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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第4巻 蒼き海の鎮魂歌(レクイエム)

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第32章:交差する航路、次なる嵐の予感(エピローグ)

 西の海に抱かれた美しい国、ルサルカ海洋公国の海は、鏡のように凪いだ本来の美しさを完全に取り戻していた。

 海面を覆い、人々の魂を縛り付けていたおぞましい悪意の残滓はすでに消え去り、水平線から昇る陽光が、無数の星々のように水面で幻惑的な輝きを放っている。その穏やかな波を切り裂き、水鳥の羽を思わせるしなやかな曲線を描く白い船体が、音もなく滑るように進んでいた。

16歳の若きリーダーへと成長したゼノリス・ルーツは、甲板の手すりに寄りかかり、潮風に黒髪を揺らしながら自身の右手のひらをじっと見つめていた。

そこには、幼き日の力の暴走による火傷の跡と、帝国の禁忌技術の象徴である「三つ目の星」の刻印が、鈍い銀光を放って刻まれている。

右目に黄金の星、左目に闇を宿すオッドアイの持ち主である彼は、世界を救う「勇者」と世界を破壊する「魔王」という、相反する二つの力を宿す器として生まれついた。

長らくその恐ろしい呪縛に怯えていた彼だが、数多の死線を越え、養父直伝の守護の剣術と魔法を融合させる中で、その力を世界をあるべき姿へと導く「調律チューニング」の力として完全に受け入れていた。


「……お兄様。また、一人で難しいお顔をなさっているのですか」


不意に背後から響いた、鈴を転がすような透明な声に、ゼノリスの頬が和らぐ。

振り返ると、そこにはフィリーネが立っていた。

腰まで届く銀色の髪は朝の光を透かして輝き、その青い瞳には、深淵のような慈愛と、兄に対する危ういほどに深い独占欲が静かに揺らめいている。

帝国の正統な継承者である「星のステラ・シード」として覚醒した彼女は、もはやただ守られるだけの少女ではなく、強力な治癒魔法や植物操作を操り、ゼノリスの精神を繋ぎ止める最も強固な「安全装置」へと成長していた。


「フィリー……。いや、少しこれまでの戦いを思い出していただけだよ」


ゼノリスが苦笑しながら答えると、フィリーネはごく自然な仕草で彼の二の腕に自らの細い腕を絡め、その柔らかな体温を密着させた。


「お兄様のその右手の傷がこれ以上増えるのは、私は耐えられません。……でも、お兄様が世界の歪みに立ち向かうというのなら、私はお兄様の背中を守る盾となり、敵を絡め取る黄金の茨となります」


フィリーネの単なる家族愛を超えた深い情愛の言葉に、ゼノリスは力強く頷き、彼女の銀髪を優しく撫でた。


「おいおい、朝っぱらから甲板で熱いことしてんじゃないわよ。潮風が生温かくなっちゃうじゃない」


甲板の後方から、明るく豪快な声が飛んできた。小麦色の肌と青い髪を持つ陽気な航海士、ナディアである。

彼女は腰に下げた「黄金の羅針盤」を誇らしげに掲げながら、軽快な足取りで二人の元へやってきた。


「おはよう、ナディア。羅針盤の調子はどうだい?」

「完璧よ! 魔力の潮流も運命の糸も、すっかり正常に読み取れるわ。……見て、針は真っ直ぐに次の目的地を指し示している」


ナディアが羅針盤を掲げると、淡い金色の光を放つ針が、東方の海域を真っ直ぐに指していた。


「……大陸の経済と流通の要所を握る商業国家、ギルダー商業公国だね」


ゼノリスの表情が引き締まる。「金こそが唯一の正義」とする実利主義な国民性を持つその国は、莫大な資金援助と兵糧の供給を通じて八ヵ国連合に多大な影響力を持っている。人の命さえも冷たい数字に置き換えて取引するその国の暗部に、世界の不協和音を操る黒幕が潜んでいることは明白だった。


「ええ。あの歪んだ仕組みを裏で糸引く奴らの綻びとなる『一点』を、この羅針盤が必ず正確に特定してみせるわ」

「みんな、特製のハーブティーが入ったよ。潮風の冷えにはこれが一番さ」


ナディアの背後から、両手に温かいティーカップを持ったテオが、獣の耳をピクピクと動かしながらひょっこりと顔を出した。

アル・ザハブ南方太陽国のオアシスの村出身である彼は、温厚で仲間思いな薬草の専門家だ。普段は内気で優しい性格だが、いざ戦闘となれば強靭な肉体へと「獣化」し、漆黒の巨大な重盾であらゆる衝撃を弾き返す鉄壁の守護者となる。


「ありがとう、テオ。すごくいい香りだね」


ゼノリスがカップを受け取ると、テオは少し照れくさそうに笑った。


「ギルダーまでは長い航海になるからね。……それに、あの街の冷たい空気に負けないように、僕が精一杯みんなの盾になるから」


テオの温かい言葉に、四人の間に穏やかな笑みが広がった。離れ離れになった仲間たちとの再会を信じ、彼ら「星屑の軍団ステラ・レギオン」の絆は、今や誰にも断ち切ることのできない強固なものとなっていた。


一方、ゼノリスたちが広大な海を渡っている頃、大陸の各地では、かつて学園で共に時を過ごした仲間たちもまた、来るべき嵐に備えてそれぞれの戦いを繰り広げていた。

 光の教えを重んじる大陸最大の宗教国家、サンクトゥス聖教国。その地下深くにある冷たい石造りの祈祷室で、二人の少女が静かに言葉を交わしていた。


「……セレスティア。認識を曖昧にする『迷いの霧』の配置は完了したわ。これで、教会の腐敗した上層部の監視の目をごまかせるはずよ」


灰色の修道服を纏い、冷徹な仮面の下に激情を隠した「灰色の聖女」イリスが、幻惑魔法イリュージョンの名残を指先から散らしながら告げた。


「ありがとう、イリス。……ゼノリスたちの船は、無事にルサルカを出航したようね」


没落貴族の令嬢であり、気品あふれる「真の聖女」であるセレスティアは、真実を映す青い瞳を伏せ、祈るように両手を組んだ。癒しと光の魔法を司り、精神的にゼノリスを繋ぎ止める役割を果たしてきた彼女の胸の奥には、彼が放つ圧倒的な意志の光が今も消えることなく輝き続けている。


「教会は私たちを異端として追放したけれど、私たちはもう、誰かに与えられた運命に絶望したりはしない。……ゼノリスたちがギルダーの闇を暴くその時までに、私たちもこの国の『偽りの光』を終わらせましょう」


イリスがセレスティアの手を強く握りしめると、二人の間に、静かだが苛烈な決意の火花が散った。

 同じ頃、ギルダー商業公国へと続く陰湿な密輸ルートの路地裏。

「……おいおい、見ろよ。あの荷馬車に積まれている木箱、魔力遮断の結界が何重にも張られてやがる。間違いなく、ただの香辛料じゃないぜ」


野生的な勘に優れる情報屋カシムが、闇の中に完全に溶け込んだまま、鋭い視線を獲物に向けていた。アル・ザハブ出身の彼は、自身の影を自在に操る「影魔法」での偵察や暗殺を得意とし、誰にも気づかれることなく豪商たちの裏ルートを監視している。


「……風が、酷く淀んで泣いているわ」


カシムの隣の影から、女剣士リィンが音もなく姿を現した。

シルフィード東方霊樹国の末裔である彼女の背中には、三千年前の遺産である「銀色の羽衣」が、かすかな光を帯びて揺らいでいる。かつて一族の汚名に苦しんでいた彼女は、真実を知り、誇りを取り戻した今、自らの意志で神速の斬撃を放つ強き戦士となっていた。


「リーダーの不器用な歩幅に合わせて、最高の舞台を用意してやるのが俺たちの仕事だからな」


カシムが皮肉っぽく笑うと、リィンは静かに頷き、風を纏った愛刀の柄に手をかけた。


 そして、中立地帯である学園都市エーテルガードの旧校舎地下。


「……ルカス、第二バイパスの魔力逆流を防げ!ギルダーの通信網の魔力構造を数式化して読み取るには、この古代の演算回路をフル稼働させるしかない!」


ボサボサ頭の参謀役ガイルが、右目の眼帯の下に隠された「解析眼アナライズ」を剥き出しにし、無数の青白い数式を睨みつけていた。空間の魔力構造や敵の術式を瞬時に数値化して見抜く彼の瞳は、今や大陸全土の魔導通信の暗号を解読すべく、極限まで酷使されている。


「言われるまでもない!魔導具のリミッターを解除して、過剰出力オーバーロードに移行する!……僕の構築したこのシステムなら、ギルダーの豪商連合議会が隠している裏帳簿のデータだって、必ず引きずり出せるはずだ!」


眼鏡をかけた機械技師ルカスが、熱い職人魂を燃やしながら、複雑な魔導デバイスのレバーを力任せに押し込んだ。離れ離れになった「七人の星屑」たちは、決して絆を違えることなく、ゼノリスという中心点へ向けてそれぞれの戦いを繰り広げていた。彼らの見えない糸は、確実に次なる嵐の中心地、ギルダー商業公国へと収束しつつあったのだ。


ゼノリスたちが『エトワール号』で広大な海を渡り、別動組の仲間たちが各地で暗躍を続けている頃――彼らの覚悟をあざ笑うかのように、世界の裏側では底知れぬ悪意が、冷たく、そして精緻な計算のもとに蠢動しゅんどうしていた。

 深い、底知れぬ闇の底。光さえも吸い込まれるような冷たい石造りの大広間で、一人の男が優雅にタクトを振るっていた。

かつて学園の教頭を務め、ゼノリスたちを「忘却の監獄」という絶望の淵へと突き落とした狂気的な音楽家、サイラス・ヴォーンである。現在は行方不明となっている彼だが、このギルダー商業公国のさらに地下深く――三千年前の帝国が遺した、地図にも載らない「忘却の祭壇」の中心で、不協和音を愛する狂人としての本性をいかんなく発揮していた。

彼の目の前には、虚空に浮かぶ巨大な五線譜があり、漆黒のインクが生き物のように這い回りながら、次々と不気味な音符を刻み込んでいる。


「……ああ、なんと甘美で、力強いクレッシェンドだろうか」


サイラスは恍惚こうこつとした表情で目を閉じ、両手を広げた。彼が持つ特殊能力『真実の聴覚エコー・アナライズ』は、物理的な距離を無視して、世界中のあらゆる生命の脈動や魔力の揺らぎを「音」として精密に聴き取ることができる。彼の耳には今、遠く離れた海の上を往くゼノリスたちの力強い心音や、大陸各地で散開して動く別動組の息遣いが、鮮明な旋律として届いていた。


「ゼノリス君が奏でる、相反する力を束ねる『調律チューニング』の音色。そして、彼に狂おしいほどの愛を注ぐ『星の種』フィリーネ君の、純粋で底知れぬ魔力の響き。テオ君の獣としての猛々しい鼓動に、ナディア君の羅針盤が刻む運命のリズム……。さらにはどうだろう。サンクトゥス聖教国で教会の腐敗を突こうとするセレスティア君とイリス君の祈り。影と風を駆使してこのギルダーの裏路地を走るカシム君とリィン君の足音。そして、地下で古代回路をハッキングしようと熱を燃やすルカス君とガイル君の知恵の鼓動……」


サイラスはタクト代わりの羽ペンを置き、まるで極上のオーケストラを鑑賞するように酔いしれた。離れ離れになってもなお、彼ら『ステラ・レギオン』と別動組の音色は、ゼノリスという中心点に向かって見事なハーモニーを形成しつつある。


「君たちの奏でる希望の音は、私が想定した以上の美しさと力強さを持っている。だが、その希望の和音が強固であればあるほど、それが反転した時の『不協和音』は、いかばかりの絶望をはらむことか。人が希望を打ち砕かれ、最も醜く絶望し、仲間を信じられなくなる瞬間の悲鳴こそが、この世界で最も美しい音楽なのだから」


サイラスはゆっくりと目を開け、部屋の高い場所にある小さな鉄格子の窓から、夜空を見上げた。そこには、普段は見ることのない不吉な色の星々が、不自然な並び方で一箇所に集まろうとしている奇妙な図形が浮かび上がっていた。それは、何百年も前に書かれた古い禁書に記されている「虚無の王」の降臨――今ある世界の秩序が壊れ、すべてが何もない平穏で絶対的な静寂の世界へと飲み込まれるという『終わりの始まり』を示す予兆だった。


「八ヵ国の王たちは、自分たちが大陸の主だと信じ込んでいる。だが、本当の主は他にいるのだよ。……彼らはただ、私の楽譜スコアの上で踊る哀れな音符に過ぎない」


サイラスの視線は、星々の軌道が収束しつつある真上――ギルダー商業公国の大地へと向けられた。


「金と欲望、そして人の命すらも冷たい数字に置き換えるあの街は、次の舞台にふさわしい。……さあ、ゼノリス君。君がその『変革の星』の力で世界を調律しようと足掻あがけば足掻くほど、あの方が望む真の終焉は近づいていく。この私が用意した究極のフィナーレを、たっぷりと楽しませてくださいよ」


狂気と歓喜を含んだサイラスの笑い声が、誰の耳にも届くことなく、深い闇の中へとどこまでも深く溶けていった。

 一方、サイラスが暗躍する地下祭壇から遥か上方。大陸の経済と流通の要所を握る商業国家、ギルダー商業公国の中枢――『豪商連合議会』の大議事堂では、血も凍るような冷徹な会議が開かれていた。

議事堂の内部は、ルサルカの白亜の王宮や、サンクトゥス聖教国の荘厳な礼拝堂とは全く異なる異様な空間だった。壁一面には巨大な真鍮しんちゅう製の歯車が絶え間なく回転し、天井からは無数のパイプが張り巡らされている。空気には、重油と鉄錆の匂いに加え、権力を誇示するような高級な香辛料や香水の匂いが不気味に混ざり合っていた。

円卓を囲むのは、豪商連合議会に名を連ねる大商人たちだ。彼らは皆、最高級のシルクや宝石で身を飾っているが、その瞳には一切の温もりがなく、ただ目の前にある『数字』と『利益』だけを追い求める、実利主義の権化のような冷たさを宿していた。


「……先月、エテルナのヴァルター議長が失脚し、地下の『古代機甲兵』計画が頓挫した件だが」


議長席に座る初老の男が、金の装飾が施された葉巻をくゆらせながら、退屈そうに口を開いた。


「あの男は、少々夢を見すぎたようだな。無骨な武力で世界を直接制覇するなど、リスクが高すぎる上に非効率だ。制御しきれない古代兵器を暴走させ、自滅するとは愚かの極み。……やはり、世界を真に支配するのは暴力ではなく『金』でなければならない」

「全くだ。金こそが唯一の正義であり、絶対の真理だ」


隣に座る恰幅の良い商人が、分厚い裏帳簿を叩きながら同意する。


「エテルナの失敗は、燃料となる『生きた魔導士』の調達と管理が杜撰ずさんだったことにある。だが、我々ギルダーは違う。我が国には、借金で首が回らなくなった市民や、他国から流れてきた難民という名の『無尽蔵の資源』がある」


男が指を鳴らすと、議事堂の壁面の一部が透明なガラス張りに変わり、その奥の光景が映し出された。

そこには、巨大な地下工場で、鎖に繋がれた数千人もの貧しい人々が、巨大な真鍮しんちゅう製の機械群――「強制魔力抽出装置」に繋がれている地獄のような光景があった。

彼らの身体には、冷たく無機質な魔導チューブが何本も無慈悲に突き刺さっている。かつてエテルナの地下で古代機甲兵を暴走させ、ルサルカの海神を汚染したあの忌まわしき寄生体『這い寄る鉛糸リードストリング』は、ゼノリスたちの死闘によってすでにこの世界から完全に絶滅していた。

しかし、ギルダーの豪商たちは、意志を持った不安定な化け物に頼るような愚は犯さなかった。彼らは、純粋な機械工学と古代の魔導回路を組み合わせ、人間の命を直接絞り取る「搾取のシステム」を自らの手で構築していたのだ。

チューブを通じて、人々の命そのものである魔力が容赦なく吸い上げられ、絶え間なく回転する巨大な魔導炉へと送り込まれていく。人々の顔から生気は完全に失われ、ただ機械を動かすための「電池」として使い潰されていく。彼らが絶望の悲鳴を上げようとも、分厚い防音ガラスの向こう側にいる商人たちの耳には一切届かない。


「見ろ、この美しく、そして完璧に統制された効率を」


議長は満足げに葉巻の煙を吐き出し、ガラスの向こうの惨状を芸術品でも鑑賞するように見下ろした。


「エテルナのヴァルターや、ルサルカの宰相ザルクは、あの『鉛糸』などという、意志を持つ不確定要素に依存したからこそ自滅したのだ。だが我々ギルダーは違う。借金で首が回らなくなった市民や、他国から流れてきた難民という名の『無尽蔵の資源』を、一切の感情を排した冷徹な機械で管理する。……人間の命など、この国においてはただの『燃料』であり、帳簿上の『数字』に過ぎないのだからな」


隣に座る恰幅の良い商人が、分厚い裏帳簿を叩きながら同意する。


「全くだ。金こそが唯一の正義であり、絶対の真理だ。彼らの命を削って抽出した魔力を、純度の高い魔導バッテリーに変換し、八ヵ国連合に高値で売り捌く。軍事力を持たぬ我が国が、他国への莫大な資金援助や兵糧の供給を通じて連合に多大な影響力を持てるのは、このシステムがあるからこそだ」


議事堂内は、自らの築き上げた冷酷なシステムに対する自賛の笑い声に包まれた。だが、情報担当の商人が、神経質そうに眼鏡を押し上げながら報告の口を開くと、その空気はわずかに引き締まった。


「……しかし、懸念事項が一つある。先のエテルナの事件に介入し、ルサルカの海神すら浄化したという例の集団……ゼノリス・ルーツ率いる『ステラ・レギオン(星屑の軍団)』だ。彼らが、このギルダーへ向かっているという確かな情報が入っている」


その言葉に、議事堂内に微かな緊張が走る。彼らがどれほどの実力を持っているかは、すでに各国の商人たちのネットワークを通じて知れ渡っていた。世界を蝕んでいた鉛糸を完全に絶滅へと追いやったその規格外の力は、ギルダーの構築したこのシステムにとっても最大の脅威となり得る。


「奴らの目的は、我々のこの『命の取引』を終わらせることだろう。だが……逆に考えれば、極上の商品が向こうからやって来るということだ」


別の商人が、舌舐めずりをしながら身を乗り出した。

「特に、フィリーネ・ルーツ。彼女は帝国の正統な継承者『星のステラ・シード』だというではないか。彼女の血に流れる生命の律動……それを我々の抽出装置の中枢に直結させれば、もはや一般市民の命を何千人と使い潰す必要すらなくなる。彼女一人で、永遠に枯渇することのない『永久機関』が完成するのだ!」

「素晴らしい! まさに錬金術の極致だ!」


商人の提案に、議事堂内は再び拍手と歓声に包まれた。彼らにとって、一人の少女の尊厳や命など、利益を生み出すための歯車に過ぎない。

議長の男は不敵に笑い、テーブルを叩いて静寂を取り戻した。


「恐れることはない。ここは甘いお伽噺が通用する国ではないのだ。このギルダーの空気そのものが、彼らのような青臭い『絆』や『正義』を否定する。彼らの掲げる理想など、この街では一瞬で泥に塗れて消え去るだろう。……それに、ちょうど良い『猟犬』たちが、すでにこの国へ到着していると聞いている」


議長の言葉に、商人たちが一斉に邪悪な笑みを浮かべた。


「かつて学園を追放されたマルクス・ギルダーと、没落商人のガズか。ゼノリスへの復讐心に燃え、這々の体でこの国へ逃げ帰ってきたというあの敗残兵どもを、この国の潤沢な資金と技術でさらに強化し、あの若造どもにぶつければいい。彼らが互いに潰し合い、絶望の悲鳴を上げる様を、我々は特等席で金貨を数えながら見物するとしよう」


金こそが唯一の正義。

その歪んだ信念に少しの疑いも持たない豪商たちの笑い声が、冷たい鉄と油の匂いが漂う大議事堂に響き渡る。

彼らは気づいていない。自分たちが完璧に計算し尽くしたと思っているその「鉄壁の帳簿」すらも、さらに深い地下で暗躍するサイラスの、狂気に満ちた楽譜の一部に組み込まれているということに。そして、そこに真っ向から挑もうとしているゼノリスたちの「変革の星」の輝きと、集結しつつある別動組の絆が、どれほどの熱を帯びてこの国に迫っているかということに。

欲望と欺瞞ぎまんが渦巻く巨大な機械都市ギルダー。ゼノリスたちを迎え撃つための、恐ろしくも冷酷な「歓迎の準備」は、こうして静かに、そして確実に整えられつつあった。


 西の海に抱かれたルサルカ海洋公国を出航した高速通信船『エトワール号』は、数日間の平穏な航海を経て、大陸東方の海域へと着実にその歩みを進めていた。

吹き抜ける海風からは、夏の刺すような熱気はすでに消え失せ、代わりに微かな冷涼さを帯びた秋の気配が混じり始めている。見上げれば、澄み渡った空に刷毛はけで掃いたような薄い雲がたなびき、季節がまた一つ、確かな歩みを進めていることを告げていた。


「……少し、風が冷たくなってきたね」


甲板の船首で潮風に黒髪を揺らしていたゼノリスに、背後から温かな声がかけられた。振り返ると、両手に湯気を立てる木製のマグカップを持ったテオが、獣の耳を微かに揺らしながら立っていた。彼の体躯は、かつて学園の地下で怯えていた頃とは比べ物にならないほど逞しく成長し、戦闘時には強靭な肉体へと「獣化」する力を持つ。背負った漆黒の巨大な重盾にふさわしい、仲間を守る絶対的な盾としての誇りが、その広い肩幅には滲み出ている。


「ありがとう、テオ。……潮風草の根のブレンドだね。冷えた体に染み渡るよ」


ゼノリスがカップを受け取ると、テオは柔和な笑みを浮かべて隣に並んだ。薬草の知識に長け、普段は内気で優しい性格の彼は、仲間たちの体調管理を誰よりも気にかけている。


「うん。秋風が吹き始めると、なんだか不思議な気分になるよ。……そういえば、ルカスは9月9日で、一足先に17歳になったんだよね。離れ離れになっている間に、彼が僕たちの最年長として、もっと理屈っぽくなっている姿が目に浮かぶよ」

「あはは、違いないわ。きっと今頃、埃っぽい地下室で『僕の17歳の誕生日は、古代技術の解析に捧げられた記念すべき日だ』なんて、眼鏡を光らせながら一人でぶつぶつ言ってるに決まってるわよ」


マストの上から軽やかに飛び降りてきたナディアが、笑いながら会話に加わった。陽気で奔放な航海士である彼女もまた、7月20日に16歳の誕生日を迎えていた。彼女の腰には、魔力の潮流や運命の糸を読み解く「黄金の羅針盤」が、主の成長を祝福するように淡い金色の光を放っている。


「カシムも8月8日で16歳になったしね。……本当なら、またみんなで集まって、盛大にお祝いしたかったんだけどな」

ナディアが少しだけ寂しそうに肩をすくめると、ゼノリスの右腕に、柔らかな温もりがそっと寄り添った。


「……悲しむことはありませんよ、ナディア」

13歳のフィリーネだった。銀糸のような長い髪を潮風に遊ばせ、透き通るような青い瞳には、秋の空よりも深い慈愛の光が宿っている。帝国の正統な継承者「星のステラ・シード」として強大な魔力を秘める彼女は、もはや守られるだけの少女ではなく、ゼノリスの隣に立つ気高き淑女レディとしての美しさを放っていた。


「私のお誕生日である7月7日には、お兄様が星空の下で、優しくお祝いの言葉をかけてくださいました。……そして次は、10月10日。お兄様の、17歳のお誕生日がやってきます。……今は離れ離れになっている他のみんなとも、きっとまた、笑顔で再会できる日が来ます。私たちがこの戦いを終わらせれば、必ず」

フィリーネは、ゼノリスの右手を自らの両手で大切に包み込むようにして握りしめた。右目に黄金の星、左目に闇を宿す彼のオッドアイを見つめる彼女の瞳には、単なる家族愛を超えた、狂おしいほどに深い情愛と独占欲が揺らめいている。

そうだ。彼らはまだ16歳から17歳という若者なのだ。ギルダーの傲慢な豪商たちは、彼らのことを「青臭い若造ども」と見下し、冷酷な罠を張り巡らせて待ち受けているだろう。

しかし、彼らが信じる「絆」や「いつかまた十人全員で笑い合いたい」という平穏への願いは、決して青臭い戯言などではない。それこそが、冷たい数字や歯車には絶対に生み出せない、人の命が放つ最も熱く、強固な光なのだ。


「……ああ。いつか必ず、僕たちはまた十人で集まる。そのために、この不協和音を僕たちの手で終わらせるんだ」

ゼノリスは、右手のひらにある火傷の跡と「三つ目の星」の刻印をギュッと握りしめた。

かつて世界を破壊する「魔王」の力と恐れられたその熱は、今は仲間たちとの平穏な未来を切り開くための、確かな「種火」となって彼の魂を温めていた。


 しかし、彼らの穏やかな決意を嘲笑うかのように、海域の空気は急速にその性質を変え始めていた。

秋の爽やかな海風が、いつの間にか重油の焦げた臭いと、冷たく乾いた鉄錆てつさびの匂いに塗り潰されていく。海面の色も、透き通るようなサファイアブルーから、どろりとしたコールタールのような暗緑色へと変貌していた。


「……見て。私の羅針盤の針が、狂ったように火花を散らしているわ」

ナディアの表情から笑顔が消え、優秀な航海士としての極度の緊張感が張り付いた。彼女が指差す水平線の向こう側――空と海の境界線に、巨大な灰色の分厚い雲のようなものが浮かび上がってくる。


「あれが……大陸の経済と流通の要所を握る商業国家、ギルダー商業公国……」

ゼノリスの呟きに、テオが息を呑み、無意識のうちに大盾を構え直した。


姿を現したその国は、自然の恩恵と完全に断絶した「欲望の要塞」であった。天を衝くほどの巨大な無数の煙突群が、真っ黒なすすと排煙を絶え間なく吐き出し、空をどんよりとした鉛色に染め上げている。街の至る所に巨大な真鍮製の歯車や魔導パイプが剥き出しで張り巡らされ、都市全体がまるで一つの巨大な機械生命体のように、ズゥゥン……ズゥゥン……と、心臓の鼓動を思わせる重苦しい駆動音を響かせていた。

「金こそが唯一の正義」とする実利主義のその国は、軍事力こそ低いものの、莫大な資金援助や兵糧の供給を通じて、八ヵ国連合に多大な影響力を持っている。


「……おぞましい場所です。空気そのものが、人間の温かな感情を否定し、冷たい計算式だけでできているようです」

フィリーネが、吐き気を催すようなその威容に身を固くして呟いた。


あの分厚いコンクリートと鉄の地下深くでは、純粋な機械工学によって人間の命そのものを「燃料」として搾取する『強制魔力抽出装置』が、今この瞬間も稼働しているのだ。

すでに絶滅した『這い寄る鉛糸リードストリング』という不確定要素になど初めから頼ることはせず、豪商たちは無慈悲な機械のシステムで貧しい市民たちを「電池」として使い潰している。

そして、その非人道的なシステムを操る豪商連合議会が、自分たちの利益を脅かす存在を黙って見過ごすはずがない。莫大な資金と技術力を持ち、人の命すら計算式に組み込む彼らは、間違いなく冷酷な罠を張り巡らせてゼノリスたちを待ち構えているはずだ。

さらにゼノリスは、この街を覆う冷たい空気の奥に、これまで世界に不協和音をばら撒いてきた『見えざる悪意』の源流が潜んでいる気配を肌で感じ取っていた。誰かが世界の裏側で糸を引き、人々の苦痛を嘲笑っている――そんなどす黒い闇が、この欲望の都を不気味に覆い尽くしているのだ。


「……待ち受けているのは、僕たちの命すら『数字』として計算し、絶望の底へ沈めようとする冷酷な悪意だ。……だけど、僕たちは独りじゃない」

ゼノリスは、静かに呟いた。

彼の脳裏には、大陸の各地に散り、今この瞬間も同じ目的に向かって命を懸けている別動組の仲間たちの顔が浮かんでいた。離れ離れになっていても、彼らが奏でる反逆の旋律は、このギルダー商業公国という一つの座標に向かって、確かな共鳴アンサンブルを響かせているのだ。


「……行くぞ、みんな」

ゼノリスが、潮風と排煙の混じり合う甲板の上で、鋼のような決意を込めて声を上げた。

「相手がどれほど強大なシステムだろうと、人間の命を数字で計算するような傲慢な理屈を、僕たちは絶対に認めない。この街に巣食うすべての不協和音を、僕たちの手で終わらせる!」


ゼノリスの力強い宣誓に、テオが巨大な大盾をドンッと甲板に打ち鳴らし、ナディアが黄金の羅針盤を天高く掲げた。フィリーネは、ゼノリスの腕を力強く抱き寄せ、絶対の信頼を寄せるように深く頷く。

黒煙が立ち込める空の向こう。欲望と欺瞞が渦巻く機械都市ギルダー商業公国。

すべての謎と因縁が交差するその最深部へ向けて、『エトワール号』は白波を立てながら、止まることなく真っ直ぐに突き進んでいく。

冷たい鉄の大人たちが築き上げた「絶望の要塞」を、若き『ステラ・レギオン』が放つ希望の光がいかにして打ち砕くのか。

 しかし、このギルダーでの戦いは、彼らがこれから紡いでいく途方もなく壮大な星の軌跡の、まだ序盤の大きなうねりの一つに過ぎない。

いつかまた、離れ離れになった十人全員で集い、笑い合う日を信じて。

彼らが挑む次なる死闘は、やがて八ヵ国連合すべての思惑を飲み込み、三千年前に崩壊した『大アドラスティア帝国』の真実へと迫っていく。ゼノリスたちが真の「星帝」としての宿命に向き合い、世界をあるべき姿へと導くための長く過酷な旅路は、更なる深淵へとその歩みを進めていくのだった。

 まだ見ぬ世界の真実と、待ち受ける数多の嵐へ向けて。

若き星屑たちの乗る白銀の船は、決して振り返ることなく、未知なる海域へと波を切り裂き進み続けるのだった――。

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