第22章:砂塵の記憶と沈黙の証言者(アーカイブ)
フィリーネ・ルーツは、自身の指先が白く震えているのを止めることができなかった。彼女が握りしめる魔導杖の先端から、必死に紡ぎ出した治癒の光が、ライラの身体に触れる寸前で弾かれ、霧散していく。まるで、油の膜に水を垂らしたかのように、魔力が滑り落ちていくのだ。
目の前で、ライラの白磁のような首筋に深く食い込んだ銀色の糸――「這い寄る鉛糸」が、彼女の命を嘲笑うかのようにドクン、ドクンと脈打っている。その糸は単なる魔力の固形物ではない。生き物のように蠢き、ライラの細いのどを内側へと締め上げ、呼吸と共に漏れる微かな空気さえも遮断しようとしていた。
「……嘘、でしょう……?」
フィリーネの唇から、乾いた絶望が漏れる。
帝国魔導院学園において、彼女は治癒魔法の分野で並ぶ者のない才媛と呼ばれてきた。どんな複雑な呪いも、深い裂傷も、彼女の光は癒やしてきたはずだった。だが今、目の前にあるのは、彼女の知識体系には存在しない「理不尽な悪意」だった。
魔法が通じないのではない。ライラの肉体そのものが、この銀色の寄生者によって「フィリーネの魔力を異物として拒絶する」ように、根底から書き換えられているのだ。
「退ってくれ、フィリー」
凍りついた部屋の空気を切り裂くように、ゼノリスが前に出た。
普段の温厚な兄の顔はそこにはなかった。あるのは、敵を前にした「騎士」の、研ぎ澄まされた刃のような冷徹さだけだ。
彼は迷うことなく右手の包帯を口で食いちぎり、乱暴に引き剥がした。包帯の下からあらわになったのは、掌に刻まれた「銀の星」の刻印だ。その星は、目の前の異常事態に呼応するかのように、チリチリと肌を焼くような高熱を放ち始めていた。
「お兄様、だめです!魔力の波長が完全にデタラメに混ぜられています!今の状態で干渉すれば、逆流した魔力でお兄様の回路まで焼き切れてしまいます!」
「回路がないなら、繋ぎ直す。隙間がないなら、こじ開ける」
ゼノリスの声は静かだったが、一歩も引く気配はなかった。
フィリーネの治癒魔法が「清らかな水を注いで汚れを洗う」行為だとするなら、今のライラの身体はすでに泥水で満杯になり、表面張力の限界を迎えている。これ以上、一滴の魔力も受け入れられない。
ならば、手段は一つ。器ごと激しく揺さぶり、こびりついた泥を無理やり吐き出させるしかない。
(……調子に乗るなよ、下衆が)
ゼノリスは、脈動する銀糸の根元、ライラの喉仏のあたりに狙いを定め、右手のひらを叩きつけた。
「ガハッ……!」
接触の瞬間、ゼノリスの喉から苦悶の声が漏れた。
掌を通して、無数の氷の針で神経を直接刺されたような激痛が駆け上がったのだ。ライラの身体を乗っ取った「影」が、侵入者であるゼノリスを排除しようと牙を剥いたのである。
視界が激しく明滅し、耳の奥でキーンという不快な高周波が鳴り響く。それは、黒板を鉄の爪で引っ掻いた音を何万倍にも増幅したような、精神を削り取る「不協和音」だった。
「ゼノリス、離れろ! そいつ、お前の中に入ってくるぞ!」
テオが悲鳴に近い声を上げる。
獣人の鋭い感覚を持つ彼には見えていた。ゼノリスの指先から手首、そして肘へと、血管をなぞるように「銀色の浸食」が這い上がってきているのが。 皮膚の下を何かがうごめき、ゼノリスの魔力を食い荒らしながら、心臓を目指して上がってくる。
だが、ゼノリスは眉一つ動かさず、逆に指をライラの肉に食い込ませるように強く握り込んだ。
「……僕の中に入ってこれるものなら、やってみろ」
ゼノリスは奥歯が砕けるほどに噛み締め、腹の底で練り上げた魔力を、物理的な力としてではなく、純粋な「音」としてイメージした。
世界を構成する波長。そのズレを許さない、絶対的な基準の音。それを、ライラの体内で暴れ回るデタラメな波長へ、巨大なハンマーのように強引に叩きつける。
「調律……開始ッ!」
ドォンッ!
衝撃波のような光が、ゼノリスの右手から炸裂した。
それは慈愛に満ちた癒やしの光ではない。強制的な排除と断絶をもたらす、白銀の閃光だ。 ライラの体内を我が物顔で支配していた銀色の糸が、ゼノリスの放つ「正しい波長」に弾き飛ばされ、断末魔のように激しくのたうち回る。
「あ、……が、……ぁぁッ!」
ライラの身体が弓なりに反り、白目を剥いて激しく痙攣する。
首筋の糸は、居心地の良い巣から引き剥がされまいと、必死に彼女の皮膚の下へ潜り込もうとする。ズブリ、と肉に食い込む音が、静まり返った部屋に生々しく響いた。
フィリーネは息を呑んだ。それは治療というよりも、荒療治を超えた「魔力の殴り合い」だった。一歩間違えれば、ライラの精神ごと破壊しかねない危険な賭け。だが、ゼノリスの瞳に迷いはない。
「逃がすか……!そこは、お前の居場所じゃない!」
ゼノリスは更に踏み込み、右手に全体重と全魔力を乗せた。
逃げようとする影の尾を魔力の網で捕まえ、強引に引きずり出す。泥で詰まった水路を一気に押し流す鉄砲水のように、血管の一本一本にこびりついた汚れを根こそぎ剥がしていくイメージだ。
「出ろぉぉぉッ!」
ゼノリスの叫びと共に、掌から眩い銀光が迸った。部屋の中が一瞬、真昼の太陽を直視したかのように白く染まる。
ヒュウッ――!
ライラの喉の奥から、風船から空気が抜けるような奇妙な音が漏れた。
直後、彼女の口が限界まで大きく開かれ、そこからドロリとした「銀色の塊」が吐き出された。
それは床に落ちると、水銀のように不定形にうごめき、鎌首をもたげて、一番近くにいたフィリーネの方へ飛びかかろうとした。生き延びるために、新たな宿主を求めたのだ。
「させません!」
フィリーネが杖を突き出すより早く、開け放たれた窓から吹き込んだ夜風がその塊を巻き上げた。宿の外へと弾き出された銀色の影は、夜の闇に溶けるように霧散し、ガラスが砕けるような不快な残響音を残して消え去った。
「……はぁ、……はぁ、……ッ」
糸が切れた人形のように、ライラの身体から力が抜けた。彼女は支えていたテオの腕の中に、ぐったりと崩れ落ちる。首筋を締め上げていたどす黒い線は跡形もなく消え、浅いが、確かな呼吸のリズムだけが戻ってきた。
「……やった……のか?」
テオが、恐る恐るライラの顔を覗き込む。
ゼノリスは膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、荒い息を吐きながら右手を引いた。
フィリーネが即座に駆け寄り、ライラの身体へ杖をかざした。今度は弾かれることなく、柔らかな緑色の光が乾いた砂に水が染み込むように、ライラの身体へと吸い込まれていく。
「……よかった、魔力回路が繋がりました。これで命に別状はありません」
フィリーネが安堵の息を漏らす。
だが、その直後だった。治療の光が落ち着き、魔導灯の明かりの下で改めてライラの姿を目にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「……あ……」
テオの口から、悲鳴のような声が漏れる。そこに横たわっていたのは、あまりにも無惨な姿だったからだ。
影が抜け出たその身体には、残酷な爪痕が残されていた。ほんの数時間前まで、潮風に靡いていた艶やかな漆黒の髪。それがいつの間にか、見る影もなく真っ白に――雪のような美しい純白ではなく、水分を失って枯れ果てた草木のような、パサついた灰白色に変わり果てていた。
変化は髪だけではない。
瑞々(みずみず)しかった肌からは血の気が失われ青白く、老婆のようにカサカサに乾いている。頬はげっそりとこけ、手首は少し力を入れればポキリと折れてしまいそうなほど細くなっていた。
「髪が……白くなっている……」
テオが震える声で呟いた。それは単なる疲労や病ではない。生命力そのものを、根こそぎ奪い尽くされた「抜け殻」の姿だった。
「魔力が……空っぽです。いえ、器そのものがヒビ割れていて、魔力を溜めておくことさえできない……」
フィリーネが、震える手でライラの手首を握る。脈は弱く、乱れている。
影に寄生されたのは、あくまで結果に過ぎない。原因は、彼女がここまでボロボロに衰弱するまで、何者かに魔力を搾り取られ続けたことにある。
魔力とは生命を維持するための燃料だ。それを限界まで枯渇させれば、肉体は自らを維持するために筋肉や骨、そして命そのものを燃やして生きようとする。ライラのこの姿は、彼女がどれほど長い間、地獄のような搾取に耐えてきたかの証明だった。
「……ひどい。こんなになるまで……」
テオの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼は普段、誰よりも優しく、争いを好まない少年だ。だが今は、唇から血が滲むほど強く噛み締め、握りしめた拳をわななかせていた。その涙は悲しみだけでなく、彼女をこんな目に遭わせた理不尽への、激しい怒りの涙だった。
フィリーネもまた、無言のままだった。だが、杖を握る手には血管が浮き上がり、その美しい青い瞳には、決して消えることのない静かな怒りの炎が宿っていた。医療魔導師として、そして同じ女性として、この残酷な仕打ちは許容できるものではなかった。
ゼノリスは、痛みで震える右手を強く握りしめた。
救い出すことはできた。だが、失われた時間は戻らない。
ライラはまだ、目を覚まさない。その寝顔は、安らかさとは程遠い、苦しみに歪んだままだった。
窓の外では、夜明け前の最も深い闇が、エテルナの街を覆い尽くしている。
だが、この小さな部屋に満ちた三人の絶望と怒りは、もはや隠しようのないほどに膨れ上がっていた。
深い夜の静寂を破ったのは、ライラの渇いた咳だった。
彼女の睫毛が震え、ゆっくりと、重そうに持ち上げられる。
「……う、……ん……」
その瞳が、ぼんやりと虚空を彷徨い、やがて心配そうに覗き込む三人の顔で焦点を結んだ。
「……ゼノ、リス……さん……? ……みな、さん……」
その声は、砂利を踏む音のように掠れていた。喉が焼けたように渇いているのが分かる。
「無理に喋らないで。水を飲みますか?」
フィリーネが急いで水差しからコップに水を注ぎ、ライラの唇に当てた。ライラはコクコクと喉を鳴らしてそれを飲み干すと、ふぅ、と深く息を吐いた。
「……ありがとうございます。……私、……助かったの、ですね」
ライラは、自分の喉に手を当てた。さっきまでそこにあった、焼きごてを当てられたような痛みと、締め付けられる苦しさが消えている。
だが、自分の手を目にした瞬間、彼女の動きが止まった。
そこにあるのは、若々しい少女の手ではなく、シワの寄った、老婆のように干からびた手だったからだ。
「……ライラさん……」
テオが言葉を詰まらせる。なんと声をかければいいのか分からず、ただ痛ましげに彼女を見つめることしかできない。
しかし、ライラは悲鳴を上げることも、泣き叫ぶこともしなかった。
ただ静かに、自分の変貌した手を見つめ、諦めたように微かに微笑んだのだ。まるで、こうなることをずっと前から知っていたかのように。
「……ずっと、隠していました。ごめんなさい」
ライラは、身を起こそうとしてよろけ、テオに支えられた。
彼女は枕の下に震える手を伸ばし、何かを探り始めた。
「これを……。……私が、この街の地下で……何をさせられていたか。……全部、ここに記されています」
引きずり出されたのは、あちこちが擦り切れ、黒い油汚れのような染みがついた、一冊の古い手帳だった。革の表紙には、見覚えのある紋章が――海をかたどった「ルサルカ海洋公国」の紋章が、消え入りそうなほど薄く刻まれている。
「……手帳?」
ゼノリスがそれを受け取ると、ライラは糸が切れたようにベッドに背を預け、天井を見上げた。
「……私は、……病気の母の薬代を稼ぐために、この街に来ました。……ルサルカの貧しい漁村では、どんなに働いても、母の病気を治す高価な薬は買えなかったから……」
ライラの視線は、遠い故郷の海を思い出しているようだった。
彼女がエテルナに来た理由。それは、一攫千金を夢見たわけではなく、ただ、たった一人の家族を守りたいという、切実な願いからだった。
「……この街に着いてすぐ、市政評議会の人たちが声をかけてくれました。『地下の大きな機械を安定させるのを手伝ってくれれば、どんな薬も用意する』って」
ライラが、途切れ途切れに語り始めた。
「……私の仕事は、古代の機械に繋がれて、私の魔力を注ぎ込み続けることでした。……不安定な機械をなだめるための、生きたエネルギー源として」
彼女は、自分の痩せ細った手を握りしめた。
「あの機械は……かつての**『アドラスティア帝国』**の遺産だと言っていました。……底なしの化け物みたいで……いくら私の力を注いでも、満足してくれないんです。……身体の中が熱くなって、何かが吸い出されていく感覚が止まらない。……それでも、評議会の人は言いました。『もう少しだ。お前の母に薬を送ってやっているんだぞ』って」
「……それで、魔力が尽きて、あんな影に寄生されたっていうのか。……君を、使い捨てにするつもりで!」
ゼノリスが手帳を握る手に力を込める。
魔力を限界まで酷使すれば、肉体は崩壊する。そんなことは、魔導技術の基礎中の基礎だ。評議会の連中はそれを承知で、身寄りのない彼女を利用し、ボロボロになるまで搾り取ったのだ。
「……ある日、鏡を見たら、……私の顔から色が消えていて。……怖くなって、一度だけ逃げ出そうとしたんです。……でも、評議会の人は笑って言いました。……『今さら逃げても、お前の代わりはいくらでもいる。……お前の母に送っている薬を止めてもいいのか?』って……」
「……ひどすぎるわ! 弱みを握って、人を消耗品みたいに扱うなんて!」
フィリーネが激しい怒りで声を荒らげる。いつもは冷静な彼女が、ここまで感情を露わにするのは珍しかった。
ライラは力なく首を振った。
「……私は、もう長くないとわかっていました。……でも、最後にどうしても、……お母さんに『ごめんね』って伝えたくて。……だから、隙を見て、地下の施設からこの手帳を持ち出して、逃げてきたんです」
彼女が託した手帳を、ゼノリスが開いた。
中をめくると、そこには細かな文字で、地下動力室の複雑な図面や、魔力の流れの記録、そして市政評議会の重鎮たちが、アドラスティア帝国の遺産である魔力を悪用している証拠が、びっしりと書き込まれていた。
それは、一人の少女が命を削りながら残した、この街の闇を暴くための唯一の武器だった。
「……これだけのものを、君は一人で……」
ゼノリスが言葉を失っていると、隣で手帳を覗き込んでいたテオが、ガタガタと膝を震わせながら立ち上がった。
彼は壁に手をつき、まるで何か恐ろしいものを見たかのように、顔面蒼白になっていた。
「……テオ? どうしたんだい?」
ゼノリスが声をかけると、テオはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、かつて見たこともないほど暗く、激しい怒りの炎が燃えていた。
「……やっぱり、同じだ。……僕の故郷で起きたことと、全く同じだよ……」
ゼノリスとフィリーネが驚いてテオを見る。
いつもは内気で、仲間の後ろに隠れているようなテオが、今は拳を白くなるほど強く握りしめていた。
「テオ? 故郷って、アル・ザハブのこと……?」
テオは深く頷き、絞り出すような声で言った。
「僕のいた『アル・ザハブ南方太陽国』のオアシスの村には、砂漠を癒やす『聖なる大地の力』がありました。……そこから採れる薬草で、僕たちは静かに暮らしていたんです。……でもある日、八ヵ国連合の役人たちがやってきて、こう言いました。……『世界を豊かにするために、大地の魔力を効率よく使う機械を設置する』って」
テオの声が、怒りで低く沈んでいく。
「彼らは、大地の魔力を無理やり引き出す大きな杭を打ち込みました。……最初は、街が明るくなった、便利になったって、みんな喜んでいたけれど……。……すぐに、オアシスの水が枯れ始めた。……木々は一晩で灰色になって枯れ落ち、……村の大人たちは、ライラさんみたいに生気を失って、倒れていったんです」
テオは一度、言葉を切って深く息を吸った。
彼の脳裏には、かつて見た故郷の無惨な姿が蘇っていたのだろう。枯れ果てた大地、倒れ伏した人々、そしてそれを「必要な犠牲だ」と笑って見下ろしていた役人たちの顔。
「彼らにとって、大地も、そこに住む人も、……ただの数字に過ぎなかったんだ。……ライラさんをこんな目にあわせた奴らも、あの時の役人たちと、根っこは同じだ。……ゼノリス、僕、許せない」
テオが、真っ直ぐにゼノリスの目を見つめた。
そこには、もう迷いも怯えもなかった。あるのは、友を守るという強い決意だけだ。
「この手帳があれば、奴らの悪事を暴ける。……これ以上、誰かの故郷や命が、欲張りのために汚されるのを、僕は見ていたくないんだ!」
内気なテオの口から飛び出した、かつてないほど強い意志。
ゼノリスは、そんな仲間の肩にそっと手を置いた。その手から、テオの震えが伝わってくる。それは恐怖の震えではなく、怒りと決意の震えだった。
「……ああ、わかっているよ。テオ。……僕も、同じ気持ちだ」
ゼノリスは手帳を懐にしまうと、真剣な表情で顔を上げた。
「だが、相手はエテルナの支配者たちだ。僕たちだけで動けば、証拠ごと揉み消される可能性がある。……信頼できる、大きな力が必要だ」
ゼノリスの脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。この街を愛し、正義を重んじる男。
「ガルドさんのところに行こう!」
深い夜の帳が、エテルナを音もなく包み込んでいた。
日中は活気に溢れる大通りも、今は人影ひとつなく、ただ冷たい海風が石畳を撫でる音だけが響いている。
ガス灯の明かりが霧に滲み、ぼんやりとした琥珀色の光を投げかけている様は、まるでこの街が巨大な墓標の中でまどろんでいるかのようだった。
だが、その静寂を切り裂くように、二つの影が疾走していた。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
ゼノリスとテオだ。
彼らは呼吸を合わせ、迷路のように入り組んだ路地を最短距離で駆け抜けていく。目指すは、上層区にあるベルンシュタイン邸。
「ゼノリス、大丈夫か? さっきの治療で、かなり魔力を使ったはずだ」
並走するテオが、心配そうに声をかける。
確かに、ライラに施した「調律」は、ゼノリスの精神と魔力を大きく削っていた。だが、彼の瞳に宿る光は少しも衰えていない。
「平気だ。むしろ、頭が冴えているくらいだよ」
ゼノリスは懐の手帳を服の上から強く押し当てた。
そこには、ライラの命を削った真実と、テオの故郷を奪った元凶への怒りが詰まっている。
重い。物理的な重さではなく、そこに込められた想いの重さが、彼を突き動かしていた。
「急ごう。ガルドさんがこの事を知らないとしたら……評議会の中で、彼は孤立しているかもしれない」
嫌な予感が、ゼノリスの背筋を冷たく撫でた。あの正義感の強い男が、この非人道的な行いを知って黙っているはずがない。もし知らされていないのなら、それは彼が「邪魔者」として扱われている証拠だ。
そして、もし知ってしまったなら――。
(間に合ってくれ……!)
ゼノリスは奥歯を噛み締め、さらに脚に力を込めた。
時を同じくして。エテルナの中枢、市政庁の最奥にある「円卓の間」。
普段は都市の運営について建設的な議論が交わされるこの神聖な場所は、今夜に限って、重苦しい沈黙と、鼻を突くような紫煙に支配されていた。
呼び出されたのは、評議会の中でも特に発言力を持つ上位議員たち。その末席に座るガルド・ベルンシュタインの顔色は、蝋のように蒼白だった。彼の手元には、極秘資料として配られた数枚の羊皮紙が散らばっている。そこに描かれていたのは、人型をした無機質な兵器の設計図だった。
「……議長。今、なんとおっしゃいましたか?」
ガルドの声が、乾いた音を立てて震えた。
円卓の上座、影に沈む席に座る老齢の議長――ヴァルター・フォン・エテルナは、組み上げた指の上に顎を乗せ、まるで出来の悪い生徒に言い聞かせるような口調で繰り返した。
「だから言っただろう、ガルド君。『防衛力』だよ。この地下深くに眠っていたのは、かつて大陸を支配したアドラスティア帝国の遺産……『古代機甲兵』だ」
「古代……機甲兵……?」
「そうだ。八ヵ国連合の最新鋭魔導兵器すら子供騙しに見えるほどの、圧倒的な性能を誇る古代の鋼鉄兵団だ。これさえあれば、エテルナはもはやどこの国にも媚びる必要はない。我々自身が、最強の武力を持つのだ」
議長の瞳が、欲望にギラつき濁っている。
ガルドは戦慄した。都市の平和などではない。彼らが望んでいるのは、圧倒的な力による支配だ。
「しかし……この資料にある『動力源』とは何です?古代の機械を動かすには、莫大な魔力が必要なはず。今の技術では、魔石を使っても数分で停止してしまうでしょう」
「鋭いな。そこだよ、我々が苦心したのは」
議長はニヤリと笑い、ワイングラスを傾けた。
「魔石は効率が悪い。だが、もっと効率的で、自己再生し、高密度の魔力を生み出し続ける『器』があるだろう?」
「……まさか」
ガルドの脳裏に、最悪の想像がよぎる。最近、街で行方不明者が増えているという噂。身寄りのない若者や、貧しい魔導士たちが、ある日ふらりと消えてしまうという怪談。
「人を……生きている魔導士を、動力源として使っていると言うのですか!?」
「人聞きが悪いな。彼らは『礎』だよ。偉大なるエテルナの復活のために、その身を捧げた名誉ある部品だ」
「ふざけるなッ!」
ダンッ!!
ガルドは拳で円卓を叩きつけ、椅子を蹴り倒して立ち上がった。
激しい音が響き渡るが、周囲の議員たちは眉一つ動かさない。彼らの目は、まるで彼らが復活させようとしている鋼鉄の兵士のように冷たく、そこに良心の呵責など微塵も感じられなかった。
「生き血を啜って動く人形に、何の意味がある!そんなものが、我々の目指した『正義』なのか!」
ガルドの悲痛な叫びに対し、議長は深く溜息をつき、憐れむような視線を向けた。
「若いのう、ガルド君は。……正義とは、力だよ。力なき正義は戯言に過ぎん。この『古代機甲兵』が目覚めれば、世界はエテルナにひれ伏す。そうすれば、市民は永遠の安寧を手に入れられるのだぞ?」
「思いません!一人の涙も拭えない者に、世界を守る資格などない!」
ガルドは周囲を見渡した。かつて共に理想を語り合った同志たちの顔を。
だが、誰とも目が合わない。彼らはガルドを、「大人になれない子供」として黙殺し、あるいは「邪魔な異物」として冷ややかに値踏みしていた。ここには、もう彼の居場所はない。
「……私は認めない。断じて認めないぞ!この計画は、私が必ず阻止する!」
ガルドは吐き捨てるように叫ぶと、踵を返して扉へと向かった。
「どこへ行くつもりかね?」
背後から、議長の低い声が追いかけてくる。
「決まっている!この事実を公表し、市民に問う!貴様らが地下で、人を食らう怪物を作っていることをな!」
「……そうか。残念だよ、ガルド君。君のような清廉潔白な男には、次期議長の椅子を用意していたのだがね」
その言葉には、明らかな「死刑宣告」が含まれていた。
だが、ガルドは足を止めなかった。重厚な扉を押し開け、振り返ることなく部屋を出る。 背中で閉まる扉の音が、まるで断頭台の刃が落ちる音のように、重く、決定的に響いた。
市政庁を出ると、外は完全な闇に包まれていた。
冷たい夜風が、火照ったガルドの頬を打ちつける。だが、体の震えは止まらなかった。
怒り。失望。そして、底知れぬ恐怖。
彼が愛し、誇りにしてきたエテルナという街の地下深くに、人を喰らって動く殺戮兵器の軍団――『古代機甲兵』が眠っているという事実。その絶望が、足元から這い上がり、心臓を鷲掴みにする。
(……どうすればいい。私一人で、あのような怪物たちに勝てるのか……?)
石畳を歩く足取りは重い。
孤独だった。
味方はいない。警察組織も、魔導院も、全て評議会の息がかかっているだろう。
告発しようにも、証拠がない。ただ吠えるだけでは、狂人の戯言として処理されて終わりだ。
(証拠……そうだ、証拠が必要だ。誰か、信頼できる協力者と共に……)
ふと、脳裏に浮かんだのは、先日出会った少年たちの顔だった。
ゼノリスとテオ。それにフィリーネ。彼らなら、信じてくれるだろうか。いや、彼らを巻き込むわけにはいかない。これは、評議会の一員であった私の責任だ。私が一人で背負わなければならない罪なのだ。
ガルドは自嘲気味に笑い、夜空を見上げた。星も見えない、曇天の空。
その時だった。
通い慣れた帰路。人気の絶えた裏通りに差し掛かった瞬間、周囲の空気が急速に冷え込んだ。風が止んだのではない。空気が「固まった」のだ。
ガルドは本能的に足を止めた。長年、政治という戦場に身を置いてきた勘が、警鐘を鳴らしている。
「……誰だ」
問いかけに対する返答は、言葉ではなく殺気だった。
ヒュッ!
風を切る音と共に、暗闇から何かが飛来した。
ガルドは咄嗟に身を捻った。頬を鋭い痛みが走り、背後の石壁に「何か」が突き刺さる音がした。見れば、そこには黒塗りのクナイのような短剣が深々と突き立っている。
「……やはり、帰してはくれんか」
ガルドが低い声で呟くと同時に、路地の陰から、音もなく三つの人影が滲み出してきた。 全身を夜闇のような黒衣で包み、顔には白い仮面をつけている。エテルナの裏社会で囁かれる、評議会直属の暗殺部隊「掃除屋」だ。
「ベルンシュタイン議員。議長からの伝言です」
中央に立った男が、感情のない平坦な声で告げる。
「『エテルナの輝ける未来のために、名誉ある殉職を』……と」
「ハッ、よく言う! ただの口封じだろう!」
ガルドは腰に帯びていた護身用の細剣を抜き放ち、構えた。
だが、相手は手練れの暗殺者三人。対するガルドは、剣の心得こそあるものの、実戦からは長く遠ざかっている。
(……ここまでか)
死の予感が、冷たい刃となって喉元に突きつけられる。
だが不思議と恐怖はなかった。あるのは、真実を暴けぬまま散ることへの無念だけ。
「来るなら来い! ベルンシュタインの名は、泥に塗れて終わるほど安くはないぞ!」
ガルドの咆哮を合図に、暗殺者たちが動いた。
速い。
左右から同時に迫り、中央の一人が正面から喉元を狙う。完璧な連携。逃げ場などどこにもない。ガルドの剣が右の一人を牽制する間に、左からの刃が脇腹を切り裂く。
「ぐっ……!」
激痛に顔を歪めた瞬間、正面の刃が心臓めがけて突き出された。
間に合わない。ガルドは目を閉じた。
――すまない、市民たちよ。私は無力だった。
キンッ!!
硬質な金属音が、夜の路地に甲高く響き渡った。
いつまで経っても訪れない痛み。代わりに聞こえてきたのは、暗殺者の驚愕の声だった。
「なっ……!?」
ガルドが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
眼前に迫っていた死の刃を、横合いから飛び込んできた一振りの長剣が、火花を散らして受け止めていたのだ。その剣を握っているのは、見覚えのある背中。
「……間に合った……!」
安堵と緊張が入り混じった声。
「ゼノリス君……!?」
ガルドが呆然と名を呼ぶと、少年は剣を押し返し、暗殺者と距離を取ってから、肩越しに力強く微笑んだ。
「お待たせしました、ガルドさん。……夜道の一人歩きは、少々危険ですよ」
「な、なぜここに……いや、君たちを巻き込むわけには……!」
「巻き込まれたんじゃありません!」
ゼノリスの言葉に続いて、頭上から野太い咆哮が降ってきた。
「俺たちが、勝手に首を突っ込みに来たんだよッ!!」
ドォンッ!
近くの屋根から飛び降りた巨体が、地面を揺らして着地する。テオだ。
彼は着地の衝撃そのままに、ガルドの脇腹を狙っていた暗殺者へと突進し、丸太のような腕でその身体をラリアットで吹き飛ばした。
「ガハッ!?」
暗殺者が紙屑のように路地の壁まで吹き飛び、ずり落ちる。
「テオ君まで……!」
ガルドは目を見開いた。絶体絶命の窮地に現れた、二人の若き冒険者。彼らの背中は、議会場で見たどの権力者たちよりも大きく、そして頼もしく見えた。
「貴様ら……何者だ」
リーダー格の暗殺者が、忌々しげに体勢を立て直す。
ゼノリスはガルドを背に庇うように立つと、切っ先を暗殺者の鼻先に突きつけ、静かに、しかし腹の底から響く声で宣言した。
「ただの冒険者だ。……だが、お前たちが踏みにじった人々の、涙と怒りを届けに来た!」
「涙だと?くだらん感傷だ」
暗殺者は鼻で笑い、両手の短剣を逆手に持ち替えた。
「ガキが二匹増えたところで、結果は変わらん。まとめて処理するぞ」
残った二人の暗殺者が、影のように揺らめき、姿を消すかのような高速移動を開始する。 だが、ゼノリスは動じない。
「テオ、右だ!」
「おう!」
テオが獣人の鋭敏な嗅覚と聴覚で、闇に溶け込んだ敵の位置を正確に捕捉する。彼は石畳を蹴り砕く勢いで右へ踏み込み、見えない敵の軌道上へ拳を叩き込んだ。
ドゴォッ!
「ぐおっ!?」
空気を殴ったはずの場所から悲鳴が上がり、光学迷彩のように姿を隠していた暗殺者が実体化して転がる。
「見えてるよ。お前たちの匂いは、ドブ川みたいに臭いんだ!」
テオが牙を剥き出しにして威嚇する。
一方、正面のリーダー格は、ゼノリスへと肉薄していた。
「死ねぇッ!」
繰り出される連撃。上段、下段、突き、払い。人間離れした速度で放たれる刃の嵐を、ゼノリスは最小限の動きで捌いていく。
カカンッ、キンッ、ガギッ!
剣戟の火花が、暗い路地をストロボのように照らす。
「なぜだ……!なぜ追いつける!?」
暗殺者が焦りの声を漏らす。彼の動きは魔導強化された超常の速度だ。普通の人間なら、剣を振るう前に肉塊になっているはずだった。
だが、ゼノリスの瞳は、敵の動きを完全に見切っていた。彼の右手に巻かれた包帯の下。そこにある「銀の星」の刻印が、熱く脈動している。ライラを救った時に活性化した星の力が、彼の知覚を極限まで引き上げているのだ。
(見える……! 筋肉の動き、魔力の流れ、次に繰り出される刃の軌道が!)
ゼノリスにとって、今の暗殺者の動きは止まっているに等しかった。
「そこだッ!」
敵が大振りの一撃を放った瞬間、ゼノリスはその懐へと飛び込んだ。
交差する一瞬。ゼノリスの長剣が、暗殺者の仮面を斬り飛ばし、その奥にある驚愕に染まった双眸を捉えた。返す刀で、剣の腹を鳩尾に叩き込む。
「がはっ……!」
暗殺者は、くの字に折れ曲がり、膝から崩れ落ちた。
殺しはしない。だが、二度と立ち上がれないほどの重い一撃だ。
静寂が戻った路地に、荒い息遣いだけが響く。三人の暗殺者は全員、地面に伏していた。
ゼノリスは剣を納めると、すぐにガルドの方へと振り返った。
「ガルドさん、怪我は!?」
「あ、ああ……かすり傷だ。それより……」
ガルドは震える手で剣を収め、二人の少年に歩み寄った。その目には、涙が滲んでいる。
「ありがとう……。君たちがいなければ、私は今頃……」
「お礼を言うのは僕たちの方です」
ゼノリスは首を横に振り、懐からあの一冊の手帳を取り出した。
「これを渡したくて、ここに来ました。……僕たちが保護した女性が、命がけで持ち出したものです」
「これは……?」
ガルドが手帳を受け取り、表紙の紋章に指を這わせる。ゼノリスは真剣な眼差しで告げた。
「そこには、地下で行われている『古代機甲兵』の復活計画と、その燃料にされた人々の記録が書かれています」
「……っ!やはり、君たちも知っていたのか」
ガルドの手が震える。
テオが、悲しみと怒りを堪えるように言葉を継いだ。
「僕たちが助けたライラさんも、その実験体にされていました。……彼女の中には、『這い寄る鉛糸』と呼ばれる銀色の魔物が巣食っていたんです」
「リードストリング……?」
「ええ。魔導士の命を吸い尽くし、宿主を操る寄生体です。……もし、その怪物が、地下の『古代機甲兵』に取り憑いたら……」
ゼノリスの言葉に、ガルドは息を呑んだ。
ただでさえ強力な古代兵器に、魔導士を食らい尽くす悪魔が宿る。それはもはや、制御不能の破壊神が生まれることを意味していた。
「……なんてことだ。評議会は、とんでもない箱を開けようとしている……」
ガルドは手帳を強く握りしめた。その感触は、先ほど円卓で感じた絶望よりも遥かに重く、しかし、不思議と温かかった。
一人ではない。共に戦ってくれる仲間が、今ここにいるのだ。
「……わかった。この真実、決して無駄にはしない」
ガルドの瞳に、再び強い光が宿った。それはもう、孤立無援の政治家の目ではない。悪に立ち向かう、一人の戦士の目だった。
「場所を変えよう。私の屋敷なら、まだ安全だ。……反撃の狼煙を上げるぞ」
ゼノリスとテオは力強く頷いた。夜明けはまだ遠い。だが、エテルナの闇を切り裂くための「黄金の導き」は、今ここで確かに結ばれたのだ。




