第20章:昇級への円舞曲(ワルツ)
自由都市エテルナの朝は、港に停泊する船が鳴らす、低く長い汽笛の音から始まった。
「青い星の宿」の窓から差し込む朝の光は、昨日まで見ていた薄暗い水路の影をすっかり消し去るほどに明るく、そしてどこか賑やかだった。
ゼノリスは、使い込まれた木のベッドの上で、自分の右手のひらをじっと見つめていた。昨夜、豪商ガルドの邸宅の地下で触れた、あの漆黒の塊の感触が、まだ指の先にこびりついているような気がしたからだ。
(……あれが、世界の歪み。ガント先生が言っていた、不協和音の正体なんだな)
指先から伝わってきた「這い寄る鉛糸」の、あの震えるような、それでいて冷たい感触。それは今も微かな熱となって、肌の奥に残っている。この世界の調和は、すでに街の土台というべき暗い深淵から、音もなく這い上がり、確かな侵食を始めているのだ。
一階の食堂へ降りると、そこにはすでにエテルナの朝の活気が溢れていた。大きな鍋から立ち上る湯気と、香ばしく焼けるパンの匂い。女将さんのマーサが、宿泊客の間を元気に動き回り、その豪快な笑い声が壁を揺らしている。
その賑やかな喧騒の一角で、ゼノリス、フィリーネ、テオの三人は、少し重い空気の中でテーブルを囲んでいた。
「……『這い寄る鉛糸』。それが、この街を、そして世界を蝕もうとしている正体なんだ」
ゼノリスは、昨夜の地下倉庫で見た異様な光景と、ガント先生から託された言葉について、二人に静かに語り聞かせた。
フィリーネは、銀色の髪を朝日に輝かせながら、一言も聞き漏らさないように兄の言葉を見つめていた。彼女の細い指先が、テーブルの上でわずかに震えている。それは怖がっているのではなく、兄が一人で背負ってきた秘密の重さを知り、一緒に支えようとする決意の現れだった。
「お兄様が昨夜、形を整えたあの黒い濁りは、ただ魔力が乱れていたわけではないのですね。世界の仕組みそのものを壊そうとする、悪い意志のようなもの……ということでしょうか」
「ああ。ガント先生によれば、かつて『星帝』が定めた世界の調和が、今、何者かの手で歪められようとしているらしい。……僕は、その狂いが生じた拍子を、正しく整え直さなければならないんだ。この街の物流が滞ったのも、その巨大な不協和音の一端に過ぎない。」
「……だから、ゼノリスはあんなに耳を痛がっていたんだな」
テオが、いつになく真剣な顔で頷いた。彼は自分の大きな盾を足元に引き寄せると、その重さを確かめるように拳を握った。
「僕は魔法のことはよくわからない。でも、その変な震えがゼノリスを傷つけるっていうなら、僕の盾の出番だ。どんなに嫌な響きが伝わってきても、僕が全部跳ね返してやる。……だから一人で抱え込まないでくれよ、ゼノリス」
テオの真っ直ぐな言葉に、ゼノリスの心の強張りが少しだけ解けていく。
「ありがとう、テオ。……フィリーも、昨夜は助かったよ。君の綺麗な魔力の響きがなかったら、僕はあの闇に呑み込まれていたかもしれない」
「……私は、お兄様の剣であり、守る者です。どんな時でも、お兄様の隣にいます」
フィリーネは、真っ直ぐな瞳でゼノリスを見つめた。そこには、守られるだけだった妹の姿はもうなかった。
その時、食堂の入り口から、川の流れのような涼しい音が聞こえてきた。
窓際の席で、ライラが竪琴に指を滑らせている。彼女の奏でる音楽は、朝の光に溶けるように透き通っていて、三人の間の重苦しい空気を優しく洗ってくれるようだった。
「おはよう、ステラ・レギオンの皆さん。……なんだか難しい話をしていたみたいだけど、私の音楽で少しは元気が出たかしら?」
ライラが竪琴を抱えたまま、楽しそうに歩み寄ってきた。彼女の周りには、昨夜ゼノリスを苦しめたような「嫌な震え」はどこにもない。彼女自身が、この世界と仲良く溶け合っているように見えた。
「おはよう、ライラ。……君の音楽を聴くと、なんだか頭の中がすっきりするよ。ありがとう」
「ふふ、嬉しいわ。……ところで、今日はこれからギルドに行くのでしょう? ランクを上げるための試験があるって、ルカが嬉しそうに言い回っていたわよ」
「……ああ。エテルナの深い場所に隠れている悪い音と戦うためには、今のままじゃ力も足りないし、もっと自分たちを鍛えなきゃいけないからね」
ゼノリスは立ち上がり、腰にある使い慣れた剣を確かめた。
昨夜の戦いで、彼は思い知らされていた。いくら悪い音に気づいても、それを解決するための「体」と「技」がなければ、何も守ることはできないのだ。
最近、ゼノリスの体の中では、不思議な変化が起き始めていた。
ただ音が聞こえるだけでなく、自分の魔力が周りの空気と溶け合う瞬間が、手に取るようにわかるのだ。右手に力を込めれば、火が燃えるような激しい動きを感じ、左手を空気に解き放てば、風が吹くような軽いリズムが指先を通り抜けていく。
(……僕の中にある、この感じ。ガント先生に教わった魔法とは違う、もっと深いところにある力……)
それは、世界そのものを読み解き、自分の力に変えるような感覚だった。ゼノリスは、その力がかつて世界を救ったという「勇者」の力に近いものであることを、まだ自分ではわかっていなかった。だが、その力の欠片が、自分の中で眠りから覚めようとしていることだけは感じていた。
「さあ、行きましょう、お兄様。テオ、忘れ物はありませんか?」
フィリーネが立ち上がり、自分の杖を手に取った。彼女もまた、昨夜のことで、自分の魔法がより鋭くなっているのを感じているようだった。
「おう! 盾も準備できてるし、お腹もいっぱいだ!」
テオの元気な声に、女将さんのマーサが笑いながら見送ってくれた。三人はライラに挨拶をして、朝日が眩いエテルナの街へと歩き出した。
宿を出て少し歩くと、エテルナの目抜き通りに出る。
朝の市場は、威勢の良い商人たちの掛け声と、荷車が石畳を叩く音で溢れかえっていた。色とりどりの野菜、港から届いたばかりの銀色に光る魚、そして焼きたての香辛料の香りが空気の中に混ざり合っている。
ゼノリスは、その活気溢れる音の風景の中に、昨日ガルドが言っていた「止まっていた循環」が、少しずつ動き出しているのを感じていた。
「見て、お兄様。空に……」
フィリーネが指差した先、エテルナの青い空に、うっすらと虹のような光の筋が見えた。 それは本物の虹ではなく、ゼノリスが昨夜調律した魔導回路が作り出した「空間の空洞」だった。あの光の中を通って、エテルナの物資は瞬時に遠くの街へと運ばれていくのだ。
「……よかった。昨日の調律は、ちゃんと意味があったんだな」
ゼノリスがそう呟きながら、人混みを縫うようにして歩を進めた先で、ようやくギルド『万物の盾』の建物が姿を現した。
建物はすでにたくさんの冒険者たちで混み合っていた。今日は一ヶ月に一度の、ランクを上げるための試験の日だ。一階の広場には、新しいランクを目指す元気な若者たちが集まり、鉄の匂いや、張り詰めたような熱気が渦巻いている。
「……思っていた以上に、みんなピリピリしているな」
ゼノリスは周りを静かに見渡した。昨日までの水路掃除で一緒だった顔も見えたが、今日は誰もが武器を磨くのに必死で、隣にいる仲間さえ敵のように睨み合っている。
その時、広場の真ん中で、大きな笑い声が響いた。
「おいおい、見てろよ。あそこの三人組……昨日ガルドさんの屋敷に馬車で招かれてたっていう、噂の新人だろ?」
声の主は、重たい鎧を着て、自分の背丈ほどもある大きな剣を背負った男だった。周りには、同じように手慣れた様子の仲間たちが数人、バカにするような笑みを浮かべて立っている。
「裏から手を回してガルドさんに気に入られたのか知らねえが、ここはギルドだ。実力がなけりゃ、試験で恥をかくだけだぜ。……なあ、お坊ちゃん?」
男がゼノリスの前に立ちはだかった。
ゼノリスは、男の周りにある「気配」を静かに探った。威張っている態度や焦りの混ざった、汚れた響き。だが、その奥には、長い間この街で戦ってきた者特有の、しっかりとしたリズムもわずかに感じ取ることができた。
「……実力があるかどうかは、この後の試験でわかることだと思います。僕たちは、自分のやるべきことをやるだけです」
ゼノリスが落ち着いて答えると、男は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふん、可愛くない野郎だ。俺たちは『鋼の旋風』パーティだ。この街で一つ上のランクを目指している。……試験の途中で泣き言を言っても、助けてやらないからな」
男たちが去っていく後ろ姿を見送りながら、フィリーネが冷たい視線を向けた。
「……無用の雑音です。お兄様、あんな人たちのことを気にする必要はありません」
「……ああ。でも、ああやって心が乱れていることこそ、今のこの街に漂っている不安の現れなのかもしれない」
やがて、ギルドの壇上に一人の重役が現れた。
広場を埋め尽くしていた冒険者たちが、一瞬で静まり返る。重役が手にした羊皮紙を広げ、今日行われるランク昇級試験の概要を読み上げ始めた。
「今日の試験内容は、エテルナの北西に位置する『静寂の鍾乳洞』の調査、およびそこに生息する魔獣の討伐である。さらに、洞窟の最奥に設置された『魔導水晶』を回収し、正午までにここへ持ち帰ったパーティを、ランクEへと昇級させるものとする!」
広場がどよめきに包まれた。
『静寂の鍾乳洞』。そこは名前とは裏腹に、魔力の乱れが激しく、新人が挑むには危険な場所として知られていた。
ゼノリスの感覚は、まだ見ぬ洞窟の奥から聞こえてくる、わずかな、でも確かな「世界の歪み」をすでに捉えていた。
(昇級試験……。ただの試験では終わらない気がする)
ゼノリスは、剣の持ち手を握る手に力を込めた。その手のひらからは、昨日よりもずっと強く、火のように熱い魔力の脈動が伝わってきていた。
自由都市エテルナの賑やかな街並みを離れ、一行は北西の険しい山道を一時間ほど歩き続けた。
道は次第に細くなり、足元には尖った岩のかけらが転がっている。見上げる空はどこまでも青く澄み渡っていたが、目指す『静寂の鍾乳洞』が近づくにつれて、山を包んでいた鳥のさえずりや木々のざわめきが、不自然なほどに消えていった。
「……ここが、試験の舞台だね。入り口からして、あまり歓迎されている感じはしないな」
ゼノリスは、洞窟の入り口から溢れ出してくる冷たく重い空気を感じていた。
それは単なる地下の湿り気ではない。学園の演習場などで触れてきた、管理された魔力とは正反対の、荒々しく、どこか「濁った」響きがそこにはあった。
「お兄様、見てください。入り口の岩陰に、珍しい青い苔が。……テオ、これ、あなたが探していた薬草の仲間ではありませんか?」
フィリーネがふと足を止め、岩の隙間を指差した。テオは大きな盾を背負い直すと、ひょいと顔を近づけて目を細めた。
「本当だ……。これ、傷薬の効き目を高める『月光苔』だ。こんなところにあるなんて。……あ、でも、今は試験中だったね。終わった後にまだ残ってたら、少しだけ分けてもらおうかな」
テオはいつもの穏やかな表情で、苔を慈しむように見つめた。彼は争いよりも、山に咲く草花や薬草の調合を愛する心優しい少年だ。その大きな体には似合わないほど、その物腰は柔らかく、内気な「僕」の言葉遣いがよく似合っていた。
その時、背後から荒々しい足音とともに、数人の男たちが現れた。先ほどギルドで絡んできた大剣使いの男が率いる『鋼の旋風』パーティだ。
「おいおい、入り口で草むしりか? おままごとは学園の中でやってな、お坊ちゃんたち! 先に行かせてもらうぜ。魔導水晶もランクEの称号も、全部俺たちが頂いていくからな!」
男はゼノリスの肩をわざとぶつけるようにして追い越し、仲間とともに洞窟の暗闇へと駆け込んでいった。その後を追うように、他の受験パーティも次々と中へ吸い込まれていく。
「……行こう。僕たちも、自分たちのペースで」
ゼノリスは落ち着いていた。急いで飛び込むことよりも、洞窟全体から伝わってくる不規則なリズムを掴むことを優先した。
彼の一歩は、迷いがない。地面を踏む音、服がこすれる音、そして仲間の呼吸。それらすべてを一つの合奏のように感じながら、ゼノリスは自分の魔力を周りの空気に馴染ませていった。
(右側の壁の奥に、三体。天井には五体……いや、六体か)
今のゼノリスには、耳で聞かなくてもわかった。そこにいる生き物の「鼓動」が、周りの岩や風とどう響き合っているか。その僅かな違和感を見つけるだけで、暗闇の中にある敵の位置が、頭の中に鮮やかな地図となって浮かび上がっていた。
洞窟の中盤、道が狭くなり、天井から巨大な鍾乳石が牙のように突き出している場所に差し掛かったときだった。
不意に、天井の影がざわりと揺れた。
次の瞬間、無数の黒い翼が三人を襲った。吸血蝙蝠。新人が最初にぶつかる壁とされる、魔獣の群れだ。
「……来たよ、テオ! フィリーネは下がって!」
「わかった、僕が止めるよ!」
テオが素早く前に出て、盾を構えた。しかし、蝙蝠たちは予想以上に数が多く、四方八方から鋭い牙を剥いて襲いかかってくる。さらに、後方から一際大きな影が、呪文を唱え始めたばかりのフィリーネの死角へと飛び込んだ。
「あ……!」
フィリーネの顔が凍てついた、その時だった。
「――お前ら、いい加減にしろよ」
地鳴りのような、低く重い声が洞窟内に響き渡った。
テオだった。
彼の周囲の空気が、一瞬で熱を帯びたように膨み上がる。ゼノリスが目を見開くなか、テオの体に異変が起きた。
着慣れた旅装束の袖が、内側から盛り上がる筋肉に耐えかねて悲鳴を上げる。優しかった彼の顔つきは一変し、鼻先が獣のように突き出し、鋭い犬歯が唇の端から覗いた。全身を覆う琥珀色の魔力が、本物の獣の毛並みのように逆立ち、圧倒的な威圧感を放ち始める。
それは、獣族が成人を迎えた証――命を懸けて仲間を守るときにのみ解禁される、真の姿への『変身』だった。
「テオ……!?」
フィリーネが驚きで声を漏らす。しかし、変身したテオに迷いはなかった。彼は丸太のような太い腕で、身の丈ほどもある重盾を羽のように軽く振り回した。
「俺の仲間に、汚ねえ牙向けてんじゃねえぞ!」
戦士としての「俺」に変わったテオが、地面を蹴った。その一歩で石畳が砕け、突進の風圧だけで数体の蝙蝠が壁に叩きつけられる。彼はフィリーネの目の前で盾を叩きつけると、そこから爆発的な衝撃波を放ち、群れの中央を粉砕した。
「フィリー! お前は後ろで構えてろ! 雑魚は全部、俺が引き受けてやる!」
「……っ、ありがとうございます、テオ!」
フィリーネが我に返り、杖を突き出した。テオが作ってくれた「絶対的な安全な場所」を信じ、彼女は最高効率の攻撃魔法を組み上げていく。
ゼノリスも、その熱量に呼応するように動いた。
彼の剣筋は、以前のような「ただ当てるための剣」ではなかった。
相手が次に動こうとするときに生じる、魔力の「わずかな溜め」――その拍子が崩れた瞬間を突く一撃。無駄な動きをすべて削り落とし、最短距離で急所を貫く。その立ち振る舞いは、かつて歴史に刻まれた「勇者」の剣技そのものだった。
(……火、風、そして土。世界の仕組みを、僕の呼吸に合わせろ)
ゼノリスは剣を振りながら、左手で空中に漂う目に見えない力を掴んだ。
今までの彼なら、火を出すためには長い呪文が必要だった。だが今は違う。周りにある火の属性の「響き」に、自分の魔力を同調させるだけでいい。
「――燃えろ(エクスプロード)」
ゼノリスの剣の先から、音もなく透明な炎が噴き出した。それは蝙蝠の超音波のリズムを焼き切り、残りの群れを一瞬で灰に変えた。
さらに、逃げようとする個体に対して、地面にある土の力に干渉し、鋭い岩の棘として突き上げた。
剣と魔法が、まるで一つの音楽を奏でるように噛み合っている。
「……すごい。お兄様、今の動き……それにテオ、あなた、そんな力が……」
フィリーネが杖を収め、驚嘆の声を上げた。
蝙蝠の最後の一体を、テオが素手で握り潰すと、洞窟に再び静寂が訪れた。テオの体から立ち上っていた蒸気のような魔力が収まり、盛り上がっていた筋肉がゆっくりと元に戻っていく。鋭かった顔つきも、徐々にいつもの柔和な少年のものへと溶けていった。
「……あ、あれ? 終わったかな。……フィリーネ、怪我してない? 大丈夫?」
その瞬間、口調もいつもの内気な「僕」へと戻った。テオは自分の手を見つめ、少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「驚かせちゃってごめんね。……16歳になってから、なんだか体の中から不思議な力が湧いてくるようになって……。でも、自分でもいつ使えるか分からなくて、さっき初めて成功したんだ」
ゼノリスは、少し疲れた様子のテオの肩を強く叩いた。
「助かったよ、テオ。……今の君がいなければ、もっと苦戦していた。素晴らしい変身だった」
「え、へへ……そうかな。それならいいんだけど……」
テオは照れくさそうに笑ったが、その瞳の奥には、大切な仲間を守り抜いたという確かな誇りが宿っていた。
しかし、勝利の余韻に浸る時間は短かった。
洞窟の奥から、再び不気味な震えが伝わってきたからだ。それは魔獣の叫び声ではなく、金属がこすれ合うような、あの忌まわしい不協和音。
「……まただ。昨夜よりも、もっと深く、ねっとりとした音だ」
ゼノリスの表情が険しくなる。
さらに、前方から悲鳴と、あの『鋼の旋風』の男たちが叫ぶ声が聞こえてきた。
「なんだこれ、離せ! この黒い紐は一体……ぐあああっ!」
ゼノリスたちは顔を見合わせ、声のする方へと駆け出した。
ゼノリス、フィリーネ、テオの三人が広場に踏み込んだ瞬間、目に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。鍾乳洞の奥、青白く光る魔導水晶が安置された広い空間は、いまや天井からも壁からも伸びる「黒い腕」によって埋め尽くされていた。
それは昨夜見た「這い寄る鉛糸」が、さらに太く、より凶暴に形を変えたものだった。それはまるで巨大な蜘蛛の足のようにうねり、逃げ惑う受験者たちの手足に絡みついては、壁へと叩きつけていた。
「ぐああかっ! 離せ、この……っ!」
中心で叫んでいたのは、あの『鋼の旋風』のリーダーだった。
彼は誇りであったはずの大剣を地面に落とし、首筋に巻き付いた黒い糸を必死に引き剥がそうともがいている。彼の仲間たちも、すでに糸に絡め取られ、宙に吊るし上げられていた。
「お兄様、あれを! 核となっている場所から、嫌な響きが溢れ出しています!」
フィリーネが杖を構え、鋭い声を上げた。
魔導水晶の清らかな輝きを飲み込むように、黒い糸の根元がどろどろと波打っている。そこから放たれる不協和音は、耳を塞ぎたくなるような、吐き気を催す震えとなって空間を支配していた。
「……助け……てくれ……っ」
『鋼の旋風』リーダーの視線がゼノリスとぶつかった。傲慢だった男の瞳は、いまや死の恐怖に塗り潰されている。
「テオ!」
「わかってる! 俺が道を作る!」
テオの体が、再び熱を帯びて膨れ上がった。
二度目の変身は、より本能に近い。盛り上がる筋肉が服を押し上げ、鋭い爪が重盾の持ち手をきしませる。
テオは獣の咆哮とともに、黒い触手が渦巻く真っ只中へと突進した。
ガキィィィィン! という、金属同士がぶつかるような衝撃音が響く。
テオは槍のように突き出された鉛糸を盾で正面から受け止め、そのまま強引に押し返した。
「フィリー! 奴の動きを止めろ! ゼノリスは、あの中央の『塊』を狙え!」
「はい! 凍てつけ……氷結の鎖!」
フィリーネが放った魔法が、『鋼の旋風』のメンバーたちを縛り上げていた鉛糸の根元を氷の中に閉じ込めた。一瞬、糸の動きが止まる。
その隙を、ゼノリスは見逃さなかった。
(……一撃で終わらせる。僕たちのリズムであの闇を上書きするんだ)
ゼノリスは走りながら、剣を鞘から抜いた。
視界の端で、凍結を逃れた黒い糸が鞭のように自分を狙っているのがわかる。だが、彼は足を止めなかった。テオが自分のために盾を振るい、道を切り開いているのを確信していたからだ。
(火の熱さ、土の重さ、風の鋭さ。……星帝が定めた世界の調和を、この一振りに!)
ゼノリスの脳内で、バラバラだった属性の響きが、一つの旋律へと重なり始めた。
多属性同時制御。
剣の芯に土を、刃に風を、それから先端に火の魔力を。
それは「魔法を使う」というよりも、空間そのものを正しく「調律」するような感覚だった。
「核」の目の前まで駆け上がったゼノリスは、渾身の力で剣を振り下ろした。
「――星帝の旋律に、還れ!」
三色の光が螺旋を描き、鉛糸の核を真っ向から貫いた。
パキィィィィィン! という、世界が鳴動するような清らかな音が、鍾乳洞の中に響き渡る。
次の瞬間、あれほど禍々(まがまが)しかった黒い糸が、光の粒子となって弾け飛び、洞窟全体を包んでいた不快な重圧が、嘘のように消え去った。
「……はぁ、はぁ……っ!」
ゼノリスは、その場に膝をついた。
全身の力が抜け、指先一つ動かすのも億劫なほどの疲労が押し寄せる。しかし、その耳に届いたのは、魔導水晶が放つ本来の、澄み渡った美しい共鳴だった。
「終わった……んだね」
フィリーネと、変身が解けて「僕」の顔に戻ったテオが駆け寄り、ゼノリスの両脇を支えた。
壁際では、自由になった『鋼の旋風』たちが、信じられないものを見るような目でゼノリスを見つめていた。
「……お前……。お前が、あれを……」
『鋼の旋風』のリーダーが、震える足で歩み寄ってきた。彼は地面に落ちていた自分の大剣を拾い上げ、鞘に収めると、深く、深く頭を下げた。
「ガリックだ……『鋼の旋風』を率いている。……すまなかった。お前たちのことを、ただの運が良いだけのガキだと思ってた。だが、今のを見て分かった。……お前たちこそが、本当の冒険者だ。命を救ってくれて、ありがとう」
ガリックの真っ直ぐな言葉に、ゼノリスは少しだけ微笑んだ。
「……ゼノリスです。お礼はいいですよ。僕たちは、やるべきことをやっただけですから」
三人は、再び輝きを取り戻した魔導水晶を回収し、山を下りた。
帰り道、夕焼けに染まるエテルナの街が見えてくると、テオが「お腹が鳴っちゃいそうだ」と笑い、フィリーネが「お兄様を休ませるのが先です」と窘める。そんな何気ないやり取りが、ゼノリスには何よりも心地よい音楽に聞こえていた。
ギルド『万物の盾』に戻ったのは、夜の帳が降りる頃だった。
仰々(ぎょうぎょう)しい式典などはなかった。窓口でガリックたちが熱っぽく状況を報告し、ゼノリスが魔導水晶を返却すると、受付嬢の手によって、三人の前に新しいプレートが置かれた。
鈍く、しかし確かな存在感を放つ、銀色の「ランクE」のプレート。
それを受け取った瞬間、ゼノリスは自分が一歩、この世界の真実に近づいたことを実感した。
「……よし! 今日は俺の奢りだ! 飲め、食え、野郎ども!」
ガリックの豪快な掛け声とともに、一行は「青い星の宿」の酒場へと流れ込んだ。
扉を開けた瞬間、熱気と酒の匂い、そして冒険者たちの笑い声が三人を包み込む。
酒場の中央に陣取った一行のテーブルには、次々と大皿料理が運ばれてきた。
エテルナ名物の「鉄鍋グリル」は、厚切りの豚肉が、荒く砕いた岩塩とハーブの上でパチパチと音を立てて焼かれている。その香ばしい脂の匂いが、空腹の三人の鼻腔を激しく突いた。
「わあ……! ガリックさん、これ、本当に食べていいんですか?」
「当たり前だ! お前があの盾で守ってくれなきゃ、俺は今頃あの世で冷えてたんだからな! さあ、冷めないうちに詰め込め!」
テオは嬉しそうに耳を揺らし、熱々の肉にかじり付いた。
「……んん! このお肉、すごく美味しいです。味付けに使われているのは、野生のローズマリーと……あ、少しだけ『山ニンニク』の根が使われていますね。この香りが、お肉の旨みを引き立てていて……僕、この味、大好きです!」
戦場での猛々(たけだけ)しさはどこへやら、内気な「僕」に戻ったテオは、薬草の知識を交えながら幸せそうに頬を膨らませた。
その横では、フィリーネが少し照れながらも、女性冒険者たちに囲まれて戦いの様子を聞かれていた。
「……お兄様が、空間の乱れを読み解いて……その、私とテオは、お兄様の背中を支えていただけです」
彼女は誇らしげに言いながらも、運ばれてきた「木苺のタルト」を一口食べると、ふっと頬を緩ませた。
ゼノリスは、自分の隣で豪快にエールを煽るガリックを見た。
「なあ、ゼノリス。お前たちのあの力……魔法をいくつも同時に使うやつ。あれ、一体どうなってるんだ。学園の優等生でも、あんなに滑らかには動けねえはずだぜ」
「……僕にもよく分かりません。ただ、そうしないと、音が合わなかったんです。僕にとって、剣を振るのも魔法を放つのも、一つの音楽を作るのと同じことですから」
「ははっ! やっぱり変な野郎だ」
ガリックは自分のジョッキをゼノリスのそれにぶつけると、少しだけ声を低くした。
「……正直に言うぜ。俺は今まで、ランクが上がることばかり考えて、隣にいる仲間を信じ切れていなかったのかもしれない。今日、お前たちが背中を預け合って戦う姿を見て、目が覚めたよ。……次は俺たちも、お前たちに負けないくらい強いパーティになってみせる。ランクDで、また会おうぜ」
ガリックの言葉には、かつての傲慢さはなく、ライバルとしての確かな熱が宿っていた。ゼノリスは力強く頷き、ジョッキを飲み干した。
夜が深まり、酒場の喧騒の端で、ライラが静かに竪琴を弾き始めた。
彼女の奏でる調べは、荒々しい男たちの笑い声さえも、一つの美しい背景へと変えていく。
ゼノリスは、胸元の銀のプレートにそっと触れた。
ライラの竪琴、テオの咀嚼音、ガリックの豪快な笑い、そして外を走る荷馬車の音。それら全てが重なり合い、不規則で、不完全で、けれど最高に力強い一つの曲を形作っている。
(……ああ。ガント先生が言っていた通りだ。これが、僕たちが守るべき『星帝の調和』なんだ)
星帝がかつて定めた世界の調和。それは、隙のない、冷たいだけの世界のルールではなく、こうした人々の温かな体温が混ざり合う、生命のリズムそのものなのだ。
ランクEへの昇級。
それはまだ、長い物語の序曲に過ぎない。不協和音との戦いはこれからも続く。だが、今のゼノリスには、共に旋律を奏でるかけがえのない仲間と、自分たちを認めてくれた友人たちがいる。
エテルナの夜風は、どこまでも優しく、三人の新しい門出を祝うように吹き抜けていった。




