第29章:鎮魂祭の夜、海神の涙
ルサルカ最大の祭りである『鎮魂祭』の夜は、この世のものとは思えないほど幻想的で、そして恐ろしいほどに美しかった。
白亜の街並みは、建物の壁から街路樹、運河にかかる石橋に至るまで、無数の色鮮やかな提灯で飾り付けられ、祝祭の熱気に包まれていた。海風が吹き抜ける大通りには所狭しと屋台が立ち並び、香ばしく焼かれた海鮮串の匂いや、甘く煮詰めた果実酒の香りが漂っている。
中央広場からは、海神への感謝を讃える陽気な笛や太鼓の音楽が絶え間なく響き渡り、着飾った市民たちが楽しげに笑い合いながら、港へと続く道をぞろぞろと歩いていた。
「さあ、今年も海神様に感謝の祈りを捧げよう!」
「どうか来年も、ルサルカの海が豊かで、嵐のない平和な海でありますように!」
市民たちは次々と港の波打ち際や桟橋へ集まり、手に持った小さな木の灯籠に、ろうそくの火を灯していく。
その灯籠には、火を灯す者の純粋な祈りとともに、ほんのわずかな『魔力』が込められている。ルサルカの民が何百年も前から続けてきた、海神へのささやかな恩返しの儀式だ。数万という人々の手から離れた灯籠は、穏やかな夜の波に乗ってゆっくりと沖へと流れ出し、広大なルサルカの海を、まるで星空をひっくり返したような黄金色の光で埋め尽くしていく。
だが、その息を呑むほど美しい光景を、絶望に顔を歪めながら見つめている者たちがいた。
「ハァッ……ハァッ……!どいて、道を空けてちょうだい!」
全身ずぶ濡れのまま、隠し洞窟から陸へと這い上がってきたゼノリスたち四人は、密集する人波を強引にかき分けながら、港の中央広場へと駆け込んでいた。
深海での死闘と決死の浮上で、彼らの体力と魔力はすでに限界近くまで消耗している。濡れた衣服が夜風に吹かれて体温を奪っていくが、立ち止まることなどできなかった。
「やめて……!みんな、灯籠を流さないで!海に祈りを捧げちゃダメえっ!」
ナディアが血を吐くような悲鳴を上げ、近くで灯籠を流そうとしていた老人の腕を掴む。
「おや? お嬢ちゃん、ずぶ濡れじゃないか。はしゃぎすぎて海にでも落ちたのかい?」
老人は心配そうにナディアを見たが、彼女の悲痛な叫びの意味は全く理解していなかった。祭りの喧騒と陽気な音楽に包まれた広場では、没落した星詠みの娘の狂乱めいた叫びなど、祭りの熱気に当てられた酔っ払いの戯言程度にしか受け取られない。
すれ違う人々は、必死に訴えかけるずぶ濡れの四人を怪訝そうに避けながら、次々と海へ祈りの灯籠を流し続けていく。
「……遅かった」
ゼノリスは、人波に押し流されそうになりながら、広場の中央にそびえ立つ灰色の『新型魔導浄水塔』を見上げた。
ズゥン……ズゥン……!!
塔から響く低い稼働音は、昼間に聞いた時とは比較にならないほど激しく、狂暴な脈動へと変わっていた。
ゼノリスの黄金と闇のオッドアイには、常人には見えない『魔力の流れ』がはっきりと見えていた。
市民たちが灯籠に込めた、黄金色に輝く純粋な祈りの魔力。それが海に触れた瞬間、本来ならば海底の神殿へと優しく降り注ぐはずのその光は、海中に張り巡らされた巨大な吸引網のような力によって、強引に吸い寄せられていたのだ。
行き着く先は、あの灰色の塔の地下施設。
塔は数万人の市民から集められた莫大な魔力を無慈悲に飲み込み、内部の魔導炉で反転させ、最高純度の『這い寄る鉛糸』の毒へと変換していく。
そしてそのドロドロの毒は、太いパイプを通じて一気に海底へと送り込まれ……深海で身動きの取れない海神の『核』へと、自我を完全に破壊する最後の一撃として流し込まれているのだ。
「ひどすぎる……!みんな、ただ海神様に『ありがとう』って伝えたかっただけなのに。その優しい気持ちを騙して、海神様を苦しめる毒に変えるなんて……そんなの、絶対に間違ってる!」
テオが黒い大盾を地面にドンッと叩きつけ、獣の牙を剥き出しにして唸る。
「……あれを見てください」
フィリーネが杖を握りしめ、青ざめた顔で丘の上に建つ王宮の巨大なバルコニーを指差した。
眩い魔導照明に照らされたその場所には、透き通るような青のドレスを着飾ったマリエーヌ大公妃が立っていた。彼女は手にした白い羽扇を優雅に揺らしながら、黄金の灯籠に埋め尽くされた海を見下ろして、ひどく満足げに微笑んでいる。
「ご覧なさい、ザルク。今年の海は、一段と美しい光を放っています。私が貴方の浄水塔の建造を許可したおかげで、海神もさぞ喜んでいることでしょう」
「御意のままに。すべては、大公妃殿下の類まれなる御威光の賜物でございます」
大公妃の一歩後ろに控える宰相ザルクが、恭しく一礼する。
しかし、頭を下げたザルクの視線は、祈りを捧げる広場の愚かな市民たちに向けられており、その顔には自らの完全な勝利を確信する、歪みきった暗い悦びの笑みが張り付いていた。
自分が設置した処刑装置を、民衆自らの手で起動させている。これほど痛快な余興はないとでも言わんばかりに。
『今夜の鎮魂祭をもって、我が計画は完成する』
ザルクの言葉が、再びゼノリスの脳裏で不気味に木霊した。
その時だった。
波打ち際で、両親と一緒に小さな灯籠を流していた一人の少女が、不思議そうに首を傾げた。
「お母さん、海のお水が……なんか、変な匂いがするよ。サビみたいな、血みたいな匂い……」
少女の言葉を皮切りに、広場のあちこちから同じようなざわめきが起こり始めた。
黄金色の光で美しく埋め尽くされていた海面の様子が、急激におかしくなっていたのだ。
ちゃぷ、ちゃぷという穏やかだった波音が、ドロリ、ドロリという、ひどく粘り気のある不気味な音へと変わっていく。透き通っていたはずの海水が、まるで海底の底が抜けて大量の墨汁を吐き出したかのように、どす黒い鉛色へと変色し始めていた。
シューゥゥゥ……。
どす黒く染まった海面から、硫酸が焼けるような嫌な音とともに、灰色の腐臭を放つ蒸気が立ち上る。
それに触れた瞬間、海に浮かんでいた数万の美しい灯籠が、まるで目に見えない巨大な手に命を刈り取られるように、次々とジュッ、ジュッと音を立てて消え失せていった。
黄金に輝いていたルサルカの海が、瞬く間に、一切の光を飲み込む『死の海』へと姿を変えたのだ。
「な、なんだこれは!?」
「海が……海が真っ黒に……!灯籠が沈んでいくぞ!」
祭りの陽気な音楽が止まり、市民たちの間に困惑と、得体の知れない恐怖が波紋のように広がり始める。王宮のバルコニーにいた大公妃も、扇を取り落とし、信じられないものを見るような目で眼下の黒い海を凝視していた。
だが、本当の絶望はまだ始まってすらいなかった。
ゼノリスの右手の火傷跡が、肉を直接焼かれるような強烈な痛みとともに激しく発光する。それは、深海に繋がれた強大な神獣の自我が今、完全に鉛糸の毒に飲み込まれ、途方もない『悪意の不協和音』へと反転したことを知らせる、最悪の警鐘だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!
ルサルカの街全体を、海底の奥底から突き上げるような巨大な地鳴りが襲った。
美しい石畳が次々とひび割れ、運河の水が暴風雨のように大きく波打って溢れ出す。広場にいた市民たちが恐怖の悲鳴を上げ、ドミノ倒しのようにその場にしゃがみ込んだ。
「……完全に寄生された! 海神が、暴走状態で浮上してくるぞ!」
ゼノリスが叫び、腰の黒い剣を抜き放つ。
「止めるしかありません!
今からでも王宮の地下にある、あの塔のメイン制御装置を破壊して、これ以上の魔力供給を断ち切るんです!」
フィリーネが白銀の杖を構え、王宮へと続く巨大な大階段を見据えた。
だが、その彼らの行く手を阻むように、チャキッ、チャキッ、と無機質な金属音が広場に響き渡る。混乱する市民たちを押しのけ、王宮へと続く大階段を完全に塞ぐようにして現れたのは、銀色の甲冑に身を包んだルサルカの近衛兵の部隊だった。
しかし、彼らの様子は明らかにおかしい。彼らの目は焦点が合わず白濁しており、その首筋や顔の皮膚の下には、気味の悪い灰色の血管がドクドクと脈打って浮き出ている。彼らもまた、ザルクによって知らない間に『鉛糸の幼生』を埋め込まれ、自我を奪われたただの操り人形にされていたのだ。
「王宮へは、一歩も通さない……」
自我を失った近衛兵の一人が、機械のような低い声で呟き、一斉に鋭い槍の穂先をゼノリスたちへ向けた。
「させないわよ……!私の海をこんなに汚して……私の国の人たちを、こんなおぞましい人形にして……!」
ナディアが両手に水の鞭を顕現させ、殺意すら混じるほどの激しい怒声を張り上げる。
足元が狂ったように揺れ、背後の真っ黒に染まった海からは、かつてない災厄の誕生を告げる地獄のような重低音が響き始めていた。
一刻の猶予もない絶望的な状況。しかし、目の前に立ち塞がっているのは、ザルクに操られているだけの罪なきルサルカの兵士たちだ。
「王宮へは、一歩も通さない……。すべては、宰相閣下のために……」
広場の大階段を塞ぐ銀色の近衛兵たちが、うわ言のように同じ言葉を繰り返し、一斉に鋭い槍の穂先を突き出してきた。
「くっ……!」
ゼノリスは反射的に黒い剣を抜き放ち、迫り来る三本の槍を同時に弾き飛ばした。
力任せの鋭い踏み込みで兵士の懐に潜り込み、剣の柄でその鳩尾を強打する。鍛え上げられた兵士の巨体がくの字に折れ曲がり、石畳に崩れ落ちた。
だが、ゼノリスの顔に安堵はない。
「気をつけろ!こいつら、痛覚が麻痺してるぞ!」
ゼノリスの叫びの通り、鳩尾を砕かれたはずの兵士は、苦悶の表情すら浮かべることなく、糸あやつり人形のように不自然な動きで再び立ち上がってきたのだ。そして、折れた槍の柄を握り直し、一切の躊躇なくゼノリスの喉元へと突きを放つ。
「死ね、反逆者……」
「ダメだ、手加減してたら押し切られる!」
斬り捨ててしまえば、どれほど造作もないことか。しかし、目の前にいるのはザルクの陰謀に巻き込まれただけの、ルサルカの国を守るべき誇り高き兵士たちだ。彼らをここで殺せば、それこそザルクの思い通りになってしまう。
ゼノリスが苦渋の決断を迫られ、右手の『三つ目の星』の刻印 を熱く明滅させたその時だった。
「ゼノリス、下がって!」
前線に躍り出たのは、テオだった。
彼は「身体強化」の術式を全開にし、全身の筋肉を鋼鉄のように硬化させる。獣の耳をピンと立てて敵の気配と殺気を正確に捉えると、自身の背丈ほどもある漆黒の巨大な重盾(黒盾)を、迫り来る兵士たちの槍の壁へと真正面から叩きつけた。
ガァァァァンッ!!
凄まじい金属音が広場に響き渡り、突撃してきた十数人の兵士たちが、まるで分厚い城壁に激突したかのように弾き飛ばされる。
「誰も殺させない……!僕が、全部防ぐから!」
テオは大地に両足を踏み張り、牙を剥き出しにして咆哮した。
兵士たちが体勢を立て直し、四方八方から刃を振り下ろしてくる。
テオは盾を構え直し、そのすべての物理的衝撃を真正面から受け止めた。彼の盾は鉄壁だ。しかし、敵は痛みを感じないため、限界を超えた異常な筋力で幾度も幾度も武器を叩きつけてくる。テオの太い腕の筋肉が悲鳴を上げ、足元の石畳がその重圧でメリメリとひび割れていった。
「自分の国の兵士を……心を持たない使い捨ての道具にするなんて……!ザルクの思い通りになんてさせるか! 僕が、これ以上誰も傷つかないように全部防いでみせる!」
テオは血の滲む腕で重盾を構え直し、決して目の前の命を奪うまいと悲痛な決意を叫ぶ。
自らが盾となり傷つくことを厭わない、優しく温厚な彼の魂の叫びに呼応するように、背後で澄んだ声が紡がれた。
「テオの言う通りです。私たちは、ルサルカの民の命を一つも奪うことなく、あの王宮へ辿り着きます」
銀色の髪を夜風に揺らし、フィリーネが前へと進み出た。
彼女の手にある白銀の杖が、純白の魔力を帯びて周囲の空気を急激に冷却していく。帝国の正統なる『星の種』としての、神聖な冷気だった。
「凍てつけ――『氷結の鎖』!」
フィリーネが杖を石畳に突き立てた瞬間、彼女の足元から放射状に極低温の冷気が爆発的に広がり、テオに群がっていた兵士たちの足元を瞬時に凍りつかせた。
分厚い氷は彼らの鋼のブーツを石畳に固定し、さらに下半身を覆ってその動きを完全に封じ込める。
「いいぞ、フィリーネ!」
ゼノリスが感嘆の声を上げる。
「医療と錬金術の知識を応用し、細胞が壊死(凍傷)しないギリギリの温度で表面だけを凍結させました。数時間は身動きが取れないはずです。今のうちに先へ!」
フィリーネは息を切らしながらも、凛とした表情で前を指差した。
「よし、このまま大階段を強行突破する!」
ゼノリスが先頭に立ち、テオの盾とフィリーネの氷結魔法による「不殺の陣形」で、彼らは王宮への道を一歩ずつ押し進んでいく。
しかし、状況は彼らの想像以上に絶望的だった。
「……ウゥゥ……アァァ……」
大階段の途中で彼らの前に立ち塞がったのは、兵士たちだけではなかったのだ。
「嘘でしょ……市民まで……!」
ナディアが青ざめた顔で悲鳴を上げる。
海面から立ち上ったあの「鉛糸の腐臭」を吸い込んだ一般の市民たちまでもが、次々と自我を失い、不気味に虚空を見つめながらゼノリスたちへ群がり始めていたのだ。
武器を持たない彼らは、狂乱状態のまま素手でゼノリスたちに掴みかかり、噛みつこうとしてくる。
「っ……!」
テオの盾の隙間を抜け、一人の老人が彼の腕に深く噛みついた。
「テオ!」
「大丈夫……! 痛くないよ……ただの、パニックになってるだけだから!」
テオは自身の腕から血を流しながらも、決して老人に手を出さず、優しく、だが力強くその体を引き剥がしてそっと地面に寝かせた。
一般市民を相手に、フィリーネの強力な氷結魔法を広範囲に使うのは危険すぎる。少しでも温度調整を間違えれば、魔法の訓練を受けていない彼らの命を奪いかねない。
四人は完全に包囲され、殺してしまえば一瞬で終わる敵を前に、一歩も前に進めない泥沼の膠着状態に陥ってしまった。
背後の海からは、巨大な地鳴りとともに、海神の絶望的な咆哮がひっきりなしに響き続けている。王宮の地下にある制御装置を破壊しなければ、海神が完全に姿を現し、ルサルカは滅亡する。
時間がない。焦りがゼノリスたちの心を黒く塗り潰していく。
その時、ナディアが力強く声を上げた。 「みんな、私についてきて!」 彼女の手には、激しい金色の光を放つ『黄金の羅針盤』が握られていた。ルサルカの海と星を知り尽くした航海士の瞳に、強い決意の火が灯る。
「ただ闇雲に進んじゃダメよ。どれだけ人が入り乱れていても、彼らを操っている『鉛糸の魔力』には、必ず流れ(潮流)があるはず……!」
ナディアは周囲の魔力の波長と、群がる人々の動きを羅針盤で精密に読み取っていく。それは彼女の得意技である「航路の選定」の極致だった。過酷な暴風雨の海で活路を見出すように、彼女は敵の防御の綻びとなる「一点」を正確に特定していく。
「テオ! 右斜め前、あの銅像の影にいる三人の兵士を盾で押し込んで! フィリーネ、その直後に左側の群衆の足元だけを凍らせて!」
「わかった!」
「はいっ!」
ナディアの的確な指示のもと、テオの重盾が右の壁を作り、フィリーネの氷が左の動きを封じる。すると、強固だった群衆の壁の中に、魔法のようにぽっかりと「一本の細い道」が開いたのだ。
「ゼノリス、今よ! 駆け抜けて!」
ゼノリスは風のようにその一本道を駆け抜け、立ち塞がる最後の近衛兵の横顔へ、黒い剣の峰打ちを鮮やかに叩き込んだ。
「ぐはっ……!」
兵士が昏倒して崩れ落ちる。
ついに四人は、狂乱の広場と大階段を血を流すことなく突破し、王宮へと続く巨大な正門の前に辿り着いた。
「やった……!これで地下の制御装置に……!」
テオが息を弾ませて正門に手をかけた、まさにその瞬間だった。
ゴァァァァァァァァァッッッ!!!
世界そのものがひび割れるような、鼓膜を突き破る絶対的な咆哮が、彼らの背後から叩きつけられた。
ゼノリスたちが思わず振り返った先。
そこには、彼らの必死の奮闘を嘲笑うかのような、決定的な『絶望』が立ち上がっていた。
どす黒く染まったルサルカの海。その海面が巨大な爆発を起こしたように割れ、天を突くほどの巨大な水柱が立ち上がる。
そして、その水柱を突き破り、深海の暗闇から『それ』が姿を現した。
「あ、ああ……そんな……」
ナディアが膝から崩れ落ちる。
『それ』の口から放たれた強大な魔力の波動が、ルサルカの港の防波堤を、まるで薄いガラスのように粉々に吹き飛ばした。
儀式は、完了してしまったのだ。
ゴァァァァァァァァァッッッ!!!
世界そのものの終焉を告げるような、鼓膜と魂を突き破る絶望的な叫び声だった。
ルサルカの海を何百年にもわたって豊かに守り続けた、美しき蒼玉の海神。
しかし今、ルサルカの夜空を覆い隠すようにそびえ立つその異形の姿は、見る者の精神を根底から破壊するほどの、おぞましい冒涜的な気配を放っていた。
頭部だけでも王宮の城門を軽く凌駕するその巨大な身体は、本来の透き通るような青い鱗の大部分を『這い寄る鉛糸』に浸食されていた。硬化した鉛糸は、まるで分厚く無機質な灰色の金属装甲(鋼の殻)となって、竜の肉体にガッチリと食い込んでいる。
知性と慈愛に満ちていたはずの瞳は、自我を完全に失い、魔力暴走特有の赤黒く濁った光を狂ったように放っていた。
装甲の隙間から、わずかに本来の青い鱗が痛々しく覗いているのが、かえって「美しい生き物が無理やりおぞましい鎧を着せられている」という悲劇を際立たせている。
さらに異様なのは、海竜の背中の重装甲を突き破るようにして生え、意思を持った生き物のように蠢いている何十本もの巨大な『銀色の触手』だ。胸の中央にある魔力の源『核』には、極度に凝縮された鉛糸が巨大な寄生管としてへばりつき、ドクドクと毒の脈動を打っている。
人々の純粋な祈りを食らい、完全に鉛糸に支配された冒涜的な超巨大兵器――『機甲海竜』の誕生だった。
だが、完全に自我を失い破壊の咆哮を上げる、そのほんの直前のことだった。
装甲の隙間から覗く蒼玉の瞳から、一滴の澄んだ水滴がこぼれ落ちた。それはまるで、変わり果てた己の姿と、これから自らの手で愛する街を壊してしまうことへの、海神の悲痛な『涙』のようだった。
「……海神様……嘘でしょ……」
ナディアの美しい青い瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
ゼノリスたち三人も、圧倒的なスケール感に息を呑み、動くことすらできなかった。
『――ァァァァァ!!』
機甲海竜が天に向かって赤黒い瘴気を吐き出すと同時に、背中から伸びる巨大な銀色の触手が一本、鞭のようにしなってルサルカの港へと振り下ろされた。
ズドォォォォォンッ!!
たった一撃。それだけで、頑強な石造りの防波堤が紙くずのように粉砕され、港に停泊していた数十隻の大型ガレオン船が木端微塵に吹き飛んだ。
砕け散った船の残骸と、数万の黄金の灯籠を飲み込んだどす黒い津波が、防波堤を越えてルサルカの下層市街地へと容赦なく雪崩れ込む。
「ぎゃあああっ!」
「逃げろ!波が来るぞぉっ!!」
祝祭の熱気に包まれていた美しい広場は、瞬く間に悲痛な地獄絵図と化した。
色鮮やかな提灯は泥水に呑まれ、立ち並んでいた屋台は無惨に押し流されていく。逃げ惑う市民たちの悲鳴と、洗脳されて虚ろな目で立ち尽くす兵士たちの姿が、無慈悲な破壊の渦に飲み込まれていった。
「ひどい……街が、一瞬で……!」
テオが歯を食いしばり、黒盾を構えて広場から吹き上がってくる瓦礫の雨を防ぐ。
一方、丘の上に建つ王宮の巨大なバルコニー。
眼下で繰り広げられる自国の滅びの光景を、マリエーヌ大公妃はただただ呆然と見下ろしていた。彼女の手から滑り落ちた白い羽扇が、冷たい大理石の床を転がる。
「な、なに……あれは、何なの……?」
大公妃の震える声は、もはや優雅な為政者のものではなく、恐怖に怯える哀れな女のものだった。
「ザルク……!ザルク、答えなさい!アレは何!?なぜ海神が、あんな恐ろしい姿になって街を壊しているの!?貴方の作ったあの浄水塔は、海を浄化して海神を癒すためのものだったはずでしょう!?」
ヒステリックに叫びながら振り返った大公妃の目に映ったのは、豪奢な法衣を纏い、腹の底から愉快そうに肩を揺らして笑う宰相ザルクの姿だった。
「ククッ……ハハハハハッ!癒す?この私が?まさか。あれこそが、貴女がその権力と財を注ぎ込んで完成させた、私の最高傑作の真の姿ですよ」
ザルクの顔から、今まで見せていた恭しい忠臣の仮面が完全に剥げ落ちた。
そこにあったのは、他者の絶望を極上のワインのように味わう、冷酷で底知れぬ悪意の塊だった。
「だ、騙したのね……!私を、この国を……っ!近衛兵!近衛兵、誰か!この大逆人を今すぐ捕らえなさい!!」
大公妃が金切り声を上げてバルコニーの扉の奥へ叫ぶ。
しかし、駆けつけてきた数名の近衛兵たちは、大公妃ではなくザルクを守るように彼女の周囲を包囲し、無機質な瞳で鋭い槍の穂先を『主君』へと向けた。彼らの首筋にも、灰色の血管が不気味に浮き出ている。
「な……っ」
「無駄ですよ、マリエーヌ殿下。この王宮の兵も、あの愚かな市民たちも、すでに私の『鉛糸』がその脳髄まで支配している。今やこのルサルカで私の命令に逆らえる者は、誰一人として存在しない」
ザルクは嘲笑うように歩み寄り、大公妃の美しい青のドレスの襟元を乱暴に掴み上げた。
「ひっ……!」
「貴女のその底の浅い虚栄心と、星詠みへのつまらぬ嫉妬心のおかげで、計画は実にスムーズに進みました。感謝しますよ。貴女の承認がなければ、国中の地下水脈に鉛糸のパイプを張り巡らせる大工事など、到底不可能だったのですから」
「あ……あぁ……」
大公妃の顔から一気に血の気が引いていく。
自らが神聖な星詠みの一族を迫害し、この男に全権を委ね、資金を与え、浄水塔という名の『海神殺しの処刑装置』を建設させてしまった。自らの手で、この美しいルサルカという国を滅ぼしたのだという決定的な事実が、彼女の精神を粉々に打ち砕いた。
「用済みです。特等席で、自らが滅ぼした国の最期をご覧なさい」
ザルクが手を放すと、大公妃は糸の切れた人形のように大理石の床に崩れ落ちた。もはや彼女の目には光はなく、壊れたようにただ涙を流しながら、炎と黒い波に飲まれていく自国の街並みを虚ろに見つめることしかできなかった。
ザルクはバルコニーの手すりに寄りかかり、夜空を覆う機甲海竜を見上げて歓喜の声を上げた。
「素晴らしい……! ついに完成した! これだけの途方もない魔力質量、サイラスの奴が持ち込んだ『あの方』の力にすら匹敵する!さあ、我が絶対の兵器よ! この国を更地にして、私に次代の覇者としての力を見せてみろ!!」
ズドォォォォンッ!!
ザルクの狂った笑い声に呼応するように、機甲海竜の銀色の触手が今度は王宮へ続く大階段の途中へ叩きつけられた。美しい彫刻が施された石の階段が数百段にわたって崩落し、ゼノリスたちと王宮を隔てる巨大なクレバス(地割れ)が走り抜ける。
「ぐおおっ!?」
「きゃああっ!」
凄まじい衝撃波と石の破片を、テオが黒盾を構えて必死に防ぐ。フィリーネが即座に氷の障壁を展開し、なんとか四人は直撃を免れた。
「テオ、フィリーネ、無事か!?」
ゼノリスが土埃を払いながら叫ぶ。
「僕たちは平気だ!でも、街が……!みんなが……!」
テオの視線の先では、下層の市街地が黒い濁流と触手の破壊にさらされ、炎に包まれていた。機甲海竜が暴れるたびに、彼らが愛したルサルカの街並みが無惨に消え去っていく。
「海神様……どうして……やめて……」
ナディアは崩れ落ちたまま、両手で顔を覆って泣きじゃくっていた。自分の無力さと、信じていた神が破壊の化身へと変貌してしまった現実に、彼女の心は完全に折れかけていた。
だが、ゼノリスは絶望しなかった。
彼の黄金と闇のオッドアイは、崩れゆく街を、そして夜空を覆う巨大な絶望を、決して逸らすことなく真っ直ぐに睨みつけていた。
「……ナディア。顔を上げろ」
ゼノリスの静かで、しかし確かな熱を帯びた声が響く。
「もう終わりよ……。海神様は完全に支配されちゃった。私たちの力じゃ、あの巨大な鎧も、刺さったパイプもどうにもできない……!」
「確かに、今の僕たちの力じゃ、あの巨大な神獣をすぐに元に戻すことはできないかもしれない。でも――」
ゼノリスは自身の右手のひらを強く握りしめた。
そこにある、帝国の禁忌技術の象徴である『三つ目の星』の刻印 。そして、三千年前のアポカリプスを引き起こしたとされるオリジンの力――その純粋な旋律が、焼けるような熱を持ってゼノリスの意志に呼応し、激しく明滅を始める 。
「――この国の人たちを見捨てる理由にはならない!泣くのは全部終わってからだ、ナディア!」
ゼノリスの力強い一喝に、ナディアがハッと息を呑んで顔を上げる。
「テオ!フィリーネ!ここからあの機甲海竜の注意を限界まで引きつけるぞ!少しでも街への被害を減らすんだ!」
ゼノリスが腰の黒い剣を抜き放ち、その切っ先を、夜空にそびえ立つ巨大な絶望へと真っ直ぐに突きつけた。
「僕が『銀色の残響』で、あの海竜の魔力波長に無理やり同調を仕掛ける! 奴を支配している鉛糸の波長が乱れる、ほんの一瞬の隙ができるはずだ!」
ゼノリスは黒い剣を構え、仲間たちへ鋭い視線を向けた。
「ナディア、その瞬間に奴の装甲の『綻び』を割り出せ! テオとフィリーネで触手を抑え込み……隙ができた瞬間に、全員で全力を叩き込むぞ!」
「無茶だよ! あんな規格外の魔力に同調したら、ゼノリスの身体が耐えられない!」
テオが顔を青ざめて叫ぶ。
「構うもんか!ザルクの思い通りになんて、絶対にさせてたまるか!!」
ルサルカの蒼き海が死に絶え、国が炎に包まれる鎮魂祭の夜。
絶望の淵に立たされたゼノリスたち四人は、星詠みの悲願と、この国に生きる人々の命を繋ぎ止めるため、神に等しき超巨大兵器との決して退けない死闘へとその身を投じた。




