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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第1巻 運命の種火

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第3章:父の剣、母の教え

 黄金の海がどこまでも広がる麦畑を捨て、住み慣れた家をあとにしてから、十の日が過ぎた。一行が足を踏み入れたのは、大陸を分かつ八つの国の地図にも記されることのない、険しい連峰のさらに奥、日光さえも届かないほど深い原生林であった。


 そこは、生きた時間が止まってしまったかのような、重苦しい沈黙が支配する世界だった。見上げる空は、何百年、あるいは千年以上も生き続けているであろう巨木たちの枝葉によって完全に覆い隠され、わずかな陽光が地上へ届くことさえも許さない。空気は肺の奥底にまとわりつくほどに湿り気を帯び、立ち枯れた樹木が放つ生々しい土の匂いと、何層にも積み重なった落葉が発酵してゆく濃密な香りが、鼻腔を絶え間なく刺激し続ける。一歩足を踏み出すたびに、分厚い苔の絨毯が「ジュッ」と不気味な音を立てて冷たい水を吐き出し、その感覚は靴底を通り越して七歳のゼノリスの足先を芯から凍えさせた。時折、霧の向こう側で正体不明の獣が短く鳴き声を上げると、その震えが湿った大気を伝わり、家族が背負う孤独と絶望をさらに際立たせていた。


「……父さん、足跡あしあとは、消せているかな」

 ゼノリスが、かすれた声で問いかけた。少年の左右で色の違う不思議な瞳は、暗い森の中でも鋭く光っている。右の瞳には夜明けを告げる黄金の星、左の瞳にはすべてを飲み込む深い夜の闇。かつて村の人々から「幸せを呼ぶ星の瞳」と呼ばれたその双眸そうぼうは、いまや獲物を警戒する小動物のような、切羽詰まった鋭さを湛えていた。

「大丈夫だ、ゼノリス。母さんの魔法が、私たちの歩いた跡を森の記憶へと溶かしてくれている。それよりも今は、自分自身の呼吸を整えなさい。お前の心臓の音が、少し高ぶっている」

 父ロランは、四歳になったフィリーネを背負い、一歩一歩、確かな足取りで道なき道を進んでいた。フィリーネは、あの日、崖崩れで動けなくなった馬車から救い出された、大切な家族だ。彼女はロランの背中で、不規則な揺れに身を任せ、泥のように眠っている。農夫として穏やかに土を耕していた時の父の背中は、いまや完全に別人のような鋭さを取り戻していた。かつて帝国の深い地下で、知恵と命をまもる騎士としての務めを果たしていたその立ち姿は、一瞬の隙も、迷いもない。


 逃亡の日常は、過酷という言葉では言い尽くせなかった。三日目には持ってきた保存食が底を突き、それからは森の木の皮を噛み、冷たい泥水を啜って飢えを凌ぐ夜が続いた。夜中にフィリーネがお腹を空かせて泣き出したとき、ロランは苦しげに顔を歪めながらも、彼女の口をそっと手で塞がざるを得なかった。「音」は死を招く。黄金の麦畑で、白いパンと温かなスープを囲んでいた記憶は、いまや手の届かない遠い夢の彼方の出来事のように思えた。ゼノリスは、妹の小さな泣き声がロランの手の中で震えるのを見るたび、自分の無力さに奥歯を噛み締め、幼い心を一歩ずつ、静かに殺していくのだった。


 ある夜、切り立った岩壁の陰にある小さな洞窟で、家族はつかの間の休息を取ることにした。日光が届かないこの場所では、焚き火の明かりさえも追っ手の標的になるため、一行は冷たい暗闇の中で互いの体温だけを頼りに身を寄せ合うしかない。フィリーネがミリアの膝の上で、ようやく浅い眠りにつくと、ロランは腰に下げた古い剣を抜き、ゼノリスを外へと連れ出した。

 そこは、切り立った岩肌が月光を跳ね返し、青白く光る異様な空間だった。足元の岩は刃物のように鋭く尖り、風が谷間を通り抜けるたびに、まるで死者のすすり泣きのような甲高い音を立ててゼノリスの耳を掠めていった。呼吸をするたびに、肺が凍りつくように痛んだ。

「ゼノリス、今日からお前に『まもるための技』を教える」

 ロランは剣を正しく構えて見せた。その立ち姿は、まるで大地から生え出した一本の鉄柱のように微動だにせず、周囲の殺気立った空気さえも彼を避けて通るかのようだった。

「お前のなかには、巨大すぎるふたつの力が眠っている。地響きのように重い魔王の脈動と、晴れ渡った空のように澄んだ勇者の脈動だ。だが、それを使うのは最後の手段だ。まずはこの鉄の重さを知り、自分の体の一部として操れるようにならなければ、お前は力に振り回されるだけの怪物になってしまう」

 ロランは道端に落ちていた、硬い木の枝をゼノリスに手渡した。

「振ってみなさい。相手を倒そうとするのではなく、ただ、目の前の闇を切り裂くように」

 ゼノリスは、まだ柔らかな掌で必死に枝を握りしめた。一度、二度。少年の鋭い呼気とともに、枝が風を切る音が響く。だが、重い枝に振り回され、彼の足元は脆くもふらついた。  「もっと重心を落とせ。大地から力を吸い上げ、それを剣先へと伝えるんだ。いいか、ゼノリス。私たちの剣は、何かを奪うためのものではない。失われてはならない大切なものを、最後まで守り抜くためのものだ」

 ロランの語る言葉の背後には、彼がかつて帝国の地下で担っていた凄惨な過去が滲んでいた。彼がまもっていた「歴史」の裏側には、無数の戦いと血が流れていた。かつて彼が振るった剣は、真実を隠蔽しようとする者たちの命を幾度も奪ってきたのだ。息子に剣を教えることは、息子を自分と同じ血塗られた道へと引きずり込むことに他ならない。その親としての断腸の思いを隠し、ロランはあえて厳格な師として、息子の脆弱な精神を叩き上げようとしていた。


 修行は肉体的な剣術だけでは終わらなかった。翌朝、深い霧が立ち込め、数歩先さえ見通せない静寂の中で、ミリアはゼノリスを冷たい大岩の上に座らせた。

「ゼノ、目を閉じて。自分の心の奥にある、小さな湖を想像してみて」

 ミリアはゼノリスの背中に、温かな魔法の手を添えた。ゼノリスが意識を集中させると、彼の体から黄金色の光がさらさらと砂のように漏れ出し、周囲の霧を不気味に発光させた。かつて彼が歩くだけで花を咲かせていたその力は、いまや彼自身を焼き尽くさんばかりの勢いで膨れ上がっている。

「その湖の表面を、鏡のように静かに整えるの。波を立ててはいけない。ただ、静寂だけを求めて」

 ゼノリスは必死に、内側から突き上げてくる激しい熱に耐えた。瞑想の中で、彼は自分の精神世界を見つめていた。そこには、すべてを焼き尽くそうとする「黒い太陽」と、すべてを正そうと厳しく輝く「白い月」が、互いに食らい合うように激しく激突していた。魔王の脈動と勇者の脈動。相容れない二つの意志が、ゼノリスの幼い精神を絶え間なく摩耗させ、身体は黄金色の火花のような光を帯びて震え始める。

「……母さん、苦しいよ。熱いものが、胸のなかで暴れてるんだ。全部、出ちゃいそうだ」

 少年の額から大粒の汗が流れ落ちる。ミリアはかつて王宮の地下でまもっていた「古い禁書」の知識を思い返していた。魔王と勇者、その力は本来一つの器に収まるものではない。  「耐えて、ゼノ。世界はね、光だけでは成り立たないの。闇を否定せず、光に飲み込まれず、ただそれらを『あるがまま』に受け入れるのよ。その静寂こそが、フィリーネをまもるための、あなただけの魔法になるの」

 フィリーネの名を聞いた瞬間、荒れ狂っていた心の湖が、嘘のように凪いでいった。ゼノリスの瞳から漏れていた黄金の光が、ゆっくりと収束していく。ミリアは安堵のため息をつき、逞しくなった息子の背中を抱きしめた。しかし、その静寂を嘲笑うかのように、遠くの森の入り口で、鳥たちが一斉に羽ばたき、不吉な鳴き声を上げた。

 北の鉄鋼王国ヴェルンドの精鋭、小隊長カイルが率いる鉄の騎兵たちの足音が、確実に彼らの背後に迫っていた。


 その日の夕暮れどき、森を包む空気は一段と冷え込み、湿った闇が足元から這い上がるように広がっていた。一行は、入り組んだ岩場が迷路のように続く「嘆きの谷」の影に、身を潜めるようにして腰を下ろした。

 谷間を吹き抜ける風は、切り立った岩の隙間で笛のような「ピュー」という甲高い音を鳴らし、それはまるで見えない幽霊たちが空腹を訴えているかのようだった。岩肌には、不気味に波打つ地層の模様が浮き出し、それがゼノリスには、かつて見た古い本の挿絵にある、苦しみにもだえる人々の顔のように見えて震えが止まらなかった。岩からは絶えず冷気が噴き出し、衣服を通り抜けて肌を刺す。指先を岩に触れれば、それは氷そのものの冷徹さで体温を奪い、感覚を麻痺させていった。

「ゼノリス。今日は火を使わずに、フィリーネに食べさせるものを見つけてきなさい。……当然、光の魔法も、花を咲かせる力も、一切使ってはならない」

 ロランの言葉に、ゼノリスは思わず息を呑んだ。この冷たく乾いた岩場には、麦の穂も、たわわに実った果実もない。かつての彼であれば、ただ「おなかが空いた」と願うだけで、足元には鮮やかな青い花が咲き、周囲の植物は主を喜ばせようとぐんぐんと実をつけた。だが、いまその魔法を使うことは、追っ手に対して自分たちの居場所を教える「のろし」を上げるのと同じ、死を招く行為だった。

「……光を使わなきゃ、こんなに暗いところじゃ何も見つからないよ。父さん、無理だよ。どうやったって、ただの冷たい石しか見えないんだ」

「いいえ、ゼノ。よく目を凝らしてみて」

ミリアは、空腹で青ざめた息子の頬にそっと手を添え、さとすように言った。彼女の指先は冷え切っていたが、その震えるような愛おしさは、どんな魔法よりもあたたかく少年の心に届いた。

「魔法は、ないものを作り出すだけではなく、いまそこにあるものの『声』を聞くためにも使えるのよ。世界は、あなたが思っているよりもずっと多くの恵みを、静かに隠し持っているの。……耳を澄ませて、ゼノ。世界の脈動を感じるのよ」

 ゼノリスは岩の上に腰を下ろし、深く息を吐いて目を閉じた。母さんの教え通り、自分の心の奥にある湖を、鏡のように静かに整えていく。剣の修行で学んだ「大地の重み」と、瞑想で学んだ「内なる静寂」。それらがひとつに重なったとき、不自然なほどの静寂の中で、微かな「音」が聞こえてきた。それは風の音でも、自分の荒い呼吸音でもなかった。

 岩の隙間に溜まった、わずかな湿り気がしたたり落ちる「雫」の音。そして、その一滴の水を吸って、じっと春を待つ小さな命の震え。

 ゼノリスは音を立てずに立ち上がり、指先を岩の深い割れ目へと差し込んだ。指先に触れたのは、ひんやりとしたこけの感触。その奥に、宝石のように小さな、けれど力強い拍動を感じた。彼は壊さないように大切に、その「命」を摘み取った。

「……あった。父さん、母さん、見つけたよ」

 彼の手のひらに乗っていたのは、岩の雫を吸って育った、赤く小さな野苺だった。ゼノリスはそれを一粒ずつ、大切そうにフィリーネの口元へ運んだ。

「ほら、フィリー。これならおなかも少しは落ち着くよ。僕が見つけたんだ」

「にいに……ありがとう。あまくて、ちょっと酸っぱいね」

 フィリーネが嬉しそうに微笑み、実を噛みしめる。その瞬間、ゼノリスの胸には、魔法で一面の花園を作った時よりも、ずっと深く、確かな充足感が満ちた。彼は気づいた。強大な力で無理やり世界を書き換えることよりも、いまそこにある小さな命を見落とさず、知恵を使って分かち合うことの尊さを。それは、かつて王宮の地下で古い記録をまもろうとしていた、父や母の騎士としての精神に、魂が一歩近づいた瞬間でもあった。


 夜が深まり、フィリーネがいちごの甘い余韻よいんに包まれながら眠りについたあと。洞窟の最奥、ロランは荷物の中から一振りの短剣を取り出し、それをゼノリスの前に置いた。月光を吸い込んだような鈍い銀の輝きを放つ鞘には、帝国の重厚な装飾が施されている。

「ゼノリス。お前が家を出る時、あのおもちゃの馬を置いてきたのを覚えているか」

ロランのその一言は、ゼノリスの心の最も柔らかい部分を、鋭い刃のように切り裂いた。  脳裏に、あの麦畑に囲まれた平和な家が浮かぶ。窓際に残してきた、少しいびつな木彫りの馬。あれは三歳の時、父さんが不器用な手つきで削ってくれた、世界でたった一つの宝物だった。あの馬と一緒にいれば、どんな嵐の夜も怖くなかった。それを捨ててきたということは、単に荷物を減らしたということではない。二度と戻れない「子供時代」そのものを、あの家へ葬り去ってきたということなのだ。

(……僕は、まだあのおもちゃの馬を握りしめていたい。本当は、剣なんて持ちたくない。フィリーと二人で、またあの麦畑を駆け回りたいんだ。どうして、こんな冷たいところにいないといけないの?)

 ゼノリスの胸の中で、平和な日々への未練という名の黒い泥と、未来への底知れない恐怖が激しくせめぎ合っていた。この剣を握れば、もう二度と、ただの「ゼノ」には戻れない。血と鉄の匂いが漂う、逃亡者という名の「騎士」にならなければならないのだ。その重圧に、少年の肩が小さく震える。

 それに気づいたロランは、厳格な騎士の顔から、一人の父親としての顔に戻り、大きな手で息子の肩を包み込んだ。

「……怖くていい、ゼノリス。私も、初めて剣を授かった時は、震えが止まらなかった。だがな、あの馬を置いてきた場所に、お前の『弱さ』も一緒に置いてきたんだ。……そうだろう? お前はもう、妹に苺を見つけてあげられる、立派な守護者だ」

 父の温もりが、冷え切った少年の震えを鎮めていく。ゼノリスはゆっくりと顔を上げ、父の瞳を見つめた。そこには、逃走者としての苦悩とともに、息子を一人の男として信じる強い光があった。

「この剣は、かつて私が王宮の地下で、一国の歴史と同じだけの重みを持つ秘密をまもっていた時に、腰に下げていたものだ」

ロランは短剣を手に取り、その柄をゼノリスの方へと向けた。

「ゼノリス。これを持ち、フィリーネの前に立つということは、お前が彼女の『盾』となり、家族の『光』になるという誓いだ。……お前に、その覚悟はあるか」

 ゼノリスは、震える手でその短剣の柄に触れた。指先から伝わる、生々しい鉄の冷たさと重さ。それは、枯れ枝とは比べものにならないほどの、生々しい「命のやり取り」を感じさせる重さだった。

「……わかったよ、父さん。僕、もう泣かない。あのおもちゃの馬がいなくても、僕がフィリーをまもる馬になるんだ。……父さんと母さんのことも、僕がこの剣で、絶対にまもり抜くよ。この剣は……奪うためのものじゃない。僕たちの明日をまもるためのものなんだね」

 少年の瞳から、未練の影が消え、代わりに『まもる者』としての鋭い光が宿った。その時、洞窟の入り口でミリアが小さく息を呑む音がした。

「ロラン、ゼノ……! 近くに『鉄の声』が聞こえるわ。森が震えている……。追っ手が、この谷のすぐ側まで来ている!」

 家族の間に、一瞬にして戦場の緊張感が走った。ゼノリスは、いま授かったばかりの短剣をぎゅっと握りしめた。その掌に刻まれた傷跡が、まるで新しい運命の刻印であるかのように、熱く疼き始めていた。


 夜明け前の森は、乳白色の重苦しい霧に支配されていた。それは単なる気象の産物ではなく、古の樹木が吐き出した湿った溜息と、何層にも積み重なった腐葉土が発する生温かい湿気が混ざり合った、視界を拒絶する壁のようであった。空気は冷たく凍りついていながらも、どこか鉄錆てつさびの匂いを含み、一息吸い込むごとに肺の奥がひりついた。

「――来るぞ。ミリア、ゼノ。私の後ろへ!」

 ロランが低く、震えを押し殺した声で命じた。彼は農夫としての穏やかな表情を完全に捨て去り、かつて帝国の深い地下で、知恵と秘密をまもる騎士としての務めを果たしていた頃の、凍てつくような鋭さを纏っていた。その手に握られた剣の柄が、目に見えない震えとなって彼の手のひらに冷たい汗をにじませる。

 霧の向こう側で、いくつもの硬質な金属音が響いた。ガシャン、ガシャンという規則的な音は、北の鉄鋼王国ヴェルンドの精鋭たちが纏う黒鉄くろがねの鎧が擦れ合う死の旋律だった。その足音は重く、湿った大地を無慈悲に踏みにじりながら、着実に家族の潜伏場所へと近づいてくる。

「……見つけたぞ。商人の報告通りだ。黄金の光を放つガキを、生きたまま王のもとへ連れて行く。それが我らの任務だ」

霧を切り裂くようにして現れたのは、黒い馬に跨った十数騎の重装騎兵たちだった。その先頭に立つ男、小隊長カイルの瞳は、兜の隙間から冷酷な光を放っている。彼らの胸当てには、冷たくかみ合う「歯車」の紋章が刻まれ、馬が吐き出す白い息には、ヴェルンド特有の油の匂いが混じっていた。


「下がっていろ、ならず者ども。……この先は、私が通さん」

 ロランは一人、騎兵たちの前に立ちはだかった。七歳になったゼノリスの目に、父の背中はこれほどまでに大きく、そして同時に、今にも霧に消えてしまいそうなほど孤独に見えた。

「邪魔だ。斬り捨てろ!」

 カイルの非情な号令とともに、三騎の兵士が槍を水平に構えて突進してきた。重い蹄が湿った大地をえぐり、跳ね上がった泥がゼノリスの頬を叩く。ロランの動きは、まさに研ぎ澄まされた知恵が形を成したかのようだった。彼は突き出された槍を剣の腹で受け流し、その勢いを利用して兵士の腕を強打する。相手を殺めることではなく、ただ「失われてはならないもの」を最後まで守り抜くための、淀みのない一振り。

 しかし、多勢に無勢であった。霧の中から次々と現れる鉄の影が、ロランの包囲網を狭めていく。一人の兵士が放った刃が、ロランの脇腹を深く切り裂いた。

「父さん……っ!」

 ゼノリスが叫ぶ。ロランの白い麻の服が、見る間に鮮血で赤黒く染まってゆく。それでも父は膝をつかなかった。

「……来るな、ゼノリス! フィリーネと母さんをまもれ!」

 その時、ゼノリスの視界の端で、一人の兵士が馬を走らせ、岩陰にいたミリアとフィリーネへと槍を向けた。それは、家族の平穏を完全に終わらせる絶望の切っ先だった。


 ゼノリスのなかで、何かが決定的に壊れ、そして目覚めた。彼の胸の奥で、決して混じり合うはずのない「二つの鼓動」が、狂ったような速さで共鳴し始めた。地響きのように低く重い、魔王の脈動。そして、晴れ渡った空のように清らかな、勇者の脈動。その二重の調べが、身体の芯を焼き尽くすほどの激しい熱となってあふれ出す。

「……やめろぉぉぉっ!!」

 少年の叫びが、森の重苦しい空気を一瞬で震わせた。次の瞬間、ゼノリスの身体から、まばゆい黄金の光と、すべてを飲み込む漆黒の闇が同時に噴き出した。

 右の瞳には、夜明けを告げる黄金の星が燃え上がり、左の瞳には、万物を静寂に引き込む深い夜の闇が沈む。光の渦は、襲いかかろうとした兵士を馬ごと吹き飛ばし、周囲の巨木をなぎ倒した。それは、父ロランから譲り受けた短剣の重さを噛みしめ、ゼノリスが自らの意志で「まもるための盾」になろうと決意した、魂の爆発であった。

「……こないで。フィリーは、僕が……僕がまもるんだ!」

 少年の瞳には、もはや怯えはなかった。そこにあるのは、愛する家族を泥靴で踏みにじろうとする者たちへの、決して折れることのない拒絶と、静かなる怒りだった。


 ゼノリスの手から放たれた光は、もはや制御しきれないほどの熱量となり、一本の巨大な光の柱となって大地を直撃した。

ドォォォォォォンッ!!

 雷鳴を凌駕する轟音が響き渡り、大地が巨大な口を開けたかのように裂けた。ゼノリスが踏み出した一歩を起点として、深い亀裂が森を真っ二つに分断していく。衝撃波に煽られ、カイルたちの馬が狂ったようにいななき、後方へと退却を余儀なくされた。

 さらに、その亀裂の底から、魔法で編まれたような鋭い棘を持ついばらが急速に芽吹き、天を突くほどの巨大な壁を形成した。それは、相手を殺戮さつりくするための力ではない。父が教えた通り、大切なものを「守り抜く」ために、この世界そのものを物理的に切り離した、拒絶の力であった。

「……な、なんだ、あの力は……。ただの子供ではないのか……」

カイルの声が、壁の向こう側で絶望的に響いた。だが、その声もすぐに、ゼノリスが引き起こした大地の鳴動にかき消されていった。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」

 光が収まったとき、ゼノリスはその場に膝をついた。全身の血管を熱い鉛が通り抜けたかのような激痛が走り、肺が焼けるように熱い。短剣を握りしめていた手のひらには、あまりの魔力の奔流ほんりゅうに耐えきれず、赤黒い火傷の跡が刻まれていた。

「ゼノリス! よく……よくやった……」

 血に染まったロランが、震える手で息子の肩を抱いた。ミリアもまた、震える手でフィリーネを抱きしめ、すぐさまロランの傷口へ応急処置の魔法を施す。

「……行きましょう、今のうちに。この壁が、いつまでも彼らを止められるとは限らないわ」

 傷ついたロランをゼノリスが肩を貸して支え、一行は血の匂いを消しながら、さらに険しい山道へと分け入った。背後からは、二度と戻ることのできない、あの黄金色の麦畑の香りが、霧の彼方へと消えてゆくのを感じていた。


 死闘から数刻。一行がたどり着いたのは、連峰の頂に近い、常に真っ白な霧が立ち込めている不思議な窪地だった。そこには、周囲の荒々しい自然を拒絶するかのような、整然とした石造りの巨大な門がたたずんでいた。

 表面には、いまもなお淡い青色の光を放つ不思議な文字が刻まれている。ここが、かつての帝国がその終焉とともに、世界の記憶から抹消するために封印したとされる場所――『忘却の聖域』であった。

「……ここから先は、帝国の血、あるいは、それに連なる魂を持つ者しか通れないわ」

 ミリアが、祈るような手つきで門の表面に触れた。門は重苦しい音を立て、内側から温かな光を漏らしながらゆっくりと開いてゆく。追っ手たちの怒号も、馬のいななきも、この門の奥にある静寂には届かない。ここは、世界の時間が止まったままの、隔絶された聖域だった。


 聖域の最深部。そこには、巨大な星図が刻まれたドーム型の天井が広がり、クリスタルの柔らかな光が満ちていた。ミリアがロランの治療を続け、極限の緊張から解放されたフィリーネが兄の隣で眠りについたとき。ゼノリスだけが、誰も聞こえないはずの「声」を耳にした。

『……待っていたぞ。二つの魂を宿せし、異質なゼノリスよ』

 それは風のささやきよりも静かで、けれど心臓の奥底を直接揺さぶるような響きだった。  ゼノリスが振り返ると、星図の中央に置かれた古い石碑が、彼の右の瞳と同じ黄金色に輝いている。ゼノリスは、一歩、また一歩、引き寄せられるように近づき、その表面に手を触れた。

 その瞬間、ゼノリスの脳裏に、かつて八つの国に切り刻まれる前の、巨大な帝国の真実の姿が流れ込んできた。自分はなぜ生まれたのか。なぜフィリーネは、あの嵐の夜に現れたのか。石碑から伝わる記憶は、少年の幼い心に、逃亡者ではない、新たな「まもるべきもの」の重みを刻みつけていった。

「……これが、僕たちの、本当の……」

 少年の瞳に、かつてないほど深く、力強い覚悟が宿る。聖域の中で眠る少年の小さな呼吸は、外の世界を揺るがす新たな嵐の予兆のように、静かで、そして深かった。


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