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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第4巻 蒼き海の鎮魂歌(レクイエム)

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第30章:砕け散る鉛の支配と星降る海の鎮魂歌

ズドォォォォンッ……!!


ゼノリスたちの決意をあざ笑うかのように、王宮の下層に広がる白亜の市街地へ、大聖堂の尖塔ほどもある巨大な銀色の触手が無慈悲に振り下ろされた。

 鼓膜を叩き割るような凄まじい大音響が大気をびりびりと震わせる。ルサルカの美しい石造りの家屋が、まるで紙細工のようにぐにゃりと歪み、次の瞬間には粉々になって吹き飛んだ。

 ほんの数十分前まで、人々が笑顔で歩いていた大通り。海鮮串の香ばしい匂いや、甘い果実酒の香りが漂っていた祝祭の空間は、一瞬にして土煙と瓦礫、そして赤黒い炎が渦巻く地獄へと変貌していた。


「きゃあああっ!」

「逃げろ! 海神様がお怒りだ!」

 逃げ惑う人々の悲鳴が、夜の闇と燃え盛る炎の中に吸い込まれていく。

 海面を埋め尽くしていた数万の美しい灯籠は、機甲海竜リヴァイアサン・オルタが身をよじるたびに巻き起こる巨大な波に飲まれ、次々と無惨に消し飛んでいった。


建国神話に語り継がれ、ルサルカの民が何百年も信仰の対象としてきた巨大な海竜。かつて蒼玉のように美しく輝いていたはずのその鱗は、無機質で禍々しい黒光りを放つ『這い寄る鉛糸リードストリング』の分厚い装甲によって無残にも覆い尽くされている。

 海を愛した慈悲深き神の面影は、もうどこにもない。そこにあるのはただ、周囲の命と魔力を機械的に奪い尽くす、冷酷な『鉛の悪意』の蹂躙じゅうりんだけであった。


「くそっ……!冗談じゃないぞ、こんなデタラメな質量!」

 王宮の大階段が崩落してできた巨大なクレバス(地割れ)の縁で、テオが血を吐くような声で叫んだ。

 彼はゼノリスたちを背後で守るように立ち塞がり、両手で黒盾を天に向けて構えている。空気をつんざくような風切り音と共に、二本目の巨大な触手が彼らの頭上へと迫っていた。


「テオ、踏ん張って! 『凍てつく白銀の拒絶アイシクル・ウォール』――三重展開ッ!」

 フィリーネが杖を高く掲げ、透き通るような声で呪文を紡ぐ。彼女の足元から猛烈な吹雪が巻き起こり、テオの盾を覆い隠すように、分厚い氷の多重障壁が一瞬にして形作られた。


ガガガガガガッ!!


氷壁と触手が激突し、火花のような魔力の残滓ざんさいが猛烈な勢いで撒き散らされる。

「がぁぁぁっ……!」

 分厚い氷を透過してなお、テオの両腕に莫大な衝撃がのしかかる。彼の腕の筋肉は限界まで隆起して悲鳴を上げ、踏みしめた足元の石畳がクレーター状に陥没した。

 そして、フィリーネが驚愕に目を見開く。


「嘘……私の氷が、溶かされているんじゃないわ。書き換えられている……!?」

 触手と接触した部分から、彼女が展開したはずの純度の高い氷の魔力が、どす黒い鉛色に変色し、ボロボロと灰のように崩れ落ちていく。


「下がれ、テオ、フィリーネ!」

 吹き荒れる土埃を剣圧で払い除けながら、ゼノリスが二人の前に躍り出た。

「その通りだ。奴の装甲は、こちらの魔法や物理的な衝撃を『防ぐ』ためのものじゃない。触れた端からこちらの魔力を強制的に『鉛』へと塗り替え、ただの無害な塊に変えて威力をことごとく殺してしまう、最悪の寄生体なんだ」

エテルナの地下迷宮で戦った時と同じだ。生半可な攻撃では、あの分厚い装甲に傷一つ付けることはできない。

 海神を殺さずにこの暴走を止めるには、あの巨大な装甲の内側に潜む中枢――「鉛糸の巨大な寄生管(核)」に直接肉薄し、『鉛の悪意』の根源そのものを打ち砕くしかなかった。


その時、頭上のはるか高みから、狂気に満ちた耳障りな高笑いが響き渡った。

「素晴らしい……!素晴らしいぞ、我が至高の兵器よ!!」

 崩落を免れた王宮のバルコニーから身を乗り出しているのは、ルサルカの宰相ザルクだった。燃え盛る市街地の炎が、彼の狂気で血走った瞳を赤く照らし出している。

「見よ、ゼノリス!これが私が手に入れた、世界を統べる究極の力だ!八ヵ国連合などもう恐るるに足らん。この機甲海竜の前では、ルサルカの愚か者どもも、星詠みの小娘も、すべてが海の藻屑となるのだ!」


ザルクは両手を大きく広げ、自らが神にでもなったかのように陶酔しきっていた。

しかし、ゼノリスは彼を見上げて冷たく目を細める。

(……滑稽な男だ)

ザルクは知らないのだ。自らが『自分の兵器』だと信じて疑わないあの鉛糸が、決して人間の手に負える代物ではないということを。自分は世界を支配するどころか、得体の知れない強大な悪意に踊らされ、ただ破滅への扉を開かされただけの道化であることに、微塵も気づいていない。


「ナディア!奴の戯言に耳を貸すな、集中しろ!」

 ゼノリスは振り返り、羅針盤を握りしめて震えているナディアへ力強い声を飛ばした。

「どんなに分厚い鉛の呪縛でも、元々の海神の魔力とせめぎ合っている以上、必ずどこかに防御の薄い魔力の通り道があるはずだ!ルートを見つけろ!」


「わ、わかってるわよ! さっきからずっと探してる!」

 ナディアは暴風に銀色の髪を振り乱しながら、盤面を必死に睨みつけた。青白い光を放つ魔力の針が、狂ったようにぐるぐると回転している。

「でもダメなの!あの『銀色の悪意』の魔力密度が高すぎて、ルサルカ全体の磁場がめちゃくちゃになっているわ!針がまったく定まらない!」


再び、機甲海竜の巨体が大きく天を仰いだ。

 金属同士が激しくこすれ合うような、大気を震わせるおぞましい絶叫。それに呼応するように、海面からさらに無数の触手がうねりを上げて隆起し、ゼノリスたちを逃れようもなく包囲していく。


「……やはり、僕が無理やりこじ開けるまでだ」


ゼノリスは静かに息を吐き、漆黒の愛剣を真っ直ぐに下段へ構えた。

 彼の瞳の奥で、決して交わることのない二つの炎――純白の光と、深淵の闇――が激しく揺らめき始める。

 鉛糸の寄生体が『触れた魔力を書き換える』ことしかできないのであれば、その呑み込める限界を遥かに超える、全く性質の異なる莫大な魔力を『同時に』流し込んでやればいい。相反する魔力が引き起こす猛烈な拒絶反応に耐えきれず、おぞましい組織自体が自壊を始めるはずだ。


「お兄様、無茶です! そんな巨大な魔力と真っ向から同調しようとすれば、お兄様の体が引き裂かれてしまいます!」

 フィリーネの悲痛な制止の声が響く。だが、ゼノリスは迷わなかった。


己の体内に眠る『魔王』の深淵なる闇の力と、『勇者』の神聖なる光の力。この相反する二つの魔力を、刃に込めるのではなく、周囲の空間を震わせる「波」として外界へ解き放つ。


「『銀色の残響エコー』……ッ!!」


ゼノリスの全身から、眩いばかりの銀色の光波がドーム状に爆発した。

 それは、ルサルカの空気を重く震わせながら、機甲海竜を覆う禍々しい装甲へと真正面から激突する。


ギギギギギギギギィィィィ……!!


鉛の装甲が、異物であるゼノリスの魔力波長を強制的に同化しようと蠢き始めた。

しかし、その波長に編み込まれた極端に矛盾する魔力構造に直面し、巨大な寄生体が深刻な拒絶反応を起こし、同化のうごめきを停止させた。

 ルサルカの夜空を支配していた不快な重低音が、一瞬だけ、ピタリと止んだ。


同時に、ゼノリスの肉体に凄まじい反動が襲いかかった。

 全身の血管が限界を超えて膨張し、皮膚のあちこちから赤黒い血が弾け飛ぶ。筋肉が断裂する嫌な音が響き、激痛で視界が真っ白に染まっていく。立っていることすら奇跡のような状態だった。


「今だッ!ナディア!!」

 血を吐きながら、ゼノリスが喉の奥から絶叫を絞り出す。


「見つけた……!」

 ナディアの手の中で、狂ったように回転していた星詠みの羅針盤の針が、ピタリと一箇所を指し示した。

「胸部の中央!右の巨大なエラの下に、装甲の継ぎ目がある!そこからなら、中枢の『核』まで魔力が通るルートが一直線に繋がっているわ!」


「上等だ……!」


ゼノリスは血に染まった唇の端を吊り上げ、ひび割れた大地を強く蹴り飛ばした。

 テオとフィリーネが必死に展開する防衛線を飛び出し、瓦礫と炎の雨が降り注ぐ空中へとその身を踊らせる。彼が目指すのはただ一点。巨大な神獣の胸の奥深く、すべての元凶が巣食う底なしの闇だけだった。


猛烈な風圧と生暖かい魔力の奔流を抜け、ゼノリスは機甲海竜の装甲の隙間へと飛び込んだ。

外で吹き荒れていた嵐の音が、一瞬にして遠ざかる。

 そこは、巨大な神獣の胸の奥深くでありながら、おぞましい『鉛の悪意』に徹底的に侵食された異様な空間だった。ぬらぬらと黒光りする無数の鉛糸が、まるで脈打つ血管のように壁面を覆い尽くしている。本来の海神の清らかな魔力と、それを貪り喰らう鉛の呪縛とが入り混じり、息をするだけで肺が焼けるような瘴気しょうきが充満していた。


「……ここが、元凶の巣食う場所か」


ゼノリスは血に濡れた唇を拭い、黒い剣を真っ直ぐに構え直した。

 暗闇の奥、巨大な空洞の中央に「それ」はあった。大樹の幹ほどもある極太の鉛糸が何十本も絡み合い、ひときわ禍々しくうごめく巨大な心臓のような形を成している。それが、海神の魔力中枢に深く根を下ろし、絶え間なく力を吸い上げ続けている『寄生管(核)』だった。


侵入者であるゼノリスの存在に気づき、巨大な寄生体が威嚇するようなおぞましい駆動音を鳴らす。次の瞬間、無数の鋭い鉛の棘が、全方位からゼノリスを串刺しにせんと殺到した。


「シッ……!」

 ゼノリスは極限まで研ぎ澄まされた剣技で、迫り来る棘を次々と弾き落とす。

 しかし、先ほどの『銀色の残響エコー』で限界を超えた肉体は、すでに悲鳴を上げていた。視界が激しく明滅し、剣を振るうたびに全身の筋肉が断裂するような激痛が走る。弾ききれなかった鉛の破片が彼の肩や頬を掠め、新たな鮮血が宙を舞った。


(くそっ……届け……!)

 僕の命が尽きる前に、あの核を断ち切らなければ。

 彼が血を吐きながら、必死の思いで次の一歩を踏み出そうとした、その時だった。


――♪――――……。


どこからか、透き通るような美しい旋律が響いてきた。


それは外で吹き荒れる激しい波音や、鉛の寄生体が発する耳障りなノイズを柔らかくかき消し、真っ暗な底なしの闇の奥底まで、一直線に降り注いでくる。

 絶望と瘴気に染まっていた海神の体内が、ふわりと、温かな蒼色の光に包まれた。


「この歌声は……」

 ゼノリスの目が見開かれる。

 どれほどの暴力や悪意をもってしても決してけがすことのできない、清らかで、慈愛に満ちたその響き。


「……ライラ……!」


その旋律は、絶望の炎と泥水に沈みかけていたルサルカに、一筋の清らかな星明かりを灯すような歌声だった。悲鳴と怒号が渦巻いていた水の都全体へ、波を伝い、風に乗って、かつてこの街を愛した一人の吟遊詩人が遺した『星降る海の鎮魂歌レクイエム』が、今この瞬間に命を得たかのように広がっていく。


逃げ惑い、恐怖に顔を歪めていたルサルカの民たちが、その温かな旋律に思わず足を止めた。

「あぁ……この歌、聞き覚えがあるぞ」

「あの酒場で、あの子がいつも歌っていた……」

 誰かが震える声で呟く。それはかつて酒場で、あるいは広場で、一人の娘が爪弾いていた、ごくありふれた、けれど誰よりも海を慈しむ歌だった。波に飲まれかけていた漁師も、炎から子供を庇っていた母親も、皆が空を見上げ、気づけばその瞳から大粒の涙を零していた。荒れ狂っていた黒い海面が、歌声に撫でられるたびに穏やかなさざ波へと変わっていく。


海を見下ろす丘の上の小さな家で、ただ一人祈りを捧げていた小柄な母親もまた、風が運んできた愛娘の歌声に気づき、ハッと顔を上げた。

「ライラ……私の、ライラ……」

 深い皺の刻まれた目尻から、涙が止めどなく溢れ落ちる。

 あの日、夢を追うと言って家を飛び出した娘の背中を、母は一度も責めたことはなかった。貧しいこの漁村では、老いた自分の体を繋ぎ止める薬一錠すら、娘の若さを切り売りしなければあがなえない。娘が何を背負い、何のために異郷の空の下で声を枯らしてきたのか――母は、その真実を誰よりも静かに理解していた。


風に混じるその旋律は、ただの歌声ではない。それは、遠いエテルナの街で孤独に耐え、己の命を削ってまで故郷へ光を届けようとした、一人の吟遊詩人の「祈り」の形だった。

母親は、ゼノリスから受け取ったライラの手帳を、愛しい我が子の温もりを確かめるように胸へ強く抱き寄せた。ページに綴られた一文字一文字が、娘が命を賭して紡いだ愛の証明であるかのように、溢れる光の中で祈るように目を閉じた。


一方、王宮のバルコニーでは、マリエーヌ大公妃が愕然としてその場に立ち尽くしていた。

 ザルクが「至高の兵器」と呼んだ機甲海竜が、名前も知らぬ一人の娘の歌声によって、その猛威を削がれていく。マリエーヌは、自分が守ろうとしていた権威がいかにもろいものだったか、そして自分が「取るに足らないもの」として軽んじてきた民の祈りが、いかに強靭な力を持っているかを突きつけられていた。

かつて彼女自身も、まだ少女だった頃にはこの海の歌を愛していたはずだった。政治という名の冷たい仮面の下で凍りついていた彼女の心が、一人の吟遊詩人の歌によって激しく波立っていた。


――そして、歌声は神獣の意識の深淵しんえんへと届く。


鉛の装甲に包まれ、苦痛と破壊の衝動に塗りつぶされていた海神リヴァイアサンの瞳に、変化が起きた。

 歌声が染み込むたび、神獣の脳裏に太古の記憶が蘇る。まだこの世界が銀色の悪意に汚される前、透き通るような蒼い海で、人間たちが捧げる小さな灯籠の光を愛おしく見つめていた穏やかな日々。海を愛する人々の心の波長が、ライラの歌声を通して、神獣の魂を優しく抱きしめる。


ギギギギギギィィィィィィ……ッ!!


海神の体内で、どす黒く蠢いていた鉛の呪縛が、まるで灼熱の炎に焼かれたように激しく身悶えした。それは物理的な破壊ではない。清らかな祈りの力と、ゼノリスが送り込んだ相反する魔力によって引き起こされた、猛烈な『拒絶反応』だった。

 ライラの歌声に呼応するように、海神自身の蒼い魔力が細い光の糸となって内側から蘇る。それが、壁面を覆っていた禍々しい鉛の血管を次々と押し流し、浄化していく。ゼノリスを襲っていた無数の棘も、蒼い光に触れた端からボロボロともろく崩れ去り、ただの無害な灰となって闇の中に消え失せた。


「今だ……!」


ゼノリスは痛みを忘れ、血に染まった床を強く蹴り込んだ。

 だが、その内側では限界を超えた『魔王』の底知れぬ闇と『勇者』の神聖なる力が、制御を失い、猛烈な勢いで衝突を繰り返していた。二つの異質な魔力は、内側から肉体を真っ二つに引き裂こうとする鋭いくさびと化し、一歩踏み締めるごとに全細胞が砕け散るような激痛を伴う。

 意識は白く霞み、もはや右手に握った剣の重さすら感じなくなるほどの極限状態。それでも、彼は止まらない。


脳裏に浮かぶのは、自分を信じて、この絶望的な場所へと送り出してくれた仲間たちの顔。そして、最期まで希望を捨てずに歌い続け、自分に未来を託したライラの遺志。

 ライラの歌声が作り出した、千載一遇の隙。強固な防衛網を剥がされ、醜く拍動する『寄生管(核)』が、その無防備な姿を真正面から露わにしている。


「これで……終わりだッ!!」


ゼノリスは、体内の相反する魔力を、一つに束ねるのではなく「ぶつけ合う」ことで、凄まじい反動エネルギーを生み出した。

 闇の力と、聖なる光の力が、刃の表面で極限まで圧縮される。それはもはや魔法という枠を超えた、純粋な「意志」の輝き。彼の手の中で、眩い銀色の閃刃せんじんが爆発的な輝きを放った。


ズバァァァァァァァァンッ!!


空間を引き裂く絶音と共に、放たれた銀色の斬撃。

 それは、おぞましい鉛の悪意の根源を、巨大な寄生管ごと真っ二つに両断した。

 神獣の胸の奥深くに巣食っていた底なしの闇が弾け飛び、代わりに、ライラの歌声と同じ、温かく清らかな蒼い光が、溢れんばかりの勢いで海神の体内を満たしていった――。


核を貫いた銀色の閃光が、海神の心臓部に巣食っていた闇を内側から爆発的に食い破った。

 その瞬間、機甲海竜を縛り付けていた灰色の装甲が、耐え難い軋み音を立てて次々と剥がれ落ちていく。剥落する装甲の破片は、浄化の蒼い光に触れた端から星の砂へと姿を変え、公都ルサルカの夜空を埋め尽くす光の粉雪となって降り注いだ。

 海面を覆い、血管のように街を侵食していたどす黒い鉛糸リードストリングが、天に満ちる歌声が波紋となって広がるたびに、跡形もなく霧散していく。それは、数年にわたりこの国を呪縛し、人々の心を蝕み続けた「偽りの理」が、真実の祈りの前に完膚なきまでに消滅した瞬間であった。


潮風が激しく吹き抜ける王宮の最上階バルコニーでは、マリエーヌ大公妃がその光景を、魂を射抜かれたように凝視していた。

「……ああ……」

 震える指先が、自身の頭上に鎮座する重苦しいまでの黄金の宝冠に触れる。それは父から受け継ぎ、ルサルカの「権威」と「力」の象徴として彼女が固執し続けてきたものだった。

 脳裏に、死の床にあった父の掠れた声が蘇る。

『マリエーヌ……忘れるな。この国を統べる者は、力で海を従えてはならぬ。民の祈りと、星の導きにこそ耳を澄ませ。それこそが、かつて世界を統治した「星帝」が遺した、真の平和の鍵なのだから』

 彼女はその指に力を込め、躊躇うことなくその宝冠を外した。重厚な黄金が床に転がり、乾いた音を立てて冷たい石畳を転がっていく。傍らに控えていた近衛騎士が驚愕に目を見開き、声を上げた。

「大公妃閣下!?何を……それは公国の誇り、秩序の象徴にございます!」

「誇りなどではありません。これは、私が自分の弱さを隠すための重石に過ぎませんでした」

 マリエーヌは静かに、けれど断固とした口調で騎士を遮った。彼女は宝冠を捨て、海風に乱れた髪をそのままに一歩前へ踏み出す。

「私が守ろうとしたのは、この冷たい金属の冠だけだった。けれど、あの吟遊詩人が命を賭して守り抜いたのは、この海の輝きと、そこに生きる人々の心です。私は一国の長でありながら、一人の少女の歌声よりももろいものを信じていたのですね」

 怯え、困惑する侍女たちに向き直ると、マリエーヌはその肩に優しく手を置いた。支配者としての冷徹な仮面はそこにはなく、慈愛に満ちた一人の女性の、この国を見守る母の一人としての眼差しがあった。

「恐れることはありません。鉛の冬は終わりました。これからは、星の導きを信じ、私たち自身の腕で舵を取り、この国の未来を漕ぎ出しましょう。」

 その言葉は、王宮を満たしていた恐怖を霧散させ、人々の心に確かな「夜明け」を刻み込んだ。


一方、王宮を揺るがす光の渦の中心で、ザルクは醜く崩れ落ちていた。自らが絶対の真理と信じた「機甲」が、実体のない光の粒子となって消えていく。その光景が、彼のプライドを何よりも深く打ち砕いていた。

「認めん……!認めんぞ!こんな、一般庶民の祈りごときが、私の至高の知性を、完璧なる機甲の理論を凌駕するなど……!サイラス、何をしている!早く次の起動コードを叩き込め! 私の海神を、私の理想を、再び呼び覚ませ!!」

 髪を振り乱し、血走った眼でサイラスの襟元に必死にすがり付くザルク。その指先は、思い通りにならない現実への怒りと、底知れぬ死への恐怖で小刻みに震えていた。

 サイラスは、その汚らわしいものを見るような、氷のような眼差しで、ゆっくりと、しかし明確な拒絶を込めてザルクの手を振り払った。

「……無様ですね、宰相閣下。知性? 理論? あなたが積み上げたそれは、ただの積み木遊びに過ぎなかった。本来、力とは守るべき者のためにあるもの。己の虚栄心を満たすための道具に成り下がったあなたに、海神が従うはずもありません。あなたが夢見た『機甲』さえ、『星帝』の遺産の欠片を不格好にもてあそんだだけのことなのです」

「なっ……何を……。貴様、私を見捨てるのか!?この私が、どれほど『あの方』のために尽力し、手を汚してきたと思っている!!」

「『あの方』のために、ですか?」

 サイラスは嘲笑うように口角を上げた。その瞳には、憐れみすら浮かんでいない。

「笑わせないでいただきたい。あなたが手を汚したのは、ただ自分がこの国で唯一無二の賢者として君臨したかったからだ。その卑小な野心の隠れ蓑に『あの方』の名を使わないでほしいものですね。……『あの方』の計画に、失敗した駒の居場所はありません。器ではない者が過ぎたる力を望めば、その末路は、自らの招いた闇に呑まれると決まっています。さようなら、閣下。あなたの空虚な夢の続きは、暗闇の中でご覧なさい」

 サイラスが冷酷に指を鳴らすと、ザルクの背後の空間が歪み、底なしの暗黒が口を開けた。それはザルク自身がこの国に溜め込んだ執着と悪意のおりそのもののようだった。

「ひっ……!?待て、待てサイラス!助けてくれ、私はまだ、私は……ああっ! 離せ、この影を離せぇ!!」

 拠り所としていた「力」という偶像を失ったザルクは、絶望のあまり自らバランスを崩し、バルコニーから無様に転落した。その断末魔の叫びは、浄化された海神が放つ荘厳な鳴響めいきょうにかき消され、彼は眼下に広がる暗黒の深淵の中へと、その歪んだ野望とともに真っ逆さまに飲み込まれていった。


すべてを浄化するような深い静寂が、戦場を包み込む。

 地割れの縁で、ゼノリスは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。もはや指一本動かす感覚さえ失われ、視界は白く霞んでいる。

 彼の内側では、かつてない異変が起きていた。限界を超えて激突し続けた『魔王』の深淵と『勇者』の聖光――相反する二つの力が、激しい苦痛の果てに、互いを拒絶するのを止め、ゆっくりと溶け合い始めていたのだ。それは既存の理では説明できない、濁りも淀みもない「純粋な白銀の魔力」への変質だった。全身の細胞が一度壊され、再構築されるような、魂を削り取る激痛が青年の肉体を襲う。


「お兄様……!」

 悲鳴のような声と共に、柔らかな感触が彼を受け止めた。フィリーネだった。彼女は泥に汚れ、ボロボロになった自分の膝の上に、ゼノリスの頭を優しく抱き上げた。

「……フィリー……か……」

「しゃべらないでください! 今、すぐに癒やしますから……っ!」

 少女の瞳から大粒の涙が零れ落ち、ゼノリスの頬を濡らす。彼女の震える手から漏れる癒やしの光は、しかし青年の体内で起きている巨大な変質には追いつかない。

「泣くな……勝ったんだ……俺たちは……」

「そんなの、お兄様がいなくなっちゃったら、意味がないですよ……!どうしていつも、一人で全部背負っちゃうんですか……。私だって、力になりたいのに……っ」

 少女は泣きながら、必死に自らの魔力を注ぎ込み続ける。ゼノリスは、彼女の膝枕の温かさと、自分を呼ぶ声、そして鼻をつく潮の香りと土の匂い――それら現実の感触だけが、意識を闇の淵から繋ぎ止めていた。


その時、ゆっくりと海へと還ろうとしていた海神リヴァイアサンが、動きを止めた。

 神獣は巨体をくゆらせ、その巨大な瞳で、フィリーネに抱かれるゼノリスを見つめた。そこには、太古からこの海を見守り続けてきた超越者の「知性」があった。神獣の視線が、青年の内に芽生えた「新たなる力の種」を深く見通す。

(……若き勇なる者よ。お前が手にしたのは、希望か、あるいは破滅か……)

 言葉ではない思念が、潮騒のようにゼノリスの意識に直接流れ込む。

神獣は一度だけ天を仰いで朗々と鳴き声を上げ、その尾で大きく水面を叩いた。空中に舞い上がった無数の水飛沫が、朝陽を浴びて七色に輝く。それは鉛の魔力が見せるまやかしではない。星詠みたちが古より信じてきた、正しき航路を指し示す真実の輝きであった。

その光景に呼応するように、ナディアが抱きしめる星詠みの羅針盤が、かつてないほど清らかな輝きを放ち始める。鉛に狂わされていた針は、今、確かな意志を持って一点――世界の深淵へと続く方角を指し示していた。


ライラの歌声は、いつの間にか静かな潮騒の中に溶けて消えていた。

ゼノリスは、昇り始めたばかりの柔らかな朝陽の中に、彼女の面影を見た。ライラが確かにこの世界を愛し、最後まで戦い抜いたあの旋律は、今も消えない熱を持って彼の胸に刻まれている。

「届いたよ……。ありがとう、ライラ……」


彼は、自らの掌をじっと見つめる。そこに宿る、勇者でも魔王でもない正体不明の熱――その正体が何であれ、彼が守るべきものは変わらない。この身に起きた謎の答えを求め、大切な人々が生きるこの世界を二度と狂わせないために、ゼノリスの旅はこれからも続いていく。


 水平線の向こう側から、薄紫色の朝焼けが空を塗り替え、波頭を黄金色に染めていく。

 朝陽が照らし出したルサルカの海は、もう銀色に濁ることはない。それは鉛の呪縛を払い、人々の祈りが守り抜いた、命の色だった。

 膝枕で微かな眠りにつく青年と、彼を慈しむように見守る仲間たち。彼らの頭上には、清々しいほどに高く、抜けるように青い空がどこまでも広がっていた。

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