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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第4巻 蒼き海の鎮魂歌(レクイエム)

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第25章:エテルナの出航と星詠みの故郷

 カァン、カァン、カァン……。


朝の空気を震わせて、大聖堂の鐘が重々しく鳴り響いていた。

 岩山の要塞たるこの街の名は、「自由都市エテルナ」。

 『エテルナ』とは元来、かつて大陸の中心に栄えた旧帝国の『聖都』の名である。現在のその場所は、八ヵ国連合の権威と法に縛られた堅苦しい箱庭、「学園都市エーテルガルド」と名を変えられて久しい。

 大帝国崩壊の混乱と、新興国である八ヵ国の台頭。その歴史の激しい波の中で、権力者たちの手から逃れ、本当の自由を求めた泥臭き庶民たちがこの険しい岩山へと移り住み、密かに旧き聖都の名を受け継いで築き上げたのが、この街だった。

 過去の権威(金)ではなく、泥にまみれながらも地を這うような力強い生命力(鉛)こそが真の遺産であると証明するかのように、八ヵ国の法に縛られないこの街は、今日まで誇り高く逞しく生き抜いてきた。


 普段ならば、大聖堂の鐘の音は、運河を行き交う小船の漕ぎ手や市場に立つ商人たちに朝の訪れを告げる、この街の「生命力」を象徴する希望の音色だ。しかし今日のゼノリスたちにとっては、その荘厳な響きはひどく冷たく、胸の奥底を鈍く打つ悲しみの残響のように聞こえた。


 エテルナ中央大聖堂の地下深くにある、静かな祈りの間。

 そこには、色鮮やかなステンドグラス越しに差し込む朝陽が、光の帯となって冷たい石畳の上に落ちていた。乳白色の大理石で設えられた豪奢な祭壇。その中央には、美しい銀色の唐草模様が施された、両手で抱えられるほどの小さな骨壺が静かに置かれている。

 ライラ・ルサルカの遺灰だった。


「……ライラ、さん……」


 祭壇の最前列で、黒い喪服に身を包んだフィリーネが、両手で顔を覆って泣き崩れていた。


地下大空洞での死闘から三日。

 這い寄る鉛糸リードストリングに命を吸い尽くされた彼女の亡骸は、これ以上魔力による腐敗や異変が起きないよう、ガルドの強い権限によって速やかに火葬された。

 評議会議長ヴァルターの不審死、そして地下施設の崩落により、現在のエテルナは政治的な混乱の極みにある。本来ならば、一人の身寄りもない、しかも人体実験の被害者であった少女の葬儀など、誰も見向きもしない状況だ。

 それでも、エテルナを裏から支える豪商であるガルドが、私財とあらゆるコネクションを注ぎ込んで、この荘厳で静かな時間を作り出してくれたのだった。


「フィリー……」


 ゼノリスは、隣で小刻みに震える妹の華奢な肩を、優しく抱き寄せた。

 フィリーネはゼノリスの胸に顔を埋め、「お兄様……っ、私……っ」と声を漏らしてさらに強く泣きじゃくった。ゼノリスは何も言わず、ただ彼女の美しい銀糸の髪をゆっくりと撫で続けた。


 ゼノリス自身の瞳からは、涙は流れていなかった。

 悲しくないわけではない。胸の中には、焼けた鉛を飲み込んだような重い喪失感と、あの崩れゆく地下で不気味な嘲笑を残して消えた「銀色の悪意」に対する、静かで冷たい怒りが渦巻いている。

 右手のひらに刻まれた三つ目の星の火傷跡が、時折、脈打つように痛んだ。

 世界を焼く『魔王の脈動』と、世界を救う『勇者の脈動』。相反する二つの心臓をその身に宿すゼノリスは、自分の内側にある強大な力の無力さを、これでもかと噛み締めていた。

 巨大な古代機甲兵を粉砕する魔法剣がありながら。万物の不協和音を正す『調律』の力がありながら。

 たった一人、ただ歌うことと故郷の海を愛した少女の命を、繋ぎ止めることもできなかった。


(強くなる……。もっと。こんな理不尽な悪意から、大切なものを完全に守り抜けるくらいに)


 ゼノリスは、祭壇の上の銀色の壺を見据え、心の中で血を吐くような思いで固く誓った。


「……ライラ姉ちゃん。これ、持っていってよ」


 沈痛な静寂の中、足音を忍ばせて宿屋の息子であるルカが進み出た。

 彼は真新しい冒険者のナイフの横に、一輪の白い百合の花を不器用な手つきで添えた。その背後では、母親のマーサが黒いベール越しにハンカチで何度も目頭を押さえている。


「ルカ。……立派な冒険者になるんだよ。ライラさんが空から見ても、恥ずかしくないように」


 テオが、ルカの頭にそっと手を置いた。

 あの地下での死闘を乗り越えたテオだが、今は獣化を解き、元の温和な少年の姿に戻っている。薬草を愛する優しげな顔つきも元のままだ。

 だが、その背中は以前のただ怯えていた頃よりも、どこか広く頼もしく見えた。いざという時は自らが盾となり、大切な仲間を守り抜く――その静かな覚悟が、今の彼の奥底には確かに宿っているからだ。

 それでも、そのテオの手は小さく震え、悔しさに白く握り込まれていた。いくら物理的な防御力が高まろうと、病や寄生体といった内側からの脅威に対して、己の盾はあまりにも無力だったからだ。


「ああ、もちろんだ。……テオ兄ちゃんたちも、気をつけてな。絶対に生きて帰ってこいよ」


 ルカが涙を拭いながら、背伸びをして力強く頷く。


「さて……そろそろ時間だ」


 祭壇の隅で、腕を組んで静かに祈りを捧げていたガルドが、銀細工の懐中時計を見て振り返った。彼の顔には深い疲労の色と、数日間の徹夜を思わせるくまが刻まれているが、その双眸は都市の未来を見据えるように鋭い光を宿していた。


「ゼノリス君、フィリーネ君、テオ君。……改めて、このエテルナに代わって君たちに最大の感謝を伝えたい。君たちが地下の悪夢を食い止めてくれなければ、今頃この街は機甲兵の蹂躙によって火の海だった」


「僕たちは、目の前の敵と戦っただけです。……ライラさんを、救えなかった」


 ゼノリスの絞り出すような言葉に、ガルドはゆっくりと首を横に振った。


「全ての命を救える者などいない。神でさえもな。だが、君たちは確かにこの街の明日を救ったのだ。……本来なら自由都市の名のもとに街を挙げて大々的に表彰すべきだが、地下に数千の機甲兵が眠っていたこと、そして評議会がそれを秘密裏に起動させようとした裏切りは、公にすれば周辺諸国との戦争の火種になりかねん。当面は『大規模な地下水脈の崩落による地盤沈下事故』として処理することになる。すまないな、君たちを英雄としてではなく、ただの学生としてひっそりと送り出さねばならない、大人の汚い事情を許してくれ」


「構いません。僕たちは、名誉や勲章のために戦ったわけじゃないですから」


 ゼノリスが真っ直ぐにガルドの目を見て答えると、ガルドは一瞬だけ目を丸くし、そしてひどく優しく、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……強いな、君たちは。その強さがあれば、きっと真実に辿り着けるだろう。……さあ、行こう。港に船を手配してある」


 ゼノリスは祭壇に歩み寄り、白い絹の布で包まれた銀の骨壺を、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げた。

 ひどく軽く、そして冷たい。

 だが、この中には確かに、音楽を愛し、最後まで誰を恨むこともなく「ありがとう」と微笑んで逝った、一人の少女の美しい魂が詰まっているのだ。


「行こう、ライラさん。君の海へ」


 ゼノリスの呟きに、フィリーネとテオが静かに頷いた。



自由都市エテルナの巨大な中央港。

 潮の香りと、運河から流れ込む真水が混ざり合う独特の匂いが、旅立ちの予感を駆り立てる。

 数え切れないほどの貿易船や漁船が停泊し、荷馬車や水夫たちの怒号が飛び交う活気あふれる喧騒の中、一際目を引く巨大な白い船体が、朝陽を受けて静かに揺れていた。

 八ヵ国連合の中でも最高の航海技術を持つルサルカ海洋公国へ向かう、外洋対応の大型客船『海神の息吹号』だ。


「ガルドさん、マーサさん、ルカ……それにクララさんも。何から何まで、本当にありがとうございました」


 乗船用の巨大なタラップの前で、ゼノリスは彼らに向かって深く頭を下げた。


「頭を上げてくれ、ゼノリス君。君たちがこの街のために背負ってくれたものに比べれば、私にできたことなど些末な手回しに過ぎない」


 ガルドは静かに首を横に振った。彼の出で立ちは豪商らしからぬ質素な外套であり、見送りも極力目立たないように配慮されていた。


「英雄である君たちに、このようなひっそりとした旅立ちしか用意してやれん自分が不甲斐ないよ」


「とんでもない。静かに弔いの旅に出られること、心から感謝しています」


 ゼノリスが真っ直ぐに答えると、ガルドは力強く頷いた。


「ゼノリス様……皆様」


 ガルドの後ろから、娘のクララが進み出た。彼女の両手には、銀の糸で不器用に編まれた、小さな星型の護符が握られている。

 彼女はゼノリスを真っ直ぐに見つめたが、その瞳に以前のような熱を帯びた浮ついた色はなく、ただ静かな決意と労りが込められていた。


「私、お引き止めはいたしません。……皆さんが、どれほど悲しく、重いものを背負ってこの街を去るのか、わかっていますから。せめて、この『星』の導きが、皆様の暗い夜道を照らしますように」


 クララは深く一礼し、祈りを込めて自ら編み上げたであろうその星の護符を、ゼノリスの手にそっと乗せた。そして、一歩だけ静かに後ろへ下がる。自分の手が届かない過酷な運命を往く彼らの足枷にはならないよう、自らを律する気高い身引きだった。


 あえて自らの想いを胸の奥にしまい込んだクララの覚悟。それを悟ったフィリーネは、兄を守る独占欲という名の棘をすっと納め、ひとりの少女としての静かな敬意を込めて微笑んだ。


「ありがとう、クララさん。あなたの編んでくれた星の光、私たちが迷わないよう、大切に連れて行きます」


「……ええ。皆様の行く先に、どうか良い風が吹きますように」


 二人の少女の間には、もう恋の鞘当ての火花は散っていなかった。そこにあるのは、不確かな未来へと向かう者と、それを見送る者としての、清らかで静かな連帯感だった。


「僕も、ガルドさんたちには本当にお世話になりました。マーサさんのご飯も、すごく美味しかったです……!」


 テオも、いつもの人の良さそうな笑顔を浮かべて、深くお辞儀をした。

 獣人としての本能を解放した地下での死闘を経て、彼の中には仲間を守る盾としての強い芯が確実に芽生えている。だが平時の彼は、やはり薬草を愛する心優しい少年のままだった。それでも、真っ直ぐにガルドたちを見るその瞳には、かつての気弱な少年の面影はなく、確かな自信が宿っていた。


「ああ。テオ兄ちゃんたちも、気をつけてな。元気でな!」


 ルカが涙を拭いながら、背伸びをして力強く手を振った。


 ボーーーーッ!!


 出航を告げる、腹の底に響くような重厚な汽笛が鳴り響いた。

 三人はタラップを登り、客船の最上甲板へと歩を進める。

 船乗りたちが忙しなく太いロープを解き、巨大な白い帆が海風を孕んで、パンッと音を立てて大きく膨らみ始めた。


「お兄様、船が動きますね」


 フィリーネがゼノリスの袖を軽く引き、手すりへと身を乗り出す。

 巨大な船体がゆっくりと岸壁を離れ、波を白く泡立てながら、運河から外洋へと滑り出していく。

 甲板の手すり越しに振り返ると、誇り高き自由都市エテルナの象徴である大聖堂の尖塔が、朝靄あさもやの中に少しずつ霞んで小さくなっていくのが見えた。

 港では、ガルドやクララ、マーサ、ルカたちが、船が点になって見えなくなるまで、ずっと手を振り続けてくれていた。


「……さようなら、エテルナ」


 ゼノリスは海風に髪を揺らされながらポツリと呟き、白い布に包まれた骨壺をきつく抱きしめた。

 様々な出会いと別れ、そして血を吐くような死闘を経験した街。ただの学生気分だった自分たちに、「命の奪い合い」という現実を容赦なく叩きつけてきた泥臭くも力強い街。


 だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 彼らにはまだ、世界を巡り、全ての元凶である「銀色の悪意」の正体を突き止めるという果てしない旅が待っているのだ。


「風が……ずいぶん強いね」


 テオが潮風に目を細めながら、広大な西の空を見上げた。

 どこまでも続く青い海。その水平線の彼方に、彼らの次なる目的地――水の都ルサルカがある。


 ライラの魂を故郷の海へ還すための、長く静かな航海が、今ゆっくりと始まった。



大型客船『海神の息吹号』が自由都市エテルナを出航してから、早くも三日の月日が流れていた。

 八ヵ国連合の中でも最高峰の造船技術を誇るルサルカの船だけあって、外洋の荒波を切り裂いて進むその乗り心地は、かつてゼノリスたちが学園を脱出した際の小型魔導船とは比べ物にならないほど快適なものだった。

 だが、その「快適さ」の恩恵をまったく受けられていない者が、約一名存在した。


「うぅぅ……き、気持ち悪い……。世界が、ぐるぐる回ってる……」


 船尾に用意された特別室のベッドの上で、テオが青白い顔をして毛布にくるまり、情けないうめき声を上げていた。

 獣人である彼は、常人よりも遥かに鋭敏な三半規管と嗅覚を持っている。それが災いし、外洋特有のうねりと、船底から上がってくる魔導機関の微かな重低音に当てられ、出航して半日も経たないうちに激しい船酔いで完全にダウンしてしまったのだ。

 地下の死闘で巨大な古代機甲兵の突進を真っ向から受け止めたあの雄々しい姿はどこへやら、今の彼は完全に、薬草いじりが好きな気弱で心優しい少年に戻っていた。


「テオ、無理しないでくださいね。はい、これを飲んで」


 ベッドの脇で、フィリーネがさじで丁寧に冷ました薬湯をテオの口元へと運ぶ。

 それは彼女がエテルナの市場で買い込んでおいた酔い止めの薬草に、微弱な治癒魔法を溶け込ませた特製の煎じ薬だった。


「ごめんよ、フィリーネ……。僕がみんなを守る盾にならないといけないのに……こんな、波に揺られたくらいで……うっぷ」


「ふふっ、今は波と戦う必要はありませんから。ゆっくり休んで、ルサルカに着くまでに体力を戻しておいてください。いざという時は、またテオのその大きな背中に頼らせてもらいますから」


 フィリーネが優しく微笑むと、テオは涙目で「うん……ありがとう……」と頷き、薬湯を飲み干して再び毛布の海へと深く沈み込んでいった。


 テオが静かな寝息を立て始めたのを確認すると、フィリーネは空になった椀を持って立ち上がり、そっと船室の扉を開けた。

 廊下を抜け、潮風の吹き抜ける後部甲板へと出る。そこには、手すりに寄りかかり、夜の闇に沈む広大な海を一人で見つめているゼノリスの姿があった。

 月明かりが、エテルナで新調した動きやすい旅の外套と、わずかに伸びた黒髪を淡く照らし出している。


「お兄様」


 フィリーネが背後から声をかけると、ゼノリスは振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。


「フィリー。テオの具合はどうだい?」


「お薬を飲んで眠りました。命に別状はありませんけれど、獣人の方にとって船旅は、少し過酷すぎるみたいですね」


 フィリーネはゼノリスの隣に並び立ち、夜風に銀色の髪をなびかせながら、彼と同じように果てしない水平線へと視線を向けた。

 波の音だけが、等間隔で静かに響いている。エテルナでの血みどろの激戦や、ライラとの悲しい別れが嘘のように、この海の上には圧倒的な静寂だけが存在していた。


「……広いですね、海は」


「ああ。地図の上では知っていたけれど、こうして実際に海風を受けると、世界がどれだけ途方もなく大きいか思い知らされるよ」


 ゼノリスは、右手のひらに巻かれた包帯を無意識に撫でた。

 その下には、三つ目の星の火傷跡が隠されている。世界を無に帰す「魔王」と、世界を救済する「勇者」。二つの相反する脈動を抱えるゼノリスにとって、この果てしない世界は、自分が守るべきものであり、同時に自分を脅かす巨大な敵でもあった。


「これから、僕たちはこの広い世界……八ヵ国連合のすべてを巡ることになる。学園の地下で眠っていた帝国の遺産、エテルナの地下を埋め尽くしていた鋼鉄の機甲兵、そしてあの『銀色の悪意』……這い寄る鉛糸リードストリング。世界中で起きている歪みの正体を突き止めて、元凶を断つために」


 ゼノリスの言葉に、フィリーネはわずかに目を伏せた。


「……私の血、ですね」


 海風が、彼女の沈痛な呟きをさらっていく。

 フィリーネ・ルーツ。彼女こそが、三千年前に滅びた帝国の正統な継承者、第百二十八代星帝の直系にして『星の種』と呼ばれる存在だ。

 彼女の血に流れるあまりにも純粋で絶大な魔力は、触れるだけで枯れ木に花を咲かせるほどの「生命の律動」を秘めている。だがそれは同時に、古代の破壊兵器に無尽蔵のエネルギーを与える最強の動力源にもなり得るのだ。


「八ヵ国の王たちは、口では平和を唱えながら、腹の底では他国を出し抜くための圧倒的な力を欲しています。……彼らが探し求めている帝国の遺産の中で、もっとも価値のある兵器は……他でもない、私自身です」


 フィリーネは自分の両手を胸の前で強く握りしめた。

 かつて「忘却の聖域」で守護霊オリジンから告げられた残酷な真実。彼女の存在そのものが、この世界の平和の均衡を崩す究極の火種なのだと。


「ヴェルンドの王も、これから私たちが向かうルサルカの支配者も……世界中の権力者たちが、私の血を狙っています。お兄様が私と一緒にいる限り、お兄様は世界中の国を敵に回して、果てしない戦いを強いられる。……お兄様の右手の傷がこれ以上増えるのは、私……」


「フィリー」


 ゼノリスは、自分を責めるように震える妹の肩を、力強く引き寄せた。


「僕が『忘却の聖域』で誓った約束を忘れたのか? 世界中が君を狙い、世界中が君を兵器として扱おうとするなら、僕がこの世界すべてを敵に回してでも、君を守り抜く。僕の中にいる『魔王』は、君を傷つけるあらゆるものを焼き尽くすための剣だ」


 ゼノリスのオッドアイ――黄金と闇の双眸が、月明かりの下で決意に満ちた光を放っていた。

 かつて、自分が魔王の力に呑まれる怪物かもしれないと絶望した幼き日。「にいにが怪物なら、フィリーも怪物になる」と泣き叫び、彼をこの世界に繋ぎ止めてくれたのは、他でもないフィリーネの無垢で激しい愛情だった。


「お兄様……」


「君は兵器なんかじゃない。僕の大切な妹で、一緒に温かいスープを飲んで、一緒に星を見る家族だ。君の血を狙う連中の野望は、僕がすべて叩き潰す。だから、君は何も恐れる必要はないんだ」


 ゼノリスの迷いのない言葉に、フィリーネの瞳からふわりと大粒の涙が溢れ落ちた。

 彼女はゼノリスの胸に顔を埋め、その温もりを確かめるように彼の背中に腕を回した。


「……はい。私も、お兄様の後ろに隠れているだけの妹ではありません。お兄様が世界を敵に回すなら、私はお兄様の背中を守る盾となり、道を切り開く魔法になります。……だって、私にはお兄様がいれば、この世界がどうなろうと構わないのですから」


 彼女の言葉の端ににじむ、純粋すぎるがゆえの重く歪な独占欲。ゼノリスはそれに苦笑しながらも、彼女の銀髪を優しく撫でた。

 兄妹の静かな誓いは、夜の海風に溶け込み、満天の星空へと吸い込まれていった。



 翌日の昼下がり。

 船酔いで死に体になっていたテオも、慣れからか少しだけ顔色を取り戻し、ゼノリスたちと共に甲板に出て潮風を浴びていた。

 ルサルカ海洋公国への到着は明日の朝に迫っており、船内は下船の準備をする商人や乗客たちで慌ただしい活気に満ちていた。


 だが、そんな喧騒から少し離れた船首の付近で、ゼノリスは数人の屈強な水夫たちが、顔を寄せ合って深刻そうにヒソヒソと話し合っているのを耳にした。


「……なぁ、甲板長。やっぱりおかしいですよ。今日の昼前から、潮の香りが妙に生臭いというか……鉄が錆びたような嫌な臭いが混じってますぜ」


「ああ、俺も気づいてた。それに海流だ。ルサルカ近海特有の『星読みの潮』の流れが、完全に狂ってやがる。これじゃあ、魚の群れも寄り付かねえはずだ」


 白髪交じりの甲板長が、眉間に深い皺を刻んで海面を睨みつけている。


 その会話を耳にしたゼノリスの背筋に、冷たいものが走った。

 鉄が錆びたような臭い。狂った海流。

 彼は何気ない風を装い、手すりに近づいて甲板長たちに声をかけた。


「すみません。ルサルカの海に、何か変わったことでも起きているんですか? 僕たち、西の国に行くのは初めてなもので」


 甲板長は振り返り、ゼノリスたち若き旅人の姿を見ると、少しだけ表情を和らげたが、すぐにまた険しい顔に戻った。


「ああ、お客さんかい。いやね、俺たちは何十年もこの航路を行き来している海の男だが、ここ数ヶ月、ルサルカ近海の様子がどうもおかしいんだ。海の色がどんよりと淀んでいて、気味の悪い深海魚の死骸がよく浮くようになった」


「……何が原因か、心当たりは?」


「さあな。ただ、港に出入りする漁師たちの間じゃ、お偉方が街の至る所に建て始めた『新型魔導浄水塔』ってやつのせいじゃないかって噂されてる。海を綺麗にするための施設だって触れ込みだが、あれが稼働し始めてから、かえって海が死にかけてる気がしてならねぇんだよ」


 魔導浄水塔。

 その言葉を聞いた瞬間、ゼノリスの右手の火傷がピリッと痛んだ。


 ゼノリスは手すりから身を乗り出し、船が切り裂く波打ち際をじっと見つめた。

 外洋の青々とした水に混じり、確かに微かな濁りが見える。そして、彼の万物の乱れを感じ取る『調律』の力が、水底から響いてくる微小な「不協和音」を捉えていた。

 音階を外した不快なノイズ。エテルナの地下で水晶に絡みついていた、あのどす黒い這い寄る鉛糸リードストリングが発していたものと、全く同じ気配だ。


(間違いない。……あの悪意は、もうこの海にまで根を張ろうとしている)


 ゼノリスが険しい顔で目を細めたその時。


「お兄様、テオ! 見てください、あそこ!」


 フィリーネが弾んだ声で、水平線の彼方を指差した。

 彼女の指差す先、海と空の境界線が溶け合う場所に、白亜の建造物群が陽光を反射して輝いているのが見えてきた。


「あれが……水の都、ルサルカか」


 テオが感嘆の声を漏らす。

 幾筋もの運河が街全体を縫うように走り、優雅なアーチ橋がいくつも架かる、海の上に浮かぶような美しい都市。中央には、マリエーヌ大公妃が座す巨大な白亜の王宮がそびえ立っている。

 だが、その美しい街並みのあちこちに、景観を著しく損ねるような、無骨で巨大な黒煙を吐く「鉄の塔」がいくつも突き立っているのが、遠目にもはっきりと確認できた。


 ライラが最期に夢見た、一番綺麗な海。

 彼女の魂を還すための故郷は、今まさに、見えざる銀色の悪意によって静かに蝕まれようとしていた。


「行こう。まずは、ライラさんの実家を見つけないと」


 ゼノリスは懐に忍ばせた銀の骨壺の冷たさを確認し、ゆっくりと、しかし確かな覚悟を持って、迫り来る水の都を睨み据えた。



ギギギギ……と、巨大な船体が岸壁と擦れ合う重い木鳴りの音が響き渡り、『海神の息吹号』は静かにその長い航海を終えた。


 西の果て、ルサルカ海洋公国・中央大港。

 タラップが下ろされ、地に足を踏み入れた瞬間、テオはその場に両手両膝をついて、まるで神に祈るような姿勢で石畳に突っ伏した。


「ああっ……地面だ! 揺れてない……! 僕、生きてる……!」


「テオ、大袈裟ですよ。でも、本当によく頑張りましたね」


 涙ぐんで石畳を撫で回すテオを見て、フィリーネがくすくすと上品に笑う。

 三日三晩、船酔いという見えない敵と死闘を繰り広げた獣人の少年は、大地の感触を確かめるとみるみるうちに顔色を良くし、いつもの温和な笑顔を取り戻していった。


「これが、水の都……」


 ゼノリスは旅の外套のフードを深く被り直し、目の前に広がる景色を見渡した。

 海の上に浮かぶようにして築かれた白亜の都市。無数の運河が迷路のように街を巡り、ゴンドラと呼ばれる小柄な手漕ぎ舟が、人や物資を乗せて優雅に行き交っている。建物はどれも白い石灰岩で造られており、陽光を反射して眩しいほどに輝いていた。

 だが、その美しい光景を覆い隠すように、港には異様な緊張感が漂っていた。


「次! 通行証と身分証明を提示しろ! 荷物はすべて中身を改めさせてもらう!」


 入国審査のゲートでは、全身を青と銀の豪奢な鎧で固めた公国騎士たちが、鋭い目つきで乗客たちを睨みつけていた。槍の穂先が太陽の光を反射して冷たく光っている。

 自由な交易を旨とする港町にしては、あまりにも物々しい警戒態勢だった。商人たちの積荷は容赦なくひっくり返され、少しでも怪しい所持品があれば、問答無用で別室へと連行されていく。


「なんだか、すごくピリピリしていますね……」


 フィリーネが不安そうにゼノリスの外套の袖を掴む。

 彼女の並外れた魔力や、ゼノリスの右手に刻まれた星の傷が調べられれば、厄介なことになるのは火を見るより明らかだった。


「大丈夫だ。ガルドさんの紹介状がある」


 自分たちの番が来ると、ゼノリスは騎士に向かって、エテルナの豪商ガルドから預かった封筒を静かに差し出した。そこには、ルサルカの有力な貴族に宛てた、彼らが『エテルナの正当な特使』であることを証明する書状が入っている。

 騎士は不審そうに封筒を受け取ったが、そこに押されたベルンシュタイン商会の本物の蝋印を見ると、露骨に態度を軟化させた。


「……エテルナの客人か。失礼した、通ってよし。ただし、現在ルサルカはマリエーヌ大公妃殿下の命により、特別警戒態勢にある。夜間の不要な外出は控えるように」


 荷物検査もそこそこにゲートを通過した三人は、ひとまず安堵の息を吐いた。


「警戒態勢って、何か事件でもあったのかな?」


 テオが不思議そうに首を傾げる。

 その答えを探すように、ゼノリスは街並みを見上げた。そして、船の上から遠目に見えていた「違和感」の正体を、至近距離で目の当たりにすることになった。


「……あれが、船乗りたちが言っていた『新型魔導浄水塔』か」


 美しい白亜の街並みを無残にぶち抜くようにして、天高くそびえ立つ巨大な黒鉄の塔。それが街のあちこちに、まるで墓標のように突き立っている。

 塔の頂部からは、絶えず微かな黒煙が吐き出され、基部に繋がれた太いパイプが、運河の底へと不気味に伸びていた。

 通りを行き交うルサルカの市民たちは、皆どこか顔色が悪く、その鉄の塔から目を逸らすようにして足早に歩き去っていく。


 ズゥゥゥン……、ズゥゥゥン……。


 ゼノリスの耳にだけ、その塔から発せられる微かな、しかし決定的な「不協和音」が聞こえていた。それはエテルナの地下で機甲兵を操っていた『鉛糸リードストリング』が発するノイズと、完全に同じ波長だった。

 海を浄化するための施設という触れ込みのその塔が、実際には何をしているのか。ゼノリスのオッドアイが、険しい光を帯びる。


「お兄様。まずは……ライラさんのご実家へ向かいましょう。お母様が、ずっと彼女の帰りを待っているはずですから」


 フィリーネの静かな声に、ゼノリスは我に返り、深く頷いた。

 街の異変を調べるのは後だ。今はまず、この腕に抱えた骨壺を、あるべき場所へ還さなければならない。



 ライラの手帳に記されていた住所を頼りに、三人はルサルカの中心部から少し離れた、潮風が強く吹き付ける海沿いの居住区へとやってきた。

 迷路のような細い路地を抜け、海を見下ろす小さな丘の上に、その家はあった。

 白壁はところどころ潮風で剥がれ落ち、決して裕福とは言えない小さな平屋だったが、窓辺には潮水に強い色鮮やかな花がいくつも飾られており、住人の温かな人柄が偲ばれた。


 ゼノリスは小さく深呼吸をして、木製の古いドアをノックした。

 しばらくして、「はい……どなたですか?」という、かすれた、しかしどこかライラに似た優しい声が聞こえ、ドアがゆっくりと開いた。


 そこに立っていたのは、小柄で、初老に差し掛かった女性だった。

 髪には白いものが混じり、目尻には深い皺が刻まれているが、その青い瞳の優しさは、ゼノリスたちの記憶にあるライラの笑顔そのものだった。


「突然の訪問、申し訳ありません。僕たちは、エテルナから来ました」


 エテルナ。その地名を聞いた瞬間、母親の顔にパッと希望の光が差した。


「エテルナから……! まさか、娘のライラの知り合いですか? あの子、立派な吟遊詩人になるんだって、数年前に家を飛び出したきりで……便り一つよこさない親不孝者で。でも、元気にしているんですね?」


 矢継ぎ早に投げかけられる、娘を案じる母親の言葉。

 その無邪気な期待の眼差しを正面から受け止め、真実を告げなければならない残酷さに、ゼノリスは奥歯を強く噛み締めた。

 テオはたまらず目を逸らし、フィリーネは悲痛な顔で俯いた。


「……お母さん。どうか、気を強く持ってお聞きください」


 ゼノリスのただならぬ気配に気づき、母親の顔からスッと血の気が引いていく。


「僕たちは、エテルナの宿屋でライラさんと出会いました。彼女は、誰よりも美しい歌声を持つ、優しくて強い女性でした」


 ゼノリスは白い布に包まれた骨壺と、彼女の書き溜めた詩がびっしりと綴られた手帳を、両手で恭しく母親の前に差し出した。


「ライラさんは……病に倒れ、数日前に、息を引き取りました。最期まで、故郷のこの海を想いながら」


「え……?」


 母親は、突き出された銀の骨壺と手帳を、信じられないものを見るような目で見つめた。

 震える手がゆっくりと伸び、ライラの手帳に触れる。表紙をめくると、そこには見慣れた愛娘の丸っこい筆跡で、いくつもの美しい詩や、ルサルカの海を称える歌が綴られていた。

 エテルナでの人体実験の犠牲になったことや、恐ろしい寄生体のことなど、残酷な真実は一切伏せた。せめて彼女の中の娘が、夢を追いかけた美しい吟遊詩人のまま永遠となるように。


「あ、あぁ……。ライラ……嘘でしょう……? 帰ってくるって……一番の歌を、私に聞かせてくれるって、約束したじゃない……っ」


 母親は骨壺を抱きしめ、その場にへたり込んだ。

 石畳に膝をつき、身を丸めて、枯れた声で泣き叫ぶ。その悲痛な叫びは、波の音さえも掻き消して、周囲の静かな路地に響き渡った。

 フィリーネが母親の背中にそっと手を添え、自らも堪えきれずに涙をこぼす。テオもまた、鼻を啜りながら天を仰いだ。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 日が傾き、海が茜色に染まり始めた頃、ようやく涙を枯らした母親が、赤く腫れた目でゼノリスたちを見上げた。


「……遠いところを、あの子のために、本当にありがとうございました。皆様が最期を看取ってくださったのなら、あの子もきっと、寂しくはなかったはずです」


「彼女は最期に、お母様が待っていると言っていました。……一番綺麗な、自分の海に帰りたいと」


 ゼノリスの言葉に、母親は愛おしそうに骨壺を撫で、静かに頷いた。


「ええ……。あの子、小さい頃からこの海が大好きでね。よく、波打ち際で冗談みたいに笑って言っていたんです。『お母さん、もし私が死んだら、暗いお墓なんかに入れないでね。一番綺麗な、星降る入江の海に撒いてね』って……」


 母親は、すがるような瞳でゼノリスたちを見つめた。


「あの子の、たった一つの我儘わがままなんです。……どうか、お願いです。皆様の手で、あの子の願いを……あの子を、一番綺麗な『星降る入江』の海へ還してやってはくれませんか?」


 老いた母親には、一人で遺灰を海へ撒きに行く体力も、この悲しみに耐え切る気力も残っていなかった。

 ゼノリスは迷うことなく、その場に片膝をつき、母親と視線の高さを合わせた。


「約束します。明日の朝、必ず、彼女を一番綺麗な海へ」


 ルサルカに到着した最初の夜。

 静かな悲しみと、海に潜む不気味な黒い塔の影に包まれながら、ゼノリスたちはライラとの最後の約束を果たすための静かな決意を固めていた。

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