第21章:銀髪の追憶
自由都市エテルナの朝は、潮の香りと、港に停泊する船が鳴らす汽笛の音と共に幕を開ける。「青い星の宿」の窓から差し込む陽光は、昨日まで一行が挑んでいた鍾乳洞の湿った静寂を、跡形もなく消し去るほどに明るく、そして力強かった。
フィリーネは鏡の前に立ち、銀色の長髪を丁寧に梳かし上げていた。ブラシが髪を通るたびに生じる微かな摩擦音が、静かな部屋に響く。昨夜の戦いで浴びた黒い澱みの冷気がまだ芯に残っているような錯覚を覚え、彼女は無意識に小さく身震いをした。
「……今日は、休息日です」
鏡の中の自分に向け、言い聞かせるようにフィリーネは呟いた。
昨日の昇級試験を経て、ゼノリスたちは正式にランクEのプレートを手にした。新人という肩書きを半分脱ぎ捨てた証だ。ギルドからの公式な依頼が舞い込むようになるのは明日からであり、今日は戦いの興奮を洗い流して、心身を整えるための貴重な空白の時間だった。
帝都を去る際、かつての師であるガントは言っていた。「旅に出れば、日常こそが最大の調律となる」と。その言葉を思い出し、フィリーネは今日という一日を大切に過ごそうと心に決めていた。
彼女は、お気に入りの白いワンピースを選んだ。帝国魔導院学園を卒業する直前に新調した、装飾の少ない、けれど仕立ての良い一着だ。袖を通すと、洗い立ての清潔な布の匂いが鼻を掠め、少しだけ強張っていた心が解けていくのを感じた。
一階の食堂へ降りると、そこにはすでにゼノリスの姿があった。
「おはようございます、お兄様。随分と早いお目覚めですね」
ゼノリスは、窓際で朝の光に目を細めながら、柔らかな笑みを返した。
「おはよう、フィリー。昨日はぐっすり眠れたかな? 僕は、エテルナの朝の活気で目が覚めてしまったよ。……なんだか、新しいプレートの重みがまだ指に残っていてね」
そう言って、ゼノリスは胸元で鈍い銀色の光を放つプレートを愛おしそうに撫でた。
いつもの旅装束ではなく、街に馴染む柔らかな布のシャツを着た彼は、どこか学園に通っていた頃の、ただの優しい兄に戻ったように見える。その穏やかな姿を目の当たりにするだけで、フィリーネの鼓動はわずかに跳ねた。
「ええ、私もです。……テオは、もう出かけられたのでしょうか?」
「ああ、テオならさっき、市場の薬草屋へ様子を見に行くと言って出かけたよ。珍しいハーブが入荷する日なんだって、期待に目を輝かせていた。……僕たちも、少し街を歩かないか? 折角の休日だ。君の行きたいところへ行こう」
「はい、お兄様。喜んで」
フィリーネは努めて冷静に、けれど心の中では弾むような気持ちで頷いた。
帝都を出てからというもの、常に戦いや移動に追われていた。こうしてお兄様と二人きりで、目的もなく街を歩くのは、エテルナに来てから初めてのことかもしれない。
外に出ると、エテルナの目抜き通りは陽光に溢れていた。
運河沿いの石畳を、ゼノリスの少し後ろを歩く。カツカツと響く自分の靴音と、それより少し重い兄の足音。ゼノリスの背中は、学園にいた頃よりも少しだけ逞しく、頼もしくなったように感じられた。
「……見てください、お兄様。運河の水がキラキラと光って、まるでお星様が落ちたようです」
「本当だね。……不思議だな、昨日の鍾乳洞の中では、一寸先も闇だったのに。こうして穏やかな光の中にいると、全てが遠い出来事のように思えてしまうよ」
ゼノリスが足を止め、きらめく水面を見つめながらそう言った。
「夢ではありません。お兄様が、あの大変な戦いを勝ち抜いたからこそ、この景色が守られたのです」
「……そうだね。僕たちが守りたいのは、この当たり前の景色なんだ。……フィリー、君が隣にいてくれたから、僕は迷わずに済んだ。ありがとう」
さらりと言ってのける兄の横顔は、どこまでも澄んでいる。
ゼノリスは昔からそうだ。自分がどれほど過酷な状況に身を置き、どれほど大きなものを背負っていても、それを決して誇ることをしない。ただ、目の前の誰かを守るために、当然のように自分の身を削ってしまうのだ。
運河を渡る風が、フィリーネの頬を冷たく撫でた。
その急な冷たさが、彼女の記憶の底にある、あの日――白く凍てついた学園の冬を呼び覚ました。
それは、帝国魔導院学園に入学して三度目の冬のことだった。
その年のエーテルガードは例年にない大雪に見舞われ、白亜の巨塔は、まるで巨大な氷の彫刻のように沈黙していた。当時11歳だったフィリーネは、まだゼノリスのことを「兄さま」と呼んでいた時の頃だ。
放課後、人影のまばらな図書棟の裏。降り積もった雪が周囲の音を吸い込み、自分の足音さえも遠くの出来事のように聞こえるほど静まり返った場所で、彼女は押し寄せる理不尽な悪意を前にしながらも、いつでも反撃に転じられるだけの鋭い魔力をその身に湛えていた。
「……おい、フィリーネ。無視するなよ。平民の分際で、その髪色は不遜だとは思わないか?」
上級クラスの貴族の子息であるバルトロが、数人の取り巻きを引き連れて立ちはだかっていた。彼の冷たい視線が、フィリーネの銀髪を舐めるように動く。
「……申し訳ありません。他意はありません」
彼女は俯いたまま、絞り出すような声で答えた。その怯えを愉しむかのように、バルトロは彼女の銀髪を指差して、下卑た笑みを浮かべていた。
「まるで聖教国の聖女を気取っているようで、鼻につくんだよ。お前の兄貴は魔法も使えない出来損ないだってのに、妹の分際でこんな綺麗な髪をしているなんて、生意気だ」
「兄さまのことを、悪く言わないでください」
震える声だったが、フィリーネははっきりとそう言った。しかし、それが傲慢な少年の神経を逆撫でした。
「謝れば済むと思っているのか? その生意気な銀髪、少し切り揃えてやろうか。……いいや、少し焼いてやれば、大人しくなるかもしれないな」
バルトロが魔導杖を彼女に向けた。杖の先に灯る火の魔力が、フィリーネの瞳に赤く映る。
「……やめてください!」
「『火球』!」
放たれた熱い火球が、フィリーネの耳のすぐ横を通り過ぎ、背後の雪山にぶつかって激しい蒸発音を上げた。シュゥゥ、という嫌な音と共に立ち上る湯気と、鼻を突く焦げたような匂い。襲いかかる熱波を前にしても、彼女の瞳は冷静だった。指先はいつでも反撃の詠唱を始められるよう、魔導杖の芯を的確に捉えている。
「ひゃはは! 次は当てるぞ。どうだ、魔法も使えない兄貴を呼んでみるか?」
バルトロが二発目の呪文を唱えようとした、その時だった。
「――そこまでにしてもらおうか」
雪の静寂を切り裂いて、一人の少年が現れた。
ゼノリスだった。
彼は、今の二人が持っているような立派な剣ではなく、演習用の錆びかけた練習剣を一本だけ手にしていた。
「……ゼノリス。何の用だ、出来損ない。また恥をかきに来たのか?」
バルトロが杖を向けたまま、ゼノリスを嘲笑った。
「妹に無礼を働くというなら、相手は僕がなろう。……学園のルールに則り、決闘を申し込む」
ゼノリスの声は、雪の夜のように静かで、けれど動かしがたい意志を湛えていた。
「兄さま、いけません! やめてください!」
フィリーネは叫んだ。相手は火導魔法の使い手だ。ゼノリスが魔法を使えないことは、学園中の誰もが知っていた。けれど、ゼノリスは一度も振り返らなかった。だが、その背中が「手を出すな」と静かに制しているのを、彼女は肌で感じ取った。一人の剣士として立ちはだかる兄の誇りを守るため、彼女はあえて杖を引いたのだ。
「いいだろう、泣いて謝るまで焼いてやるよ!」
火球が次々と放たれた。
ゼノリスは魔法を一つも使わず、ただひたすらに雪を蹴り、攻撃を避け、練習剣で火球を直接叩き落として凌ぎ続けた。
火球が炸裂するたびに、彼の旅装束の袖が焼け、焦げた匂いが漂う。火傷の熱に顔を歪めながらも、ゼノリスは一歩も後ろへは退かなかった。
「なぜだ! なぜ当たらない! なぜ倒れない!」
焦れたバルトロが、最大級の攻撃魔法を放とうと魔力を練り上げた、その瞬間だった。
「――終わりだ」
ゼノリスが、地面の雪を力強く踏みしめた。それは、今までの彼には見られなかった、鋭く、研ぎ澄まされた動きだった。魔法が発動する瞬間の、わずかな空気の歪みを突いて、彼は最短距離で肉薄した。
鈍い音が響いた。ゼノリスの放った練習剣の峰が、バルトロの喉元でピタリと止まっていた。
「……次は、外さない」
ゼノリスの瞳は、雪よりも冷たく、そして激しく燃えていた。バルトロは腰を抜かし、尻餅をついたまま、逃げるように去っていった。
静寂が戻った図書棟の裏で、ゼノリスは緊張が切れたようにその場に崩れ落ちた。
フィリーネは駆け寄り、彼の火傷だらけの腕を抱きしめた。
「兄さま……! どうして、あんな無茶を……」
「……ごめん、フィリー。怖かっただろう。……君の髪は、とても綺麗だ。誰にも汚させやしないよ」
ゼノリスは痛みに耐えながら、震える手で彼女の頭を撫でてくれた。
その手のひらの温かさと、自らの身を削ってでも妹の尊厳を守り抜こうとした兄のはげしい意志。それは、対等なパートナーとして隣に立ち続けるための責任と、二度と彼一人にすべてを背負わせはしないという強固な誓いとして、フィリーネの魂に深く刻まれたのだ。
「……フィリー? どうしたんだい、急に立ち止まって。顔色が悪いよ」
ゼノリスの心配そうな声に、彼女は現実に引き戻された。目の前には、陽光に輝くエテルナの運河と、愛しい兄の顔がある。
「……いえ。昔のことを、少し思い出していただけです。ご心配をおかけしました」
「昔のこと?」
「はい。あの雪の日の、お兄様の背中のことです」
彼女は微笑んで見せた。
ゼノリスは不思議そうな顔をして首を傾げていたが、すぐに「そういえば、あの頃の学園は寒かったね」と、のんびりとした口調で笑った。
ゼノリスは、あの戦いが妹の心に何を残したかを、きっと今も知らない。卒業を迎え、呼び方を「お兄様」に変えてからも、彼女の想いがあの日から一度も揺らいでいないことも。
「……お兄様、あちらの市場も覗いてみませんか。昨日の祝宴のお礼に、今夜は私が何か腕を振るいたいのです。テオも喜ぶと思います」
「それは楽しみだ。フィリーの料理は、学園の寮にいた頃からの僕の元気の源だからね。よし、最高の食材を探そう!」
ゼノリスが力強く歩き出す。
エテルナの明るい街並みの中に、二人の姿は溶け込んでいった。けれど、フィリーネの心の中に秘め続けている想いは、銀色の髪の奥で静かに、けれど熱く、脈動を続けていた。
自由都市エテルナの中央市場に足を踏み入れると、まず肌を刺したのは、帝都のそれとは明らかに異なる重厚な湿り気を帯びた熱気だった。迷路のように入り組んだ路地の両脇には、色あせた赤や青の天幕が、まるで波打つ海面のようにひしめき合っている。石畳の道は、魚屋が鮮度を保つために撒いた真水で常に濡れ、陽光を反射して不規則な銀色の斑模様を浮かび上がらせていた。そこを、潮の香りと魚の臓物の匂いを纏った屈強な男たちが、飛沫を上げて荷車を押し、怒鳴るような声で人混みを割っていく。
「……お兄様、あちらをご覧ください。帝都では見かけない、不思議な形の果物がありますわ」
フィリーネは、人混みに押されないようワンピースの裾を片手で抑えながら、もう一方の指で果物屋の店先を指し示した。
そこには、ごつごつとした岩のような皮に包まれた紫色の果実や、蛇の鱗のような表面をした真っ赤な実が、木箱から溢れんばかりに積み上げられている。その隙間からは、熟れすぎた甘い香りが、むせ返るような香辛料の匂いと混ざり合って漂っていた。
「本当だ。エテルナは自由都市であると同時に、海の向こうの異国とも繋がっている港町だからね。……フィリー、足元が悪い。僕の腕を掴んでいてもいいよ」
ゼノリスが、さりげなく自身の左腕を差し出す。その屈託のない誘いに、フィリーネは一瞬だけ視線を泳がせた。
「……迷子にはなりません。私はもう、お兄様の後ろを付いて歩くだけの子供ではないですから」
「あはは、そうだね。ランクEの冒険者になったんだ。僕の方が、フィリーの魔法に頼りきりにならないように気をつけないといけないな」
ゼノリスは少しだけ寂しそうに、けれど誇らしげに目を細めた。
二人は、テオが事前に「掘り出し物があるはずだ」と息巻いていた『深緑の薬草堂』を目指していた。大通りを外れ、建物の影が落ちる細い裏路地へと入ると、今度は乾燥した植物特有の、鼻を突くような苦い匂いが支配する空間へと変わる。
軒先に吊るされた何十種類ものハーブの束が、微かな海風に揺れてサラサラと乾いた音を立てていた。その店先の隅、泥のついた根や、不気味な形をした黒いキノコの山の中に、一人の少年がうずくまっていた。
「あ、いたよ。……テオ、そんなところで何を見ているんだい?」
ゼノリスの声に、テオは弾かれたように顔を上げた。その鼻の頭には、何かの薬草の粉末だろうか、薄緑色の汚れがべったりとついている。
「あ、ゼノリス! フィリーネ! やっと来た! 見てよ、これ! ただの乾燥した蔓だと思って通り過ぎちゃダメだよ!」
テオは興奮した様子で立ち上がると、二人の鼻先に、土埃にまみれた茶色の塊を突き出した。
「テオ、顔に汚れがついています。……それに、それはただの枯れ枝に見えますけど?」
フィリーネが少し身を引いて指摘すると、テオは「わかってないなぁ!」と首を激しく横に振った。
「これは『潮風草』の、それも三年間も海風に晒されて魔力を蓄えた極上の根なんだよ。ルサルカの海沿いでしか採れない希少種さ。これを細かく削って煎じれば、魔力回復の効率が跳ね上がる。……おじさん、これ全部もらうよ!」
テオは、店主に銀貨を差し出し、宝物でも手に入れたかのような顔でそれを布に包んだ。
「テオ、ルサルカの薬草にそんなに詳しいのですか?」
「え? ああ……学園の図書館で少し読んだことがあったし、それに……ほら、昨日、ライラさんがお話しされていたでしょう。故郷の海の話。それを聞いていたら、なんだか無性に気になっちゃって」
テオは照れくさそうに鼻の頭をこすり、さらに汚れを広げた。
「ルサルカ、ですか。鏡のような海と、風に乗って届くハーブの香り……。ライラさんがお話しされていた景色は、とても幻想的でしたね」
フィリーネの脳裏に、エテルナの宿で出会った吟遊詩人の少女、ライラの姿が浮かぶ。彼女が奏でる竪琴の音色には、どこか遠い故郷を惜しむような、そして同時に何かを恐れているような、切ない響きが混じっていた。
「いつか、僕たちも行けるかな。その、ルサルカって場所に」
テオが期待を込めてゼノリスを見上げる。
「ああ。ランクが上がって、もっと自由に行動できるようになったら、行ってみるのもいいかもしれないね。ライラの故郷を見てみたいし、ナディアもあそこの出身だろう?」
ゼノリスの言葉に、三人は同時に、学園で共に過ごした赤髪の勝気な少女、ナディアの顔を思い浮かべた。彼女の身にも、ルサルカの海が息づいていた。
「そうですね。……ですが、今はまず今夜の晩餐です。テオ、その『極上の根』に合う食材を買いに行きましょう。お兄様、あちらの精肉店も覗いてみませんか?」
「賛成! 次は肉だ、肉! 猪肉のいいやつが、あっちの角の店にあるんだ!」
三人は、再び熱気の渦の中へと戻っていった。テオの背中を追いながら、フィリーネはふと、自分の中に芽生えた確かな「変化」を感じていた。
市場を歩く彼女の右手は、ワンピースの隠しポケットの中で、常に自らの魔導杖の冷たい感触を捉えていた。指先に伝わる細緻な魔導回路の彫刻。それは、彼女が「力」を持っているという残酷な、けれど何よりも愛おしい証明だった。
学園生活の最初の二年間、八ヵ国連合の予算凍結という「鉄の枷」に抗い、地下迷宮や『霧の回廊』での死闘を共闘して乗り越えてきた二人にとって、それは「守る、守られる」といった単純な図式ではなかった。当時11歳だったフィリーネは、すでに『鉛の騎士団』の生命線を担う医療と魔導の専門家としての自覚を持ち、ゼノリスと共に地獄を塗り替えてきた自負がある。だが、あの雪の日の決闘だけは、ゼノリスが彼女の魔導を借りることを拒み、一人の剣士として立ちはだかることを選んだのだ。
理不尽な火球が雪原を焦がす中、彼女はいつでも詠唱を始められるよう、杖を握る指に魔力を込めていた。割り込もうと思えばいつでもできた。だが、ゼノリスの背中が、静かにそれを制していた。自らの身を削ってでも妹の尊厳を守り抜こうとする、兄の一歩も退かぬ激しい意志。あの時の雪の冷たさと、兄の腕を流れた血の熱さは、単なる恐怖の記憶ではない。それは、対等なパートナーとして隣に立ち続けるための責任と、二度と彼一人に全てを背負わせはしないという強固な誓いとして、今も彼女の魂に深く刻まれている。
(……私はもう、あの日のように立ち尽くしはいたしません)
昨夜の戦い。リードストリングが蠢く、あの生理的な嫌悪感を催す不気味な暗闇の中で、彼女が放った「氷結の鎖」は、確かにその手応えを彼女の魂に刻んでいた。魔力を練り上げる際に全身の血管を駆け巡る、凍てつくような鋭い痛み。それは、彼女が「誰かを守るための力」を掴み取ったという証に他ならない。
(お兄様が世界の不協和音を調律するとおっしゃるのなら。私は、その手を煩わせる雑音を、この手で完全に凍らせてみせます。……それが、今の私にできるお兄様への応えです)
その決意は、市場の明るい陽光の下で、一点の曇りもなく彼女の心の奥底で揺れていた。
「フィリー、どうしたんだい? 急に足を止めて。……あ、もしかしてあのアクセサリーが気になるのかい?」
ゼノリスの声が、彼女を思考の深みから引き戻した。見れば、ゼノリスは路店に並んだ、青い魔石をあしらった銀細工の首飾りを指差している。
「……いえ。今夜の隠し味に、テオが見つけた薬草をどう使おうか、考えていただけです。行きましょう、お兄様」
フィリーネは努めて明るく答え、駆け寄った。
市場の賑わいはさらに増し、夕暮れが近づくにつれて、街は黄金色の輝きを増していく。石畳の湿り気は乾き始め、代わりに焼き上がったパンの香ばしい匂いと、家々の煙突から上がる煙の匂いが混ざり合う。
しかし、その幸福な光景の断片に、彼女の魔導師としての鋭敏な感覚は、微かな「不快なノイズ」を捉えていた。
人混みの隙間。使い古された荷車の陰に、汚れた毛布を頭から被り、石畳に蹲っている物乞いの老人がいた。その老人が漏らした、乾いた、それでいてどこか粘り気のある不気味な咳の音。
「……ゴホッ、ゲホッ……オエッ……」
それは、この活気に満ちた市場の響きとは明らかに異質だった。どこか、昨夜の鍾乳洞で耳にしたリードストリングの蠢きに似た、重く淀んだ響き。そして、老人の口元から零れた唾液の中に、一瞬だけ、銀色に光る細い「糸」のようなものが混ざっていたのを、フィリーネは見逃さなかった。
「……っ」
フィリーネが足を止めようとした瞬間、それを遮るようにして背後から陽気な楽師の鐘の音が響き渡った。
「フィリーネ! 早く! この店、もうすぐ売り切れちゃうよ!」
テオの大きな声に促され、フィリーネは一瞬だけ老人の方を振り返り、それから再び前を向いて歩き出した。老人の姿は瞬く間に人混みの向こうへと消えた。後に残ったのは、ただ賑やかな市場の日常だけだった。
夕暮れが街を黄金色に染め始める。エテルナの太陽は、彼らの銀色と琥珀色の髪を優しく照らし続けていた。
しかし、その輝きのすぐ隣で、音のない夜の影は確実に、そして密やかにその領土を広げようとしていた。フィリーネの右手が杖を握りしめる力が、無意識のうちに強まっていく。
(……この胸騒ぎは、何でしょうか)
彼女は、隣を歩くゼノリスの横顔を見上げた。彼は楽しげにテオと今夜のメニューを議論している。その横顔を守るためなら、自分はどんな異形とも戦えると、彼女は改めて自分に言い聞かせた。
休息日は終わりを告げようとしている。けれど、本当の「戦い」は、まだエテルナの影の中に潜んだまま、じっと時を待っていたのである。
エテルナの街が夕刻の柔らかな金色に染まり、家々の煙突から夕食の支度を告げる白煙が揺らめき始める頃、三人は市場での戦利品を抱えて「青い星の宿」へと戻った。
一階の食堂は、海から戻った漁師や一日の仕事を終えた冒険者たちの熱気で溢れ返っている。塩の匂い、安酒のツンとした香り、そして大鍋で煮込まれた猪肉と根菜の芳醇な匂い。窓から差し込む斜光が、宙に舞う埃さえも黄金の粒に変え、使い込まれた木製のテーブルの深い傷跡を艶やかに照らし出していた。
「あ、皆さん、おかえりなさい!」
食堂の隅、夕陽が最も長く留まる窓際の席。一冊の手帳を愛おしそうに広げていたライラが、三人の姿を見つけて顔を輝かせた。彼女の傍には、いつも肌身離さず持っている古びた竪琴が立てかけられ、その弦が窓からの光を反射して、細い糸のように鈍く光っている。
「ただいま、ライラさん。……見てください、テオが貴方の故郷の特産品を発掘してきたのです」
フィリーネが、編み籠の中から橙色の果実を取り出した。ルサルカ産のオレンジ。その皮は驚くほど薄く、表面には微細な油分が滲んで、夕陽の下で宝石のように輝いている。
「わあ……! 本当に、ルサルカのオレンジですね。……ああ、この匂い。潮風に洗われたような、ほんのりとした甘い香り。ずっと、心の奥で探していた気がします」
ライラは差し出された果実を、壊れ物を扱うように両手で受け取った。彼女がその表面に指先を滑らせ、鼻先へ寄せて深く息を吸い込むと、その長い睫毛がかすかに震えた。
「ライラさんは、今日はどのように過ごされていたのですか?」
ゼノリスが、使い込まれた木の椅子を引きながら尋ねた。ライラはオレンジを大切そうにテーブルに置き、少しだけ誇らしげに、けれど困ったような苦笑いを浮かべて答えた。
「ええ、午後から少しだけ街を歩いてきたんです。市場の喧騒から離れて、噴水広場の方へ。……そこで、ひどく苦しそうに蹲っている老人を見かけて。放っておけなくて、宿から持っていたお水を差し上げて、ほんの少しだけ私の魔力を分けた歌を聴かせてあげたんです」
「……老人、ですか」
フィリーネが、手に持っていた荷物を置く動きを止めた。昼間の市場、荷車の陰。汚れた毛布の下で聞いた、肺を削り取るような不快な咳。心の奥底を逆なでするような、湿り気を帯びた響きが、嫌な予感と共に脳裏を掠める。
「はい。ボロボロの毛布を頭から被った方でした。お礼を言う元気もなさそうでしたけど、私の歌を聴いているうちに、最後には少しだけ呼吸が楽になったみたいで、静かに人混みの中に消えていきました。……あの方は、大丈夫だったのかしら」
ライラが心配そうに小首を傾げる。フィリーネはその特徴を聞きながら、自らの指先が冷たくなっていくのを感じていた。魔導師としての直感が、ライラの「善意」が招いたかもしれない最悪の結果を、冷酷に囁き始めていた。
「ライラさん、その方は……その、咳の音に何か心当たりはありませんでしたか? 例えば、何かがのどに張り付いているような……」
「……そうですね、とても乾いた、けれど粘り気のある咳でした。でも、最後の方は眠るように静かになって。……あ、ごめんなさい。せっかくの休息日に、こんな暗いお話をしてしまって」
「いえ、そんなことはありません。……ライラさんは、本当に、とてもお優しいのですね」
フィリーネは努めて穏やかに微笑んだが、内心では、自身の右手が隠しポケットの中の杖を強く握りしめていることに気づいていた。約束された安寧を捨て、自らの意思で選び取った生き方を信じる彼女の覚悟。その決意が、このエテルナの影に潜む「何か」によって汚されないことを、祈るしかなかった。
その夜。
エテルナの街が深い藍色の静寂に包まれ、宿の灯火が次々と消えていった頃。 隣の部屋から聞こえてきた異常な響きに、フィリーネは真っ先に跳ね起きた。
「……ッ!」
激しい、あまりにも激しい咳。それは肺の組織そのものを掻き毟るような恐ろしい響きで、薄い壁を突き抜けて彼女の鼓膜を打った。
フィリーネが部屋を飛び出すと、ほぼ同時に、隣の部屋から剣を掴んだゼノリスと、顔を強張らせたテオが姿を現した。
「フィリー、今の音は……!」
「ライラさんの部屋です! お兄様、行きましょう!」
三人がライラの部屋の扉を勢いよく開けると、そこには、冷たい石畳の床に崩れ落ち、のどを掻き毟るようにして悶え苦しむライラの姿があった。窓から差し込む青白い月光が、彼女の白磁のような肌を死人のような灰色に染め上げている。
「ライラさん! しっかりしてください!」
フィリーネが即座に駆け寄り、彼女の身体を支え、抱き上げた。だが、その肌は触れた瞬間にゾッとするほど冷たく、それでいて、内側からは逃げ場を失った熱が異常な鼓動となって伝わってくる。
「……ゴホッ、ゲホッ……! ゲホッ、オエッ……!」
ライラの口元から、粘り気のある唾液と共に、銀色に光る細い「糸」のようなものが吐き出された。それは月の光を反射して不気味に蠢き、まるで意思を持っているかのように、彼女の細い首筋へと絡みついていった。
「これは……昨夜の、リードストリング……!?」
ゼノリスが戦慄の声を上げる。
「何なんだよこれ、なんで糸が動いて……っ! ライラ、しっかりしろ!」
テオが激しく動揺しながら、彼女の手を握りしめた。だが、その手さえも死人のように凍てついている。
「ライラさん、私の目を見てください! すぐに中和魔法を試みます!」
フィリーネは魔導杖を構え、全身の魔力を指先に集中させた。かつて学園生活の最初の二年間、数多の過酷な試練を共闘して乗り越えてきた医療魔導師としての冷静な判断。だが、彼女がライラの体内へ魔力を流し込もうとした瞬間、強烈な拒絶反応が彼女の神経を灼いた。
「くっ……! 魔力の波長が完全に書き換えられています……! これでは、魔法を流し込む隙間さえありません!」
「……あ……う……」
ライラが顔を上げた。助けを求めるようにゼノリスの服の裾を掴み、唇を必死に動かす。 だが、そこから溢れたのは、夜の空気を震わせる美しい歌声ではなかった。
――シュ……。
穴の開いたふいごから空気が漏れるような、虚しい吐息。
彼女の喉からは、声も、言葉も、そして自らの意思で選び取った生き方の証さえも、銀色の侵食によって無残に奪われていた。
ライラは信じられないというように何度ものどを抑え、音を失った唇を震わせる。その瞳からは、一筋の涙が零れ落ち、床に転がったルサルカのオレンジを濡らした。 月光の下で、彼女の首筋に絡みついた銀色の糸が、獲物を捕らえた蜘蛛のように静かに、そして禍々(まがまが)しく拍動を始めていた。フィリーネの右手が、無意識に杖を握りしめる。




