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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
運命の種火

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第4章:聖域の主、選ばれし者たちの再会

 石造りの巨大な門が、大地の鳴動にも似た重低音を響かせながら背後で閉ざされた。その瞬間、一行を執拗に追い詰めていた北の鉄鋼王国ヴェルンドの精鋭たちが放つ怒号も、機械化された重装騎兵が湿った大地をえぐる無慈悲な蹄の音も、そしてあの鼻腔を刺すような重油と錆が混じった不快な「鉄の匂い」さえも、まるで初めから存在しなかったかのように完全に断絶された。

 そこにあるのは、三千年の時がそのまま凍りついたかのような、耳の奥が痛くなるほどに純化された「沈黙」であった。広大な空間を満たすのは、人の営みの温かさではなく、結晶化した古代の魔力が放つ冷徹な静謐せいひつである。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

七歳のゼノリスは、父ロランから譲り受けた帝国の重厚な装飾が施された短剣を、震える手で握りしめたまま、白大理石の床に力なく膝をついた。周囲を埋め尽くす冷たい空気は、戦場での熱気と泥の匂いに慣れてしまった彼の肺を、鋭い刃物のように突き刺す。

 彼の右手のひらには、先ほどの死闘で「二重の脈動」を暴走させた代償として、赤黒くただれた無残な火傷の跡が刻まれていた。それは、あの大地を真っ二つに分断するほどの拒絶の力を放った奔流の爪痕であり、少年の神経を心臓の鼓動に合わせて直接炙あぶるような激痛を放ち続けている。火傷の隙間からは、今なお制御しきれない黄金の魔力の火花が時折パチリと弾け、聖域の静寂の中に不吉な音を立てていた。その痛みは、彼がもはや黄金の麦畑を駆け回るだけの少年には戻れないことを、一拍ごとに残酷に告げている。

 ゼノリスは霞む視界を必死に繋ぎ止め、周囲を展望した。そこは、見上げるほど高い天井に、天の川をそのまま切り取って閉じ込めたかのような巨大な星図が描かれ、星々は魔力の残光を帯びて淡い蒼光を放ちながら、生命の鼓動と同じ緩やかな速度で回転している広間だった。壁一面を埋め尽くすのは、幾何学的な精密さで並べられた数十万冊に及ぶ古い書物。長い年月を経て熟成された紙の乾いた匂いと、大気に溶け込んだ濃密な魔力の「甘み」、そして古い石碑が放つ微かなオゾンの香りが混ざり合い、ゼノリスの五感を麻痺させていく。


 ゼノリスが引き寄せられるようにして触れた中央の石碑。その表面は、彼の右の瞳と同じ黄金色の光を放ち、少年の指先を通じて膨大な「記憶」を直接脳内へと流し込んできた。

(……なんだ、これは。僕の中に、僕じゃない誰かの時間が流れてくる……)

 視界が反転する。黄金に輝く空中都市。雲を突き抜けてそびえ立つ白亜の巨塔。空を覆い尽くすほど巨大な鉄の船団。それは、いま彼らが生きる「八つの国」が誕生する遥か昔、この大陸を一つに束ねていた「星帝せいてい」の時代の残光だった。人々が魔法を歌うように操り、病も飢えも存在しなかった黄金の時代。しかし、その輝きの絶頂で、人々が何を恐れ、なぜ自らの歴史を『忘却の聖域』へと封じ込めたのか。その悲劇の断片が、鋭いガラスの破片のようにゼノリスの意識を切り刻む。

 あの大嵐の夜、なぜフィリーネを乗せた馬車は崖から落ちたのか。なぜ自分は、左右で色の違う呪われた瞳を持って生まれたのか。断片的な映像が、濁流となって少年の幼い脳を蹂躙じゅうりんする。ゼノリスの網膜は白く焼け、肺から呼吸が奪い去られた。


「ゼノ……! ゼノ、だいじょうぶ? どこかいたいの?」

 小さな、けれど確かな力強さを持った声が、ゼノリスを記憶の海から引き戻した。四歳になったフィリーネが、父ロランの腕をすり抜けてゼノリスへと駆け寄り、彼の傷ついた右手を、壊れ物を扱うような手つきで自分の小さな両手で包み込んだ。彼女のてのひらから漏れ出す淡い桃色の光は、あの日、崖崩れで動けなくなった馬車から救い出されたとき に宿していた、不思議な治癒の力の一部だった。

 フィリーネにとって、帝国の真実や世界の運命などという問いは、一粒の砂ほどの価値もなかった。あの日、森の中で苺を見つけて「あまくて、ちょっと酸っぱい」幸せを教えてくれた兄。自分をまもるために、その幼い肩を震わせながらも剣を構えてくれた兄。彼が今、自分をまもるために負った傷によって苦しんでいる。その事実こそが、彼女の幼い心を狂おしいほどに締め付け、純粋すぎるがゆえに歪んだ「執着」へと彼女を突き動かしていた。

「にいにを痛くするの、フィリーが許さない。世界なんて、にいにを痛くするなら、フィリーがいらないってしてあげる!」

 その言葉は、四歳の子供が発するにはあまりにも重く、くらい情熱を孕んでいた。彼女は自分の頬を、ゼノリスの火傷の跡にそっと押し当てた。その不気味な熱さが彼女の柔らかな肌を焼いているはずなのに、彼女は痛がる素振りも見せず、ただ恍惚こうこつとした表情で、ゼノリスの苦痛を自分の身体へと吸い取ろうとする。

 ゼノリスは、そんな彼女の献身に救われながらも、彼女の瞳の奥に宿る「何か」に、微かな寒気を感じていた。けれど、彼は震える左手で彼女の柔らかな髪を撫でた。

「……ありがとう、フィリー。僕は大丈夫だ。君がそばにいてくれるだけで、痛みなんて忘れてしまうよ」

 その言葉を聞いた瞬間、フィリーネの顔に花が咲いたような、無垢で残酷な笑顔が戻った。彼女にとって、ゼノリスの言葉こそが世界の唯一の「ことわり」だった。


 聖域の静寂は、何かが生まれる直前の、研ぎ澄まされた緊張感に満ちていた。

「――ほう。その幼さで、石碑の『毒』に当てられず、自らのかてにしようとするか」

 その声は、脳内の最も深い場所に直接響くような、不思議な透明感を持って届けられた。  父ロランと母ミリアは、瞬時に身構えた。ロランは農夫としての穏やかな顔を完全に捨て、かつて帝国の騎士として知恵と秘密をまもっていた頃の鋭さを纏い、脇腹の深い傷を庇いながらも、短剣の柄に手をかけた。ミリアもまた、かつて禁書をまもっていた知識を研ぎ澄ませ、周囲の魔力の揺らぎを警戒する。

 広間の中央。巨大な黒い石碑の影から、光の粒子が凝縮されるようにして、一人の人影が音もなく姿を現した。

 それは、十代後半の少年のようにも、あるいは永遠の時を生きる老人のようにも見える、不思議な容貌をしていた。髪は新雪よりも白く、瞳はゼノリスの黄金と闇の双眸そうぼうとは対照的な、すべてを見通すような深い銀色をしている。纏っているのは、この大陸のどこの国の様式とも異なる、星の糸で編まれたような漆黒の法衣だった。彼の足元はわずかに床から浮いており、歩くたびに微かな魔法の粉塵が、蛍のように舞い落ちては消えてゆく。

「何者だ。ここは『忘却の聖域』のはず。まもる者がまだいたというのか」

ロランが剣を抜き放とうとするが、銀色の瞳の少年は片手で優しく、けれどあらがいようのない威圧感を持ってそれを制した。

「武器を収めよ、書架騎士の末裔よ。私はお前たちの敵ではない。……というか、私の主である『帝国』の核を宿した子供を傷つける理由が、私には一ミクロンも存在しない」

 少年は優雅に一礼し、自らを名乗った。

「私はこの聖域の守護霊ガーディアンにして、かつての帝都を管理していた人工知能、あるいは魂の残滓ざんさい……。名はオリジン。お前たちの不器用な言葉を借りるなら、『聖域の主』といったところかな」

 オリジンはゼノリスの前に歩み寄り、その顔をじっと覗き込んだ。彼の銀色の瞳に映るゼノリスの姿は、単なる子供ではなく、数千年の歴史が複雑に絡み合った「演算結果」そのものであるかのようだった。

「待っていたぞ、ゼノリス。お前がその『二重の脈動』を、自らの意志で『拒絶』のために使ったその瞬間……この聖域の心臓は、三千年の眠りを解いて鼓動を再開したのだ。お前は、自分が何者かを知るためにここへ来た。違うか?」


 オリジンの銀色の瞳が、ゼノリスの隣で彼の服の裾をぎゅっと握りしめているフィリーネへと向けられた。その瞬間、聖域を支配していた静謐せいひつな空気が、まるで底なしの深海に沈んだかのような、逃げ場のない冷たい重圧へと変質した。広間の天井で回転する巨大な星図が、彼女の存在に呼応するように、より鮮烈な黄金の輝きを放ち始める。その輝きは、かつてゼノリスが麦畑で見た夕陽よりもずっと鋭く、少年の網膜を射抜いた。

「……まさか。ゼノリス、お前がその腕に抱えていたのは、ただの捨て子ではない。お前たちが『嵐の夜の授かりもの』と呼ぶその少女こそ、帝国の崩壊と共に失われたはずの『星のステラ・シード』……帝国の正統な継承者、第百二十八代星帝の直系ではないか」

 その宣告に、母ミリアが短く息を呑み、その場に崩れ落ちそうになるのをロランが力強く支えた。ミリアは、かつて王宮の地下でまもっていた禁書の知識を総動員し、眼前の信じがたい現実を理解しようと必死に思考を巡らせる。あの大嵐の夜、崖崩れで動けなくなった馬車の中から救い出した、奇跡のように無傷だった赤子。その産着うぶぎに縫い付けられていた、八つの星が円を描く「星帝の紋章」。それは、彼女たちがかつて騎士として命をかけて守るべき、最高機密の象徴そのものであった。

「星の種……。フィリーが、お姫様、だって言うのか?」

 ゼノリスの震える問いに、オリジンは冷徹なまでの正確さで答えた。その声は感情を排した機械のようでありながら、どこか遠い昔を懐かしむような響きを帯びている。

「王女という矮小わいしょうな言葉では足りない。彼女はこの世界のことわりそのものを編み直すための、生ける鍵だ。フィリーネ、お前が持っているその力……触れるだけで枯れた大地に花を咲かせ、人々の傷を癒やすその光は、かつての帝国が星から授かった『生命の律動リズム』そのものだ。だが、ゼノリスよ。知っておくがいい。あまりに純粋すぎる光は、それ自体が最強の毒となり、闇を惹きつける」

 オリジンは悲しげに瞳を細め、広間の天井で回転を速める星図を見上げた。

「八カ国の王たちが、なりふり構わず彼女を追い求めるのは、単なる王位の正統性を手に入れるためではない。彼女の血に含まれる魔力、それさえあれば、いかなる巨大兵器も無尽蔵のエネルギーを得て、世界を一度に灰にできるからだ。ゼノリス、お前がその小さな腕で抱きしめてきたのは、世界を救う希望であると同時に、世界を滅ぼすための究極の火種なのだ」

 四歳になったフィリーネは、オリジンの言葉のすべてを理解したわけではなかった。しかし、自分が大好きな兄にとって「重荷」や「災い」になる可能性を、その天性の直感で察したのだろう。彼女はゼノリスの火傷を負った右手を、壊れ物を扱うような手つきでさらに強く、けれど慈しむように自分の頬へ包み込んだ。その火傷の熱さは彼女の柔らかな肌を焼いているはずなのに、彼女は痛がる素振りも見せず、ただ必死にゼノリスの顔を覗き込んだ。

「フィリー……にいにのそばにいたいだけ。お姫様なんて、いらない。にいにが、フィリーを助けてくれたから、フィリーはにいにの、およめさんになるの! ほかの悪いだれかが、フィリーをにいにから連れて行こうとするなら、フィリーがその人を、魔法でぜんぶ消してあげるわ!」

 幼い少女のその言葉には、運命という名の巨大な激流に抗おうとする、凄まじい意志が宿っていた。フィリーネにとって、自分が何者であるかなどは、一粒の砂ほどの価値もなかった。ただ、ゼノリスという光が自分を照らしてくれること。あの日、馬車から救い出されてから今日まで、自分をまもり続けてくれた少年の隣にいること。それだけが、彼女の世界を形作る唯一の「ルール」であった。


「さて、次はゼノリス。お前の番だ」

 オリジンの声が一段と低くなり、聖域の壁を埋め尽くす数十万冊の書物の背表紙が、その言葉に呼応するように一斉に震え、鳴動した。彼は空間を細い指先でなぞった。すると、無数のホログラムのような黄金と漆黒の文字が宙に溢れ出し、ゼノリスの周囲で不気味な円を描いて回転し始めた。

「お前は、フィリーネのような高貴な血筋を持って生まれたわけではない。お前は……帝国の最期、絶望に駆られた賢者たちが創り出した、究極の『うつわ』なのだ」

 ゼノリスの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。地響きのように重く破壊的な「魔王の脈動」と、晴れ渡った空のように清らかで峻烈しゅんれつな「勇者の脈動」。その二つが、彼のまだ未発達な胸の中で激しくせめぎ合い、身体の内側から骨を削り、血管を焼き切るような衝撃を繰り返す。

「器……? 僕が……?」

「そうだ。この世界には二つの極点がある。万物を救済し調和させる『勇者の力』。そして、万物を破壊し無に帰す『魔王の力』だ。通常、一つの肉体にこの二つを宿せば、その身は一秒と持たずに霧散する。だが、帝国はお前の祖先にあたる一族を実験体に選び、数世代にわたる過酷な血の調整を繰り返した。そして生まれたのが、二つの相容れない力をかみ合わせ、一つの人格として封じ込めることに成功した『異質なゼノリス』……お前だ」

 オリジンが空中に描き出した立体図式の中で、まばゆい黄金の光と、すべてを飲み込む漆黒の闇が、互いに食らい合いながら、奇跡的なバランスで回転していた。それが、ゼノリスの瞳に宿る異様な色の正体であった。

「お前の中に宿る勇者は、フィリーネを守るための『盾』となるだろう。だが、お前の中に宿る魔王は、彼女を奪おうとする世界すべてを焼き尽くすための『剣』となる。ゼノリス。お前がその力を振るうたびに、お前の中の魔王は目覚め、お前の心と魂を少しずつ喰らっていく。やがてお前は、フィリーネのことさえ忘れた、ただの破壊の化身……魔王そのものになるかもしれない。それでもお前は、その手を彼女から離さないと言い切れるか?」

 静寂が聖域を支配した。父ロランも母ミリアも、かける言葉を失っていた。彼らが七年間、黄金の麦畑で愛おしい我が子として育ててきた少年が、これほどまでに残酷で呪われた宿命を背負わされていたとは。ロランの騎士としての誇りも、ミリアの母としての慈愛も、この圧倒的な「真実」の前ではあまりにも無力に感じられた。

 ゼノリスは、自分の内側を深く見つめた。あの霧の森での戦いのとき、自分の身体を突き抜けていった、恐ろしいほどの万能感。あの、すべてを消し去ってしまいたいと願った漆黒の衝動。あれが自分自身の一部なのだと突きつけられ、ゼノリスの足はガタガタと震え始めた。

(僕は……怪物なんだ。いつか、フィリーを傷つけてしまうかもしれない怪物……。僕がそばにいること自体が、フィリーを危なくしてるんだ……)

 ゼノリスが絶望に瞳を伏せ、自らの存在そのものを否定してその場にうずくまろうとした、その時だった。

「にいにが、怪物でもいい……! にいにが怪物なら、フィリーも怪物になるもん!」

 フィリーネが、ゼノリスの前に強い足取りで回り込んだ。彼女は爪先立ちになり、赤黒く火傷を負ったゼノリスの右手を、今度は逃がさないように両手で強く、けれど大切に握りしめた。

「フィリー、怪物さんのにいにが、だいすき。にいにが世界を焼いちゃうなら、フィリーも一緒に焼かれるの。にいにがいなくなっちゃう方が、フィリーにはもっともっと、死んじゃうよりもこわいんだよ!」

 その言葉は、ゼノリスの凍りついた魂を、一瞬で溶かした。四歳の少女の愛は、帝国の数千年の知恵も、魔王の恐るべき呪いも、すべてを等しく飲み込むほどに深く、重く、そして純粋であった。彼女にとっての「正義」や「幸福」とは、世界がどうあるかではなく、ゼノリスという光が自分の隣で笑っているかどうか、ただそれだけだったのだ。


オリジンは、二人の姿を見て、三千年の年月で初めて、微かな、けれど確かな微笑を浮かべた。それはかつて帝国を支えた「人間という種の不合理な愛」を慈しむような、どこか寂しげな笑みだった。

「……全く。帝国の演算機も、愛という名の不合理までは計算できなかったか。よろしい。ゼノリス、フィリーネ。お前たちがその手を離さないというのなら、私にできるのは、その手を守るための『知恵』を授けることだけだ」

 オリジンが指を一つ鳴らすと、周囲で回転していた黄金と漆黒の文字が霧散し、代わりに中央の石碑が、かつての帝国の栄華を象徴するような静かな青白い光に包まれ輝き始めた。

「ここに集められた知識は、八カ国の王たちが喉から手が出るほど欲しがっている帝国の遺産だ。本来、七歳の子供が扱える代物ではないが……お前たちはもはや、普通の子供であることを許されない。ゼノリス。お前が魔王に呑み込まれず、勇者の力に溺れないための『精神の制御法』を、私が教えよう。そしてフィリーネ。お前の光を、ゼノリスを癒やし、彼を繋ぎ止めるためのくさびに変える方法もだ」

「やるよ。僕、教えてほしい。……父さんや母さん、そしてフィリーをまもるための、本当の力を」

 ゼノリスの声は、もはや震えていなかった。彼は父ロランから授かった短剣を握り直し、その鞘の冷たい感触を確かめた。掌の火傷は未だにうずいていたが、それは彼にとって、愛する者を守り抜くための「覚悟の痛み」へと変わっていた。


 それからの日々、聖域の中では、地上とは異なる密度で時間が流れ始めた。ゼノリスに与えられた最初の課題は、数千年にわたる帝国の歴史と、失われた高位魔導数式をすべて脳内に叩き込むことだった。

「知恵を持たぬ力は、ただの暴力だ。ゼノリス、お前が宿す魔王の力は『理解不能なもの』への恐怖から生まれる。ならば、お前が世界のことわりのすべてを理解すれば、魔王が付け入る隙はなくなる」

オリジンの指導は、七歳の少年には苛烈を極めるものだった。失われた古代言語、元素の複雑な結合法則、そして目に見えぬ精霊たちとの契約方法。しかし、ゼノリスの「二重の脈動」は、ここでも異質な才能を発揮した。魔王の脈動が脳の処理速度を破壊的なまでに引き上げ、勇者の脈動がその過負荷による精神の崩壊を瀬戸際で食い止める。彼は一を読めば百を悟るような天啓的な速度で、帝国の遺産を自分の血肉へと変えていった。

 フィリーネは、そんなゼノリスの背中を、一歩後ろから熱のこもった瞳で見つめ続けていた。彼女もまた、ミリアの指導のもとで治癒魔法と結界魔法の基礎を学び始めたが、彼女の魔力は教えられずとも溢れ出し、彼女の「にいにを助けたい」という執念に従って、冷たい聖域の大理石の床に、季節外れの黄金の花々を次々と咲かせていった。

 食事の時間になれば、フィリーネは相変わらずゼノリスの膝の上を、当然のように自分の特等席として占拠した。

「にいに、あーんして」

「もう、フィリー。君はもう四歳なんだから、自分で食べられるだろう」

「やだ。にいにが食べさせてくれないなら、フィリー、ごはん食べないもん。にいにがフィリーの、ぜんぶなんだもん」

 ゼノリスが困ったように、けれど隠しきれない幸せをたたえてスプーンを運ぶ様子を、ミリアとロランは静かに見守っていた。彼らもまた、この聖域での休息の中で、追われる恐怖から一時的に解放され、家族としての絆をより一層深めていた。ロランは暇を見つけてはゼノリスを広間の隅へ連れ出し、石碑の光を頼りに、より実戦的な剣の動きを体に覚え込ませた。

 だが、その不自然なまでに平和な安息を切り裂く、鉄の足音は、着実に聖域の封印された門へと迫っていた。その足音は、油と錆が混じった、あの忌々しい不快な匂いを伴っていた。


 聖域の中に流れる緩やかな時間は、肉体的な疲労を癒やす魔法のような安息であったが、それは無慈悲な「鉄の音」によって、唐突に、そして暴力的に引き裂かれることとなった。  「――来たか。三千年の隠蔽すら、今の人間が操る『機械の鼻』からは逃げられぬか」

オリジンの銀色の瞳が、聖域の入り口である巨大な石の門を射抜くように見据えた。彼の透き通った声に、これまでにはなかった微かな焦燥と、侵入者に対する氷のような軽蔑が混じる。

ドォォォォンッ!!

 聖域を支配していた悠久の沈黙を、腹の底を揺さぶるような重低音が粉々に砕いた。それは、かつて「嘆きの谷」の岩場で家族を震え上がらせた、あの不快な「鉄の声」そのものであった。聖域の門の向こう側で、ガシャン、ガシャンという規則的で、生命の温もりを一切感じさせない冷徹な金属音が響き渡る。それは、一度はゼノリスが大地を分断して退けたはずの、小隊長カイル率いる北の鉄鋼王国ヴェルンドの重装騎兵たちが、再び獲物の首元に牙を立てようとしている予兆であった。

「父さん……あの、油の匂いがする」

ゼノリスは、鼻を突くヴェルンド特有の、汚れた機械油と錆が混じった嫌な臭いに、全身の血が逆流するような戦慄を覚えた。右手のひらに刻まれた、赤黒くただれた火傷の跡が、敵の放つ殺気と魔力探知の波動に共鳴するように黄金の火花をパチリと散らし、少年の神経を内側から直接あぶっていく。

「ええ。機械の耳を使い、大地の微かな振動から聖域の鼓動を嗅ぎつけたようね。ロラン、ゼノリスとフィリーネを連れて奥へ!」

母ミリアが鋭い声で叫び、かつて帝国の禁書をまもっていた騎士としての表情で、守護の魔導障壁を幾重にも展開し始めた。ロランもまた、脇腹の負傷を精神力で押さえ込み、ゼノリスから預かっていた短剣を抜き放つ。だが、カイルたちが持ち出した「破城はじょう」の魔導兵器――蒸気と魔力を合一させた巨大な杭が、三千年の静寂を守ってきた聖域の結界さえも、紙細工のように無慈悲にえぐり始めていた。


「見つけたぞ、黄金の光を放つガキ……! そして、帝国が隠し持っていた真実の書庫もな。これさえ持ち帰れば、ヴェルンドの王は大陸の真の支配者となる」

ついに石の門が粉々に砕け散り、黒鉄の鎧に身を包んだカイルが、赤い瞳を不気味に発光させる機械歩兵を率いてなだれ込んできた。彼の瞳は兜の隙間から冷酷な光を放ち、その手には既に、ロランの白い衣を鮮血で染め上げた無機質な剣が握られていた。


「蛮族どもが……我が主の静寂を、その不潔な足で汚すか。歴史を解せぬ機械の徒に、聖域の知恵は一文字たりとも渡さぬ」

オリジンが両手を天へと広げると、聖域のドーム全体に描かれていた星図が、現実の星々を凌駕するほどの輝きを放ち、広間全体を白濁した光の粒子が埋め尽くした。

「ゼノリス、フィリーネ。もはや、ここに留まる時間は残されていない。ここを自爆させて敵をほふることは容易いが、それでは帝国の知恵が永遠に失われてしまう。……今よりお前たちを、大陸中央にある唯一の中立地帯――『帝国魔導院学園』へと送る」

「学園……? あんな、権力の渦巻く場所に、この子たちを連れて行けというのか?」

父ロランが、驚愕と不安の入り混じった声を上げた。

「そこならば、数千年前の古い盟約により、いかなる国の王であっても公然と軍を入れることはできぬ。ゼノリス。お前はその場所で己の力を隠し、一人の生徒として知恵を蓄えるのだ。魔王の力に呑まれぬための、魂の制御を学ぶが良い。……フィリーネ。お前が妹として、彼の傍で成長することも、学園という場所ならば許されるだろう」

「フィリー……にいにと一緒なら、どこでもいい! にいに、手をはなさないで!」

四歳のフィリーネは泣き叫びながら、ゼノリスの服の裾を、爪が食い込むほどに強く握りしめた。彼女にとって、カイルの剣よりも、オリジンの宣告よりも、ゼノリスという光から引き離されることこそが、この世で最も恐るべき絶望であった。

「約束だ、フィリー。絶対に離さない! 何があっても、僕が君をまもる馬になるんだから! 」  ゼノリスは、火傷の疼きに耐えながら、彼女の小さな手と自分の右手を固く繋いだ。

「――消えよ、歴史の汚物ども。種火は今、次なる時代へと放たれた」  

オリジンの静かな言葉とともに、空間そのものが反転した。砕け散る石碑、突進してくるカイルの忌々しい罵声、そして、光のちりとなって消えてゆくオリジンの寂しげな微笑。それらすべてが、次元の狭間を通り抜ける激しい衝撃とともに、意識の彼方へと吸い込まれていった。


 次元転送の激震が収まったとき、ゼノリスが目を開けて最初にしたのは、聖域の冷たい星空の記憶ではなく、夜露に濡れた草木の匂いと、遠くで聞こえる人々の営みの喧騒けんそうを肺いっぱいに吸い込むことだった。一行は、大陸中央に位置する、雲を突くような白亜の塔をようする学園都市エーテルガードを望む、なだらかな丘の上にいた。

「……ここは……?」

ゼノリスは、隣で気を失ったように深く眠っているフィリーネを、自分の背中へと背負い直した。彼女の寝息は穏やかで、先ほどまでの不快な「鉄の匂い」を忘れたかのように安らかだった。


 それから、四年という長い月日が流れた。


 聖域を追われた家族は、学園都市の端にある貧民街の古びたアパートに身を隠した。彼らは「没落した辺境貴族の生き残り」という偽の身分を纏い、隣人とも深く関わらず、ただ息を潜めて生活した。

父ロランは、かつての騎士としての鋭さを完全に隠し、街の鍛冶屋で寡黙に鉄を叩き続けた。かつて一国の秘密をまもっていたその手は、今や馬の蹄鉄ていてつや農具を打つためにあったが、その一振り一振りにはゼノリスへの秘めたる修行の意志が込められていた。ロランは夜、こっそりとゼノリスを裏路地へ連れ出し、学園での実技試験に備えた剣術の極意を叩き込んだ。

母ミリアは、かつての禁書の知識を活かし、ささやかな薬草店を営んだ。彼女のせんじる薬は貧しい人々の傷を癒やしたが、彼女の本当の目的は、ゼノリスが宿す「二重の脈動」による身体への負担を軽減するための秘薬を調合することだった。

 その四年間、ゼノリスは昼間は父の仕事を手伝い、夜はオリジンから授かった帝国の知恵を一人反芻はんすうし続けた。十一歳になった彼の身体は、日々の労働と父直伝の剣術修行によって引き締まり、その黄金と闇の双眸そうぼうには、もはや幼い少年のおびえはなかった。

 しかし、彼にとっての最大の懸念は、八歳に成長したフィリーネであった。

彼女のゼノリスへの「情愛」は、成長とともに常軌を逸し始めていた。彼女は、ゼノリスが数時間でも家を空けると、まるで心臓を奪われたかのように虚ろな表情になり、彼が帰宅した瞬間に、狂ったような勢いで抱きついては泣きじゃくるようになった。

「兄さま……フィリーのこと、置いていかないで。兄さまがいないなら、フィリー、自分の魔法でこの街ごと消えちゃうもん」

冗談には聞こえないその言葉の端々には、彼女が持つ「星の種」としての絶大な魔力が、彼女の独占欲と結びついて危うく膨れ上がっていることが示されていた。いつからか呼び方も「にいに」から「兄さま」に少し大人びた言い方に変わっていた。

彼女にとって、ゼノリスは唯一の神であり、彼に愛されることだけが、自らの存在を肯定する手段となっていた。


 そして今日。ついにその日が来た。十一歳になったゼノリスが、帝国魔導院学園に入学する日の朝である。

 鏡の中に映る自分は、あの「黄金の海が広がる麦畑」を無邪気に走っていた少年ではない。白銀の学園制服に身を包み、右手のひらの火傷は、家族以外には決して見せないよう清潔な包帯で厳重に隠されている。その包帯の下では、強い感情がたかぶるたびに、今でも黄金の火花が散るのを、彼は誰よりも深く自覚していた。

「兄さま。……本当に行ってしまうの?」

八歳になったフィリーネが、ゼノリスの腰に腕を回し、その胸に顔を埋めた。彼女は、ゼノリスが今日から全寮制の学園生活に入るため、家を離れることがどうしても耐えられなかった。  

「フィリー。君が入学してくるまで、あと三年だ。それまで、僕がいなくても泣かないと約束しただろう?」

「……わかってる。でも、もし、兄さまの傍に、フィリーより可愛い女の子がいたら……。フィリー、その子を魔法で、兄さまの目に入らないところまで飛ばしちゃうから。兄さま、フィリーのこと、一秒でも忘れちゃダメだよ?」

 フィリーネの瞳には、八歳児とは思えぬほどに深く、重く、そして純粋すぎるほどの「独占欲」が燃えていた。彼女にとって、ゼノリスは兄という枠を超えた、魂の所有者であり、自分をこの世界に繋ぎ止める唯一の鎖であった。

 ゼノリスは彼女の頭を優しく撫で、その熱すぎる愛情に苦笑しつつも、自分の胸の奥にある魔王の脈動を鎮めるように深く息を吐いた。そして、意を決して学園へと続く長い坂道を登り始めた。

 背後には、心配そうに見守るロランとミリアの姿。前方には、雲をも貫く白亜の巨塔――帝国魔導院学園。

その小さな火種は今、決して消えることのない不滅の炎となって、白亜の学園の門をくぐろうとしていた。

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