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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第4巻 蒼き海の鎮魂歌(レクイエム)

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第27章:灰色の鉄塔と星詠みの地下迷宮

 ルサルカの夜は、重く湿った潮騒の音とともに更けていく。

 かつては夜通し活気に溢れ、世界中の商人や船乗りたちが酒杯を交わしていたという港湾区も、今はどこか息を潜めているかのように静まり返っていた。等間隔に並ぶガス灯の灯りはなぜか薄暗く、石畳の通りには海風に吹かれた空き箱がカラン、カランと空虚な音を立てて転がっている。


 ナディアの先導で、ゼノリスたち四人は人気のない深夜の港へと足を踏み入れた。

 彼らの視線の先、満月の光を無残に遮るようにしてそびえ立っているのは、宰相ザルクが街の至る所に建造させたという『新型魔導浄水塔』の一つだった。


「……こうして近くで見ると、より一層不気味な形をしているわね」」


 積み上げられた木箱の物陰に身を潜めながら、フィリーネが嫌悪感に眉をひそめて呟いた。

 白亜の美しい建築物と、精緻なガラス細工で彩られたルサルカの街並みにおいて、その塔はあまりにも異質だった。装飾の一切ない、無機質で無骨な灰色の鉄塔。海に向かって幾本も突き出た巨大なパイプからは、ズン、ズン、とまるで巨大な獣の脈動のような低い稼働音が絶え間なく響いている。

 それは海に清らかな浄化をもたらす施設というよりは、ルサルカの心臓に無理やり打ち込まれた、巨大で醜悪な金属のくさびのように見えた。


「気をつけて。塔の周りには宰相直属の警備兵が巡回してる。下手に音を立てて見つかったら、ただじゃ済まないわよ」


 ナディアが低い声で警告し、三人に手で合図を送る。

 テオは背負った大盾が音を立てないように慎重に歩幅を合わせ、ゼノリスは周囲の暗がりに鋭い視線を配りながら進む。四人は幾重にも張り巡らされた網やクレーンの陰を縫うようにして、音もなく塔の根元――海面が直接見下ろせる、石造りの防波堤の先端へと接近した。


 塔に近づくにつれて、潮の香りに混じって、鼻を突くような強い鉄の匂いと、微かな腐臭が漂ってくる。


「ナディア……これ、海の色が……」


 防波堤の縁からそっと身を乗り出したテオが、息を呑んだ。

 月明かりに照らされた海面は、一見すると透き通っているように見える。だが、ゼノリスたちが目を凝らして水底みなそこの深層流を覗き込むと、そこにはおぞましい光景が広がっていた。


 灰色の、泥のような淀み。

 それは塔の底部の巨大な排水口からドロドロと吐き出され、海流に乗って海底を這うように、じわじわと広がっている。周囲の海水を浄化するどころか、明らかに『何か』を海へと垂れ流していた。


 そして何より四人を戦慄させたのは、その灰色の淀みの周囲に群がる、無数の魚たちだった。

 本来ならこの季節、この近海にはいないはずの遠洋の大型魚や、深い海の底に棲むはずの奇妙な生物までもが、まるで何かに取り憑かれたように塔の周囲で渦を巻いて泳いでいる。

 だが、その泳ぎ方は明らかに狂っていた。互いの体を傷つけるほど密集し、鱗はボロボロに剥がれ落ち、その目は白く濁りきっている。ただ、塔から発せられる『いびつな魔力』に強制的に脳を支配され、泳がされ続けているようだった。


「これが、宰相がもたらした豊漁の正体よ」

 ナディアがギリッと奥歯を噛み締め、忌々しげに海を睨みつけた。

「海を綺麗にしたわけじゃない。父さんは『あれは浄化なんかじゃない。海の底から命を吸い上げて、魚を操る異質な魔力を流し込んでいるだけだ』って猛反対したの。よその海域から無理やり魚をかき集めて、海が綺麗になったように市民の目を誤魔化してるだけだってね」


「ええ。こんなものは奇跡でも魔法でもありません。命に対する冒涜です」

 フィリーネも冷ややかな怒りを瞳に宿し、吐き捨てるように言った。


 ゼノリスは無言のまま、ズキズキと激しく疼き始めた自分の右手を、左手で強く押さえた。

 包帯の下に刻まれた、エテルナの地下で負った深い傷。それが、塔から垂れ流される灰色の魔力に呼応するように、焼け付くような熱を帯びている。


「今日、街を歩いていて確信に近いものを感じたんだ」

 ゼノリスの地を這うような低い声に、三人が振り返る。彼は鋭い黄金と闇の双眸で、海に広がる灰色の淀みを見据えていた。


「おそらく、エテルナの地下に巣食っていた『這い寄る鉛糸リードストリング』……あいつらが放っていたのと同じ、生き物を狂わせる毒のような魔力を、あの塔から海全体に撒き散らしているんだ」


 その言葉に、夜の海風が一段と冷たく感じられた。

 ライラが最期まで見つめていた美しい海は今、目に見えない悪意によって内側から静かに、そして確実に喰い殺されようとしている。


「そんなこと、絶対にさせないわ」

 ナディアが腰の短剣の柄に手をかけ、鋭い視線を塔の基部へと向けた。

「あの塔のパイプを根こそぎ破壊して、今すぐこの不気味な毒を止めてやる……!」


「――それは困るな」


 突如、背後の暗がりからしゃがれた声が落ちた。

 四人が振り返ると、いつの間にか防波堤の退路を塞ぐように、黒い外套に身を包んだ十数人の男たちが音もなく立ち並んでいた。

 彼らの手には、淀んだ紫色の魔力を帯びた歪な形の短刀が握られている。その瞳孔は不自然に開き、塔から垂れ流される灰色の魔力にあてられたかのような、異様な殺気を放っていた。


 ゼノリスは無言のまま、瞬時に腰の黒い剣を引き抜いた。テオも素早く大盾を構え、フィリーネを背後へ庇う。

 足運びと、一切の感情を交えない機械的な構え。ただの警備兵ではないことは、肌を刺すような殺気だけで十分すぎるほどに伝わってきた。


「星詠みの残党は海へ沈めろと、仰せつかっている。……やれ」


 リーダー格の男が短く命じた瞬間、外套の男たちが一斉に影のように地を蹴り、四人に襲いかかった。

 常人離れした速度と、一切の感情を感じさせない機械的な動き。間違いなく、ただのならず者ではない。国の中枢で汚れ仕事を引き受けてきた、生粋の殺し屋たちだ。


「ッ、私たちの海で、甘く見んじゃないわよ!」


 だが、暗殺者たちの刃が届くよりも早く、ナディアが猛然と前へ出た。

 彼女は短剣を鞘に収めたまま、両手を大きく広げて、背後の海へと意識を集中させた。


 ドザァァァン!!


 突如、港の海面が爆発したように盛り上がり、膨大な量の海水が彼女の頭上へと渦を巻きながら集束していく。

「テオ、伏せて!」

「う、うん!」


 ナディアの掌に集まった海水は、星詠みの家系に伝わる魔力によって極限まで圧縮され、一本の巨大で鋭利な水の槍へと形を変えた。その切っ先が、月の光を反射して青白く、そして圧倒的な力強さで輝きを放つ。


「消えなさいッ! 『星流の海神槍アストラル・ハルバード』!!」


 ナディアが腕を力強く振り下ろした瞬間、極限まで圧縮された超高圧の水槍が、耳をつんざく轟音と共に放たれた。

 それは凄まじい貫通力で石畳をえぐり飛ばしながら一直線に突き進み、襲いかかってきた前衛の暗殺者たちを数人まとめて吹き飛ばし、後方にあった木造の倉庫の壁ごと粉砕した。


「なっ……なんだ、この威力は……!」

 生き残った暗殺者たちが、恐るべき魔法の威力と予想外の反撃にたじろぎ、一歩後退する。


「へっ、見たか! ルサルカの海を舐めんな!」

 ナディアが不敵な笑みを浮かべ、再び海水を両手に渦巻かせる。


 エテルナでの死闘から数ヶ月。互いに別々の時間を過ごしてはいたものの、四人の間には、共に死線を潜り抜けた絶対的な信頼と、少しの狂いもない連携の勘がすでに蘇っていた。

 灰色の鉄塔が見下ろす深夜の港で、反撃の火蓋が切って落とされた。



水槍の一撃で陣形を崩された男たちは、即座に体勢を立て直した。

 彼らは痛みを声に出すこともなく、再び無音で距離を詰めてくる。不自然に拡張された瞳孔が、ゼノリスたちを無機質に捉えていた。


「来るよ」

 テオが短く言い、前に出る。

 左右から迫る二振りの短刀。テオは姿勢を低くして大盾を構え、その刺突を正面から受け止めた。火花が散り、鈍い衝撃音が夜の港に響く。

 男たちの腕力は、灰色の魔力の影響か常軌を逸していた。テオの靴底が石畳を滑る。


 だが、その均衡は一瞬だった。

「下がって」

 テオの後方から、フィリーネの静かな声が響く。

 彼女の杖先から放たれた冷気が、テオの盾を弾いた男たちの足元を一瞬にして凍りつかせた。石畳ごと靴底を縫い留められ、男たちの動きが完全に止まる。


 その隙を、ゼノリスは見逃さない。

 静かに地を蹴る。黒い剣が夜気を裂き、男たちの武器ごと正確に手首を打ち据えた。無駄のない一撃に、刃を落とした暗殺者たちが崩れ落ちる。


 残る数人がナディアへ標的を変えて飛び込んだが、彼女は防波堤に積まれた網やロープの間に身を翻し、軽やかにその刃をかわした。もつれ込んだ男たちの背後を取り、短剣の柄で首筋を打ち抜く。


 戦闘は、数分で終わった。

 最後の一人が地面に倒れ伏すのを見届け、ゼノリスは短く息を吐いて剣を収めた。


「……片付いたわね」

 ナディアは周囲を警戒しながら、灰色の鉄塔を見上げた。稼働音は変わらずに響き続けている。

「さて、それじゃあこのパイプを――」

「待て、ナディア」

 ゼノリスが声をかけた。

「この塔を壊しても、意味がない」

「どうして?」

「海に流れ込んでいる魔力だ」

 ゼノリスの視線の先で、フィリーネが塔の基部を調べていた。彼女は海面へ続く太いパイプの構造をなぞり、静かに首を振る。

「お兄様の言う通りです。この塔は、魔力を生み出しているわけではありません。街の地下水脈を通じて、別の場所から送られてきた魔力を海へ排出しているだけ。単なる出口に過ぎません」

「大元を絶たないと、別の塔から毒が流され続けるだけか」

 テオの言葉に、ナディアは悔しげに唇を噛んだ。

「じゃあ、この灰色の魔力はどこから来てるのよ」


「街の地下水脈の構造と、この魔力の濃度から推測すると……」

 フィリーネは立ち上がり、港の向こうを見つめた。

「王宮です。すべての管は、あそこへ繋がっています」


 ルサルカ王宮。

 大公妃マリエーヌと宰相ザルクがいる、この国の中心。


「正面からは絶対に入れないわ。今は宰相の私兵で固められてるはずよ」

 ナディアの言葉に、重い沈黙が落ちた。暗殺者を放ってくる相手だ。王宮の警戒は想像に難くない。


 だが、ナディアは顔を上げ、腰のポーチから古びた羅針盤を取り出した。

「……でも、道ならある」


 三人の視線が彼女に集まる。

「星詠みの一族だけが知る、古い水路よ。旧市街の地下から、王宮の地下牢の真下まで直結してる。父さんが囚われているなら、ちょうどいいわ」


「今は使われていないのか?」

 ゼノリスの問いに、ナディアは頷く。

「入口は完全に封鎖されてる。この羅針盤と、星詠みの魔力がないと開かない仕組みなの」


 四人は顔を見合わせた。言葉は多く必要なかった。

 目的は決まった。海を汚す毒の元凶を絶ち、ナディアの父親を救い出す。


 夜の闇に紛れ、彼らは港を後にした。

 向かったのは、人気の途絶えた旧市街の裏路地。苔むした石壁が続く一番奥に、古びた鉄の扉がひっそりとはめ込まれていた。


 ナディアが扉の前に立ち、羅針盤をかざす。

 かすかな魔力を流し込むと、羅針盤の針が回転を始め、やがてカチリと澄んだ音を立てて止まった。それに呼応するように、鉄の扉の奥で重い歯車が噛み合う音が響く。

 ゆっくりと扉が開いた。

 冷たく、古い空気の匂いが漏れ出してくる。そこは、かつてルサルカが星と海を崇めていた時代の名残――『星詠みの地下迷宮』の入り口だった。

「行こう」

 ゼノリスが先頭に立ち、暗い水路の中へ足を踏み入れる。テオとフィリーネ、そしてナディアがそれに続いた。

 扉が静かに閉まり、四人の姿はルサルカの夜から完全に消えた。


 水路の中は、足首が浸かる程度の水が流れていた。

 完全な暗闇ではなく、壁面に群生する微小な苔が、星屑のような淡い光を放っている。水音と足音だけが、石造りの通路に反響していた。


「迷路みたいだね。道はわかるの?」

 テオが周囲を見回しながら尋ねる。

「ええ。羅針盤が正しい方角を指してくれるわ」

 先を歩くナディアが、手元の羅針盤の光を頼りに分岐を迷いなく進んでいく。


「古い水路ね。街の地下水脈とは全く別の構造になっているわ」

 壁の石積みを観察しながら、フィリーネが呟いた。

「数百年前に使われなくなった旧神殿の跡地よ。今の王宮は、その上に建てられたの。星詠みの一族は、万が一の時のためにこの道を隠し通してきた」

 ナディアの横顔は、淡い苔の光に照らされて静かだった。


 迷宮は深く、入り組んでいた。

 崩れかけた石橋を渡り、巨大な貯水池の縁を歩く。苔の放つ光は、場所によって青みを帯びたり、翠緑に変わったりと、不規則な変化を見せていた。それはまるで、遠い昔に失われたルサルカの本当の姿を映し出しているかのようだった。


「静かだな」

 ゼノリスが前方を睨んだまま呟く。

「ええ。宰相の兵も、ここまでは入り込めないはず」

「いや、そうじゃない」

 ゼノリスは足を止め、剣の柄に手をかけた。「何かがいる」


 その言葉と同時に、前方から低い水音が響いた。

 苔の光が届かない暗がりから、ゆっくりと姿を現したのは、鈍い銀色に輝く異形の群れだった。

 人間の姿をしてはいるが、その表面は硬質な金属で覆われ、顔には目も鼻もない。ただ、エテルナの地下で見た『這い寄る鉛糸』と同じ、おぞましい魔力を全身から放っていた。


「……鉛糸の兵士か」

 ゼノリスが剣を抜く。

「まさか、王宮の地下まで奴らが……!」

 ナディアが短剣を構え、テオとフィリーネも戦闘態勢に入る。


 鉛糸の兵士たちは、感情のない動きで四人に向かって突進してきた。

 港での暗殺者たちとは異なり、彼らは痛みも恐怖も感じない純粋な殺戮人形だった。


「フィリーネ、足を止めろ!」

「はい!」

 フィリーネの魔法が発動し、前方の水路が一瞬にして氷結する。滑って体勢を崩した兵士たちに、ゼノリスとテオが斬り込む。


 だが、倒しても倒しても、暗がりからは次々と新たな兵士が現れた。

「キリがないわ!」

 ナディアが水流の刃を放ちながら叫ぶ。

「突破するしかない。ナディア、羅針盤で最短ルートを探せ!」

「わかった!」


 ゼノリスの指示に従い、四人は水路を駆け抜けながらの戦闘を余儀なくされた。

 狭い通路での乱戦。テオの盾が敵の攻撃を弾き、その隙にゼノリスが剣を振り下ろす。フィリーネが魔法で後方を牽制し、ナディアが羅針盤の光を頼りに先を急ぐ。


 疲労が蓄積し、息が上がり始める。

 それでも、彼らは止まらなかった。ルサルカの海を救うため、そして囚われた父親を助け出すため。


 やがて、前方の暗闇の先に、ぼんやりとした光が見えてきた。

「あそこよ! 王宮の地下牢に繋がる階段!」

 ナディアの声に、三人は最後の力を振り絞って走り出す。


 背後に迫る鉛糸の兵士たちをフィリーネの大規模な氷結魔法で足止めし、四人は石階段を駆け上がった。

 階段の先には、重厚な鉄格子が嵌め込まれた扉があった。ナディアが羅針盤を翳すと、カチリと音がして扉の鍵が開く。


 扉を押し開け、四人は王宮の地下牢へと転がり込んだ。

 冷たい石の床に倒れ込み、荒い息を吐く。


「……なんとか、辿り着いたな」

 ゼノリスが剣を収め、周囲を見回す。

 そこは、先ほどの水路とは全く異なる、無機質で冷たい空間だった。壁には松明が灯され、鉄格子で仕切られた牢屋がいくつも並んでいる。


「父さん……!」

 ナディアは立ち上がり、牢屋の中を覗き込みながら走り出した。

 ゼノリスたちも後に続く。


 そして、最奥の牢屋の前に立った時、彼らは息を呑んだ。

 そこには、鎖に繋がれ、力なく壁にもたれかかる初老の男の姿があった。その表情は憔悴しきっていたが、ナディアの顔を見ると、わずかに目を見開いた。


「ナディア……お前、なぜここに……」

「父さん!」

 ナディアは鉄格子に取りすがり、声を震わせた。


 ついに、星詠みの父親との再会を果たした。

 だが、安心するのはまだ早かった。地下牢の静寂を破るように、背後からゆっくりとした拍手の音が響いた。


「素晴らしい。まさか星詠みの残党が、自らここまでやって来るとは」


 振り返ると、そこには冷酷な笑みを浮かべた宰相ザルクが立っていた。

 彼の背後には、エテルナで見たのと同じ、不気味な銀色の魔力が渦巻いている。


「ザルク……ッ!」

ナディアが憎悪を込めて叫ぶ。

その名を聞き、ゼノリスは再び剣を抜いた。


「港に放った私兵どもが戻らないと思えば、ずいぶんと優秀な護衛を雇ったものだ。だが、わざわざ私の足元へ入り込んでくるとは愚かな」

宰相ザルクは、ナディアの怒声にも一切の動揺を見せなかった。まるで靴の裏についた泥でも見るような、冷ややかな視線を四人に向けている。


「父さんを……星詠みの一族をよくもコケにしてくれたわね! あの気味の悪い鉄の塔でルサルカの海を汚して、一体何を企んでいるの!」

ナディアが腰の羅針盤を握りしめ、鋭く問い詰める。一触即発の空気が地下牢に張り詰めた。


ザルクは薄く笑った。

「汚している? 違うな。私はこの海を、そしてこの国を『進化』させているのだよ。不確かな星の光などにすがり、ただ祈るしか能のない時代遅れの呪術師には理解できまいがね」


「進化だと……? 命を狂わせる毒を撒き散らすことがか」

ゼノリスが低い声で言い放つ。エテルナの地下で見たおぞましい光景、そして命を落としたライラの顔が脳裏をよぎる。


「ああ、そうだ。古い秩序は一度壊さねばならない。……まずは、その目障りなネズミどもから片付けてやろう」

ザルクが指を鳴らすと、彼の背後に渦巻いていた灰色の魔力が一気に膨れ上がった。

ドロドロとした『這い寄る鉛糸リードストリング』が床を這い、互いに絡み合いながら、瞬く間に巨大な四つんばいの獣の形を作り上げる。


グルルル……。

目も鼻もない金属質の顔から、耳障りな低周波の唸り声が響いた。


「行かせるもんか!」

テオが即座に前へ出る。獣人としての本能を解放し、全身の筋肉を鋼鉄のように硬化させた。

鉛糸の獣が床を蹴り、凄まじい速度で突進してくる。テオは両足でしっかりと石畳を踏み締め、大盾を正面に構えてその一撃を受け止めた。


ガァァン! という重い衝突音が地下牢に響き渡る。

「くっ……! 重い……ただの魔法じゃない、中に何かが詰まってるみたいだ……!」

テオの靴底が石畳を削りながら数歩後退する。獣の表面から這い出た鉛糸が、盾を越えてテオの腕に絡みつこうと蠢いた。


「テオ、そのまま耐えてください!」

背後からフィリーネの澄んだ声が飛ぶ。彼女が杖を振り抜くと、石の床を突き破って黄金の茨が無数に現れた。

茨は盾に押し勝とうとする獣の四肢に勢いよく巻きつき、その動きを強引に縫い留める。


「今だ、ゼノリス!」

「ああ。……君の不協和音は、ここで終わらせる」

ゼノリスが地を蹴った。

右手の『三つ目の星』の刻印が熱を帯び、黄金と闇のオッドアイが獣の急所を的確に捉える。黒い剣に火と風の魔力を纏わせ、鉛糸の魔力波長に無理やり同調させる『調律チューニング』の力を刃に乗せた。


ゼノリスは跳躍し、茨に拘束された獣の眉間めがけて、剣を深く突き立てた。

キィィィン……!

澄んだ音叉のような響きが空間を震わせる。

次の瞬間、獣を構成していた鉛糸が悲鳴のような音を立てて硬直し、細かい灰色の砂となってボロボロと崩れ落ちた。


「……何?」

初めて、ザルクの余裕に満ちた顔に驚愕の色が浮かんだ。絶対的な支配力を持つはずの鉛糸が、たった一撃で完全に無力化されたのだ。

彼の視線は、ゼノリスの右手と、その後方で純度の高い魔力を放ち続けているフィリーネへと注がれた。


「ほう……なるほど。報告にあった、エテルナの地下施設を破壊したというイレギュラーはお前たちか。そして、その純白の魔力と銀色の髪。……まさか、マリエーヌ大公妃殿下が血眼になって探しておられる『星の種』が、向こうから現れるとはな」

ザルクの瞳に、歪な欲望の光が宿る。


「捕らえれば殿下もお喜びになられるだろうが……生憎、私には私の『儀式』の予定があってね。ここで相手をしている暇はない」

ザルクは懐から黒い水晶玉を取り出すと、一切の躊躇なくそれを足元の石畳に叩きつけた。


パァン!と水晶が割れた瞬間、地下牢の壁のあちこちに巨大な亀裂が走った。

「なっ……!?」

壁が崩れ、そこから大量の『灰色の水』が濁流となって一気に流れ込んでくる。港の鉄塔から海へ垂れ流されていたものと同じ、命を狂わせる毒の水だ。


「大人しく、その老いぼれと共に泥水の中で溺れ死ぬがいい」

冷酷な言葉を残し、ザルクの体は黒い影に包まれて空間からかき消えた。あらかじめ用意していた転移魔法による逃亡だった。


「くそっ、逃げられた!ナディア、お父さんを頼む!」

ゼノリスが風魔法を放ち、迫り来る濁流を一時的に押し留めながら叫ぶ。


「わかってる! ……私の海を汚した挙句、水責めなんて……本当にいい度胸してるわね、あの野郎!」

ナディアは倒れ込んでいる父親をテオの背中に預けると、両手を大きく広げた。彼女の腰で『黄金の羅針盤』が激しく輝きを放つ。


「ルサルカの海流を、私に逆らわせるんじゃないわよ! 退きなさいッ!」

ナディアが両腕を振り払うと、彼女の魔力に呼応して灰色の濁流が左右に真っ二つに割れた。四人の周囲に、目に見えない壁で覆われたような安全な空間が生まれる。


「すごい……水が避けていく」

「感心してる場合じゃないわ、長くは持たない!早く水路の入り口まで走って!」

ナディアの叫びに弾かれ、テオが大星詠みを背負って駆け出す。ゼノリスとフィリーネが後方から崩れてくる瓦礫を魔法で弾き飛ばし、一行は濁流に飲み込まれる寸前で、迷宮の階段へと逃げ込んだのだった。



ルサルカ旧市街、没落した星詠みの屋敷。

夜明け前の静寂に包まれた応接室のソファに、衰弱しきった大星詠みが横たわっていた。


テオが持っていた回復薬草を煎じて飲ませ、フィリーネが丁寧に治癒魔法を施したことで、浅かった呼吸は落ち着き、顔には少しずつ血色が戻りつつあった。


「……すまない、ナディア。そして、見知らぬ若者たちよ。命を救われた」

大星詠みがゆっくりと目を開け、掠れた声で礼を言った。


ナディアは泣きそうな顔を必死に隠し、父親のしわがれた手を両手で強く握りしめた。

「馬鹿言わないでよ。生きててくれて、本当によかった……。ひどい目に遭わされたわね」


「私が捕まったことなど些細なことだ。……それよりも、時間が……」

大星詠みは身を起こそうとして咳き込んだ。テオが慌てて背中をさする。


「無理をしないでください。まだ体が毒の影響から抜けきっていません」

「いや、話さねばならん。君たちは、あの恐ろしい魔力の正体を知っているようだったな」


「ええ。僕たちはエテルナで、あの『這い寄る鉛糸』と戦いました。あれが古代の兵器を動かすための寄生体だということも知っています」

ゼノリスが真っ直ぐに大星詠みの目を見て言った。

「お父様。ザルクという男……彼がルサルカの海に設置したあの『魔導浄水塔』は、一体何が目的なのですか? あれはただ海を汚染して、魚を狂わせるだけのものではないはずです」


大星詠みは重く、苦しげなため息をついた。

「……気づいていたか。お主の言う通りだ。あの塔の真の目的は、海全体に毒を撒くことではない。塔を通じて、あの『銀色の悪意』を海底の深層流に乗せ、ある一点へと集束させているのだ」


「一点、ですか?」

フィリーネが問い返す。


「ルサルカの海底深く、古より我が国を守護してきたとされる存在……『海神リヴァイアサンの座所』だ」

その言葉に、ナディアが息を呑んだ。


「海神って……ただのおとぎ話じゃないの!? 建国神話に出てくる、国を嵐から守ったっていう巨大な海竜のことでしょう?」

「いや、おとぎ話ではない。実在するのだよ。古の時代から、ルサルカの深海で眠りにつき、この近海の魔流を安定させてきた巨大な神獣だ。我々星詠みの一族は、代々その存在を星の導きによって確認し、海を荒らさぬよう祈りを捧げてきた」


大星詠みはソファの肘掛けを強く握りしめた。

「……ザルクは、街中の塔から流し込んだ鉛糸を海神の体内へ寄生させようとしているのだ。あの強大な力を持つ神獣を、自らの操り人形にするためにな」


その事実に、四人の間に冷たい沈黙が落ちた。

もし、そんな強大な力を持つ巨大な神獣が鉛糸に乗っ取られ、暴走状態に陥ればどうなるか。


「そんな……。もし海神が操られたら、ルサルカの街はどうなってしまうんですか?」

テオが青ざめた顔で尋ねる。


「街一つで済む話ではない。海流が完全に狂い、近隣諸国をも巻き込む大津波が起きるだろう。ザルクはそれを脅威として使い、八ヵ国連合の中で絶対的な権力を握るつもりなのだ」


「何てことを……。自分の権力のために、ルサルカの海も人も、全部沈める気なの……」

ナディアがギリッと奥歯を鳴らす。


「止めなきゃいけません。でも、海神が海底深くの『座所』にいるのなら、私たちだけで探し出して浄化するのは困難です」

フィリーネが冷静に状況を分析する。


「そうだ。まずは、あの塔をすぐに止めさせる必要がある。……この国の頂点に立つ方に、ザルクの裏切りと事の重大さを知らせるのが一番早い」

ゼノリスの言葉に、ナディアが勢いよく立ち上がった。


「マリエーヌ大公妃ね。……彼女はザルクを信用しきっているけれど、星詠みの権威を捨てたわけじゃない。私が直接乗り込んで、事実を突きつけてやるわ」


「でも、ナディアのお父さんが罪人として捕まっていた以上、正面から行っても門前払いされるんじゃ……」

テオが心配そうに言うと、ナディアはフッと不敵な笑みを浮かべた。


「没落したとはいえ、私はルサルカの星詠みの正統後継者よ。それに、私たちには最高のお土産があるじゃない。……大公妃殿下が喉から手が出るほど欲しがっている、『星の種』という名のね」


ナディアの視線を受け、フィリーネは静かに頷いた。

「私をダシに使うということですね。構いません。ルサルカの海を、これ以上あの悪意に汚させるわけにはいきませんから」


夜が明けようとしていた。

窓の外、広大なルサルカの海が朝陽に照らされ始めている。だがその奥深くでは、巨大な神獣が鉛糸の毒に侵され、静かに悲鳴を上げているのだ。


ゼノリスたち四人は、敵の懐である王宮の玉座へと真正面から乗り込む決意を固めた。

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