第26章:星降る入江の再会と没落の家
ルサルカの朝は、海鳥の甲高い鳴き声と、石畳を洗う潮風の匂いとともに始まる。
だが、ゼノリスたちがライラの母親と共に街の外縁部へ向かう道中は、重く沈痛な空気に包まれていた。
白亜の王宮や華やかな運河が交差する中央区から離れるにつれ、街の風景は荒々しい自然の姿へと変わっていく。切り立った崖を縫うように続く細い獣道を、一時間ほど歩いただろうか。やがて視界が急に開け、息を呑むような絶景が一行の眼下に広がった。
「ここが……『星降る入江』……」
フィリーネが感嘆の声を漏らす。
そこは、周囲を巨大な白い岩壁に囲まれた、半月型の静かな入江だった。外洋の荒波は岩壁に阻まれて届かず、水面はまるで磨き上げられた巨大な鏡のように穏やかだ。
昇り始めたばかりの朝陽が、その水面に対して斜めから光を差し込んでいる。波一つない水面に反射した光の粒子が、まるで無数の星々が海の中に降り注いでいるかのように、キラキラと幻惑的な輝きを放っていた。
ルサルカの喧騒や、街中に建ち並んでいたあの不気味な黒い鉄の塔の気配すら届かない、神聖な静寂だけがここにはあった。
「……ええ。ここは、ルサルカで一番水が澄んでいて……一番、星空が綺麗に見える場所なんです。あの子が小さかった頃、よくこの入江の岩場に座って、竪琴を弾きながら歌の練習をしていましたっけ……」
母親が、懐かしむように目を細めながらポツリとこぼした。その手には、ライラの遺灰が納められた銀の骨壺が、胸に抱きしめるようにして大切に握られている。
ゼノリスは、波打ち際まで続く白い砂浜をゆっくりと歩きながら、静かな海を見つめた。
エテルナの宿屋のテラスで、視力を失いながらも最期に彼女が見た「一番綺麗な海」の幻影。それはきっと、この星降る入江の景色だったに違いない。
「お母さん。足元、気をつけてくださいね」
テオが、いつもの温厚で気遣いに満ちた声で、母親の腕をそっと支えながら波打ち際へと導く。
波の音は「さぁぁっ」と、まるで絹が擦れ合うような静かで優しい音を立てていた。
「ゼノリスさん。……どうか、お願いできますか」
波打ち際に立った母親は、震える手で銀の骨壺をゼノリスへと差し出した。自分では、愛娘の魂をこの手から手放す勇気が出ないのだ。
ゼノリスは深く一礼し、両手で恭しく骨壺を受け取った。その銀色の表面には、ゼノリス自身の右目と同じ、黄金色の朝陽が反射して輝いている。
「……着いたよ、ライラさん」
ゼノリスは、寄せては返す波音に語りかけるように、静かに口を開いた。
「君が言っていた通りだ。本当に、星が降っているみたいに綺麗な海だよ」
胸の奥から込み上げてくる熱いものを必死に堪えながら、ゼノリスは銀の骨壺をそっと抱きしめた。
「君の歌を、もっと聞いていたかった。……悔しいよ。君の命を蝕むものから、君を庇ってやれなかった。僕の剣じゃ、君を救えなかった」
それは、彼がエテルナの地下からずっと一人で抱え込んでいた、血を吐くような無力感だった。
「でも……君が最期に震える手で遺してくれた言葉が、僕たちを暗闇から導いてくれたんだ。エテルナの街が明日を迎えられたのは、君の歌があったからだよ」
ゼノリスは骨壺の蓋をゆっくりと開けた。
中には、真っ白な粉雪のような遺灰が静かに眠っている。
「ありがとう、ライラさん。……もう痛くないし、苦しくもないから。君の大好きな、一番綺麗な海で……ゆっくり休んで」
彼は骨壺を胸の高さまで持ち上げ、そして、波が引いていく瞬間に合わせて、その遺灰をそっと海風に乗せるようにして放った。
サラァァァッ……。
白く細かい灰は、朝陽の光を浴びて一瞬だけ真珠のように輝き、そして穏やかな波間に吸い込まれていく。
それは悲劇的な別れではなく、長く苦しい旅を終えた魂が、ようやく本来あるべき場所へと還っていくような、ひどく美しく、厳かな光景だった。
水面に落ちた灰は、海流に乗ってゆっくりと沖へ、さらに深い青の彼方へと溶け込んでいく。
「……ライラさん」
テオが両手で顔を覆い、しゃくり上げるようにして泣いた。同じように寄生体の被害に遭いながら、自分は一命を取り留め、彼女は命を落としたという残酷な対比は、心優しい彼にとってあまりにも痛ましく、己の盾の無力さを突きつけられる出来事だった。
フィリーネもまた、両手を胸の前で組み、目を閉じて深く祈りを捧げていた。彼女の銀糸の髪が海風に揺れる。彼女の強い癒しの魔力をもってしても命を繋ぎ止められなかったという悔恨は、彼女の心の奥底で、次なる戦いの決意へと変わっていた。
「あぁ……ライラ……。おかえりなさい……」
母親は砂浜に膝をつき、娘が溶けていった海面に向かって、何度も何度も頭を下げて泣き崩れた。
ゼノリスは空になった骨壺を抱え直し、その光景をただ静かに見守り続けた。
彼の右手に刻まれた三つ目の星の火傷跡が、チリッと微かな熱を帯びる。それは、理不尽な悪意に命を奪われた少女の無念と、その悪意をばら撒く元凶を必ず断ち切るという、魔王と勇者の脈動が交じり合った静かな怒りの現れであった。
この美しく広大な海のどこかに、あの『銀色の悪意』が根を張ろうとしている。
ならば、自分がこの海を蝕む悪意を、根こそぎ焼き尽くしてやる。
(約束するよ、ライラさん。君が愛したこの海は……僕たちが必ず守り抜く)
遺灰が完全に海に溶け、母親の涙が枯れるまで、ゼノリスたちはその入江の砂浜に立ち尽くしていた。
日が昇りきり、ルサルカの街が本格的な喧騒に包まれ始める頃。
入江でライラの母親と別れたゼノリスたちは、宿を取るために市街地へと続く小高い石畳の道を歩いていた。
母親は最後に「皆様の旅路に、星の導きがあらんことを」と、ルサルカ特有の祈りの言葉を残して、深く頭を下げて去っていった。その顔には、深い悲しみとともに、静かな安らぎが浮かんでいた。
「……ライラさんのお母さん、少しだけ笑ってくれたね」
テオが赤く腫れた目をこすりながら、少しだけホッとしたように呟く。
「ええ。あの方の心の中で、ライラさんがこれからも美しい思い出として生き続けることを祈りましょう」
フィリーネが優しく応えながら、ゼノリスの隣を歩く。
しかし、彼女の視線はすぐに、街のあちこちに無遠慮に突き立っている黒い鉄の塔――『新型魔導浄水塔』へと向けられ、その青い瞳に冷ややかな光を宿した。
「……それにしても、お兄様。このルサルカの街の空気、どうにも不自然だと思いませんか?」
「不自然? あの鉄の塔のこと?」
ゼノリスが問い返すと、フィリーネは周囲に他人の耳がないことを確認し、声を潜めて語り始めた。
「ええ。……お兄様は覚えていますか? 数ヶ月前、学園の卒業式の日に、各国の王たちが私たちを値踏みするように見下ろしていたあの時のことを」
「忘れるわけがない。ヴァルガルド王の殺気も、バルトロの胡散臭い笑顔もね。……ルサルカのマリエーヌ大公妃もいたな」
「はい。そのマリエーヌ大公妃の視線です。あの時、彼女は私を見て、明確な独占欲を隠そうともしていませんでした。彼女にとって、帝国の血を引く私は、ルサルカの『星読みの権威』を絶対的なものにするための『聖女』として、何としても手に入れたい最高の駒だったはずです」
フィリーネの言葉に、ゼノリスも当時の記憶を呼び起こす。
扇で口元を隠しながら、氷のような瞳でこちらを見下ろしていた美貌の大公妃。確かに彼女の視線は、ゼノリスよりもフィリーネに強く向けられていた。
「大公妃が星読みの権威を重んじ、それを完成させるために私を欲している。……だとしたら、現在のこのルサルカの惨状はあまりにも矛盾しています」
フィリーネは、黒煙を吐き出す無骨な塔を指差した。
「星の導きや自然の魔流を尊ぶ『星詠み』の思想と、あの力ずくで海水を濾過しようとする機械的な魔導塔は、相反するものです。街の住人たちも、星に祈るどころか、あの塔の顔色を窺うようにして怯えて暮らしている。……これではまるで、大公妃が信奉していたはずの『星詠み』の権威そのものが、この国から排斥されてしまっているように見えます」
フィリーネの理路整然とした分析に、ゼノリスは深く頷いた。
彼女の言う通りだ。船員たちの噂でも、あの塔を建てたのは「お偉方」だと言っていた。星詠みを至上のものとしていたはずの大公妃が、なぜ突然、真逆の性質を持つ鉄の塔に国の命運を預けたのか。
「……王宮の中で、何かが起きている。」
ゼノリスが右手の刻印を無意識に押さえた、その時だった。
「――っざけんじゃないわよ! あんたたちみたいな雑魚が、私の海で粋がってんじゃないわよ!!」
突如、前方の入り組んだ路地裏から、威勢の良い、そしてどこかで聞き覚えのある女性の怒声が響き渡った。
ドガァァァン! という激しい水音とともに、数人の男たちの悲鳴が連続して上がる。
「なんだ!?」
テオが咄嗟に前に出て、ゼノリスとフィリーネを背中で庇うように構える。
三人が足音を忍ばせて路地裏の角を曲がると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
薄暗い石畳の路地に、黒ずくめのローブを着た柄の悪い男たちが五、六人、全身をずぶ濡れにして呻きながら転がっている。
その中心に立っていたのは、海風をそのまま形にしたような、鮮やかな青い髪と小麦色の肌を持つ女性だった。
彼女はルサルカの伝統的な、胸元と太ももが大胆に開いた踊り子のような衣装を纏い、その右手には海水を高圧で圧縮して作り出した「水の鞭」をピシッと鳴らしていた。
腰には、彼女のトレードマークである金細工の美しい羅針盤が揺れている。
「な、舐めやがって……! 没落した『星詠み』の娘の分際で、宰相閣下のやり方に逆らうとどうなるか……!」
地面に這いつくばった男の一人が、懐から毒の塗られた短剣を抜き出し、背後から彼女に襲いかかろうとした。
「危ない!」
ゼノリスが飛び出そうと足に魔力を込めた瞬間。
女性は振り返りもせず、しなやかな体術で男の腕を水の鞭で絡め取り、そのまま背負い投げの要領で石畳に叩きつけた。ゴッ、という鈍い音がして、男は白目を剥いて完全に気絶した。
「ふん。宰相閣下だかなんだか知らないけど、私の羅針盤は『こんなクズ共に媚びるな』って言ってんのよ。……さっさと失せな! 次来たら、あんたたちの肺の中に直接海水を満たしてやるわよ!」
彼女が水の鞭を振り上げると、残っていた男たちは「ひ、ひぃぃっ! おぼえてろよ!」と捨て台詞を吐きながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「はぁ、全く。朝から面倒な連中に絡まれたわね。……せっかくの潮風が鉄臭くなっちゃったじゃない」
女性は水の鞭を空中に霧散させると、腰に手を当てて大きくため息をついた。
その勝ち気で奔放な立ち姿。そして何より、あの自信に満ちた姉御肌な物言い。
見間違えるはずがなかった。
「……ナディア?」
ゼノリスが信じられない思いで声をかけると、女性は肩をビクッと揺らし、勢いよく振り返った。
青い瞳が丸く見開かれ、そして次の瞬間、花が咲くような満面の、そして不敵な笑みがその顔に広がった。
「あら! どこかで聞いた声だと思ったら……久しぶりじゃない、ゼノリス! それにフィリーネと、相変わらずデカいテオも!」
かつての学園の悪友であり、「鉛の騎士団」の航海士として共に死線を潜り抜けた仲間、ナディアだった。
「ナディア! 本当にナディアじゃないか! どうしてこんな路地裏で立ち回りを……」
ゼノリスが駆け寄ると、ナディアは気さくにゼノリスの背中をバンバンと力強く叩いた。
「どうしてって、ここは私の故郷よ? ルサルカの海を愛するこの私が、この街にいるのは当然じゃない!……あんたたちこそ、卒業式のあのドサクサからどうやって逃げ延びたのよ? 私はリィンやガイルたちと一緒に、適当なところでバラバラに逃げて、なんとか実家まで戻ってきたところだったんだけど」
「僕たちはエテルナに潜伏していたんだ。でも、そこで色々とあって……追うべき真実を見つけて、この街へ来た」
ゼノリスが答えると、ナディアは悪戯っぽく口角を上げた。
「へぇ。相変わらず、厄介事を引き寄せる星の元に生まれてるみたいね、あんたは。……でも、無事でよかったわ! あの卒業式でバラバラになった時から、私の『黄金の羅針盤』は、いつかまたあんたたちと海の上で再会するって、ずっと指し示していたのよ」
ナディアは腰の羅針盤を誇らしげに見せびらかす。その明るく豪快なペースに巻き込まれ、ゼノリスたちを包んでいた重く沈痛な空気が、まるで彼女の放つ潮風に吹き飛ばされたように少しだけ軽くなった。
「ナディア、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
フィリーネが淑やかに微笑んで一礼する。
「ちょっと、フィリーネ! あんた、この数ヶ月でまた綺麗になったんじゃない!? 全く、こんな可愛い妹を連れ歩いてるなんて、ゼノリスも罪な男よねぇ」
ナディアはケラケラと笑いながら、フィリーネの銀髪を無遠慮に撫で回す。フィリーネも満更ではない様子で、少しだけ照れくさそうに目を細めた。
「でも、ナディア。さっきの男たち……『宰相閣下』とか『没落』とか言ってたけど、一体何があったの?」
テオが心配そうに尋ねると、ナディアの笑顔がスッと消え、その青い瞳に冷たく、そして深い怒りの色が宿った。
「……気づいてるんでしょ? この街の空気が、昔の美しい水の都じゃなくなってることに。至る所に建ってる、あの気味の悪い鉄の塔のせいでね」
ナディアは、路地裏の隙間から見える巨大な魔導浄水塔を、憎々しげに睨みつけた。
「さっきの連中が言ってた通りよ。かつてはこのルサルカの海運と祭祀を任されていた私の実家……由緒正しき『星詠みの一族』はね、今やあの鉄の塔を崇める新興の宰相の陰謀で、完全に政治的な立場を奪われて、没落させられたのよ」
ナディアの言葉に、ゼノリスとフィリーネは顔を見合わせた。
先ほどのフィリーネの推測が、最悪の形で裏付けられた瞬間だった。
「詳しい話は、こんな立ち話でするようなことじゃないわね。……ねえ、私の家に来ない? どうせまだ宿も決めてないんでしょ。久しぶりの再会なんだから、船長として、極上の魚料理をご馳走させてよ!」
ナディアは強気な笑みを取り戻し、「ついてきて!」と指を鳴らして歩き出した。
ゼノリスは、彼女の背中を追いかけながら、右手の刻印を静かに握りしめた。
没落させられた星詠みの一族。海を汚染する鉄の塔。そして、大公妃の思惑と宰相の暗躍。
点と点が繋がり、ルサルカを覆う巨大な陰謀の姿が、今まさにその輪郭を現そうとしていた。
白亜の美しい王宮がそびえる中央区から、運河をいくつか越えた先。
ルサルカの旧市街と呼ばれるその一角は、華やかな表通りとは打って変わり、どこか時間が止まったような静寂と、うらぶれた空気に包まれていた。
ナディアに案内されて辿り着いたのは、旧市街の小高い丘の上に建つ、広大な敷地を持つ屋敷だった。
「ここが……ナディアの家?」
テオが、錆びついた巨大な鉄の門を見上げながら、信じられないというように目を瞬かせた。
かつてはルサルカの海運と祭祀を司る「星詠みの宗家」として栄華を極めたであろうその屋敷は、今や見る影もなく荒れ果てていた。庭の木々は手入れされずに伸び放題となり、白亜の壁にはひびが入り、蔦が這い回っている。屋敷の頂部にある、星を観測するための巨大なガラス張りのドームも、あちこちが割れたまま放置されていた。
「そうよ。ひどい有様でしょ?数ヶ月前までは、国の重鎮や商人たちがひっきりなしに出入りして、庭には綺麗な花が咲き乱れてたんだけどね」
ナディアは自嘲気味に笑いながら、重い門をギシギシと押し開けた。
屋敷の中に案内されると、外見の荒廃ぶりに反して、生活空間だけはチリ一つなく綺麗に掃除されていた。ただ、広大な屋敷に仕えていたはずの何十人という使用人の姿はどこにもなく、しんと静まり返っている。
「適当に座ってて。今、あり合わせのもので飯を作るからさ。……ほらテオ、船酔いで胃が空っぽになってるんでしょ。温かいスープにするから待っててね」
「ありがとう、ナディア。手伝うよ」
「私も手伝うわ、ナディア。お兄様はお座りになっていてくださいな」
テオとフィリーネが上着を脱いで厨房へと向かう。ナディアは「お客さんが何言ってんのよ」と笑いながらも、二人の好意を嬉しそうに受け入れた。
ゼノリスは、案内された応接室の古びたソファに腰を下ろし、部屋の壁に掛けられた巨大な星図や、埃を被った羅針盤のコレクションを静かに見渡した。どれも一級品だが、主の不在を嘆くようにひっそりと息を潜めている。
しばらくして、厨房から食欲をそそる磯の香りが漂ってきた。
大きな木製のテーブルに並べられたのは、ルサルカ近海で獲れた白身魚とたっぷりの香味野菜を煮込んだ豪快な漁師風のスープ、そして焼きたての黒パンだった。
「すごい……! すごく美味しいよ、ナディア。魚の出汁がしっかり出てるのに、全然臭みがない」
スープを一口飲んだテオが、目を輝かせて歓声を上げた。
「ええ、本当に。ナディアは魔法や体術だけじゃなく、お料理も得意なのね」
フィリーネも上品にスプーンを運びながら、素直な称賛を送る。
「ふふん、海の上じゃ自分で魚を捌けないと生きていけないからね。船長特製スープ、たっぷり食べて!」
ナディアは得意げに胸を張りながら、自分もスープを口に運んだ。
温かな食事が、エテルナからの過酷な旅路と、入江での悲しい弔いを終えたばかりの三人の心と体を、ゆっくりと解きほぐしていく。学園時代、夜中に厨房へ忍び込んで夜食を作ったあの頃のような、穏やかな時間がそこにはあった。
だが、皿が空になり、食後の温かいハーブティーが配られると、ナディアの表情からふっと笑みが消え、真剣な航海士の顔つきへと変わった。
「……さて。お腹も膨れたところで、本題に入ろうか」
ナディアはカップを両手で包み込みながら、静かに語り始めた。
「さっき路地裏であいつらに言われた通りよ。うちの家……星詠みの一族は、宰相ザルクの陰謀で国から排斥されたの。私の父、星詠みの長だった『大星詠み』は今、王宮の地下牢に幽閉されてるわ」
「お父様が、地下牢に……!?」
フィリーネが息を呑む。ナディアはギリッと奥歯を噛み締めた。
「事の始まりは、数ヶ月前……ちょうど私たちが学園で卒業式を迎えようとしていた頃よ。ルサルカの海で、急に魚が獲れなくなった。潮の流れが淀んで、見たこともない深海魚の死骸が浮かぶようになったの」
その言葉に、ゼノリスとテオは顔を見合わせた。エテルナの地下で『這い寄る鉛糸』が古代機甲兵を起動させ始めた時期と、ピタリと一致している。
「父さんたち星詠みは、すぐに『海が泣いている。星の軌道が乱れ、見えざる悪意が海流を汚染し始めている』とマリエーヌ大公妃殿下に報告したわ。でも、目に見えない悪意なんて言われても、その日のパンにも困り始めた漁師たちや市民には納得できなかった」
ナディアは窓の外、遠くに見える王宮の尖塔を睨みつけた。
「そこに現れたのが、新興の官僚から成り上がった宰相のザルクよ。あいつは他国から買い付けた『新型魔導浄水塔』なる怪しげな鉄の塔を街中に建て始めた。そして、塔が稼働し始めると……嘘みたいに、一時的だけど海が綺麗になって、魚が戻ってきたの」
「あの塔が……海を浄化した?」
ゼノリスが訝しげに眉をひそめると、ナディアは首を横に振った。
「そんなわけないわ。父さんは『あれは浄化なんかじゃない。海の底から命を吸い上げて、魚を操る異質な魔力を流し込んでいるだけだ』って猛反対したの。よその海域から無理やり魚をかき集めて、海が綺麗になったように市民の目を誤魔化してるだけだってね。でも、結果が出ている以上、誰も父さんの言葉なんて信じなかった。ザルクはここぞとばかりに『海が枯れたのは星詠みたちの祈りが足りないからだ。時代遅れの星詠みなど不要だ』と煽り立てたのよ」
「……それで、お父様は捕らえられたのね」
フィリーネの静かな問いに、ナディアは重く頷いた。
「ええ。『国家反逆』と『民意を惑わした罪』でね。使用人たちは散り散りに逃げ出して、屋敷は差し押さえ寸前。私は学園から逃げ帰ってきて、なんとか父さんを助け出そうと一人で嗅ぎ回ってたんだけど……ザルクの息のかかった連中に目をつけられて、さっきみたいに路地裏で絡まれる毎日ってわけ」
ナディアは悔しそうにテーブルを拳で叩いた。
ルサルカの海を愛し、星の導きを信じてきた一族にとって、力ずくで海を支配しようとする宰相のやり方は、到底許せるものではなかったはずだ。
「でも、ナディア。一つ疑問がある」
ゼノリスは、腕を組みながら口を開いた。
「マリエーヌ大公妃はどうしてそれを黙認しているんだ? 学園の卒業式で、大公妃はフィリーネを……帝国の血を引く『星の種』を手に入れて、ルサルカの星詠みの権威を絶対的なものにしようと目論んでいたはずだ。それなのに、自分の国で星詠みを排斥し、宰相の好きにさせているのは矛盾していないか?」
ゼノリスの鋭い指摘に、ナディアは深くため息をついた。
「……ゼノリスの言う通りよ。大公妃殿下は、星詠みを捨てたわけじゃない。むしろ、執着しすぎているの。彼女は今、王宮の奥深くに引きこもって、世界中から『星の聖女』の候補を集めたり、帝国の遺産を探すことに血眼になっているわ。国内の漁業の不振や、あの気味の悪い鉄の塔の管理なんか、全部宰相のザルクに丸投げしているのよ」
「なるほど……。大公妃は『本物の奇跡』さえ手に入れば、すべての問題は一瞬で解決できると盲信しているのですね」
フィリーネが冷ややかな声で分析する。
大公妃の目は、足元で苦しむ民や汚れゆく海ではなく、遥か遠くの「帝国の権威」に向けられていた。その権力の空白を突いて、宰相ザルクが国を牛耳り、あの黒い塔を乱立させたというわけだ。
「ゼノリス。さっき、あなた言ってたわよね。エテルナで『追うべき真実』を見つけたって」
ナディアは真剣な眼差しでゼノリスを見つめた。
「あんたの右手の傷……その力で、今のルサルカの海に何が起きているか、わかるの?」
ゼノリスはゆっくりと頷き、右手に巻かれた包帯をそっと撫でた。
「ああ。ルサルカの海を汚染しているのは、自然の病なんかじゃない。……『這い寄る鉛糸』と呼ばれる、古代の自律型寄生体だ」
「這い寄る……鉛糸……?」
「エテルナの地下深くに眠っていた巨大な水晶から無数に伸びて、古代の機甲兵たちに無尽蔵のエネルギーを与え、暴走させていた『銀色の悪意』の正体だ。それは人間の体内にも寄生し、魔力を吸い尽くして命を奪う」
ゼノリスの脳裏に、入江で海に還したばかりのライラの笑顔がよぎる。
「今日、街を歩いていて確信に近いものを感じたんだ。あの宰相が建てた『新型魔導浄水塔』……あれは海を綺麗にしているんじゃない。おそらく、エテルナの地下に巣食っていた『鉛糸』と同じ気味の悪い魔力を、あの塔から海全体に撒き散らしているんだ」
「なんですって……!?」
ナディアがガタッと音を立てて立ち上がった。
「じゃあ、あの塔は海の水を吸い上げてるんじゃなくて、その『鉛糸』ってやつを海に流し込んでるって言うの!?」
「おそらくね」ゼノリスは険しい顔で頷いた。「宰相ザルクが、自覚してやっているのか、それとも誰かに操られているのかはわからない。だが、このままあの塔を放置すれば、ルサルカの海は完全に『鉛糸』に支配される。海流に乗って、世界中の海が銀色の悪意に染まるかもしれない」
沈黙が、古い応接室に重くのしかかった。
ナディアの父親が感じ取っていた「海が泣いている」という警告は、正しかったのだ。星詠みの一族は、海に迫る真の危機に気づいたからこそ、宰相の陰謀によって口封じのために没落させられた。
「……許せない」
ナディアが、震える声で呟いた。彼女の両拳が、血が滲むほどに強く握りしめられている。
「私の海を……ルサルカの綺麗な海を、得体の知れない銀色のバケモノの餌にするなんて。そんなことのために父さんを地下牢にぶち込んで、一族をコケにしたなんて……絶対に、絶対に許さないわ!」
彼女の青い瞳に、激しい怒りと決意の炎が宿る。
その姿を見たテオが、いつもの温厚な顔に、かつて地下で仲間を守った時と同じ、強い戦士の光を浮かべて立ち上がった。
「僕たちも手伝うよ、ナディア。……ライラさんが最期まで愛したこの海を、あんな真っ黒な塔に汚させるわけにはいかない。それに、エテルナの悲劇を、この国で繰り返させるわけにはいかないから」
「テオ……」
「テオの言う通りです」
フィリーネも静かに立ち上がり、ナディアの隣に並んだ。
「大公妃が私を狙っているのなら、好都合です。こちらから王宮の懐に飛び込んで、宰相の陰謀ごと、すべて白日の下に晒してやりましょう」
苦楽を共にした学園の仲間たちが、自分のために、そしてルサルカのために立ち上がってくれた。ナディアの目に、微かに熱いものが込み上げる。
ゼノリスはソファから立ち上がると、ナディアの前に歩み寄り、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「ナディア。僕たちは、すべての元凶である『銀色の悪意』を断ち切るために旅をしている。君の家を陥れ、海を汚す宰相の塔は……僕が、根こそぎ焼き尽くす」
ゼノリスの黄金と闇の双眸が、揺るぎない決意を放っている。
ナディアは少しだけ目を丸くした後、フッと悪戯っぽく、いつもの強気な笑みを浮かべた。
「……相変わらず、無茶苦茶なだね。でも、あなたがそう言うなら、百人力ね」
ナディアは腰の黄金の羅針盤を外し、ゼノリスたちに向かって高く掲げた。
「いいわ、ゼノリス!フィリーネ、テオ!この『黄金の羅針盤』を持つ航海士ナディアが、あなたたちの旅に同行するわ!王宮の地下牢から父さんを助け出して、宰相ザルクの化けの皮を引っ剥がしてやるわよ!」
「ああ。頼りにしてるよ、ナディア」
ゼノリスが微笑み、ナディアの差し出した手と力強く握手を交わす。
没落した星詠みの屋敷。埃を被った古い応接室の中で、四人の若き星たちの軌道が再び交わり、確かな反撃の狼煙が上がった。




