、お前のお茶は、解析しても『愛』っていう、わけのわからない暖かい記号しか出てこねえ。……そんなもの、今の時代、どこの王宮の宝物庫を探したって見つかりゃしねえよ」

 ガイルは少しだけ照れくさそうに笑い、それからゼノリスの「白い包帯で厳重に隠された右手」を見つめた。

「なあ、ゼノリス。お前、本当は……いや、今はまだ聞かないでおく。解析しなくても、お前がいい奴だってことは、このお茶の味が教えてくれたからな。……ただ、その包帯の下にある熱量だけは、いつか自分の思い通りに操れるようになれよ。……解析しただけで、俺の目が焼けちまいそうなんだ」

 二人はそれ以上言葉を交わさなかったが、背中を向けて眠りにつくその距離は、昼間よりもずっと縮まっていた。外では月が静かに見守り、二人の少年の孤独を、銀色の光で優しく撫でていた。


 翌朝、寮のゼノリスの机の上には、学園の郵便配達員が困り顔で置いていった「巨大な包み」が鎮座していた。それは、どう見ても八歳の少女が送るサイズではない、荷馬車の一角を占拠しそうなほど大きな、ひときわ目立つ桃色のリボンで結ばれた箱だった。

「……兄さまへ。フィリーより愛を込めて。追伸:箱を開けるときは、周りに女の人がいないか確認してください。もしいたら、この箱が爆発してその人を遠くへ飛ばします」

「……爆発するのかよ、この贈り物」

 ガイルが引き気味に覗き込む中、ゼノリスはおそるおそるリボンを解いた。幸い、爆発は起きなかったが、中から溢れ出してきたのは、フィリーネの情熱をそのまま形にしたような、過剰なまでの「癒やしグッズ」の数々だった。

「これ……全部、手編みの靴下かな。……一、二、三……。毎日履き替えても、卒業するまで持ちそうだ」

 さらには、フィリーネの声を魔法で閉じ込めたという「お喋りクリスタル」が転がり落ち、部屋中に彼女の元気すぎる声が響き渡った。

『兄さま! 昨日の夜はちゃんと眠れた? 寂しくて枕を濡らしていない? もし寂しかったら、フィリーが今すぐ学園の壁を壊して、兄さまのベッドまで潜り込んであげるからね! あ、でも他の女の子に優しくしちゃダメよ。フィリーが星の力で、その子の髪の毛を全部苺の色に変えちゃうんだから!』

「……あいつ、本当に八歳か? 執念のレベルが帝国の守護霊並みだぜ」

 ガイルが呆れ果てる中、ゼノリスはフィリーネが一生懸命に書いたであろう、たどたどしい文字の手紙をそっと胸に当てた。彼女の愛は重く、時に少しだけ怖いけれど、それでもこの騒がしさが、今のゼノリスにとっては、かつての黄金色の麦畑へと繋がる唯一の、そしてかけがえのない絆だった。


 数日後の夜。ゼノリスは一人、誰もいない旧時計塔のテラスに立っていた。頭上に広がるのは、三千年前から変わらぬであろう、吸い込まれるような深い夜の闇と、こぼれ落ちそうな星々の瞬きだ。この場所は学園で一番空に近く、冷たい夜風が吹くたびに、星たちの囁きがそのまま耳に届くような錯覚さえ覚える。

「――プルンブムというのはね、お日さまの光を跳ね返さずに、ぜんぶ自分の内側へ吸い込んでしまう、とても欲張りで優しい金属なのだよ」

 不意に背後から聞こえた、枯れ木が擦れ合うような低い、けれど不思議と耳の奥に心地よく残る響き。振り返ると、そこには銀色の仮面を月光に鈍く光らせた老魔導師、ガンド先生が立っていた。杖代わりにしている樫の木の枝が、石畳をコツンと叩き、夜のしじまを静かに波立たせる。

「先生……。光を、吸い込む?」

 ゼノリスが問い返すと、ガンドは隣に並び、仮面の奥にある深い瞳を夜空へと向けた。

「そうさ。ゴールドというのはね、自分を美しく見せるために、もらった光をぜんぶ外側へ跳ね返してしまう。だからあんなに眩しく、人目を引くのだ。だがね、鉛は違う。あいつらは、受け取った光を大切に、大切に自分の奥底へと仕舞い込み、いつか来るべき時のために熱を蓄え続ける。外からは見えないけれど、その内側には誰よりも熱い太陽を隠し持っているのさ」

 ガンドはそう言って、ゼノリスの右手の包帯を巻いた掌を、まるで見通しているかのように見つめた。

「光を跳ね返さず、すべてを自分の重みに変えていく。だから鉛はあんなににび色で、けれどずっしりと手応えがあるのだよ。目立ちはしないが、誰よりも深く、世界の足元を支えるための重み。それは、光を弾いてしまう金には、決してできない仕事なのだ。……ゼノリス。お前の中にある二つの鼓動も、今はその重い鉛の殻の中で、静かに、けれど熱く育っている。それでいいのだ。焦って光を外に漏らす必要はない」

 ガンドの言葉は、冬の夜に焚く暖炉の火のように、静かにゼノリスの身体を芯から温めてくれた。老魔導師はそっと杖の先をゼノリスの足元に向け、地面を優しくなでた。

「明日からは、少しだけ趣向を変えた授業を始めてやろう。……ゴールドクラスの連中が、決して触れることのない『泥にまみれた本物の歴史』をな。……お前のその右手が、何のためにあるのかを教えるための実習だ」

 ガンドは翻るマントの裾とともに、闇の中へと吸い込まれるように消えていった。テラスに残されたゼノリスは、自分の内側に生まれた三つ目の鼓動が、静かに、けれど力強く時を刻み始めているのを感じていた。空に一番近い窓辺で、少年の決意は、夜空の星々さえもひざまずかせるほどの、静かな、けれど決して消えることのない輝きを帯び始めていた。


お日さまが空のてっぺんを通り過ぎ、建物の影が少しずつその足を伸ばし始めた頃。プルンブムクラスの面々は、ガンド先生の静かな先導で、学園の裏手にある「忘れ去られた庭」へと足を踏み入れていた。そこは、白亜の塔のきらびやかな装飾からは想像もつかないほど、ひっそりと静まり返った資材置き場だった。長い年月の間、冷たい雨や強い風にさらされてきた錆びた鉄の破片や、魔法の灯が消えてただの石ころになってしまった魔導具の残骸ざんがいが、まるで見捨てられた古い記憶の墓標のように、あちこちにうずたかく積み上げられている。

「さあ、今日の学びの時間だ。……この『ガラクタ』の山の中から、まだかろうじて息をついている帝国の忘れ物を見つけ出し、その煤を払ってやること。それが、お前たちに与える最初の試練だ」

 ガンド先生は、樫の木の杖で足元の石をコツンと叩いた。銀色の仮面の奥から放たれる視線は、どこか楽しげで、それでいて厳しい試練を課す親のような温かさも孕んでいる。

「解析のガイル、お前は耳を澄ませて、機械が流す目に見えない涙の音を聴け。聖女のセレスティア、お前は青い瞳を凝らして、錆の下に隠れた本当の色を見ろ。そしてゼノリス……お前は、その掌で、彼らが心の奥底に大切に仕舞い込んだ熱を感じ取るのだ」

 今頃、ゴールドクラスの生徒たちは、清潔な教室のふかふかの椅子に座り、綺麗な指先を汚すことなく魔法の数式を唱えていることだろう。けれど、鉛クラスの三人は、泥にまみれ、鼻をつく古い油の匂いに顔をしかめながら、無機質なガラクタの山に深く手を突き入れた。

 ゼノリスは、ひんやりとした泥の感触を指先に感じながら、一つ一つの鉄の破片に触れていった。それはかつて、誰かの役に立ちたいと願って作られたものたちだ。父ロランが夜の仕事場で、汗を流しながら鉄を打っていた時の、あの真剣な横顔が脳裏をよぎる。

「……ちっ、なんで俺たちがこんな清掃員みたいな真似を。……お、おい、ゼノリス。そっちにある、ひしゃげた鉄の塊。……解析するまでもなく、耳の奥がチリチリするような、嫌な震え(ノイズ)がしてるぜ。触るなよ、機嫌を損ねて爆発でもされたら、俺たちの命がいくらあっても足りねえからな」

 ガイルが顔をしかめて警告するが、ゼノリスの足は止まらなかった。彼は吸い寄せられるように、山の一番下で泥にまみれて眠っていた、真っ黒な歯車の残骸に手を伸ばした。右手の包帯を巻いた掌が、内なる「二重の脈動」に呼応するように、じりじりと熱く疼く。指先がその冷たい鉄に触れた瞬間、ゼノリスの脳裏には、この機械がかつて過ごした「物語」が、静かなさざなみとなって流れ込んできた。

 それは、どこまでも広がる黄金色の麦畑で、お日さまの光をいっぱいに浴びながら、力強く回っていた水汲み車の一部だった。乾いた土を潤し、実りをもたらし、人々の笑顔を繋いでいた、誇り高き鉄の鼓動。それが今は、誰にも思い出されることなく、冷たい泥の中で独りぼっちで、震えながら泣いていたのだ。

(……大丈夫だよ。君がどれだけ頑張ってきたか、僕にはわかるから。……僕も、同じだからね)

 ゼノリスは、父ロランから教わった「鉄をなだめる打ち方」を思い出した。父さんが夜の仕事場で、まるで眠っている子供を起こすように優しく鉄を打っていた、あのあたたかなリズム。  彼は拳をそっと添えて、自分自身の意志から生まれた澄み切った魔力の一滴を、その鉄の奥底へと染み込ませた。

 ゴトリ。

 重厚な、けれどどこか嬉しそうな、産声のような音が響いた。数千年の眠りから覚めた古い歯車が、ゆっくりと、けれど確かな足取りで回り始めたのだ。こびりついていた泥や錆がパラパラと剥がれ落ち、その下から、月明かりを透かしたような鈍い銀色の輝きが顔を出す。

「嘘だろ……。解析不能なほど心が折れてたはずの機械が、なんで……。お前、本当にただの『魔力量5』かよ」

 ガイルが口をぽかんと開けて立ち尽くし、セレスティアが、

「……いいえ、今の音。それは鉛が宝石に変わった瞬間のような、とても綺麗な響きだったわ」

と、泥のついた頬を緩めて、ふわりと微笑んだ。彼女の青い瞳には、驚きとともに、小さな希望の灯火ともしびが宿っていた。

 彼らが初めて、自分たちの「重くて不器用な手」で、世界をほんの少しだけ動かせることを知った瞬間だった。ガンド先生は、その様子を遠くから見守りながら、誰にも聞こえない声で、

「……良い手になったな、ゼノリス」

と呟き、ふっとマントを翻して姿を消した。


 泥だらけになった実習を終え、三人はクタクタになりながらも、夕暮れの柔らかな光に包まれて時計塔の最上階へと戻ってきた。手を洗うために立ち寄った古い水場では、ガイルが「ひゃあ、冷てえ!」

と声を上げ、ゼノリスと水の掛け合いになる一幕もあった。そんな子供らしいやり取りに、セレスティアも思わずクスクスと笑い声を漏らす。

 大きな窓の外では、沈みゆくお日さまが、街全体を真っ赤な絵の具で塗りつぶしたような、情熱的で、けれどどこか切ない茜色に染め上げている。

「ねえ、ゼノリスくん」

 窓辺に立ち、夕焼けに染まる街並みを見つめていたセレスティアが、静かに口を開いた。彼女の銀色の髪が、風に揺れて、紅色の光を透かしている。


「私はね、この学園に来てからずっと、自分のこの青い瞳が嫌いだった。……真実を見すぎてしまうこの瞳は、人の心の汚いところや、終わってしまった世界の絶望ばかりを映し出す、呪いのようなものだと思っていたから。……だから、誰とも目を合わせたくなかったの」

 彼女の細い肩が、微かに震える。けれど、彼女はすぐにゼノリスの方を向き、その澄んだ青い瞳に静かな光を宿して微笑んだ。

「でも、今日、あなたが泥の中から見つけ出したあの小さな光。……それを一緒に見られたことで、この瞳が『希望』を見つけるためにあるのかもしれないって、少しだけ誇らしく思えたの。……ありがとう、ゼノリスくん。あなたの手は、本当に魔法の手ね」

「……僕も同じだよ、セレスティア。……僕のこの手も、誰かを傷つけるための、忌まわしい火傷だと思っていた。でも、今日の温もりは、父さんが叩く鉄と同じ、誰かの明日を作るための熱だった。……この手は、壊すためじゃなく、まもるためにあるんだって、僕も信じてみたいんだ」

 ゼノリスがそう言うと、隣で大きなあくびをしていたガイルが、

「けっ、熱いねえ」

と茶化しながらも、窓枠を指先でリズミカルに弾いた。

「……まあ、悪くねえ場所だ、ここは。お天道さんに一番近いしな。……このプルンブムの窓辺からなら、ゴールドクラスの連中が一生見上げることもしない、もっと遠くの、本当の世界まで見通せる気がするぜ。……いいか、お前ら。俺の解析によれば、俺たちが組めば、このクソみたいな学園どころか、大陸の歴史ごと書き換えちまう確率が高いんだ。……どうだ? 一緒にやってみるか」

 ガイルが差し出した、油で汚れた右手に、セレスティアが

「……ええ、喜んで。私たちの新しい歴史を始めましょう」

と自分の白い手を重ねた。ゼノリスもまた、包帯の巻かれた掌をその上に乗せた。三人の温度が重なり合い、時計塔の冷たい空気の中に、小さな、けれど決して消えることのない火が灯った。それは、誰にも邪魔されない、彼らだけの特別な盟約だった。

「……それじゃあ、これからは『鉛の騎士団』って呼ぶことにする?」

 ゼノリスが冗談めかして言うと、ガイルが

「ダサすぎるだろ!」

と笑い飛ばし、セレスティアも鈴を転がすような声で笑った。三人は、それぞれの孤独をこの空に近い場所に置いていくように、肩を並べて遠くの地平線を見つめた。


 夜が深まり、時計塔の大きな鐘が、一日の終わりを告げる重厚な音を鳴り響かせた。  その低くて深い余韻よいんは、静まり返った学園の敷地を越え、遠く黄金色の麦畑まで届きそうなほど、真っ直ぐに夜空へと吸い込まれていった。

 寮の自室に戻ったゼノリスは、ガイルが静かな寝息を立て始めたのを確認してから、一人机に向かった。窓から差し込む銀色の月光が、真っ白な手紙の紙を優しく照らしている。  彼は、昼間に受け取ったフィリーネからの騒がしくて愛おしい「贈り物」の数々を思い出し、ふっと口元を綻ばせた。彼女の元気な声が閉じ込められたクリスタルは、今は机の隅で静かに眠っている。

 ゼノリスは、丁寧に羽ペンを走らせた。

「フィリーへ。お弁当、本当に美味しかったよ。苺のハチミツ漬けを食べたとき、僕たちの村のあのお日さまの匂いがした気がした。靴下も、一足ずつ大切に履くね。フィリーが編んでくれたものだから、きっとどんなに寒い日でも、僕の足元を温めてくれると思う。心配しなくて大丈夫だよ。僕はここで、信頼できる仲間を見つけたんだ。一人は解析が得意な少し生意気な男の子で、もう一人はとても綺麗な青い瞳をした女の子。……僕たちは今、空に一番近い時計塔で一緒に学んでいるんだ。君がいつかこの学園に入学してくるとき、僕は君に、この場所から見える一番綺麗な景色を見せてあげたい。だから、その日まで元気に、父さんや母さんの手伝いをして待っていてね。追伸。お喋りクリスタルの警告、ちゃんと守るよ。でも、そんなに心配しなくても、僕の心の中には、いつも君がいるから。――兄より」

 手紙を書き終えたゼノリスは、そっと右手の包帯を解いてみた。赤黒い火傷の跡の上に浮かび上がった銀色の星の刻印が、暗闇の中で呼吸をするように、淡い光を放っている。その光は、かつて聖域で見たあの「帝国の種火」と同じ、静かで、けれど決して絶えることのない命の色をしていた。彼はその光を見つめながら、自らの中に宿る三つ目の脈動――「人間の意志」が、明日へと向かう力を与えてくれるのを感じていた。

 窓の外、学園の深い夜の影の中で、何者かがじっと時計塔を見上げていることに、彼はまだ気づいていなかった。  

「……ふん、鉛のクズ共が、星の光にでも触れたつもりか」

冷たい声が闇に溶ける。それは、ゴールドクラスの頂点に君臨するオーグの、隠しきれない嫉妬と悪意の混じった囁きだった。

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