第5章:忘却の書庫、帝国の遺産
学園都市エーテルガード。その中心にそびえ立つ白亜の巨塔「帝国魔導院学園」は、朝霧を切り裂いて天を突く壮麗な姿を現していた。白大理石を贅沢に用いた外壁は、昇り始めた陽光を浴びて、それ自体が巨大な魔導触媒であるかのように神々しく発光している。だが、その門をくぐろうとする十一歳のゼノリスにとって、この輝きは歓迎の光ではなく、異物を排除しようとする冷徹な拒絶の意志に感じられた。
(……鉄の匂いがしない。代わりに、肺が痛くなるほどの、透き通った魔力の匂い……)
ゼノリスは、父ロランが四年間の潜伏生活で叩いた鉄の匂いや、かつて自分たちを追い詰めたヴェルンド王国の機械兵が放つ、あの重油と錆が混じった不快な「鉄の匂い」とは対照的な、この「清潔すぎる」空気に微かな眩暈を覚えた。
彼は白銀の縁取りがなされた紺青の学園制服を纏っている。母ミリアが薬草店を切り盛りして蓄えてくれた、なけなしの学費で揃えた「正装」だ。右手のひらには、あの七歳の夜に刻まれた赤黒く爛れた火傷の跡が、今なお疼いており、今は清潔な白い包帯で厳重に隠されている。その包帯の下で、自らの中に住まう「勇者の脈動」と「魔王の脈動」が、新しい環境への警戒心からか、いつも以上に不規則な二重の旋律を奏でていた。
「兄さま。……本当に行ってしまうの?」
背後から、八歳になったフィリーネが服の裾を、爪が食い込むほどに強く握りしめてきた。彼女の瞳には、かつての無邪気な輝きに加え、ゼノリスという光を独占しようとする、深く、重い情愛が宿っている。いつしか彼女は、ゼノリスを「兄さま」と呼ぶようになっていたが、その呼び声に含まれる熱量は、年を追うごとに増すばかりだった。
「大丈夫だよ、フィリー。……約束しただろう? 君が入学してくるまでの三年間、僕は僕の戦いをしてくるって」
ゼノリスは、包帯を巻いた方の手で彼女の銀色の髪を優しく撫でた。彼女の小さな手がゼノリスの火傷の疼きを吸い取るように触れると、不思議と荒ぶっていた脈動が凪いでいく。
「……ルーツ家、ゼノリス。前へ」
冷淡な試験官の声が響く。ゼノリスは、心配そうに見守るロランとミリア、そして自分を食い入るように見つめるフィリーネに背を向け、白亜の門の奥へと足を踏み入れた。
入学手続きを済ませた新入生たちが導かれたのは、「審判の間」と呼ばれる広大な円形の間だった。四方の壁は巨大な鏡で埋め尽くされ、そこには自身の姿だけでなく、内側に秘めた「魔力の波形」が視覚化されて映し出されるという。
「おい、見ろよ。あいつ、没落したルーツ男爵家の生き残りだってよ」
「あんな煤けた顔をして……。魔力量も期待できたもんじゃないな」
周囲からは、高位貴族の子息たちによる隠そうともしない蔑みの視線が注がれる。ゼノリスはそれらを無視し、ただ静かに己の精神を内側の湖へと沈めていた。
壇上に鎮座するのは、古の帝国が遺したとされる魔導具「真実の鏡」。これに触れることで、個人の魔力量と属性が冷酷なまでに数値化される。
「――次。オーグ・ファン・ヴェルンド!」
聞き覚えのある名に、ゼノリスの肩が微かに揺れた。北の鉄鋼王国ヴェルンド。自分たちの黄金の麦畑を焼き、家族を追い詰めた「鉄の軍勢」の母国。金髪を傲慢になでつけた少年が、自信満々に鏡へと手を触れる。
「属性:剛鉄。魔力量……3200! ゴールドクラス確定だ!」
会場にどよめきが走る。オーグは得意げに周囲を見渡し、列に並ぶゼノリスを一瞥すると、鼻で笑った。その瞳には、かつてヴェルンドの小隊長カイルが浮かべていたものと同じ、弱者への冷徹な選別意識が宿っていた。
(……落ち着け。今は目立ってはならない。僕はただの『石ころ』だ……)
ゼノリスは、父ロランに教えられた剣の重心と、母ミリアに教えられた静寂の魔法を、同時に発動させた。己の中の「黒い太陽(魔王)」と「白い月(勇者)」を、互いに食らい合わせ、その余波さえも外へ漏らさないように封じ込める。
「――次。ゼノリス・ルーツ、前へ」
ゼノリスは一歩、また一歩と壇上へ登る。右手の包帯を強く握りしめ、冷たい鏡面へと指先を触れた。
――ドォォォォンッ!!
自分にしか聞こえない、次元が砕けるような轟音が脳内で響いた。鏡の深淵から、かつて聖域でオリジンが語った「帝国の核」が、ゼノリスの血脈を嗅ぎ取って狂喜の咆哮を上げる。鏡面が黄金と漆黒の光に染まろうとした、その刹那。
(……沈めッ!)
ゼノリスは全精神を使い、その奔流を右手の火傷の痕へと押し戻した。魔力の99.9%を、己の力を「消す」ためだけに使い、残りわずかな一滴の残りかすだけを鏡へと差し出した。
「……ん? 計測器の故障か? 反応が極端に薄いぞ」
試験官が不思議そうに鏡を叩く。やがて、頭上のクリスタルに表示されたのは、会場全体を凍りつかせるような数値だった。
「――属性:不明。魔力量……5。最低値だ。計測ミスか?」
会場が静まり返り、次の瞬間、割れんばかりの爆笑に包まれた。
「5だと!? 赤ん坊だって10はあるぞ!」
「属性すら判別できないのか。さすが没落貴族。魔法の血が完全に枯れているんだな」
オーグの取り巻きたちが腹を抱えて笑い転げる。ゼノリスは、右手の火傷が熱く疼くのを感じながら、静かに壇を降りた。内側では、行き場を失った強大な魔力が、骨を軋ませ、血管を焼き切らんばかりの熱量で渦巻いていた。だが、少年の顔は仮面のように無機質だった。
「判定は……どうなりますか?」
「……フン、これでは論外だ。最下位クラス……『鉛』クラスへ行け。学園の恥にならぬよう、隅で静かにしているんだな」
試験官の冷たい宣告とともに、ゼノリスに煤けた灰色のバッジが手渡された。
最下位クラスへと続く、薄暗く湿った地下廊下。そこは、白亜の巨塔の華やかな表舞台からは完全に隠蔽された、学園の墓場のような場所だった。石壁からは、かつての帝国の遺構であることを思わせる冷気が噴き出し、ゼノリスの肺を冷たく刺す。それは、かつて家族と身を潜めた「嘆きの谷」の岩場の冷気にも似ていた。
ゼノリスが重い鉄の扉を開け、埃の舞う教室に足を踏み入れると、そこには自分と同じように、何らかの理由で「選別」から漏れた数人の生徒たちが座っていた。
「……お、新入りか。奇遇だな、俺も魔力量が二桁でここへ放り込まれた。よろしくな、『魔力量5』の有名人さん」
声をかけてきたのは、ボサボサの茶髪を掻き回しながら、気だるげに机に足を投げ出している少年だった。名はガイル。後の大陸間抗争で、ゼノリスの「影の軍師」としてその冷徹な知略を振るうことになる少年だが、今の彼はただの不貞腐れた落伍者に見えた。
「……ゼノリス・ルーツです。有名になったつもりはありませんが」
「ハッ、あんな笑いものになれば嫌でも耳に入るさ。……だがよ、お前。その包帯の下……隠しきれてねえぜ。その『バケモノ』みたいな魔力の匂い」
ゼノリスの身体が、一瞬で戦闘態勢へと切り替わった。腰の短剣へと意識を飛ばすが、ガイルは面倒臭そうに手を振った。
「安心しろよ。俺の属性は『解析』だ。……見えるんだよ、表に出てる魔力じゃなくて、そいつが持ってる『可能性』の波形がな。お前のそれは、湖の底に沈められた火山だ。爆発すりゃ、この学園ごと吹き飛ぶぜ?」
ガイルの言葉に、ゼノリスは警戒を解かずに隣の席へ鞄を置いた。すると、教室の最奥、窓から差し込むわずかな光を浴びて、銀色の髪を美しく編み込んだ少女が顔を上げた。
彼女が纏っているのは、ゼノリスと同じ灰色のバッジ。だが、その佇まいは、ゴールドクラスのどの生徒よりも気高く、穏やかであった。彼女の瞳は、ゼノリスの黄金と闇の瞳をも見通すかのような、吸い込まれるほどに深く青い目をしていた。
「……わざと魔力を抑えたのね。火山というより、それは『星の爆発』に近いわ」
少女の澄んだ声が、誰もいないはずの教室に、透明な雫が落ちたときのような響きで広がった。
「私はセレスティア。没落した聖女の一族。……ねえ、異質な石くん。私と一緒に、この腐った学園の地下に眠る、本当の『帝国遺産』を盗み出してみない?」
彼女が差し出した白く細い手。その瞬間、ゼノリスの中で眠っていた魔王の脈動が、まるで運命の出会いを祝福するかのように、かつてないほど激しく波打った。
学園の最底辺である「鉛クラス」に割り当てられた教室は、白亜の塔の華やかな装飾からは切り離された、地下最下層の湿った一角にあった。かつては帝国の物資貯蔵庫だったというその場所は、窓一つなく、壁は剥き出しの冷たい石材で構成されている。天井の魔導灯は今にも消え入りそうなほどに微かであり、立ち込める埃と古い紙の匂い、そして地下特有の「冷えた石の匂い」が混ざり合い、この場に集められた者たちの絶望を物理的な重みとして押し付けていた。
ゼノリスは、ひび割れた木の机に指先を這わせた。表面は冷たく、ざらついている。この「鉛」という呼称は、学園側が没落貴族や魔力量の低い者たちへ投げつけた、最大限の蔑みであった。金へと至る錬金術の過程で、決して完成することのない、重く、鈍く、卑しい素材。
「……この教室の空気、まるで『嘆きの谷』の洞窟みたいだね」
ゼノリスが独り言のように呟くと、隣の席で机に突っ伏していた茶髪の少年、ガイルが面倒そうに片目を上げた。
「ハッ、嘆きの谷か。随分と風流な例えだな、ルーツ家の坊ちゃん。……だが、ここはもっと質が悪い。あそこにはまだ生き延びるための希望があったかもしれないが、このプルンブム・クラスにあるのは、ただの『死ぬまでの猶予』だぜ」
ガイルは気だるげに鼻を鳴らすと、ゼノリスが清潔な包帯で厳重に隠している右手のひらへと視線を投げた。
「なあ、ゼノリス。お前、さっきの測定で魔力量『5』なんてギャグを披露してたが……俺の属性『解析』が告げている数値は、そんなもんじゃねえ。お前のその包帯の下……そこだけ、空間が熱で歪んで見えるんだよ。まるで、制御しきれない太陽を握りつぶしているみたいにな」
ゼノリスの指先に、反射的に力がこもった。父ロランから授かった短剣は、今は寮の荷物の中に置いてきている。武器を持たない今の自分に、この解析能力を持つ少年への対抗手段はない。だが、ゼノリスが殺気を放とうとするよりも早く、前方の席から銀色の髪を揺らして少女が歩み寄ってきた。
「よして、ガイル。……その子の湖を波立たせないで。彼は今、必死でその内側の嵐を鎮めている最中なのだから」
セレスティア。その青い目は、やはりゼノリスの深淵を見通していた。彼女の立ち振る舞いには、鉛クラスには不相応なほどの気高さが溢れている。
「ゼノリスくん。……あなたの掌の火傷。それは、誰かをまもるために負った、誇り高き『拒絶』の傷跡ね?」
「……どうして、それを」
「言ったでしょう、私の瞳は真実を映すためにあるって。……かつて私の家系も、帝国の『聖なる血筋』をまもるために戦い、そして敗れた。……没落したルーツ家。没落した聖女。そして解析不能な解析者。……ここには、学園が『なかったこと』にしたい歴史のゴミが集められている」
彼女の声は、冷たい地下教室の中で透明な響きを持って響いた。彼女はゼノリスの隣の机に細い指を置き、彼を真っ直ぐに見据えた。
「でも、覚えておいて。鉛は、錬金術においては万物の基となる金属よ。金が完成された『終わり』だとするなら、鉛はあらゆる可能性を秘めた『始まり』なの。……私たちは、ここで腐るために集められたんじゃない。学園が隠し続けている『帝国の真実』を掘り起こすために、ここに落とされたのよ」
そのときだった。鉄の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
教室に入ってきたのは、全身を深い夜の色のローブで包み、顔の半分を無機質な銀の仮面で覆った一人の老教師だった。杖代わりにする古い樫の木の枝が、石畳の床を叩くたびに、コツン、コツンと、ゼノリスの心臓に直接響くようなリズムを奏でる。
その姿、その歩き方を見た瞬間。ゼノリスの中で眠っていた「魔王の脈動」と「勇者の脈動」が、同時に激しく跳ね上がった。
(……この感じ、知っている。……どこかで、ずっと昔に……)
記憶の最深部、赤ん坊の頃に自分を抱き上げたあの「節くれだった指」の温もり。そして、三百年という時の重みを感じさせる、圧倒的な存在感。
老教師は、教卓の前に立つと、仮面の奥に潜む鋭い瞳を、教室内の一人一人へと走らせた。そして最後に、ゼノリスのところでその視線を僅かに留めた。
「――今日からこの『鉛』の者たちの担任を務めることになった、ガンドだ。教えるのは『帝国古代史』。……学園の表舞台では教えられぬ、血と泥に塗れた、真実の歴史だ」
ガンドと名乗ったその老人の声は、枯れ木が擦れ合うような掠れた響きでありながら、教室内の空気を一瞬で統制するほどの力を持っていた。
「ルーツ家の、ゼノリス・ルーツ。……前へ出ろ。……お前のその包帯に、私の教鞭が触れるまでな」
教室内の空気が凍りついた。ガイルもセレスティアも、息を呑んで状況を見守っている。ゼノリスは、自分の意思とは無関係に震えそうになる膝を叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。
教卓の前に立つと、ガンド先生の纏う雰囲気が、より一層濃密なものとしてゼノリスを包み込んだ。それは恐怖ではなく、何かに包み込まれるような、それでいて厳しい「試練」の気配だった。
「……手を出せ」
ガンドの声に従い、ゼノリスは包帯を巻いた右手を差し出した。ガンドが手にした樫の木の杖が、ゼノリスの掌の火傷がある場所に、そっと触れた。
その瞬間、ゼノリスの脳裏に、かつて『忘却の聖域』でオリジンから見せられた以上の、鮮烈なイメージが奔流となって流れ込んできた。
(……バアルガンド……父……さま?)
「……ふむ。魔力量5、か。……計測器というのは、往々にして『嘘』を吐くものだな。……いいか、ゼノリス。鉛は重い。だが、その重さがあるからこそ、大地に深く根を下ろすことができる」
ガンド先生は、ゼノリスにしか聞こえない微かな声で、けれど魂を揺さぶるような響きで続けた。
「……魔王の力に呑まれそうになったら、自らの中に『勇者の静寂』を呼べ。 ……勇者の光に溺れそうになったら、魔王の『怒り』を思い出せ。……二つは一つであり、一つは二つだ。……設計図通りに生きるな。お前は、石ころだ。……砕けて、変幻自在の『泥』となり、やがて世界を塗り替える礎となれ」
杖を引くと、ガンドはそれ以上何も言わず、黒板に向かって古代帝国の文字を書き始めた。 ゼノリスは、呆然としたまま自分の右手を見つめた。包帯の上から触れられただけのはずなのに、あの消えない火傷の激痛が、今は不思議と、心地よい熱となって掌に馴染んでいた。
ガンド先生の講義が始まって数刻、プルンブム・クラスの静かな熱気を切り裂くように、教室の扉が、乱暴な蹴撃によって蹴破られた。
「――おいおい、ここは随分と『鉄錆』臭いな! こんなカビ臭い地下室で、ゴミ同士が傷の舐め合いか?」
現れたのは、ゴールドクラスの紺青の制服を纏った三人の生徒だった。先頭に立つのは、魔力量測定でゼノリスを嘲笑したオーグ・ファン・ヴェルンドの側近、ボリスだった。
ボリスは、鼻をつまみながら教室内に足を踏み入れ、ゼノリスたちの机を無造作に蹴り飛ばした。
「おい、鉛のクズ共。……オーグ様からの伝言だ。……『ゴールドの床を汚した罰として、今日の放課後、馬車小屋の裏へ来い。……魔力量5のゴミが、どれだけ頑丈な肉体をしているか、ヴェルンドの鉄の拳で試してやる』だそうだ」
「……講義中だ。出て行け」
ゼノリスが静かに、けれど芯の通った声で告げた。その瞳の左右で、黄金と闇の色が、深淵の底で静かにまたたいた。
「あぁ!? 没落貴族の分際で、俺に指図するのか? ……見ろよ、この汚い包帯。……病気でも移されたらたまったもんじゃないな!」
ボリスがゼノリスの右手を掴み、包帯を剥ぎ取ろうとした、その時。
「――そこまでだ、若き光よ。……私の講義に、招かれざる『音』を混ぜるな」
ガンド先生の杖が、石畳を一突きした。瞬間、ボリスたちの足元から、目に見えないほどの重圧が噴き出した。まるで、彼らの身体そのものが「鉛」に変わってしまったかのように、三人の生徒はその場に膝をつき、呼吸を止めて白目を剥いた。
「……ぐ、あ……あが……っ」
「……知恵を学ばぬ者に、帝国の歴史を語る資格はない。……オーグ・ファン・ヴェルンドには、こう伝えよ。……『鉛を侮る者は、いつかその重みによって、自らの首を絞めることになるだろう』とな」
ガンドが指をパチンと鳴らすと、重圧は霧散し、三人の生徒は恐怖に顔を歪めながら、脱兎のごとく教室から逃げ出した。
教室には、再び静寂が戻った。ゼノリスは、教卓に立つガンドの背中を、そして彼が黒板に刻んだ一文を見つめていた。
『真実の皇帝は、玉座ではなく、泥の底から生まれる』
その言葉が、少年の胸の中で、かつてないほど熱く、鋭く、そして重く脈動し始めた。
ガンド先生の講義が終わり、夕刻の陽光が学園の白亜の壁を黄金色に染め上げる頃、鉛クラスの生徒たちは、逃げるように地下の教室を後にした。だが、ゼノリスが埃っぽい廊下を抜け、中庭を横切って寮へと向かおうとしたとき、不快な「鉄の足音」が背後から響いた。
「おい、待てよ。『魔力量5』のゴミ屑。……オーグ様からの招待状を無視して帰れると思っているのか?」
現れたのは、講義中にガンド先生によって追い払われたはずのボリスと、その取り巻きたちだった。彼らの瞳には、先ほどの屈辱に対するどろりとした憎悪が宿っており、その手には学園での実習用ではない、鋭利に研がれた魔導剣が握られていた。
ゼノリスは足を止め、深く息を吐いた。右手の包帯の下で、火傷の痕が心臓の「二重の脈動」に呼応してドクンドクンと脈打っている。魔王の力が「すべてを焼き尽くせ」と囁き、勇者の力が「静寂を保て」と戒めている。
「……僕は争いに来たわけじゃない。寮に帰って、妹に手紙を書かなければならないんだ」
「ハッ、妹だと? あの没落貴族の貧乏長屋で泣いているガキのことか? 安心しろ、お前が再起不能になれば、その妹もヴェルンドの鉱山へ売り飛ばしてやるよ。あそこの空気は油と錆の匂いがして、お似合いだぜ」
その瞬間、ゼノリスの中で何かが静かに、けれど決定的に断裂した。フィリーネを、あの愛しすぎる、重すぎる情愛を向けてくれる義妹を、泥靴で踏みにじるような言葉。
ゼノリスは、父ロランから授かった「まもるための技」の重心を静かに落とした。彼は魔法を使わない。今の自分は魔力量5の無能でなければならない。だが、父と過ごした四年間の潜伏生活で、彼は鉄を叩く音から敵の隙を読み、道なき道を歩くことで強靭な足腰を鍛え上げていた。
「……三秒だ。三秒以内にその言葉を撤回しろ。さもなければ、君のその腕は二度と剣を握れなくなる」
「やれるもんならやってみろ! 『剛力の突撃』!」
ボリスが魔力を剣に込め、猪のような勢いで突進してくる。ゼノリスの瞳の中で、黄金と闇の色が交差した。一秒。彼は突進の軌道を見切り、紙一重の差で身を翻した。二秒。剣を振るい切ったボリスの無防備な脇腹へ、掌を叩きつける。三秒。ゼノリスは、包帯を巻いた右手でボリスの手首を掴み、その関節を、父から教わった「解体」の要領で僅かに捻った。
「――ぐ、あぁぁぁぁぁっ!?」
魔導剣が石畳に落ちて甲高い音を立てる。ボリスは地面を転げ回り、己の腕が信じられない方向に曲がっていることに絶叫した。取り巻きたちは、魔力量5のはずの少年が見せた、余分な動きが一切ない「騎士の体術」に恐怖し、一歩も動けなくなった。
「……言っただろう。妹のことは、僕がまもる馬になるんだって。……二度と、彼女の名前をその汚れた口で呼ばないでくれ」
ゼノリスは、冷たくなったボリスを見下ろし、踵を返した。その背中には、十一歳とは思えぬほどの、積み上げられた歳月と研鑽が、言葉にならぬ圧となって滲み出ていた。
「見事な体術ね。魔力量を偽装できても、その身に染み付いた『戦士の記憶』までは隠せなかったみたい」
中庭の影から、銀色の髪をたなびかせてセレスティアが現れた。彼女の青い目は、ボリスたちの醜態には目もくれず、ただゼノリスという「不完全な金」を観察し続けている。
「……見ていたのか、セレスティア」
「ええ。あなたの右手の包帯……。魔法を使わなかったのは正解よ。あそこで魔力が漏れていたら、学園の魔力感知結界が、あなたのその『魔王の胎動』を察知して、今頃は白亜の塔の地下牢行きだったわ」
セレスティアはゼノリスに歩み寄り、一通の、古い革で作られた巻物を差し出した。それは、触れるだけで古の魔力が指先を刺すような、不吉な予感を孕んだ代物だった。
「これは何だ?」
「私たちの『鉛』の者たちにだけ許された、帝国の影の地図よ。……ゼノリスくん。この学園は、かつての帝都の『ある場所』の上に建てられているのを知っている? ……オリジンという名の守護霊がまもっていた、あの聖域と同じ、あるいはそれ以上の秘密が眠る場所……『帝立禁書図書館』の真上にね」
ゼノリスの鼓動が、一段と激しくなった。母ミリアがかつてまもっていた禁書。父ロランが命をかけて持ち出した秘密。その源流が、この白亜の塔の地下深くに、今なお息づいているというのか。
「なぜ、僕にそんなことを教える」
「私は一人ではそこへ辿り着けない。私には『見る』力はあっても、扉をこじ開ける『熱量』がないの。……あなたの、その二つの心臓が放つ拒絶の力があれば、三千年の封印を解くことができる。……今夜、月が雲に隠れる頃に、講堂の裏へ。……拒否権はないわよ。あなたも、自分の出生の真実をすべて知りたいでしょう?」
セレスティアは、ゼノリスの返事を待たずに霧のように姿を消した。ゼノリスは一人、残された巻物を握りしめた。右手の火傷が、まるで行くべき場所を指し示すように、熱く疼いていた。
深夜。学園を包む霧は、かつて家族と彷徨った原生林の霧のように深く、重かった。ゼノリスは、ガイルの「解析」によって魔力感知の網を掻いくぐり、セレスティアに導かれて学園の地下、プルンブム・クラスのさらにその下へと足を踏み入れた。
そこは、石造りの冷たい廊下が無限に続く、光を拒絶する迷宮だった。壁に刻まれた装飾は、もはや現在の八カ国のどこの文化とも異なり、聖域で見つけた古代帝国の様式そのものだった。
「……この先よ。ここから先は、私の瞳でも見通せない。……帝国の『星の血脈』を持つ者の承認が必要になる」
セレスティアが指差したのは、巨大な黒い石扉だった。そこには、ゼノリスが三歳の嵐の夜に、フィリーネの産着に刻まれていたものと同じ「八星の紋章」が刻まれていた。
ゼノリスは、包帯を巻いた右手を、その紋章の重なり合う中心へと押し当てた。瞬間。
――認証。個体名:ゼノリス。……承認。
頭の中に、あのオリジンのものとは似て非なる、より無機質で、けれど慈しみに満ちた女性の声が響いた。石扉が、三千年の眠りを解く地響きを立ててゆっくりと開き始める。
内側から溢れ出したのは、黄金の光の粒子と、かつて麦畑で感じた、お日さまのようなあたたかな匂いだった。広大な書庫。天井まで続く書架には、失われたはずの知恵が、静かにその主を待つように並んでいる。そしてその中心、一段高い台座の上に、一振りの「黒い剣」が突き立っていた。
その剣を見た瞬間、ゼノリスの中の「魔王の脈動」が、狂ったような歓喜の叫びを上げた。
『……ようやく来たか。……器よ。……我が半身を、その手に取るがいい』
ゼノリスは、夢遊病者のように剣へと近づいた。背後でセレスティアが何事か叫んでいたが、その声は届かない。彼は、右手の火傷から血が滲むほどに強く、その漆黒の柄を握りしめた。
剣を握った瞬間、ゼノリスの視界は白熱し、再び「星帝」の時代の記憶が脳内を蹂躙した。 だが、今度は違った。激しい苦痛の中で、彼は自分を呼ぶ声を聴いた。
「兄さま……! どこなの、兄さま!」
フィリーネの声だ。彼女の想いが、時空を超えて自分を繋ぎ止めている。
「兄さま、離さないで。フィリーを置いていかないで……!」
(そうだ。……僕は、魔王になるためにここに来たんじゃない。……フィリーを、家族をまもるための力を手に入れるために、ここに来たんだ)
ゼノリスは、漆黒の剣から流れ込む破壊の衝動を、勇者の静寂で包み込み、自らの中に「融合」させた。黄金の光と漆黒の闇が混ざり合い、彼の周囲を、かつてないほど澄み切った、銀色の光が渦巻いた。
光が収まったとき、ゼノリスの手には、もはや黒い剣はなかった。代わりに、彼の右手の包帯を突き破り、手のひらの火傷の痕の上に、複雑な銀色の「星の刻印」が浮かび上がっていた。
「……ゼノリスくん。……あなた、その力を……」
セレスティアが唖然として目を見開いている。ゼノリスは、自分の内側に、新たな「三つ目の脈動」が生まれたのを感じていた。それは魔王でも勇者でもない、彼自身の意志が編み出した、真なる皇帝の鼓動だった。
「……行こう、セレスティア。……ここにある知恵を、すべて僕たちのものにする。……学園が、世界が、僕たちを『鉛』だと笑うなら……。その重みで、この歪な秩序を根底から押し潰してやる」
ゼノリスの左右で色の違う瞳は、もはや怯えも迷いもなく、ただ静かに、そして眩いばかりに光を放っていた。




