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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第4巻 蒼き海の鎮魂歌(レクイエム)

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第31章:星無き夜の終焉と真実の星

 ルサルカに、真実の朝が訪れた。

 海面を覆い、人々の魂を縛り付けていたおぞましい鉛糸リードストリングは、もはや跡形もなく消え去っている。鏡のように凪いだ海面は、水平線から昇り始めた陽光を乱反射させ、かつての透き通るような蒼さを取り戻していた。街を埋め尽くしていた機甲兵の残骸は、浄化の光の中で星の砂へと崩れ去り、潮風が運ぶのは焦げた油の臭いではなく、生命の息吹を感じさせる潮の香りへと変わっていた。


 王宮の最上階。

 マリエーヌ大公妃は、床に転がったままの黄金の宝冠を見向きもせず、バルコニーの欄干に手をかけていた。

 乱れた髪が激しい潮風に弄ばれ、最高級のシルクで設えたドレスの裾は避難の最中に泥を噛んで汚れている。しかし、その背中に漂う気品は、重苦しい装飾品で権威を武装していた昨日までの彼女よりも、遥かに凛として、揺るぎないものに見えた。


「……終わったのですね、エルセリオ」

 マリエーヌが静かに名を呼ぶと、背後から重厚な、しかしどこか慈愛に満ちた足音が近づいた。

 そこに立っていたのは、星の輝きを写したかのような銀髪を長く垂らし、いにしえの星詠みの法衣を纏った老齢の男――ナディアの父であり、ルサルカの信仰の最高位にある大星詠み、エルセリオであった。

「ええ。鉛の闇は去り、星々は再びその正しき軌道へと戻りました。……大公妃閣下、いえ、マリエーヌ様。貴女のお顔から、ようやく迷いの影が消えたようだ」

 エルセリオの声は、荒れた海を鎮める凪のように穏やかだった。マリエーヌは自嘲気味に口角を上げ、ゆっくりと彼の方へ向き直る。


「……迷いなどという生温かいものではありません。私は、この国を滅ぼしかけた。血統という名の古びた盾にすがり、権威という名の虚像を守るために、民の命を、そして貴方の愛娘であるナディアをも窮地に追いやった」

 マリエーヌは、エルセリオの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「大星詠みよ。貴方がかつて私に諭した『星は等しく輝く』という教えを、私は傲慢さゆえに踏みにじった。……申し訳ありませんでした。私の無知と執着が、ルサルカの海を濁らせたのです」

 公国の頂点に立つ大公妃が、一介の臣下ではないとはいえ、星詠みの長に対して深く首を垂れる。その光景に、傍らに控えていたナディアは息を呑んだ。


「顔を上げてください、マリエーヌ様」

 エルセリオは優しく彼女の肩に手を置いた。

「星が最も輝くのは、最も深い闇に沈んだ時です。貴女が今、その宝冠を捨て、自らの非を認めたことこそが、新たな星の誕生を告げる儀式なのです。……そして、あの少年を。泥の中に咲いた白銀の星を、貴女は既に受け入れているのでしょう?」

 マリエーヌは微かに頷き、視線を眼下の広場へと向けた。そこには、仲間たちに囲まれて眠るゼノリスの姿があった。


「……あの子の中に、私は見てしまったのです。父が最期の瞬間に語った、力に頼らぬ真の王の輝きを。それは、千年の歴史を誇る我が国の星詠みたちが、古より待ち望んでいた『真実の星』そのものでした」


ゼノリスは、瓦礫の隙間に咲いた名もなき花のように、フィリーネの膝枕に身を預けて深い眠りの中にいた。

 全身の筋肉は断裂し、魔力回路は一度焼き切れたかのような凄まじい疲労が四肢を支配している。しかし、その内側には、かつて彼をさいなんだ破壊衝動も、誰かに強いられた義務感もなかった。ただ、新雪のように純粋で、どこまでも透明な「白銀の熱」が、彼の魂の奥底で静かに脈動を続けていた。


「……お兄様。どうか、目を開けてください。もう、夜は明けたのですから」

 フィリーネの声が、遠く霧の向こうから聞こえてくる。

 ゼノリスが重い瞼を持ち上げると、そこには涙で頬を濡らしながら、けれど必死に癒やしの魔力を注ぎ込み続ける少女の姿があった。

「フィリー……。泣くな、と言いたいが……無理そうだな」

「お兄様……!あ、ああ……よかった。本当に、よかった……」

 ゼノリスは、感覚の戻り始めた右手をゆっくりと持ち上げ、彼女の頬を濡らす涙を、不器用な指先で拭った。その手のひらには、泥と硝煙の臭いが染み付いている。


「悪かった。少し、長めの夢を見ていただけだ。……ライラの歌は、届いたか」

 その問いに、フィリーネは一瞬言葉を詰まらせた。そして、晴れやかではあるが、どこか遠くを見つめるような寂しげな微笑みを浮かべた。

「はい。ライラさんの歌声は、潮騒の中に溶けていきました。でも、この風と一緒に、ずっと私たちを導いてくれる気がします」

 ゼノリスは、抜けるように青い空を見上げた。ライラの最期の旋律が描いた、どこまでも高く、澄み渡った天空。

「そうか……。届いたんだな。彼女が、命を削ってまで伝えたかったものが」

 立ち上がろうとするゼノリスを、フィリーネが慌てて支える。その時、公都の静寂を破るように、複数の規則正しい足音が近づいてきた。


現れたのは、ナディア率いる近衛騎士団の生き残り、そして、権威の象徴である宝冠を脱ぎ捨て、一人の星詠みとしての決意を瞳に宿して歩み寄るマリエーヌ大公妃、そしてその傍らに立つ大星詠みエルセリオであった。

 フィリーネは咄嗟にゼノリスの前に立ち、彼を守るように両手を広げた。その瞳に宿るのは、かつての怯えではない。

「大公妃閣下。お兄様は、命を懸けてこの国を救いました。もしまだ罪を問うとおっしゃるなら、私は……」

「……お下がりなさい、フィリーネ。私は、裁きに来たのではありません」

 マリエーヌの声は低く、そして静かだった。彼女は側近たちをその場に留め、泥濘ぬかるみの残る戦場を、ただ一人で歩んでくる。


一歩、また一歩。

 ルサルカの伝統を象徴する豪華な靴を泥で汚しながら、マリエーヌはゼノリスの目の前で足を止めた。

 ゼノリスはフィリーネを優しく制し、震える足を地面に踏みしめ、自らの足で立って大公妃と向き合った。

「……何か御用でしょうか。俺は、貴女に認められるために戦ったわけではありません」

 ゼノリスの声は低く、そして驚くほど静かだった。そこには私欲も傲慢さもなく、ただ「機甲の闇から海を救い、ライラが命を懸けて繋いだ祈りを守り抜いた」という、動かしようのない事実だけが静かに示されていた。

ゼノリスの媚びることのない、しかし確固たる信念を宿した言葉に、周囲の騎士たちが息を呑む。しかし、マリエーヌは怒ることも、嘲笑うこともなかった。


彼女は、ゼノリスの瞳を、魂の奥底を覗き込むようにじっと見つめた。

 そこにあるのは、血統という名の色褪せた看板でも、誰かに与えられたかりそめの称号でもない。自らの意志で地獄を潜り抜け、泥を啜りながらも大切なものを守り抜いた者だけが持つ、重く、そして眩い「意志の光」であった。


「……ゼノリス。貴方は、自分の中に宿るその光が、何を意味するのかを理解しているのですか」

 マリエーヌは静かに問いかけた。その眼差しは、かつてのさげすみから、深い困惑と畏怖の混じったものへと変わっている。

「理解しているとは言えません。俺は、守るべきだと決めたものを守った……それだけです」

「……そうですか。理解など必要ない、と。貴方のその迷いのなさが、私には眩しすぎる。……貴方が放ったあの白銀の魔力。それは、我ら星詠みが禁書の中でさえ語ることを禁じられた、既存の理を塗り替える力でした」


マリエーヌはゆっくりと、自分の胸に手を当てた。

「血統とは、過去から続く長い鎖です。私たちはその鎖に守られ、同時に縛られて生きてきた。……ですが、貴方は違う。貴方は自らの足で歩き、鎖に頼らず、何者にも与えられない自分自身の光を掴み取った。……星詠みの歴史において、そのような存在を称える言葉は一つしかありません」


マリエーヌは、公国の支配者としての誇りを捨てるのではなく、一人の星詠みとしての誠実さを選び、泥だらけの地面に片膝を突いた。


「閣下……!何を……!」

 騎士たちの驚愕の声が響く。しかしマリエーヌは動じない。彼女はゼノリスの足元を見つめたまま、凛とした、しかしどこか震える声で告げた。

「ゼノリス。私はこれまで、貴方を泥の中に沈む石だと侮っていた。……しかし、真実、泥の中にいたのは私の心の方でした。貴方が見せたあの輝き、そして右手に宿る三つ目の星。それは、千年の歴史を持つ我ら星詠みが待ち望んでいた、夜明けを告げる『新時代の星』でした。私は、一人の星詠みとして、貴方を……『新時代の星帝』の再来として認め、ここに最大限の敬意を表します」


ゼノリスは、目の前で跪く大公妃を、戸惑いを隠さずに見つめた。

「大公妃……。俺は、貴女に跪かれるような人間ではありません。……俺が、俺たちが欲しかったのは、ただ自分たちの意志を否定されないこと。それだけです」

「分かっております。ですが、これは私のための儀式でもあるのです。貴方に跪くことで、私は私を縛り付けていた黄金の鎖を、ようやく捨てることができる」

 マリエーヌは顔を上げ、ゼノリスを見据えた。


「ゼノリス。貴方は、これからもその揺るがぬ意志のままに進みなさい。ルサルカは……我が海洋公国は、本日この瞬間より、貴方が掲げる『ステラ・レギオン』の最初の、そして最大の盟友となることを、全海に誓いましょう」


その言葉が発せられた瞬間、背後の騎士たち、そしてフィリーネも、事の重大さに息を呑んだ。

 一歩後ろでそれを見守っていたエルセリオが、満足げに目を細め、静かにナディアの肩を叩いた。

「……ルサルカの風が変わったぞ、ナディア。これより始まるのは、もはや逃亡の旅ではない。世界を正すための、真実の航海だ」


エルセリオのその言葉は、まるで何百年も止まっていた巨大な歯車が、重々しく、けれど確かな音を立てて回り始めた合図のようだった。潮騒の音さえも遠のき、世界がこの広場の一点を見守っているかのような、張り詰めた静寂が降りる。


ゼノリスは、未だ熱を持ったままの右手を無意識に握り込んだ。

 指先の感覚は麻痺し、魔力回路が内側から焼けつくような鈍い痛みが、脈動に合わせて四肢を走っている。だが、その痛みさえも、今は心地よい手応えとして感じられた。掌の奥で静かに、けれど力強く息づく白銀の輝き。それは、もはや他者から与えられた「呪い」でも、誰かに押し付けられた「役割」でもなかった。

 かつての彼は、常に何かに怯え、誰かの期待に応えるための器であることを自らに強いていた。勇者という虚像、あるいは魔王という破壊の化身。そのどちらにもなりきれず、暗い泥の中を彷徨っていた少年の輪郭は、今、自らの意志が放つ熱に焼かれて消え去り、一人の男としての実像を結んでいる。この白銀の輝きは、ライラが命を削って紡いだ最期の旋律に、そして恐怖に震えながらも明日を願ったルサルカの人々の祈りに、彼自身の魂が応えようとした結果――「鉛」の意志が掴み取った、彼自身の体温であった。


「……同盟、ですか。俺が背負うには、少しばかり過ぎた重責かもしれません」


ゼノリスは、跪くマリエーヌの視線を真っ直ぐに受け止め、静かに言葉を紡いだ。その声には、かつての自分が抱えていた自己否定の影も、無理に虚勢を張るような刺々しさも消え、ただ凪いだ海のような透明な響きだけがあった。

「ですが、貴女がその宝冠を捨ててまで、俺たちの歩む先に賭けるというのであれば……俺はその手を取ります。この戦いで散っていった者たちの想いと、ライラが繋いだこの海の未来に、恥じない道を行くために」


マリエーヌはゼノリスの言葉を噛みしめるように一度深く目を閉じ、そして、ナディアの助けを借りることなく、自らの力でゆっくりとその場に立ち上がった。最高級のシルクで設えたドレスが泥に汚れ、引き裂かれていることも気に留めず、彼女は毅然きぜんとした態度でエルセリオへと視線を向けた。その瞳からは、かつて彼女を縛り付けていた「血統という名の傲慢な檻」が、嘘のように消え去っていた。


「エルセリオ。……貴方はかつて、私に言いましたね。『星が最も輝くのは、最も深い闇に沈んだ時だ』と。……私はそれを、権威という名の光の中にいたがゆえに、退屈なお伽噺だと笑って聞き流していた。なんと、浅はかだったことか」


マリエーヌは自嘲気味に微笑み、泥に塗れた自らの手を見つめた。

「私が目を背けていた真実を、この青年が、その鉛の拳でこじ開けて見せてくれた。黄金の盾で守られた城壁の中にいては、決して見ることのできなかった、真の星の導きを」


エルセリオは、深い皺を刻んだ相好を穏やかに崩し、重々しく頷いた。銀髪の老星詠みは、ゼノリスの側まで一歩、また一歩と、砂を踏む音すら立てない軽やかな足取りで歩み寄る。

彼が纏う空気には、ルサルカが積み重ねてきた数千年の歴史そのものが宿っているようだった。エルセリオは、ゼノリスの右手に刻まれた白銀の紋章を、まるで聖遺物を眺めるかのような、敬いと、静かな震えの入り混じった眼差しで見つめた。


「ゼノリス殿。貴方の右手に宿るその白銀の紋章……。それは、血脈によって継承される『二つの星』――即ち、いにしえの理を象徴する導きと守護の光ではありません」


エルセリオの声は、深海から響く鐘の音のように、広場全体へ染み渡っていく。

「星詠みの禁書、その最奥に記された失われた神話。かつて世界が混迷を極めた黎明期、天に星すら無かった暗黒の時代に、一人の名もなき英雄が現れたとされています。その者は高貴な血筋も持たず、与えられた称号も持たなかった。ただ己の意志のみを頼りに泥を蹴り、絶望という名の厚い雲を、自らの魂を叩きつけて引き裂き、天に新たな理を刻んだ。……それが、三つ目の星――『変革のアルタ・ステラ』です」


「変革のアルタ・ステラ……」


ゼノリスは、自分の右手に刻まれた白銀の光を凝視した。

 それは、隣にいるフィリーネが持つ黄金の星のような、完成された調和の取れた輝きではない。どこまでも静かで、けれど触れるものすべてを塗り替えていくような鋭さを放ち、既存のあらゆる価値観を無効化してしまうような、峻烈な輝きであった。


「宿命を打ち破り、理そのものを塗り替える力。それは血で繋ぐことはできず、ただ意志を貫き通した者にのみ宿る光。……ゼノリス殿、貴方がその光を掴み取ったのは、貴方の魂がこの世界の歪みを拒絶し、真に『自由』であろうとした証なのです」


エルセリオの言葉は、単なる神話の解説ではなく、ゼノリスという存在をこの世界の新しい座標として認める儀式のようでもあった。マリエーヌは、対等な「同盟者」としての鋭い、しかし温かな眼差しをゼノリスへ向けた。


「ゼノリス。貴方はこれからもその揺るがぬ意志のままに進みなさい。ルサルカは、本日この瞬間より、貴方が掲げる意志の最初の盾となりましょう。……これは政治的な駆け引きでも、血統への義務でもない。私の、星詠みとしての魂が、貴方の放つ熱に共鳴して下した決断です。……ナディア、聞きなさい」


マリエーヌの言葉に応じて、一歩前に出たナディアは、その凛とした声音に背筋を伸ばした。その顔には、かつてゼノリスたちを捕らえようとしていた時の迷いはなく、一人の戦友としての信頼が滲んでいる。


「直ちに近衛騎士団を再編しなさい。ザルクに与していた不浄な輩を粛正し、王宮の最深部に隠匿されていた、八ヵ国連合の動向に関する極秘資料をすべて回収するのです。……我らはこれより、ルサルカを蹂躙した機甲化の影を追い、この世界に巣食う真の病を暴かねばなりません」


ナディアが力強く敬礼を返し、騎士たちに鋭い指示を飛ばし始める。その喧騒の横で、フィリーネはゼノリスの袖をぎゅっと握り締めていた。その指先はまだ微かに震えていたが、彼女の瞳には、かつての帝国の遺児という重圧に怯える少女の影は、もうどこにもなかった。


「お兄様……」


フィリーネが、消え入るような、けれど確かな決意を込めた声で呼んだ。

「お兄様が見せてくれたあの光……私の中に眠る黄金の星も、お兄様の白銀の熱に焼かれて、ようやく本当の役割を見つけた気がするのです」


彼女はゼノリスを見上げ、その柔らかな、しかし強い光を宿した瞳を真っ直ぐに向けた。

「……私も、私の意志で、お兄様の隣を歩みます。ステラ・レギオンの一員として、そして……お兄様の力になりたい。共に未来を拓くために」


ゼノリスは、フィリーネの小さな肩をそっと引き寄せた。

 もはや彼女は、狙われるだけの「駒」ではない。自らの意志で運命を切り拓こうとする、ステラ・レギオンの誇り高き象徴であった。


広場には、復興へと動き出した人々の足音と、再会を喜ぶ声が響き始めていた。

 しかし、その晴れやかな空気の裏側で、ゼノリスは冷たい予感を感じていた。ルサルカという八ヵ国連合の重鎮が離反した事実は、瞬く間に大陸全土を駆け巡るだろう。秩序を重んじる連合は、これを決して黙過しない。


そして、次なる戦場。

 マリエーヌが口にした「真の病」。それは、ザルクさえも手駒として使い捨て、人の命をただの「数字」として扱う冷酷な影の正体だった。

 世界を裏側から操るその正体を暴き、隠された真実を掴み取るためには、あらゆる金と情報が集まるあの商人の国が、避けては通れない唯一の入り口となる。


「……行きましょう、お兄様。私たちの航海は、ここから始まるのですから」


フィリーネの言葉に、ゼノリスは深く頷いた。

 水平線の向こう、昇りきった太陽が海を黄金色に染め上げている。

 右手の紋章が、潮風を受けて静かに、しかし絶えることのない熱を帯びて発光を始めていた。



潮風が、嵐の去った王宮のバルコニーに微かな塩の香を運んでくる。

 広場での劇的な宣言を終え、ゼノリスたちはマリエーヌの私室へと招かれていた。そこは、煌びやかな表舞台とは対照的に、古びた書物と羊皮紙の匂いが立ち込める、静謐な空間であった。


マリエーヌが重厚な机の上に広げたのは、一通の極秘書簡と、不気味な模様が刻まれた真鍮しんちゅう製の歯車だ。表面には血管のように細かな魔力回路が走り、不気味な青白い光を帯びて拍動を続けている。


「これが、ザルクを裏から操り、ギルダーの影と繋がっていた証拠です」


マリエーヌの眼差しは、鋭い、しかし温かなものへと変わっていた。

「この技術は、人の命を機械の燃料にして使い潰す、残酷な技術です。ギルダー商業公国はその技術を売り買いする場所になり、犠牲が出るほど儲かる仕組みを作っていたのです」


ゼノリスは、机の上の歯車をじっと見つめた。指先を近づけると、右手の変革のアルタ・ステラが、拒絶するようにピリピリと熱を帯びる。


「人の命を燃料にする、か。あいつらが命を数字で管理すると言ったのは、単なる比喩じゃなかったんだな。この歯車の奥底に、まだ消えない悲鳴がこびりついている気がする」


「……ゼノリス。……そんなに怖い顔をしないで。歯車が壊れちゃうよ」


部屋の隅で、少し落ち着かなさそうに指をもてあそんでいたテオが、控えめに声を上げた。普段の彼は、薬草を愛する穏やかな亜人の青年だ。その声は、潮風に溶けるように優しい。


「マリエーヌ様の言う通り、ギルダーは……僕がいた頃から、少しおかしな場所だったんだ。あそこは、ただ『お金がすべて』というだけじゃない。人の心や命までが、冷たい『数字』に置き換えられて取引される……。この歪んだ仕組みを裏で糸引く黒幕が、もしその街に潜んでいるんだとしたら、生半可な覚悟じゃ尻尾も掴めないと思う」


テオは少し視線を落とし、かつて見たギルダーの光景を思い出すように続けた。


「でも、大丈夫だよ。泥の中での泳ぎ方なら、僕が知っているから。……ゼノリスのその『鉛』の意志が、あそこの冷たい空気に負けないように、僕が精一杯支えるからね」


テオの温かい言葉に、フィリーネがふっと微笑んだ。


「テオ、ありがとう。……お兄様、ギルダーへ行きましょう。ルサルカを苦しめたあの機械の出所を突き止め、その根源を断たなければ、また同じ悲劇が繰り返されます。次は、私が皆さんの道を照らす番です」


「ああ。頼りにしてるよ、フィリー」


その光景を、少し離れた場所でナディアは黙って見つめていた。かつての学友である、ゼノリスとフィリーネ。学園で共に未来を語り、時には競い合った仲だ。だが今、二人の瞳にはルサルカという一国の枠を超えた、世界そのものを見据える強い光が宿っている。


(ゼノリス、フィリーネ。二人の背中が、いつの間にかこんなにも遠く、眩しく見える……)


ナディアの胸に、言葉にできない焦燥と、ある一つの確信が芽生えていた。ステラ・レギオン。宿命に縛られず、己の意志で戦う彼らと共に歩みたい。その一員として、自らの「黄金の羅針盤」を使い、混迷を極める世界の先導役を担いたい。

 しかし、彼女は自分の責務を思い、その言葉を飲み込もうとした。


そんな娘の肩に、静かに手が置かれた。大星詠みエルセリオである。彼は父としての慈愛に満ちた眼差しで、娘を見つめていた。


「ナディアよ。お前の目は、今、この部屋の壁に閉じ込められてはおらんな」


「……父さん。私……」


「ルサルカの復興は、我ら残された者の仕事だ。マリエーヌ様も、もはや独りよがりな統治者ではない。……だがな、ナディア。これから始まる大きな嵐を生き抜くためには、ルサルカの外側に『真実』を求める若き羅針盤が必要なのだ。お前の力は、この狭い港町で朽ち果てるためのものではあるまい」


「ですが……私は、近衛騎士として……」


「騎士とは、主君を守るだけの者ではない。主君が守ろうとする『世界』の道筋を照らす者だ。……行け、ナディア。あの大公妃も、実はお前を送り出す機会を伺っておられる。お前の居場所は、ここではなく、あの『ステラ・レギオン』の旗の下にあるはずだ。父として、そして星詠みとして、お前の旅立ちを祝福しよう」


父の言葉が、ナディアの心の鎖を解いていく。彼女は拳を強く握りしめ、顔を上げた。


「……父さん。ありがとう。……私、自分の意志に従うわ」


ナディアは、ゼノリスたちの前へ、真っ直ぐな足取りで歩み寄った。


「ゼノリス。フィリーネ。……悪いけれど、私にも一席用意してくれないかな」


突然の言葉に、ゼノリスは驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。


「ナディア……。いいのか? ルサルカの復興は……」


「あいにく、私より頑固な父親と、覚悟を決めた大公妃がいてね。……私は私のやり方で、この世界を守りたいの。ステラ・レギオンの先導役として、また二人の隣を歩ませてほしい。……私の羅針盤なら、きっとみんなの役に立てるはずだから。昔みたいにね」


フィリーネが、嬉しそうにナディアの手を取った。


「ナディア! 嬉しい……。また一緒に行けるなんて、夢みたいです」


テオが、少し照れくさそうに笑いながら、船の算段を始めた。


「えへへ、最強のナビゲーターまで仲間入りだね。賑やかになるなあ。……ゼノリス、船の準備を急ごう。ギルダーまでは長い航海になるし、僕、みんなのために美味しいハーブティーを用意しておくね」


「……ああ、分かった。よろしく頼むよ、ナディア、テオ」


それから数日の月日が流れ、ルサルカの軍港は、復興へと向かう活気と、去りゆく者への惜別が入り混じる不思議な静けさに包まれていた。石畳の岸壁に横付けされていたのは、マリエーヌが秘匿していた高速通信船『エトワール号』である。


その船体は、一般的な軍艦のような重苦しさとは無縁だった。水鳥の羽を思わせるしなやかな曲線を描く白い甲板と、魔力を効率よく推進力へと変換するための、薄い青銀色のマスト。風を待つ必要のないその最新鋭の船は、鏡のような海面を静かに、けれど力強く揺らしていた。荷役たちが慌ただしく積み荷を運び込み、マリエーヌの手配した熟練の乗組員たちが、出航の準備を整えていく。岸壁には、この数日の間にゼノリスたちが守り抜いたルサルカの民たちが、感謝と寂寥せきりょうを込めた眼差しで集まっていた。


「ゼノリス、ナディア、フィリーネ。……道中の無事を、心より祈っております」


見送りに立ったマリエーヌの背後には、ルサルカの再建を誓う騎士たちが整列している。彼女の横には、杖を突きながらも背筋を伸ばしたエルセリオが立ち、静かに夜明けの海を見つめていた。


「テオ!船酔いするなよ!ギルダーに着く前にへたばったら、海に放り込んでやるからね!」


甲板から一生懸命に手を振るテオに、ナディアが明るい声を飛ばす。テオは苦笑いしながらも、いつもの穏やかな声で返した。


「心配しないで! 僕、酔い止めの薬草をたくさん持ってきたから大丈夫だよ。……ゼノリス、出航だね。準備はいいかな?」


ゼノリスが短く頷き、舵を握るテオへ合図を送る。

 低く唸るような魔力エンジンの音が響き、エトワール号はゆっくりと岸壁を離れていった。白い波飛沫が走り、次第に小さくなっていくルサルカの街並み。かつての冷酷な大公妃ではなく、一人の盟友として手を振るマリエーヌと、愛娘を星の彼方へ送り出したエルセリオの姿が、朝霧の向こうに消えていく。ようやく手にした安らぎが、波の向こうへ遠ざかっていく。けれど、彼らの瞳に迷いはなかった。ここから始まるのは、世界の真実へと辿り着くための、本当の航海なのだから。


ゼノリスは、甲板の手すりに手をかけ、静かに目を閉じた。右手の手袋の奥で、変革のアルタ・ステラが潮風を受けて静かに、しかし絶えることのない熱を帯びている。


「お兄様、風が強くなってきましたね。」


フィリーネが隣に並び、水平線の先を見つめる。その隣には、決意を新たにしたナディア。そして、仲間たちのために甲板で甲斐甲斐しく立ち働くテオ。彼らが向かう先は、あらゆる欲望と欺瞞が渦巻く、ギルダー商業公国。世界の歪みを正すための「鉛」の意志は、今、広大な海を越えて、次なる戦地へと進路を定めていた。



凍てつくような北風が、荒野の枯れ草を無慈悲にぎ倒していく。大陸の北端に近いこの地では、太陽の光さえも灰色の雲に遮られ、永遠に続く黄昏のような薄暗さが支配していた。廃墟と化した古い砦の影、崩れた石壁が牙のように突き出すその場所で、二人の男が冷たい土を踏みしめていた。


「……聞いたか、マルクス。ルサルカの『鋼の竜』が墜ちたそうだ。あの、出来損ないのゼノリスの手によってな」


ガズが吐き捨てた言葉は、冷たい空気に触れて白く濁った。その瞳には、以前のような浅薄なさげすみはない。代わりに宿っているのは、自分の存在意義を根底から揺さぶられた者特有の、腹の底で燻り続ける、ぬぐい去れない焦燥だった。


「出来損ない、か。……もはやその言葉を口にするのは、己の無能をさらすだけだ」


マルクスは、傍らに控えた馬の手綱を握り直し、霧の向こう側――視界を遮るほどの深い闇を見据えた。二人の前には、いつの間にか、音もなく一人の男が立っていた。全身を灰色の外套に包み、顔の造作さえも定かではないその人物は、手にした古びたランプをゆっくりと持ち上げる。


「……探していたのは、これか」


男が差し出したのは、金貨でも銀貨でもなかった。それは、奇妙に歪んだ「黄金の歯車」の一部。ルサルカでゼノリスが目にしたものと酷似した、不気味な脈動を繰り返す破片だった。


「この力さえあれば、学園を追われたお前たちも、再び『正しい場所』へ戻れるだろう」


灰色の男の声は、風の音に混じって不気味に響く。ガズとマルクスは顔を見合わせた。その顔に浮かんだのは、恐怖か、それとも救いへの望みか。


「ギルダーへ向かえ。あそこには、お前たちが欲する、完成された『力』がある。そして……ゼノリスとの再会もな」


謎めいた言葉を残し、男の姿は霧の中に溶けるように消えた。残された二人の手元で、黄金の破片が鈍い光を放つ。


「……行くぞ、ガズ。失ったものを、必ずこの手に取り戻す!」


二人の馬蹄の音が、寒々とした荒野に響き渡る。それぞれの意志、それぞれの宿命が、一つの場所へと向かって収束し始めていた。

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