第28章:狂信の宮廷と海神の座所
ルサルカ王宮の最奥、玉座の間へと続く長い回廊。
足元には深い海を思わせる瑠璃色の絨毯が敷かれ、両脇には銀の甲冑に身を包んだ近衛兵たちが等間隔で立ち並んでいる。彼らの手にする槍の穂先は、招かれざる客である四人の一挙手一投足を、鋭い警戒の眼差しとともに追っていた。
「……行くわよ」
重厚な青銅の扉の前に立ち、ナディアが小さく息を吐く。
かつてはルサルカの海運と祭祀を司る『大星詠み』の娘として、彼女もまたこの扉を堂々とくぐる権利を持っていた。だが今は、国を追われた没落貴族の娘に過ぎない。わずかに震える彼女の背中を、ゼノリスは無言で力強く頷いて後押しした。
ギィィィ……と、重々しい音を立てて扉が開く。
そこには、海の上に浮かぶ真珠と讃えられる国にふさわしい、息を呑むような絢爛たる空間が広がっていた。床は磨き上げられた純白の大理石で敷き詰められ、天井を飾る巨大なシャンデリアは本物の水晶でできている。
だが、ゼノリスたち四人を包み込んだ空気は、外の心地よい潮風とは無縁の、酷く冷たく淀んだものだった。
「……なるほど。宰相ザルクが、あの魔導浄水塔を使って海神を汚染し、国を乗っ取ろうとしていると?」
一段高い玉座から見下ろすマリエーヌ大公妃は、透き通るような青いドレスに身を包み、優雅に白い羽扇で口元を隠していた。その氷のように冷たい瞳には、微塵の動揺も浮かんでいない。
「その通りです、大公妃殿下!」
ナディアは冷たい大理石の床に片膝をつき、普段の奔放さを必死に押さえ込んで深く頭を下げた。
「あの塔が流し込んでいるのは、海を浄化する水などではありません。命を狂わせる『這い寄る鉛糸』という古代の毒です!現に私の父はそれに気づいたからこそ、ザルクの罠に嵌められて地下牢へ送られました。……このままではルサルカの海は死に、深海に眠る海神が暴走してしまいます!」
ナディアの血を吐くような必死の訴えが、広い玉座の間に反響する。
しかし、大公妃は扇をパチンと閉じ、ひどく退屈そうにため息をついた。
「宰相が設置したあの塔のおかげで、ルサルカの海は目に見えて浄化されています。事実、ここ数ヶ月で漁獲量は劇的に回復し、市場はかつてない活気を取り戻した。結果がすべてです」
「殿下、海の中を見ていないのですか! 塔の周りに群がっている魚は皆、無理やり魔力で操られ、正気を失って狂っています! あんなものは奇跡でも何でもない!」
「黙りなさい」
大公妃の冷たく鋭い声が、ナディアの言葉をピシャリと遮った。
「本物の奇跡ひとつ起こせない、見せかけの星詠みたちが、有能な宰相にその座を奪われた嫉妬から、見苦しい妄言を吐きにきたのですか?不確かな祈りしか捧げられない貴女たちに代わり、ザルクは俗事を引き受け、私の手足となって見事に国を回しています。私が『真の星の権威』を迎え入れるための、邪魔をしないで頂きたいわね」
その言葉に、ナディアの後ろで控えていたテオがたまらず声を上げた。
「でも、本当なんです! 僕たちは別の街で、その『鉛糸』が古代兵器を暴走させるのを直接見ました。あれはただの機械の部品じゃありません、生き物の命を吸い尽くす化け物です!」
大公妃はゆっくりと視線を動かし、テオの頭にある獣の耳を冷え切った目で見下ろした。
「……獣人の子供が、この神聖な玉座で口を開く許可を与えた覚えはありませんよ」
見下すようなその声色に、テオがビクッと肩を震わせる。
彼女はザルクの陰謀を全く疑っていない。いや、正確には「国の民や海が本当はどうなっているか」など、彼女の興味の範疇には最初からなかったのだ。国が表面上平穏に回り、自分の絶対的な権威が保たれてさえいれば、魚が狂っていようが誰が犠牲になろうが構わないのである。
その時だった。
大公妃の視線が、床に這いつくばるナディアと怯えるテオから、その後方に静かに立つフィリーネへと移動し、ピタリと止まった。
「……そちらの美しい少女。学園の卒業式以来ですね」
大公妃が玉座から立ち上がり、長いドレスの裾を大理石の床に引きずりながら、階段をゆっくりと降りてくる。
その瞳に、先ほどまでの氷のような冷たさとは打って変わった、隠しきれない熱と歪な独占欲がドロリと浮かび上がった。
「見間違えるはずがありません。その純白の魔力と銀色の髪……帝国の正統なる『星の種』。ああ、貴女こそが、我がルサルカの星詠みの権威を他国に対して絶対的なものにする至高の宝」
大公妃はうっとりとした表情で両手を広げ、フィリーネの目の前まで歩み寄った。
「どうです? このような泥まみれのならず者たちとの当てのない旅などやめ、私の宮廷で『星の聖女』として迎え入れましょう。貴女がルサルカの祈りの象徴となり、私の傍らに立ってくれるなら……そうですね、そこの星詠みの娘の一族を、無罪放免にして復権させてあげてもよろしくてよ?」
ナディアの父親の命と、一族の誇りをダシにして、フィリーネを取り込もうとする。あまりにも露骨で、身勝手な取引だった。
「ふざけるな……!私の家を、そんな取引の道具にする気か!」
ナディアが床から弾かれたように立ち上がり、怒りのままに叫ぶ。その瞬間、周囲の近衛兵たちが一斉に槍の穂先をナディアとゼノリスたちに向けた。金属の擦れ合う乾いた音が響く。
「おやめなさい、ナディア」
フィリーネが静かに、だが凛とした声で制した。
彼女は周囲を取り囲む槍の穂先にも、目前に迫る大公妃の歪んだ熱視線にも一切怯むことなく、その青い瞳で真っ直ぐに見返した。
「大公妃殿下。私は誰の権威を飾るための道具でもありません。私の血も、私の力も、私が守りたいと願う人のためだけにあります。……貴女のその息の詰まる鳥籠に入る気は、毛頭ありません」
「……愚かな。自分がどれほど価値のある存在か、理解していないようですね。保護者のいない娘が、この過酷な世界でその血を狙われずに生きていけるとでも?」
大公妃の顔からスッと笑みが消え、苛立ちが露わになる。
そのフィリーネの前に、ゼノリスがスッと立ち塞がった。右手のひらに刻まれた『三つ目の星』の火傷跡が、怒りに呼応するように微かに熱を帯びている。
「妹の言う通りだ。僕たちは取引をしに来たんじゃない。あなたに事実を知らせに来ただけだ」
ゼノリスの黄金と闇の双眸が、大公妃を真っ直ぐに射抜く。
「貴女が自分の国の海が死にかけている現実から目を背け、何もしないというなら……僕たちが、この海を蝕む悪意を直接叩き斬るだけだ。海神も、あの宰相の野望もね」
大公妃は顔を顰め、忌々(いまいま)しげに羽扇で再び口元を隠した。まるで汚いものでも見るかのように、目を細める。
「……不敬な小僧ですね。狂った星詠みの戯言など、これ以上聞く耳は持ちません。早々に私の前から立ち去りなさい。次に王宮を騒がせれば、容赦なく衛兵を呼んで地下牢へ繋ぎますよ」
交渉の余地は完全に断たれた。
これ以上言葉を交わしても無駄だと悟った四人は、冷たい大理石の床を踏み鳴らし、大公妃に背を向ける。
ギィィィ……。
背後で再び重厚な青銅の扉が閉まる音が、ルサルカの未来が完全に閉ざされたことを告げているかのようだった。
ゼノリスたち四人は、氷のように冷たい大理石の回廊へと押し出された。
玉座の間に漂っていた、むせ返るような香水の匂いと狂信的な熱気が遮断され、代わりに冷徹な現実が彼らにのしかかる。
「……くそっ! なんなのよ、あの女!」
ナディアが立ち止まり、瑠璃色の絨毯が敷かれた回廊の壁を、ドンッと拳で強く殴りつけた。
白亜の壁に鈍い音が響き、彼女の指の関節から微かに血が滲む。だが、彼女は痛みを気にする素振りも見せず、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「自分の国の海が死にかけてるのに、何一つ見ようとしないなんて!父さんたち星詠みが何百年もかけて守ってきたルサルカの海を……あんな、自分の権威を飾るための水槽くらいにしか思ってないのよ!」
ナディアの肩が小刻みに震えている。誇り高き一族をコケにされ、故郷の危機を嘲笑われた彼女の悔しさは、ゼノリスたちにも痛いほど伝わってきた。
「落ち着いてください、ナディア」
フィリーネがそっと近づき、血の滲んだナディアの拳を両手で優しく包み込んだ。淡い治癒の光が傷を塞いでいく。
「大公妃殿下は、最初から私たちの言葉を信じる気などなかったのです。彼女の瞳に映っているのは、現実の海でも民の苦しみでもありません。ただ自らの権力を絶対的なものにする『星詠み』という都合の良い幻影だけ……。言葉で説得できる相手ではありませんでした」
フィリーネの声はひどく静かだったが、その青い瞳の奥には、自分を単なる「権威の道具」として値踏みした大公妃に対する、冷たく静かな怒りの炎が揺れていた。
「でも、これで完全に手詰まりになっちゃったよ。王宮の護衛はさっきよりピリピリしてるし、このままじゃ僕たち、捕まって地下牢に放り込まれるか、街から追い出されるかのどっちかだ」
テオが不安げに周囲を見渡す。回廊の遠くから、彼らを監視する近衛兵たちの甲冑が擦れる音が、威圧的に響いていた。
「いや、まだ終わっていない」
ゼノリスが低く凄みのある声で呟き、立ち止まった。
右手のひらに刻まれた『三つ目の星』の火傷跡が、まるで危険を知らせる警鐘のように、先ほどよりも強くズキズキと脈打っている。
「ゼノリス……?」
彼が視線を向けた先、回廊の向こう側の豪奢な階段から、数人の黒ずくめの私兵を引き連れた男が、悠然とした足取りで上がってくるのが見えた。
上質な紫色のベルベットで仕立てられた宰相の法衣を纏い、顔の半分を覆うような銀縁の片眼鏡の奥で、薄暗い笑みを浮かべた男。
ルサルカの海を蝕む元凶、宰相ザルクだった。
「おやおや。これは見慣れぬ顔だと思えば……地下牢の泥水で無様に溺れ死んだはずのドブネズミどもではないか。よくもまあ、衛兵の目を盗んで大公妃殿下の御前まで這い上がってきたものだ」
ザルクは四人の数歩前でわざとらしく立ち止まり、見下すように嘲笑った。彼の背後に立つ私兵たちは、港で遭遇した暗殺者たちと同じく、焦点の合わない濁った目をしており、全身から『這い寄る鉛糸』特有の腐臭を微かに漂わせている。
ゼノリスの右手が、無意識に腰の剣の柄へと伸びる。
だが、その手をナディアが横から強く押さえた。ここで剣を抜けば、それこそ大公妃の命令に背いた反逆者として、王宮中の衛兵から追われることになる。ザルクはあえてそれを狙って挑発しているのだ。
「……何が目的だ、ザルク。あんたがあの鉄の塔を使って、海に毒を流していることはもうわかっている。海神の座所を狙っていることもな」
ゼノリスは殺気をギリギリで押し殺し、黄金と闇の双眸で宰相を真っ直ぐに睨みつけた。
その言葉に、ザルクの片眼鏡の奥の目が微かに細められたが、すぐにまた余裕の笑みを浮かべた。
「目的? 私はただ、この国を正しき道へ導いているだけだ。古臭い祈りや、目に見えぬ星の導きなどに頼る弱き国を、力ある覇者の国へと『進化』させるためにな」
ザルクは鼻で笑い、ナディアを憐れむような目で見た。
「お前の父親も愚かだったな。海神という絶大な兵器が足元に眠っていながら、ただ祈りを捧げて放置するなど、宝の持ち腐れにも程がある。……強大な力は、支配し、管理し、行使してこそ意味があるのだ。大公妃のような、血筋と権威にしか興味のない飾り物にも、それは理解できまいがね」
「貴様……!最初から、国を乗っ取るつもりで……!」
ナディアが歯軋りをする。
ザルクは四人の脇を通り抜けようと歩みを進め、すれ違いざま、ゼノリスの耳元で冷酷に囁いた。
「殿下はお前たちの言葉など信じない。無駄な足掻きだ。……今夜だ。今夜の『鎮魂祭』をもって、我が計画は完成する。大人しく、新しいルサルカの夜明けを泥の中で見上げているがいい」
ザルクの足音が、私兵たちとともに回廊の奥へと消えていく。
「鎮魂祭……」
ナディアが、サッと血の気を引かせた顔で呟いた。
「年に一度、ルサルカの海に数え切れないほどの灯籠を流して、海神に感謝を捧げる祭りよ。何万人もの市民が、海に向かって祈りと微量の魔力を捧げるの。……まさかあいつ、その祭りの膨大な魔力を触媒にして、海神への寄生を一気に完了させる気……!?」
「急ぎましょう。ザルクの計画が最終段階に入る前に、海神の元へ辿り着かなければ、本当に国が滅びます」
フィリーネの言葉に、四人は顔を見合わせた。
もはや一刻の猶予もない。彼らは決意を新たに、誰にも見咎められないよう、王宮の裏口へと続く使用人用の通路へ向かって駆け出した。
ルサルカ王宮の最上層、分厚い防音の扉と強力な結界魔術で閉ざされた宰相の執務室。
壁一面に広がるルサルカの巨大な海図には、街中に建てられた『新型魔導浄水塔』の位置を示す無数の赤いピンが刺され、それらがすべて、海底深くの一点――海神の座所へと集束するよう、禍々しい線で結ばれていた。
ザルクは一人、豪奢なマホガニーの執務机の上に置かれた『黒い通信宝玉』を作動させていた。
宝玉が濁った紫色の光を放ち、やがてその表面に、不気味な笑みを浮かべた男の顔が浮かび上がる。
かつて帝国魔導院学園で教頭を務め、ゼノリスたちを絶望の淵に突き落とした男、サイラス・ヴォーンだ。
『……首尾はいかがですか、宰相閣下』
宝玉越しのサイラスの声は、相変わらず慇懃無礼で、どこか芝居がかっていた。その背景は真っ暗で、彼が今世界のどこに潜伏しているのかは全く読み取れない。
「順調そのものだ、ヴォーン。お前が提供した『制御魔導具』は完璧に機能している。街中の塔から流し込んだ這い寄る鉛糸は、すでに海神の核に深く根を下ろした。……今夜の儀式で、市民の魔力を流し込めば、あの強大な神獣は完全に私の操り人形となる」
ザルクは最高級の赤ワインが注がれたグラスを傾けながら、自らの絶対的な勝利を確信したように薄く笑った。
『それは素晴らしい。無能な大公妃を退け、巨大な海竜の力を背景に、軍事力を持たぬルサルカが八ヵ国連合を牛耳る……。流石は次代の覇者たるザルク閣下だ。私利私欲と自己顕示欲にまみれたその俗物的な野心、私は嫌いではありませんよ』
「フン、口の減らない男だ。だが、お前がもたらした古代の知識と技術には感謝しているぞ。私が世界の頂点に立った暁には、お前の『組織』にも相応の便宜を図ってやろう。……まあ、せいぜい私の邪魔にならない程度にな」
『ええ、大いに期待しておりますよ。……では、今夜の『鎮魂祭』、数万の民の絶望が奏でる、素晴らしい悲鳴の協奏曲を楽しみにしております』
通信が切れ、宝玉の光がスッと消える。
ザルクはグラスのワインを飲み干し、ルサルカの美しい海を見下ろす窓辺へと歩み寄った。彼の目にはすでに、眼下の街を火の海に変え、他国を蹂躙する自らの巨大な権力しか映っていなかった。
一方。通信を切ったサイラスは、どこか見知らぬ暗く冷たい石造りの部屋の片隅で、腹の底からこみ上げるような、粘り着くような嘲笑を漏らしていた。
「クックック……。本当に、救いようのないほど滑稽な男だ。自分の立っている場所が、誰の手のひらの上であるかも知らずに、世界の頂点に立つなどと……」
サイラスにとって、ザルクの野心などどうでもよかった。ルサルカという美しい国がどうなろうと、海神が暴走しようと、彼にとっては路傍の石ころほどの価値もない。
彼の真の目的は、ただ一つだった。
「『あの方』がばら撒いた、意志を持たぬ下等な寄生体……あのような取るに足らないつまらない玩具でも、俗物的な男に資金とインフラを使わせれば、巨大な神獣をどこまで侵食・兵器化できるかという、極めて実用的な『データ』が取れますからね」
サイラスは手元の羊皮紙に、ルサルカの海流の魔力データを示す複雑な数式を、万年筆でカリカリと書き込みながら目を細めた。
すべては、彼が狂信的に仕える『あの方』――魔王の血脈に連なり、この世界の理そのものを書き換えようとしている、底知れぬ力を持った真の支配者――の意志のままに行われている、壮大な実験の一部に過ぎない。這い寄る鉛糸など、あの方が世界に仕掛けたほんの些細な前座の余興なのだ。
「そして何より……最高の舞台が整いました」
サイラスの脳裏に、怒りに燃えるゼノリスの黄金と闇のオッドアイが浮かぶ。
「さあ、ゼノリス君。国が滅び、巨大な神獣が暴走するこの最高の絶望の中で……『あの方』の血を引く君の、魔王と勇者の力はどう響くのかな?前座の化け物相手にどこまで足掻けるのか……私をたっぷりと楽しませてくださいよ」
狂気と恍惚を含んだサイラスの笑い声が、光の届かない部屋の闇の中に、どこまでも深く溶けていった。
ルサルカ王宮の裏手。切り立った白い断崖の真下にある、波が激しく打ち付ける隠し洞窟に四人の姿はあった。
ここはかつて、星詠みの一族が秘密裏に海流の観測を行うために使っていた古い隠し港である。波の浸食によってできた天然の洞窟の奥深くには、太陽の光すら届かない暗く冷たい水面が、不気味なほど静かに広がっていた。
「ここからなら、海神の座所へと直接繋がる『深層海流』に乗れるはずよ」
ナディアが腰の『黄金の羅針盤』を取り出し、魔力を込める。羅針盤の針が淡い金色の光を放ち、暗い水面のさらに奥深く、底知れぬ深淵の方角をピタリと指し示した。
「……ナディア。本当に大丈夫か?」
暗い水面を見つめる彼女の横顔が、ひどく青ざめていることに気づき、ゼノリスが声をかける。
「平気よ。ただ……怖いだけ。私の知っているルサルカの海じゃなくなっていることが、羅針盤越しに伝わってくるから」
ナディアは震える両腕をギュッと抱きしめ、それでも前を向いた。
「水圧と呼吸の確保は私に任せてください」
フィリーネが白銀の杖を掲げ、澄んだ声で詠唱を紡ぐ。彼女の純白の魔力が四人を優しく包み込み、薄いシャボン玉のような、しかし強靭な透明の結界を形成した。
「……行こう!ルサルカの海が完全に死んでしまう前に」
ゼノリスの言葉を合図に、四人は結界ごと、暗く冷たい冬の海へと飛び込んだ。
ザブゥンッ! という重い水音とともに、視界が一気に暗転する。
海中は、想像を絶する異様な光景だった。
かつては蒼く透き通っていたはずのルサルカの海。しかし今、彼らの結界の周囲を漂っているのは、灰色の泥のようなひどく濁った水だ。視界は数メートル先すらぼやけ、光の届かない深海へ潜れば潜るほど、海水の温度は異常なまでに低下していく。
「見て、あれ……!」
結界の中で、テオが青ざめた顔で頭上を指差した。
見上げれば、街中に建てられた『新型魔導浄水塔』の底から、無数の太い鉄のパイプが海中へと突き出しているのが見える。そしてそのパイプの先端から、ドロドロとした灰色の『這い寄る鉛糸』が、まるでヘドロのように絶え間なく吐き出されていた。
吐き出された無数の鉛糸は、海中で互いに絡み合い、まるで脈打つ巨大な血管のように寄り集まっていく。それは一本の太い濁流となり、ゼノリスたちが向かっている海底のさらに奥深くへと、真っ直ぐに伸びていた。
「ひどい……。これじゃあ、海全体が巨大な毒の沼じゃないか……」
テオが恐怖に耳を伏せる。肌を刺すような冷気とともに、強烈な悪意が結界越しにゼノリスたちの精神を削りにかかっていた。呼吸は確保されているはずなのに、息がひどく苦しい。
やがて、果てしない潜行の末に、四人の視界がふっと開けた。
「……嘘、でしょう」
ナディアが震える両手で口元を覆い、その場に崩れ落ちそうになる。
フィリーネの杖が放つ光の先。そこにあったのは、海底の岩盤を乱暴にくり抜いて作られた、巨大で神聖な『古の神殿』の遺跡だった。
そして、その神殿の中央。広大な空間のすべてを埋め尽くすほどの規格外の巨体を横たえている存在がいた。
ルサルカの守護神、海神。
伝承に語られる通り、それは美しい蒼玉の鱗を持つ、神々しい巨大な海竜だった。頭部だけでも王宮の城門より大きく、長くしなやかな胴体は神殿の奥深くまでとぐろを巻いている。
しかし――その威容は、見るも無残な姿に変わり果てていた。
海竜の巨大な四肢と首は、神殿の石柱から伸びる太い鎖で固く縛り付けられ、身動き一つとれない状態にされていた。だが、その鎖は本来の神聖な輝きを失い、どす黒い赤色に染まって、おぞましい呪いの瘴気を放っている。
「あれは……私の一族が代々守ってきた、神殿の封印よ! 万が一の時に海神様を鎮めるための安全装置を、呪いで汚して縛り付けるだなんて……!」
ナディアが絶望と怒りに満ちた声を絞り出す。
「ただの魔法じゃない……」
ゼノリスは黄金と闇のオッドアイを細め、鎖から立ち上る異様な魔力波長を睨みつけた。
「あの鎖から、とんでもなく古くて巨大な悪意を感じる。ただの成り上がりであるザルク一人の力で、用意できる代物じゃないぞ……!」
そして何よりおぞましいのは、海面から真っ直ぐに伸びてきたあの巨大な『鉛糸の濁流』の行き着く先だった。そのおぞましい灰色の管は、海竜の胸の中央――魔力の源である『核』へと深々と突き刺さり、巨大な寄生管のようにドクドクと毒を送り込み続けているのだ。
ズン……ズン……! と、地上の塔の稼働音に合わせて、灰色の毒が強制的に海竜の体内へと注ぎ込まれている。
美しい蒼玉の鱗は、すでに半分以上が鉛色に浸食され、無機質な金属装甲のようにひび割れていた。
『――――ァ…………ゥ…………』
水を通して、言葉にならない重低音の悲鳴が四人の脳内に直接響き渡った。
鼓膜ではなく、魂そのものを揺さぶるような凄まじい衝撃。強大な神獣が、寄生体の毒に侵され、数百年かけて保ってきた誇り高い自我を塗り潰されていく、絶望と苦痛の叫びだった。
「やめろ……やめてよ!離しなさいよ、ルサルカの海を返して!!」
ナディアが半狂乱になり、結界から飛び出そうと結界の内側を力任せに叩く。
「ナディア、落ち着け!今不用意に近づけば、君まであの毒に飲み込まれる!」
ゼノリスが必死に彼女の背後から両腕を回し、その小柄な体を抱き留めた。
その時だった。ゼノリスの右手の火傷跡が、焼けるような鋭い痛みを放った。
「……来るぞ! 構えろ!」
ゼノリスの警告と同時だった。神殿の暗がり、鉛糸がヘドロのように積もった海底の砂中から、巨大な影がいくつも這い出してきた。
それは、鉛糸に寄生され、肉体が異様に肥大化した深海鮫や巨大なウツボの群れだった。本来の姿を失い、全身を刃のような金属の装甲で覆われた彼らは、ザルクの計画を邪魔させまいとする防衛システムと化した魔獣たちだ。
「させないッ!」
テオが咆哮とともに獣化の力を解放し、全身の筋肉を膨張させる。巨大な漆黒の重盾を構え、結界の前面へと躍り出た。
直後、凄まじい速度で突進してきた十メートル近い金属の深海鮫が盾に激突し、海中に鈍い衝撃波が巻き起こった。
「ぐおおおっ……!」
テオの太い腕の筋肉が悲鳴を上げ、結界ごと後方へ数十メートルも押し流される。
「重い……!ただの突進じゃない、弾いた端から鉛糸が盾に纏わりついてきやがる!」
「テオから離れろ!」
ゼノリスが黒い剣を抜き放ち、水中の抵抗を物ともしない神速の踏み込みで深海鮫の側面に回り込む。火と風の魔力を融合させた刃に『調律』の力を乗せ、鮫の金属装甲の隙間へ深々と突き立てた。
キィィン……! という澄んだ音とともに、鮫の巨体が灰色の砂となって崩れ落ちる。
「やった……!」
テオが安堵の声を上げたのも束の間、ゼノリスの顔は絶望に歪んだ。
「ダメだ、キリがない!」
ゼノリスが叫んだ通り、崩れ落ちた灰色の砂はすぐに周囲の濁った海水から魔力を吸収し、瞬く間に新たな巨大ウツボの姿を形成し始めたのだ。
ここは敵の完全なホームグラウンドだ。地上の塔から無尽蔵に『鉛糸』という魔力が供給され続けているこの神殿では、いくら敵を破壊しようと即座に再生してしまう。
「フィリー、テオのサポートを! ナディアは羅針盤で海流を読んでくれ、ここから脱出する!」
ゼノリスは迫り来るウツボの群れを剣撃で弾き飛ばしながら、後方へ指示を飛ばした。
「脱出って……海神様を、このまま置いていく気!?」
ナディアが涙目で叫ぶ。その声には、自分たちの無力さへの強烈な怒りと悲しみが滲んでいた。
「今の僕たちじゃ、あの巨大な核に突き刺さった魔導具は引き抜けない!ここで全滅すれば、誰があの宰 相を止めるんだ!」
血を吐くようなゼノリスの叫びに、ナディアはハッと息を呑んだ。
その事実を裏付けるように、拘束された海竜が限界を超えた苦痛に身をよじった。
ズゴゴゴゴゴゴ……!!
神獣の無意識の抵抗と、莫大な魔力の暴走により、海底神殿そのものが激しく揺れ始めた。巨大な石柱が次々とへし折れ、天井の分厚い岩盤が崩落していく。海底火山の噴火にも似た、凄まじい水流の乱れと泥の嵐が巻き起こった。
このままでは、崩落する神殿の下敷きになるか、暴走する水圧に結界ごと押し潰されるかのどちらかだ。
「……っ! わかったわよ!」
ナディアは血の滲むような思いで海神から目を逸らし、羅針盤を構えた。
「右斜め上、三十度の水流に乗って! 今なら崩落の衝撃で生じた一時的な上昇海流に巻き込まれずに浮上できる!」
「フィリー!」
「はい!『水竜の息吹』!」
フィリーネが杖を振り抜き、結界の後方に極大の水流魔法を放った。
その凄まじい反作用により、四人を包む結界は、まるで大砲から撃ち出された弾丸のように斜め上方へと急激に射出された。
ドゴォォォン……!!
直後、彼らが今までいた神殿の入り口に巨大な岩盤が崩れ落ち、群がっていた魔獣たちごと、すべてを海底の深い砂煙の中へと飲み込んでいった。
「ああっ……!海神様……!」
ナディアが遠ざかる海底へ向かって手を伸ばす。しかし、その手は何も掴むことはできず、ただ冷たい結界の内壁に触れるだけだった。
下から追いすがってくる無数の鉛糸の触手を、ゼノリスの剣撃とテオの盾で必死に弾き飛ばしながら、四人は決死の浮上を続けた。
息が詰まるような水圧の恐怖。四方から迫る灰色の濁流。どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる暗闇の果てに、ようやく頭上に淡い光が見え始めた。
ザバーーーンッ!!
激しい水しぶきとともに、四人の結界はルサルカの海面へと飛び出した。
「ぷはっ……! はぁ、はぁ、はぁっ……!」
冷たい外気が肺に流れ込み、全員が荒い息を吐きながら冬の海に浮かぶ。
助かった。
だが、ゼノリスたちが顔を上げ、ルサルカの街を見上げた時、彼らの背筋に、冷たい海底よりもさらに恐ろしい決定的な絶望が走った。
「あ、ああ……」
ナディアが、すべてを悟ったような虚ろな声で呟く。
西の空はすでに燃えるような夕日に染まり、黄昏時を迎えていた。
そして、ルサルカの街には、無数の美しい光が灯り始めていた。街の至る所に飾られた祭りの提灯であり、今まさに海へと流されようとしている、数え切れないほどの灯籠の光だった。
街の広場からは、海神への感謝を捧げる市民たちの、楽しげで穏やかな音楽がここまで風に乗って聞こえてくる。
『今夜の鎮魂祭をもって、我が計画は完成する』
回廊ですれ違った時の、ザルクの冷酷な言葉がゼノリスの脳裏に蘇った。
何も知らない数万の市民たちが、海神への感謝とともに捧げる純粋な祈りと微量の魔力。それが今夜、あの街中に建つ灰色の塔を通じて一斉に海神の元へと送られ……鉛糸の寄生を決定的なものにするための『最後の一押し(起爆剤)』となるのだ。
もう、誰もこの儀式を止めることはできない。
この美しくも残酷な灯籠の光が海を埋め尽くした時、海底の巨大な神獣は完全に自我を失い、ルサルカを滅ぼす災厄となって浮上してくる。
ルサルカの蒼き海が、最も美しく、最も恐ろしい『鎮魂歌』の夜を迎えようとしていた。




