第24章:最期の星光と海への誓い(エピローグ)
勝利の余韻は、瞬きするほどの時間さえ許されなかった。
ズゥゥゥン……ズゥゥゥン……。
地底の岩盤そのものが悲鳴を上げているかのような重低音。
それは、格納庫の奥、闇の彼方から押し寄せる「鋼鉄の津波」が発する行進音だった。
一体倒すのに、四人がかりで全力を尽くした古代機甲兵。それが十、百、千――いや、視界を埋め尽くすほどの数で、赤いセンサーの光を明滅させながら迫ってくる。
まるで、地獄の蓋が開いたかのような光景だった。
「ふざけ……てんじゃねぇぞ……!」
獣化したテオが、荒い息と共に悪態をつく。
その巨躯からは湯気が立ち上り、鋼鉄のような筋肉は疲労で小刻みに震えていた。先ほどの「不屈の聖盾」は、彼の生命力そのものを削る大技だ。そう何度も使えるものではない。
すでに彼の肩や太腿には、無数の擦り傷と打撲の痕が刻まれている。
「テオ、下がって!これ以上は身体が持ちません!」
フィリーネが悲痛な声を上げる。彼女の杖を持つ手も白く震えていた。
支援魔法による魔力の消耗は激しく、顔色は死人のように蒼白だ。だが、彼女の瞳はテオから片時も離れず、いつでも回復魔法を飛ばせるよう、必死に意識を繋ぎ止めている。
「下がるわけにはいかねぇよ、フィリー!俺が退いたら、お前らがミンチになっちまう!」
テオが叫び、再び突っ込んできた先頭の機甲兵を、肩からのタックルで弾き飛ばす。
ガシャァンッ!
金属同士がぶつかり合う凄まじい音が響く。二トン近い鉄塊が宙を舞い、後続の機甲兵を巻き込んで転倒する。だが、それは焼け石に水だった。
彼らは倒れた仲間を踏みつけ、部品が砕ける音など意に介さず、無感情に、ただひたすらに「魔力」を持つ獲物――つまりゼノリスたちへと殺到する。
「くそっ、キリがない!」
ガルドもレイピアを振るうが、防戦一方だ。
彼の剣技は正確無比だが、この数を相手にするには手数が足りない。関節を狙って動きを封じても、すぐに次の個体がその屍を乗り越えてくる。
レイピアの刃こぼれが目立ち始め、ガルドの呼吸も乱れている。
「ゼノリス君!撤退だ!一度通路まで戻って、狭い場所で迎撃するしかない!」
ガルドの提案は戦術の定石だ。だが、ゼノリスは首を横に振った。
「だめです!通路に戻れば、袋小路に追い詰められてすり潰されるだけです。それに……ここで逃げたら、こいつらは地上へ溢れ出します!」
ゼノリスの脳裏に、地上の光景が浮かぶ。
まだ夜明け前の静かな街。何も知らずに眠る人々。マーサやルカ、そして今まさに生死をさまようライラの命。
この鋼鉄の悪意を、一匹たりとも地上へ上げてはならない。もしそんなことになれば、エテルナは一夜にして死の都と化すだろう。
(でも、どうする?剣も魔法も、この数では……!)
ゼノリスは剣で攻撃を捌きながら、戦場を俯瞰する。
思考を加速させろ。恐怖に飲まれるな。現象を観察しろ。
迫りくる機甲兵たち。その動きは、軍隊のような統率は取れていない。我先にと獲物に群がる、飢えた獣のようだ。あるいは、光に群がる羽虫。
(統率が取れていない……?いや、何かに強く『誘引』されている?)
ゼノリスの目が、機甲兵の装甲の隙間から漏れる銀色の光を捉える。
這い寄る鉛糸。
魔力を喰らう寄生体。
ライラの手帳にはこうあった。『より強い魔力を求めて彷徨う』と。
彼らがゼノリスたちを襲うのは、彼らが魔導士であり、手頃な魔力源だからだ。
ならば、自分たちよりも遥かに強大で、抗いがたいほど魅力的な「餌」を用意できれば――?
ゼノリスは視線を走らせ、この巨大な空間の中心に聳え立つ、一本の塔を見据えた。
さきほど破壊した制御壇のさらに奥。
地下施設全体のエネルギーを管理し、数千体の機甲兵たちに休眠用の微弱魔力を供給し続けていた心臓部――『中央魔力炉タワー』。
あそこには、都市一つを賄えるほどの膨大な魔力が圧縮されているはずだ。
「……あそこだ」
ゼノリスの中で、勝算という名のパズルが組み上がる。
狂気じみた作戦だが、これ以外に逆転の手はない。
「テオ!フィリー!ガルドさん!僕が合図したら、全力で中央の塔まで走ってください!」
「はぁ!?敵のど真ん中だぞ!?」
テオが目を剥く。敵の包囲網を突破し、さらに敵が湧き出してくる中心地へ飛び込むなど、自殺行為にしか思えない。
だが、ゼノリスは強く頷いた。
「あの塔の魔力炉を暴走させます!莫大な魔力が溢れ出せば、鉛糸の習性なら、僕らよりそっちに群がるはずです!」
「なるほど……毒をもって毒を制す、か。……賭ける価値はある!」
ガルドが即座に理解し、ニヤリと笑う。
政治家としての駆け引きの勘が、それが唯一の活路だと告げていた。成功すれば一発逆転、失敗すれば全滅。実にシンプルな賭けだ。
「フィリー、援護を頼めるか?」
「はい、お兄様!残りの魔力、全部使います!だから……必ず生きて帰りましょう!」
フィリーネが杖を高く掲げる。
彼女の髪がふわりと逆立ち、周囲の空気が清浄な魔力で満たされていく。顔色はもはや紙のように白いが、その瞳の光だけは消えていない。
「風よ、光よ!我らが往く道を拓きなさい!『ウインド・ロード』!」
ゴォォォォッ!!
フィリーネの魔法が発動する。
前方へ向けて放たれた圧縮された突風が、群がる機甲兵たちをドミノ倒しのように左右に押し退け、一本の「風の回廊」を作り出した。
だが、それは完全な安全地帯ではない。風の壁は薄く、いつ破られてもおかしくない。
「今だッ!走れぇぇッ!!」
ゼノリスの号令と共に、四人は死地へと飛び込んだ。
左右からは機甲兵の腕が伸び、風の壁を突き破って魔導砲の閃光が掠める。
「うらぁッ!!」
テオが咆哮し、右から迫った機甲兵を殴り飛ばす。
だが、その隙に左から槍が突き出される。
「させんッ!」
ガルドが滑り込み、切っ先を弾く。
ゼノリスがその隙間を縫って走り、行く手を阻む残骸を魔法剣で切り裂く。
走る。走る。息が切れ、肺が焼けるように熱い。
塔まであと五十メートル。
三十メートル。
十メートル。
手が届く――そう思った瞬間だった。
ズドォォォォォンッ!!
塔の基部を守るように、天から何かが降ってきた。
凄まじい衝撃波が走り、フィリーネが悲鳴を上げて吹き飛ばされそうになるのを、ガルドが抱き留める。
「な……!?」
爆煙の向こうから現れたのは、悪夢のような巨体だった。
着地の衝撃で、足元にいた味方であるはずの機甲兵二体が、無残にもプレスされて鉄屑と化している。
他の機甲兵よりも一回り巨大な体躯。全身の装甲はどす黒く変色し、その隙間からは、血管のように脈打つ無数の銀色の触手が溢れ出し、装甲の表面を這い回っている。
「グルルルゥ……」
機械音ではない。明らかに生物的な、ねっとりとした咆哮が、スピーカーではなく装甲の震えを通して響いてくる。
その頭部には、不規則に配置された四つのカメラアイ。それらがギョロギョロと回転しながら、ゼノリスたちを品定めするように見下ろしていた。
「なんだ、こいつは……!?」
テオが足を止め、本能的な恐怖に全身の毛を逆立てる。
他の雑魚とは違う。漂ってくるプレッシャーの桁が違う。
それはまるで、数多の鉛糸が集合し、一つの強大な意思を持ったかのような――『特異個体』。
特異個体は、右腕の巨大なヒート・ブレードをゆっくりと持ち上げた。
その動作は、機械特有の直線的なものではない。蛇が鎌首をもたげるような、滑らかで不気味な挙動。
ヒュンッ!
音もなく振られた刃が、衝撃波となって襲いかかる。
「危ないッ!」
ゼノリスが叫び、全員が左右に散開する。
直後、彼らが立っていた場所の鋼鉄の床が、まるで豆腐のように深く、鋭く切り裂かれていた。切断面が赤熱し、ジュウジュウと音を立てている。
「馬鹿げた威力だ……!」
ガルドが冷や汗を流す。
あんなものをまともに受ければ、テオの防御ごと両断される。
特異個体は、逃げる機甲兵など目もくれず、ただ一点、魔力炉への道を塞ぐように立ちはだかった。
その四つの瞳が、ゼノリスを見据える。
知性がある。こいつは理解しているのだ。ゼノリスたちが何をしようとしているのかを。そして、それを絶対に許さないという「悪意」がそこにあった。
「ここを通すわけにはいかないって顔だな」
ゼノリスは剣を構え直し、深く息を吐いた。
背後からは数千の軍勢が迫りつつある。
眼前には最強の門番。
まさに絶体絶命の挟み撃ち。逃げ場など、どこにもない。
「上等だ。……どのみち、これを越えなきゃ明日は来ない!」
ゼノリスの剣に、風と土の魔力が螺旋を描いて集束していく。
まだ未完成の合体魔法。だが、今ここで完成させなければ、未来はない。
「テオ、ガルドさん、フィリー! あいつの体勢を崩してください! 一瞬でいい、僕に隙を!」
「おうよ! 任せときな!」
「承知した!」
「合わせます!」
四人の心が一つに重なる。
地下帝国の命運を賭けた、最後の突撃が始まった。
特異個体が動いた。
その巨体が霞むほどの速度だ。
右腕のヒート・ブレードが、ゼノリスの首を刈り取ろうと真横に薙ぎ払われる。
「お兄様、屈んで!」
フィリーネの鋭い警告が響く。
ゼノリスは思考するよりも速く、本能に従って地面に滑り込んだ。
頭上数センチを、灼熱の刃が風切り音と共に通過していく。焼けた空気が髪を焦がし、肌がヒリヒリと痛む。
「させるかよッ!」
その隙を逃さず、獣化したテオが側面から突っ込んだ。
丸太のような腕で、特異個体の胴体にタックルを食らわせる。
ドゴォォォッ!
鈍い衝撃音が響き、特異個体の体勢がわずかに崩れた。だが、倒れない。四本の脚部が床に深く爪を立て、テオの怪力を真正面から受け止めているのだ。
「ぐ、うぅ……!なんて重さだ……ビクともしねぇ!」
テオが顔を歪める。
特異個体の背中から伸びる銀色の触手が、鞭のようにしなり、テオを排除しようと襲いかかる。その動きは機械的ではなく、まるで生きている蛇のように狡猾だ。
「援護する!そこを退きたまえ!」
ガルドが叫び、手にしたランタンを放り投げた。
空中で回転するランタンに向けて、レイピアの一突きを見舞う。
ガシャーン!
砕け散った火種と油が霧状になって特異個体の顔面に降り注ぐ。視界を奪う目くらましだ。
さらにフィリーネが杖を振るい、風の魔法で炎を煽る。
「ウィンド・ブラスト!」
ボォォォォッ!!
油を含んだ炎が爆発的に燃え上がり、特異個体の上半身を包み込む。
銀色の被膜が熱を遮断し、装甲そのものは無傷だ。だが、至近距離で炸裂した高熱と強烈な閃光が、四つのカメラアイを一時的な機能不全に追い込んだ。
「グルアァァッ!?」
視界を奪われた特異個体が、鬱陶しそうに顔面の炎を振り払う動作を見せ、大きく仰け反る。防御行動による致命的な隙。
「今だ、ゼノリス君!奴の目は潰れている!」
ガルドが叫ぶ。
そう、この一瞬の「目くらまし」こそが、彼らが命がけで作った勝機だった。
ゼノリスは地を蹴った。
彼が目指したのは特異個体の懐ではない。
そのさらに奥――特異個体がその背中で必死に守っている、『魔力炉への供給パイプ』だ。
(こいつを倒す必要はない。こいつが守ろうとしているものを壊せばいい!)
特異個体の四つのカメラアイが、ゼノリスの狙いに気づき、ギョロリと赤く発光した。
学習している。人間が「迂回」するという戦術を取ったことを理解し、即座に迎撃行動に移る。
左腕の魔導砲が唸りを上げ、砲口に致死的な光が収束する。
「お兄様!!」
フィリーネが悲鳴を上げる。
ゼロ距離射撃。避けられない。
「信じてるぜ、相棒!」
ズドンッ!!
魔導砲が放たれる寸前、テオが強引に特異個体の腕を殴り上げ、射線を天井へと逸らした。
放たれた光弾が天井の岩盤を砕き、巨大な瓦礫の雨を降らせる。
「がぁぁっ!!」
反動と高熱で、テオの腕の皮膚が焼け焦げる音がした。それでも彼は一歩も引かず、特異個体の腕を掴んでロックし続ける。
「行けぇぇぇッ、ゼノリス!!」
「ありがとう、テオ!」
ゼノリスは走り抜けた。
目の前には、脈打つように青白く光る、太いクリスタルガラスのパイプ。地下全域へ魔力を送る大動脈だ。
彼は剣を逆手に持ち替え、渾身の力を込めて切っ先を突き立てた。
「吹き飛べぇぇぇッ!!」
合体魔法『砂塵・穿孔』。
風の回転と土の硬度を一点に集中させた刺突が、強化ガラスの表面を削り、食い込み、そして貫通する。
キリキリキリキリッ……!
鼓膜を引き裂くような高周波音が響く。剣を通して伝わる抵抗は、岩盤よりも硬い。
「貫けぇぇッ!!」
ゼノリスが全身の魔力を注ぎ込み、さらにねじ込む。
ピキッ……パリーンッ!!
硬質な破砕音と共に、パイプが爆ぜた。
その瞬間、圧縮されていた高濃度の液状魔力が、ダムが決壊したような勢いで噴出した。
ブシューーーッ!!
まばゆい青い光の奔流が、空間全体を白く染め上げる。
純度100%の魔力。それは魔導士の血肉など比にならない、極上の「餌」だ。
空間に満ちた濃密な魔力の匂いに、戦場が一変した。
「グルルッ!?」
特異個体が驚愕に動きを止める。
そして、変化は劇的に訪れた。
背後から迫っていた数千の機甲兵たちが、ピタリと動きを止めたのだ。彼らのセンサーが一斉にゼノリスたちから外れ、溢れ出した魔力の光へと向けられる。
ガシャン、ガシャン、ガシャン!
機甲兵たちが、我先にとパイプの決壊口へと殺到し始めた。
そこにはもう、敵味方の区別などなかった。
前のめりに倒れた機甲兵を、後続が踏み潰す。腕を引きちぎり、頭部を破壊し、邪魔なものを排除して魔力の泉に群がっていく。
それはまるで、砂糖に群がる蟻のようであり、地獄の餓鬼道のようでもあった。
「同士討ちを始めたか……! 成功だ!」
ガルドが叫ぶ。
作戦は成功した。だが、代償も大きかった。
制御を失った魔力炉タワーが、臨界点を超えて赤く明滅し始めたのだ。
ウゥゥゥゥン……!!
不気味な振動音が響き、天井に巨大な亀裂が走る。
パラパラと小石が落ちてくる。いや、小石ではない。巨大な岩塊だ。
さらに、地底湖の水が亀裂から噴き出し、あっという間に足元を濡らし始めた。
「まずい、崩れるぞ!ここはおしまいだ!」
テオが獣化を解き、肩で息をしながら叫ぶ。
崩壊の連鎖。エテルナの地下帝国は、自らの重みに耐えきれず、今まさに圧壊しようとしていた。
「逃げましょう!出口はあっちです!」
フィリーネが指差す先、瓦礫に埋もれかけた搬出用ゲートが見える。
四人は全力で走り出した。
頭上からは鍾乳石のような瓦礫が降り注ぎ、背後では魔力に狂った機甲兵たちが、崩落する天井に次々と押し潰されていく。
その時だった。
「……ッ!」
ゼノリスは背筋に冷たいものを感じて、走りながら振り返った。
崩れゆくタワーの瓦礫の上。
あの特異個体が、半身を岩に潰されながらも、こちらを見ていた。
いや、機甲兵の身体はもう機能していない。その装甲の隙間から、銀色の本体――不定形の水銀のような塊が、這い出そうとしていた。
四つのカメラアイではなく、銀色の流体の表面に浮かんだ無数の眼球が、ゼノリスを凝視している。
そして、轟音の中でもはっきりと聞こえる「声」が、ゼノリスの脳裏に直接響いてきた。
『……ニンゲン……』
ゼノリスは息を呑んだ。
それは機械的な合成音声ではない。無数の人間の叫び声を重ね合わせ、無理やり意味を持たせたような、冒涜的な響き。
知性。明確な敵意。そして、人間を見下すような傲慢さ。
『……オロカナソンザイ……』
その言葉を最後に、銀色の流体は瓦礫の隙間へと染み込むように消えた。
まるで風が吹き抜けるように。
あるいは、最初からそこには何もいなかったかのように、悪意だけを残して。
「お兄様! 早く!」
フィリーネの叫び声に、ゼノリスは我に返った。
足元の水位はすでに膝まで達している。
「くっ……!」
あれは逃げたのだ。
この崩壊を利用して、地下水脈に乗って、どこかへ。
だが今は追えない。ここで立ち止まれば、自分たちが生き埋めになる。
「今行く!」
ゼノリスは前を向き、再び走り出した。
泥水に足を取られそうになりながらも、四人は互いに手を引いて搬出ゲートを潜り抜けた。
その直後、背後でこの世のものとは思えない大爆発が起きた。
圧縮された魔力が一気に解放され、地下空間そのものを消滅させたのだ。
ドォォォォォォンッ!!
爆風が彼らの背中を押し、地下通路の奥へと吹き飛ばす。
土煙と水飛沫の中、彼らは転がるようにして地上への階段を駆け上がった。
ゴゴゴゴゴゴ……。
轟音が遠ざかっていく。
エテルナの闇、評議会の野望、そして数千の機甲兵。
それら全ては、冷たい地下水と瓦礫の下に、永遠に閉ざされたのだった。
ただ一つ、解き放たれてしまった「銀色の災厄」を除いて。
ザパァァァッ!!
地下水道のメンテナンスハッチが内側から弾け飛び、四つの影が水しぶきと共に地上へと転がり出た。
彼らが飛び出したのは、エテルナの外縁部に位置する古びた排水区画だった。
肺が痛くなるほど吸い込んだのは、カビと鉄の臭いではなく、冷たく湿った、けれど懐かしい「夜明けの風」だった。
「はぁ……はぁ……!み、みんな、無事か……?」
テオが泥だらけの顔を上げ、四つん這いのまま仲間を確認する。
全員、泥と煤にまみれ、満身創痍だ。だが、生きている。
「ええ……なんとか。……お兄様は?」
フィリーネが咳き込みながら、ゼノリスの方へ這い寄る。
「大丈夫だ。……終わったんだな」
ゼノリスは仰向けに倒れ込んだまま、空を見上げた。
頭上には、夜の闇と朝の光が混ざり合う、群青色の空が広がっていた。星々が一つ、また一つと消えていき、東の空が白み始めている。
地下深くでうごめいていた鋼鉄の悪夢が嘘のように、地上の時間は静かに、厳かに流れていた。
ゴゴゴゴ……。
足元の地面から、遠雷のような低い振動が伝わってくる。地下の大崩落の余波だ。
だが、それもすぐに収まった。
エテルナの繁栄を支え、そして蝕んでいた闇は、完全に封印されたのだ。
「……急ごう」
ガルドが重い身体を起こし、街の方角を見据えた。
「ライラ君が待っている」
その言葉に、ゼノリスたちは弾かれたように立ち上がった。
戦いは終わった。だが、まだ一つ、果たさなければならない約束が残っている。
まだ人通りのない早朝の石畳を、四人は走った。
足が鉛のように重い。魔力も底をついている。それでも、彼らは走るのを止めなかった。
空が明るくなるにつれて、不安が胸に広がる。
鉛糸は、宿主の生命力を燃料にして生きる寄生体だ。それが抜けたということは、強引に繋ぎ止められていた命の火が、風前の灯火になることを意味する。
「間に合ってくれ……!」
ゼノリスが祈るように呟き、「青い星の宿」の扉を勢いよく開け放った。
「マーサさん!ライラさんは!」
ロビーには、重苦しい空気が漂っていた。
いつもは威勢のいい女将のマーサが、カウンターの隅でハンカチを目に当てて泣いている。その横で、息子のルカが唇を噛み締め、俯いていた。
「……あんたたち」
マーサが顔を上げ、泣き崩れそうな声で言った。
「よく戻ってきたね……。あの子、ずっと待ってたよ。……もう、目も見えてないはずなのに、『ゼノリスさんたちが帰ってくる足音がする』って……」
ゼノリスの心臓が早鐘を打つ。
四人は無言で顔を見合わせ、階段を駆け上がった。
二階の角部屋。扉の前で、フィリーネが一瞬だけ足を止め、震える手でノブを握り、そしてゆっくりと開けた。
部屋の中は、朝の光に満ちていた。
ベッドの上、白いシーツに埋もれるようにして、ライラが横たわっていた。
その顔色は、シーツと同じくらい白い。痩せ細った頬、枯れ枝のような指先。かつてのふっくらとした面影はどこにもない。
だが、その表情は穏やかだった。苦悶も、恐怖もない。ただ長い悪夢から覚めたような、安らかな寝顔に見えた。
「……ライラさん」
フィリーネが駆け寄り、ベッドの脇に膝をつく。
その声に反応して、ライラの瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれた。
その瞳は、もう焦点を結んでいない。霞んだ硝子玉のように、虚空を映しているだけだ。
「……あ……」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
「……フィリー……ネ、さん……? ……ゼノリス……さん……?」
「ああ、ここだ。みんな帰ってきたよ」
ゼノリスが反対側の手を優しく握る。その手は、氷のように冷たかった。
ガルドとテオも、音を立てないように部屋に入り、帽子を取って静かに見守る。
「よかった……。みんな……無事で……」
ライラが安堵の息を吐く。それだけで、彼女の残りの生命力が削られていくのが分かった。
もう、時間は残されていない。
「……外の……空気が、吸いたいな……」
ライラが消え入りそうな声でねだった。
「……お日様の下に、行きたい……」
「……ええ。行きましょう」
フィリーネが涙を拭い、力強く頷く。
テオが、壊れ物を扱うように慎重にライラの身体を抱き上げた。そのあまりの軽さに、テオの顔が歪み、一瞬だけ鼻を啜る音がした。
彼らはライラを連れて、部屋に備え付けられた小さなテラスへと出た。
そこには、息を呑むような光景が広がっていた。
エテルナの街並みを縫うように流れる運河。その水面が、昇ったばかりの朝陽を受けて、黄金色に輝いている。
無数の小船が揺れ、水鳥が羽ばたき、朝霧が光の粒子となって舞っている。
水の都が、一日の中で最も美しく輝く瞬間――夜明けだ。
「……綺麗……」
テオの腕の中で、ライラが呟いた。
彼女の焦点の合わない瞳に、朝陽の光が映り込む。
「……ここは……ルサルカなの……?」
その問いに、全員が息を呑んだ。
ルサルカ。彼女の故郷であり、彼女が帰りたがっていた海辺の街。
彼女の意識はもう、現実と夢の境界を彷徨っているのだ。
フィリーネが、ライラの冷たい手を両手で包み込み、耳元で囁いた。
「ええ、そうよ。ここはルサルカ。あなたの故郷よ」
「……やっぱり……。潮の香りがする……」
ライラが夢見るように微笑む。
運河の風を、故郷の海風と重ねているのだろう。
「お母さんが……待ってるの……。あっちの……海の向こうで……」
彼女が震える指で、光り輝く運河の先を指差す。
「……海が、光ってる。……一番綺麗な、私の海……」
「そうだな。本当に綺麗だ」
ゼノリスも声を詰まらせながら同意する。
嘘でもいい。最期の瞬間、彼女の瞳に映る世界が美しくあってほしい。それが、何も守れなかった自分たちにできる、せめてもの償いだった。
ライラの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは朝陽を受けて、宝石のように輝いた。
彼女はゆっくりと、フィリーネの手を握り返した。
微かな、本当に微かな力で。
「……ありがとう……」
それが、最期の言葉だった。
握り返す力が、ふっと抜ける。
閉ざされた瞼。口元に残る穏やかな微笑み。
まるで眠りに落ちるように、あるいは風が凪ぐように。
ライラという少女の魂は、朝陽の中に溶けていった。
「……ライラさん……っ!」
フィリーネが、動かなくなった彼女の手に顔を埋め、声を上げて泣き崩れた。
テオが天を仰ぎ、溢れる涙を堪えようと歯を食いしばる。
ガルドは静かに目を閉じ、深く頭を垂れた。その拳は、白くなるほど強く握りしめられている。
ゼノリスだけは、泣かなかった。
ただじっと、ライラの安らかな顔を見つめ、そして彼方に広がる空を見つめていた。
悲しみがないわけではない。胸が引き裂かれそうなほど痛い。
だが、泣いて終わらせてはいけないと、心が叫んでいた。
(君は最後まで、誰かを恨む言葉を吐かなかった。ただ故郷を想い、僕たちに感謝して逝った)
なんて強い人だったんだろう。
魔導士の実験体として扱われ、尊厳を踏みにじられ、命を奪われた。それでも、彼女の魂は汚されなかった。
「……フィリー」
ゼノリスは、泣きじゃくる少女の肩に手を置いた。
「……お兄、様……。私、悔しい……!助けたかった……!一緒に、ルサルカに行きたかった……!」
「ああ、僕もだ」
ゼノリスは静かに、しかし断固とした声で言った。
「だから、連れて行こう」
「……え?」
フィリーネが涙で濡れた顔を上げる。
「彼女は言った。『お母さんが待っている』と。……ここで終わらせちゃいけない。彼女の遺灰と、この手帳を……必ず故郷へ届けよう」
それが、残された自分たちの使命だ。
「……おう、そうだな」
テオが鼻を啜りながら、大きく頷いた。
「俺たちが連れて行くんだ。ルサルカの、一番綺麗な海へ。……約束だ」
「私も……協力させてくれ」
ガルドが顔を上げ、濡れた瞳で言った。
「船の手配も全て私がやろう。……それが、私にできる最後の贖罪だ」
朝陽が完全に昇りきり、エテルナの街を照らし出す。
ゼノリスは、ライラの手帳を懐に強く抱きしめた。
その中には、彼女が生きた証と、そして世界を脅かす「銀色の悪意」についての真実が記されている。
敵は消えていない。
あの地下で嘲笑った声。『ニンゲン、オロカナソンザイ』。
あの災厄は、世界のどこかで再び芽吹き、次なる悲劇を生もうとしている。
(僕たちは、もう止まらない。……君が愛したこの世界を、今度こそ守り抜くために)
冒険者としての第一歩。
それは苦く、悲しい一歩だった。だが、その足跡は確かに未来へと続いている。
ゼノリスたちは朝の光の中で、新たな旅立ちを静かに誓うのだった。




