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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第3巻 黄金の導きと冒険者たち

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第19章:黄金の招宴と白銀の旋律

 自由都市エテルナの朝は、港に停泊する船が鳴らす低い汽笛の音から始まる。「青い星の宿」の窓から差し込む光は、昨日まで見ていた水路の暗い影をすっかり消し去るほどに明るく、そしてどこか賑やかだった。


 ゼノリスは、使い込まれた木のベッドの上で、自分の右手のひらをじっと見つめていた。  昨日の用水路での「調律」。

あの時、指先から伝わってきた「這い寄る鉛糸リードストリング」の不快な震えは、今も微かな熱となって肌の奥に残っている。ガントから託された言葉が脳裏をよぎる。この世界の不協和音は、すでに街の土台というべき暗い深淵から、音もなく這い上がり、確かな侵食を始めているのだ。


「……お兄様、おはようございます。もう、起きていらしたのですね」


 扉が静かに開き、フィリーネが顔をのぞかせた。

彼女はすでに朝の身支度を終えていた。銀色の髪は、朝日を浴びて透き通るような白銀の輝きを放ち、少しだけ大人びた印象を与える淡い色の普段着に身を包んでいる。彼女の瞳は、昨日泥まみれになって一緒に働いた疲れを感じさせないほど、澄み渡っていた。


「おはよう、フィリー。……昨日あんなに働いたのに、早いんだね」


「はい。なんだか、この街の空気は学園の時とは違って、目が覚めるのが早いようです。お兄様の服も、昨日のうちに汚れを落としておきました。さあ、一階へ降りましょう。マーサさんが、焼きたてのパンを準備して待っています 」


 フィリーネはそう言って、ゼノリスの手を優しく引いた。その指先からは、妹としての甘えと、一人の女性としての凛とした強さが混ざり合った、心地よい熱が伝わってくる。


 一階の食堂へ降りると、そこにはすでにエテルナの朝の活気があふれていた。

大きななべから立ち上る湯気と、香ばしく焼けるパンの匂い。ルカが宿泊客の間を元気に走り回り、マーサの豪快な笑い声が壁を揺らしている。


 だが、その賑やかな喧騒けんそうの中に、ゼノリスの耳は、今まで聞いたことのない「美しい旋律」をとらえた。


 窓際の席に、一人の少女が座っていた。

彼女は、膝の上に小さな竪琴たてごとを乗せ、細い指先で一本一本の弦を、慈しむようにはじいている。その音は、水の流れのように清らかで、朝の光に溶けていくような透明感を持っていた。市場の怒鳴り声や、皿の触れ合う音をすべて優しく包み込み、一つの穏やかな音楽へと変えてしまうような、不思議な力があった。


「……綺麗な音」


 フィリーネが、思わず足を止めてつぶやいた。

テオも、すでにテーブルでスープを飲み始めていたが 、その獣の耳をせわしなく動かし、音楽に聞き入っている。


「あ、おはよう、みんな! あの人、ゆうべ遅くにこの宿に来たんだ。吟遊詩人ぎんゆうしじんの、ライラさんっていうんだよ!」


 ルカが嬉しそうに駆け寄ってきて、その少女を紹介した。

少女――ライラは、ルカの声に気づくと、竪琴を弾く手を止めて、こちらを向いて微笑んだ。


 彼女は、旅のほこりにまみれてはいるが、空の青さを映したような深い色のマントを羽織っていた。その瞳は、世界中の美しい景色をその中に閉じ込めたかのように輝いている。


「おはよう。賑やかな朝に、少しだけお邪魔してしまったかな。……私はライラ。風に吹かれるまま、あちこちの街で歌を歌っているの」


 ライラが立ち上がり、丁寧に一礼した。その仕草しぐさの一つひとつが、まるで音楽の続きのように流麗りゅうれいだった。


「……いいえ。とても素敵な音楽でした。私はフィリーネ。こちらは兄のゼノリス、そして友人のテオです」


 フィリーネが、ゼノリスの横に並んで自己紹介をした。

ゼノリスは、ライラの瞳をじっと見つめた。

彼女の周りには、昨日感じたような不快なノイズが一切ない。それは、彼女自身がこの世界を「音」として愛している証拠のように思えた。


「ゼノリス、と言ったかな。……君、面白い耳をしているね。私の竪琴が、ただの音ではなく『言葉』として届いているような……そんな顔をしている」


 ライラが不思議そうに小首をかしげた。

ゼノリスは少しだけ驚いたが、曖昧あいまいに微笑んで答えた。


「……いいえ。ただ、とてもんだ音だと思っただけです。この街の喧騒を、少しだけ忘れさせてくれるような」


「ふふ、ありがとう。私の音楽が、君たちの旅の安らぎになるなら、これ以上の喜びはないわ」


 三人はライラと同じテーブルを囲み、マーサの用意した朝食を口にした。

ライラは、これまで旅してきた国々の話をしてくれた。南の砂漠の国の星空、北の雪山の静寂。彼女の話は、まるで物語のように三人の想像力を膨らませてくれた。


 だが、そんな穏やかな時間は、宿の前に現れた一台の豪華な馬車によって、静かに終わりを告げた。


「……ゼノリス様、フィリーネ様、テオ様。こちらにいらっしゃいますか?」


 馬車から降りてきたのは、昨日のガルドの邸宅ていたくで見かけた、年配の執事だった。彼は、泥にまみれた宿の入り口であっても、一切の迷いなく足を踏み入れ、三人の前で深く頭を下げた。


わたくしは、ベルンシュタイン家に仕える者です。本日は、我があるじ、ガルドより皆さまへ、正式な晩餐ばんさんのご招待を預かって参りました」


 食堂にいた冒険者たちが、一斉にこちらを振り返る。

「あの豪商ガルドが?」

「ランクFの新人にか?」

というささやき声が広がる中、執事は一枚の封筒をゼノリスへ差し出した。


 上質な紙に、黄金色のろうで封がされた招待状。そこには、昨日の礼を尽くしたいという言葉と 、今日の夕刻に屋敷へ来てほしいという内容が、美しい文字で記されていた。


「……正式な、招待か」


 ゼノリスが呟くと、フィリーネが少しだけ困ったように、自分の服を見下ろした。


「……お兄様、困りました。私たちは旅の途中で、あのような立派なお屋敷にふさわしい正装など、持ち合わせておりません」


 学園にいた頃の正装は、あの脱出の際に置いてきてしまった。今の彼らは、使い込まれた旅装束と、鉄色のプレートを持っただけの冒険者なのだ。


 すると、それを見ていた執事が、微笑みながら言った。


「その点は、ご安心ください。あるじは、皆さまのありのままの姿でお越しいただくことを、何よりも望んでおられます。……それでも気になるのであれば、街の仕立屋を手配いたしましょう」


「……いえ、そこまでしていただく必要はありません。……僕たちは、今の自分たちのままでうかがいます。それが、冒険者としての僕たちの今の姿ですから」


 ゼノリスがはっきりと答えると、フィリーネも深く頷いた。


「はい。お兄様の言う通りです。……テオ、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。美味しいご飯を食べに行くだけだと思えば」


「……う、うん。でも、ガルドさんの屋敷って、すごくいい匂いがしそうだから……お腹が鳴っちゃわないか心配なんだ」


 テオの少し抜けた答えに、ライラが楽しそうに笑い声を上げた。


「ふふ、楽しそうなパーティーになりそうね。……せっかくだから、私の音楽で、皆さまの出発を祝わせてもらおうかしら」


 ライラが再び竪琴を手に取り、軽やかなリズムを刻み始めた。それは、勇気を奮い立たせるような、明るく希望に満ちた調べだった。


それから、三人は夕刻までの時間を、それぞれ道具の入れ替えや休息にあてて過ごした。やがて太陽が大きく傾き、エテルナの街並みが黄金色に染まり始めた頃、迎えの馬車が宿の前に到着した。


宿を出る際、ゼノリスはふと振り返って、ライラの背中を見つめた。彼女の弾く音楽は、どこまでもみ渡っていて、昨日感じた「不協和音」のことなど忘れてしまいそうになるほどだった。


 だが、ゼノリスの耳の奥では、遠い地下から響いてくるような、不気味な低い震えが、わずかに、しかし確実に続いている。


(……黄金の招宴。……その影で、何かが脈打っている)


 ゼノリスは、ポケットの中の鉄色のプレートを強く握りしめ、馬車へと乗り込んだ。

エテルナの街並みが、窓の外をゆっくりと流れていく。

坂を登り、街の最上部、白大理石が美しいベルンシュタイン邸が見えてきた時、空には夕焼けの黄金色が広がり始めていた。


 これから始まる晩餐ばんさんが、単なる食事以上の意味を持つことを、ゼノリスは本能的に察していた。


「……行きましょう、お兄様。どんな場所であっても、私がそばにいます」


 フィリーネが、ゼノリスの隣で凛とした声をかける。

彼女の瞳には、かつての弱かった妹の影はなく、運命を切り開こうとする強い「星の光」が宿っていた。


 三人は馬車を降り、巨大な鉄製の門をくぐった。

そこには、エテルナの富のすべてを集めたかのような、まばゆいばかりの黄金の招宴が待ち構えていた。



巨大な鉄製の門を潜り抜けた先には、整えられた白い石の道が、夕闇の中に浮かび上がる白亜はくあの邸宅へと真っ直ぐに続いていた。道の両脇には、等間隔で意匠を凝らした魔導灯が並び、温かな琥珀こはく色の光が三人の足元を優しく、しかし明瞭に照らし出している。海から吹き上げる夜風が庭園を通り抜けるたび、丹念に手入れされたバラの濃厚な香りが鼻をくすぐり、遠くの港から聞こえる低い潮騒と混ざり合って、この場所がエテルナの繁栄の頂点であることを無言のうちに告げていた。


「……すごいね。学園の貴賓館きひんかんも十分に立派だったけれど、ここはもっと、生きている力が溢れている感じがするよ」


 テオが背負った漆黒の重盾を直しながら、圧倒されたような面持ちで巨大な石柱を見上げた。昨日までの、泥と不快な臭いにまみれた用水路での過酷な仕事 とは、あまりにもかけ離れた光景だ。テオの獣の耳は、周囲の豪奢ごうしゃな気配を警戒するように、あるいは好奇心にあらがえないようにピクリと揺れ続けていた。


「ええ。エテルナの富のすべてが集まっているといううわさは、どうやら本当のようです。……お兄様、足元にお気をつけて。この石畳、鏡のようにみがき抜かれていて、夜露で少し滑りやすくなっていますから」


 フィリーネはそう言いながら、ゼノリスの隣で凛としたたたずまいを保っていた。彼女は正装ではないものの、宿のマーサが貸してくれた清潔なレースのショールを薄い肩にかけ、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩く。その姿は、豪華な邸宅の景色に自然と溶け込みつつも、決してその華やかさに飲み込まれない、凛とした気品を放っていた。


「ああ、ありがとうフィリー。テオも、あまり上ばかり見てると転ぶぞ。……それにしても、この庭の空気は、街の喧騒けんそううそのように澄んでいるね」


「わかってるって。でもさ、ゼノリス。あの建物の彫刻を見てよ。あれ、全部本物の金じゃないかな? それに、あの玄関を守っている獅子の像の目……あれはきっと、最高級の魔石だよね?」


 テオが目を輝かせて指差した先では、邸宅の正面玄関を睥睨へいげいするように、二体の獅子の像が鎮座していた。その瞳には深い色彩をたたえた魔石が埋め込まれ、夜のとばりの中で、まるで生きているかのようなあやしくも神々しい光を放っている。


 三人が玄関の幅広な階段に足をかけたその時、重厚な正面扉が内側から勢いよく開かれた。


「ゼノリス様、フィリーネ様! お待ちしておりました!」


 中から弾かれたように一人の少女が姿を現した。クララだ。今日の彼女は、先日、森で魔獣に襲われていた時の悲劇的な姿 とは、まるで見違えるようだった。淡い桜色のシルクに真珠を散りばめたドレスを纏い、結い上げられた柔らかな栗色の髪には、窓から漏れる光を受けて繊細なティアラが誇らしげに輝いている。


「クララさん、わざわざ出迎えまで。ありがとうございます。すっかり元気になられたようで、本当に安心しました」


 ゼノリスが穏やかに会釈をすると、クララは頬を林檎りんごのように赤らめ、階段を軽やかに駆け下りてきた。彼女は感極まった様子で、ゼノリスの武骨な手を自らの小さな両手で包み込むように握りしめる。


「皆さまにまたお会いできるのを、ずっと楽しみにしていました。……あの、あの時のお花、父に無事に届けることができたんです。本当に、ありがとうございました」


 彼女の潤んだ瞳には、救い主への純粋な感謝以上の、隠しきれない憧れの色がにじんでいた。その熱に浮かされたような視線を、フィリーネが見逃すはずもなかった。


「……あら。お元気そうで何よりです、クララ様」


 すぐ隣から、冷ややかな風が吹き抜けたような錯覚をゼノリスは覚えた。フィリーネが、すきのない完璧な微笑みを浮かべながら、クララとゼノリスの間にそっと、しかし確実な力強さで割り込んだのだ。彼女は優雅な仕草でクララの手をゼノリスから引き離すように取ると、そのまま自分の方へと引き寄せた。


「お兄様も、昨夜はクララ様のことをとても案じておられました。ですが、あまり強く握られますと、お兄様の昨日負った戦いの疲れがぶり返してしまいます。……ね、お兄様? 昨夜もお疲れのようでしたから、あまり無理をさせてはいけませんよ」


「え? ああ、そうだったかな……。確かに少し、腕が重い気はするけど」


 ゼノリスが戸惑いながら答えると、フィリーネはさらに言葉を重ねる。その声はどこまでも優しく、しかしクララに対して有無を言わせぬ拒絶の響きを含んでいた。


「いいえ、お気になさらないで。お兄様のことは、学園にいた五年間、私がずっと一番近くで見守って参りましたから。お兄様は、少しでも無理をなさると、無意識に左のまゆを寄せる癖があります。そんな時は、私が横でそっと温かいお茶をいれて差し上げるのが、私たちの決まった形でした。……他の方には、少し分かりにくい変化かもしれませんけれど」


 フィリーネは流麗な動作でゼノリスの二の腕に自らの腕を絡めた。それは単なる親愛の情を超え、彼という存在の些細な変化さえ理解しているのは自分だけであるという、静かな、しかし絶対的な宣言だった。クララはフィリーネから放たれる圧倒的な「理解者」としてのオーラに圧され、たじろぎながら手を離した。


「……そう、なのですね。フィリーネ様は、本当にゼノリス様のことを大切に思っていらっしゃるのね」


「ええ。何よりも大切な、私の『お兄様』ですから。さあ、クララ様。お父様をお待たせしては申し訳ありません。中へ案内していただけますか?」


 フィリーネに促され、クララは少しだけ寂しげな色を瞳に浮かべながらも、気を取り直したように三人を出迎えると、広大な邸宅の奥へと案内した。


 晩餐ばんさんの広間は、天井に吊るされた巨大な魔石のシャンデリアが黄金の光を雨のように振り撒き、長大なテーブルには一点の曇りもない銀の食器と、香ばしい香りを漂わせる色とりどりの料理が並べられていた。


「ようこそ、ベルンシュタイン家へ。……さあ、形式張った挨拶は抜きにしよう。今夜は君たちの勇気と再会を祝うための夜だ」


 席に着くと、あるじであるガルドが穏やかな笑みを浮かべて現れた。彼は三人の旅装束を気にする様子もなく、対等な客として温かく迎え入れた。ガルドの合図で、次々と色鮮やかな料理が運ばれてくる。


「ガルドさん、このお肉、すごく美味しいです! むと中から肉汁が溢れてきて……学園の食堂ではこんなの出たことありません!」


 テオは目の前の厚切り肉を頬張り、顔をほころばせている。その隣で、フィリーネも優雅に、しかし手際よくナイフを動かしていた。


「はい、とても繊細せんさいな味付けで驚きました。このソースに使われているのは、エテルナ特産の果実でしょうか? ほのかな酸味が、お魚の脂の甘みを美しく引き立てていますわ」


「お目が高い。流石さすがはフィリーネさんだ。娘から聞いた通り、皆さんはただの新人冒険者とは思えぬほど、洗練された雰囲気をお持ちだ。……ゼノリス君、君はどうかな? あまり食が進んでいないようだが、お口に合わないだろうか」


 和やかな会話が続く中、ゼノリスだけは、手に持った銀のナイフが伝える「微かな震え」に眉を寄せていた。料理を口に運ぼうとするたび、銀の食器が指先を通して、心臓の奥を直接かき乱すような不快な高周波を伝えてくるのだ。


(……なんだ、この音は。食卓を囲む穏やかな響きとは、明らかに違う)


 ゼノリスの鋭い感性は、部屋を流れる優雅な音楽の裏側で、不気味な不協和音をとらえていた。ふとテーブルに置かれた最高級のワインを見れば、その表面には、誰の会話による振動とも無関係な、細かく鋭い波紋が絶えず立ち続けている。


「……ゼノリス君?」


「いえ、失礼しました。料理はどれも、信じられないほど美味しいです。ただ……少し、建物の響きが気になりまして。ガルドさん、最近、この屋敷の地下で何か変わったことはありませんでしたか?」


 ゼノリスの問いに、ガルドの表情が微かに曇った。彼は手にしたグラスを静かに置き、重い溜息ためいきをついた。


流石さすがだな、君の耳は。……実はテオ君、先ほど君が美味しいと言ってくれたその肉も、今日はギリギリの状態で届いたものなのだよ。もう少し遅ければ、客に出せる状態ではなくなっていた」


「え? どういうことですか? こんなに美味しいのに、腐りかけてたとか?」


 テオがフォークを止めて不思議そうに首を傾げると、ガルドは深刻な面持ちで語り始めた。


「いや、肉そのものの質の問題ではない。ここ数日、エテルナの物流が『詰まって』いるのだよ。ただの商売の停滞ではない。わが街の命綱である『輸送用加速回路』が、正常に機能していないのだ」


「加速回路? それって、あの空にたまに見える虹のことですか?」


 テオが食事の手を止めて身を乗り出した。ゼノリスもフィリーネも、ガルドの言葉の真意を探るように耳を澄ませる。


「察しがいいね。あれはただの虹ではない。あらかじめ決められた時間に、高度な魔導回路が精密に作動して作り出す『空間の抜け道』なのだよ。その虹のような空洞の中を通れば、たとえ大量の荷であっても、一瞬で隣の国まで運ぶことができる。エテルナが自由都市として繁栄しているのは、この回路があるからこそなのだ」


「なるほど、空間を繋いで距離をゼロにする……。でも、それが動かないというのは?」


 ゼノリスの問いに、ガルドは苦渋の色を浮かべた。


「その虹を架けるには、膨大な魔力の『波』を正確に合わせる必要がある。だが、その発動のタイミング――いわば音の拍子が何者かに乱されてしまい、今は虹を作り出すことすらできないのだ。荷物を送り出すタイミングが完全に失われ、港には行き場を失った物資が山積みになっている」


「単なる装置の故障ではなく、エテルナの街を流れるリズムそのものが、根底から乱されているのですね……」


 フィリーネが、ゼノリスの横顔を案じるように見つめながら、静かに付け加えた。ゼノリスは、ワインの表面に立つ波紋が、ガルドの言葉に合わせてさらに激しく震えるのを見た。


「その通りだ。エテルナの繁栄は、この見えない『魔導の循環』の上に成り立っている。それが原因不明の不調で止まりかけているのだよ。このままでは、冬を越すための物資すら確保できなくなる住民が出るだろう。富める者だけではない、貧しい子供たちの食事までが、この『詰まり』に奪われようとしているのだ」


「一人や二人の職人ではない、街で一番の技師たちに見せても原因がわからんのだよ。……君のその耳なら、この『不協和音』の正体が見えるかもしれない」


 ガルドの瞳には、豪商としての責任感と、街を愛する者としての切実な願いが宿っていた。ゼノリスは、再びナイフを握り直した。指先に伝わる不快な脈動。その正体。それは「這い寄る鉛糸リードストリング」 が、意志を持った巨大な塊として成長し、この街の心臓部を締め付けている音だった。


「お父様、でしたら、ゼノリス様たちに見ていただくのはどうでしょう? きっと、昨日のように、解決してくださるはずです!」


「……もちろん、お引き受けするのは構いません。ですがクララ様、お兄様は冒険者であり、魔法の便利屋ではありません。私たちは、ギルドの依頼として正式に動く立場です」


 フィリーネが静かに、しかし明確なくぎを刺すように付け加えた。


「事態の重さを見極めた上で、私たちがステラ・レギオンとして判断いたします。……ね、お兄様?」


 ゼノリスは頷き、ガルドへと視線を向けた。


「わかりました。晩餐の後で構いません。その地下を見せていただけますか。……僕にしか聴こえない音が、そこにある気がします」


 ガルドは安堵あんどしたように深く息を吐いた。窓の外では、エテルナの空が深い紺色へと溶け落ち、黄金の光に包まれたうたげのすぐ真下で、正体不明の脈動が、獲物を待ち構えるように静かに震えていた。



豪華な晩餐ばんさんの余韻が残る広間を後にし、一行はガルドの案内に従って邸宅のさらに奥、厳重な警備が敷かれた一角へと進んだ。

華やかな絨毯じゅうたんが敷かれた廊下の突き当たり、壁と同化したような隠し扉をガルドが特殊な魔導鍵で開くと、そこには下へと続く長い石造りの階段が姿を現した。


 一段降りるごとに、空気の質が変わっていく。

階段を照らす魔導灯の光は、地上に比べてどこか青白く、そして頼りなげに揺れているように見えた。


「この先に、ベルンシュタイン家の、そしてこのエテルナの物流の心臓部がある。……ゼノリス君。君に、すべてを賭けることになってしまうかもしれない」


 ガルドの声は重く、階段に低く響いた。先ほどまでの食卓で見せていた柔和なあるじの顔はなく、そこにあるのは街の命運を預かる商人の、悲痛なまでの覚悟だった。


「……階段を降りる前から、耳の奥に響く音が強くなっています。かなり近いですね」


 ゼノリスは自身の右手のひらをじっと見つめ、ゆっくりと握り込んだ。

指先を通して伝わってくるのは、単なる地下の湿り気ではない。何千、何万という複雑なリズムが絡まり合い、それが無理やりじ切られたような、重苦しいよどみが空間を支配していた。


「……空気が重いです。学園の地下書庫で感じた、あの肌を刺すような不快な気配に似ています」


 フィリーネが、ゼノリスのすぐ斜め後ろで油断なく周囲を警戒した。彼女の手はすでに腰の魔導具へと添えられており、いつでも兄を援護できる態勢を整えている。その瞳には、先ほどの食事の際に見せた少女の面影はなく、一人の魔導師としての冷徹な集中力が宿っていた。


「僕も、なんだか鼻がムズムズするよ。ほこりっぽいだけじゃない、何かが腐りかけてるような……鉄がびた時みたいな変な匂いだ」


 テオが鼻をひくつかせながら、背負った漆黒の重盾の重みを確かめるように肩を揺らした。


 階段を降りきった先に広がっていたのは、見渡す限りの広大な円形空間だった。

天井まで届くほどの巨大な棚には、最高級の梱包こんぽう材で包まれた商品や、微細な回路が組み込まれた精密な魔導具が整然と並べられている。本来であれば、ここはエテルナの繁栄を象徴する、活気に満ちた場所であるはずだった。


 しかし、一行がその最奥へと足を踏み入れた瞬間、ガルドの足が凍りついたように止まった。


「な……これは……。一体、何が起きているんだ……」


 ガルドの手から魔導鍵が滑り落ち、石畳に高い音を立てて転がった。

物流を支える「輸送用加速回路」の核――巨大な水晶の円柱装置。昨日、技師たちが「不調だ」と報告してきた時には、まだその透明な輝きを保っていたはずの装置が、今は見るも無認な姿に変貌へんぼうしていた。


 水晶の表面には、太い血管のような、禍々(まがまが)しい漆黒の「這い寄る鉛糸リードストリング」がびっしりと絡みついていた。それは単なる汚れではなく、まるで脈動する生き物のようにドクン、ドクンと不気味にうごめき、水晶の内側から溢れ出すはずの青い魔力を、泥のような黒濁こくだくへと塗り潰していた。


「……知らなかった……。ここまで、汚染がひどくなっていたなんて……」


 ガルドは唖然あぜんとしたまま、その異形いぎょうの光景に目を奪われ、深い沈黙に沈んだ。技師たちが触れることさえできなかった理由を、彼は今、本能で理解した。これはもはや機械の故障などではなく、この世のことわりを侵食する「呪い」そのものだった。


「……ゼノリス君、危ない。近づいてはいけない!」


 ようやく絞り出したガルドの制止も、ゼノリスの耳には届いていないようだった。

ゼノリスは、引き寄せられるように装置へと歩みを進める。耳の奥では、地底から突き上げてくるような低い振動が、靴の裏を通して全身を揺さぶっていた。


「輸送回路が虹を架けようとするリズムを、この鉛糸がすべて吸い取って、腐らせている。……拍子が合わなければ、虹は形を成さない。街中の焦りや不満が、ここにまって叫んでいるんだ」


 ゼノリスの声は、どこか遠くを見つめているように静かだった。

彼はゆっくりと、しかし迷いのない動作で右手を装置へと伸ばした。


 黒い糸に指先が触れた瞬間、氷水を浴びせられたような激しい衝撃がゼノリスを襲った。

数えきれないほどの人々の困惑、届かない物資への焦燥、そして停滞が生み出した「負の感情」が、濁流となって彼の意識を飲み込もうとする。


(……くっ……! 用水路の時とは、密度が違う……!)


 ゼノリスの視界がゆがみ、闇に呑まれそうになったその時だった。

彼の五感の端に、一点の清らかな「音」が触れた。


 すぐ後ろで自分を見守るフィリーネ。彼女から放たれる魔力は、銀髪の輝きと同じように澄み渡り、一切の雑音を寄せ付けない純粋な旋律を奏でていた。ゼノリスはその白銀の響きを基準音チューニングフォークとして、自身の意識をつなぎ止めた。


「……思い出せ。僕の力は、壊すためにあるんじゃない。……あるべき形に、戻すためにあるんだ……!」


 ゼノリスは、フィリーネの魔力と自身の波長を共鳴させた。彼女の揺るぎない「白銀の旋律」を導き手として、狂った拍子を一つひとつ丁寧に、優しく整えていく――それは荒々しい破壊ではなく、世界を本来の響きへと戻すための、命懸けの「調律チューニング」だった。


 キィィィィィィィン、という、鋭くも透明な音が空間を貫いた。

次の瞬間、水晶に絡みついていた黒い鉛糸が、まるで熱に焼かれた氷のように、光の粒子となって霧散していった。濁っていた水晶の奥から、清浄な青い光が力強く溢れ出す。


「……はぁ、はぁ……っ!」


 ゼノリスが膝をつくと同時に、装置から一定の、心地よいリズムの駆動音が響き始めた。  物流の「拍子」が正しく刻まれ始めた証拠だった。その一定のリズムに従って、装置から空へと向かって魔力の波動が放たれる。それは明日、再び空に虹を架け、空間をつなぐための揺るぎない「道標みちしるべ」となった。


「あ……ああ……」


 ガルドは、言葉を失ったまま装置の前に膝をついた。再び青く輝き始めた水晶を見つめる彼の瞳には、涙が浮かんでいた。


「……奇跡だ。……ゼノリス君、君は、ただの冒険者ではない。エテルナの光を、私たちの明日を救ってくれたんだ」


 ガルドの声は震えていた。それは感謝という言葉では到底足りないほどの、深い敬意に満ちた呟きだった。


「……よかった。……でも、ガルドさん。これはまだ、表面の汚れを落としただけに過ぎません」


 ゼノリスは、駆け寄ってきたフィリーネに肩を支えられながら、絞り出すように言葉をつないだ。


「鉛糸は、消えたわけじゃない。この街の土台……もっと暗い深淵から、まだ不気味な響きが続いています。今回はこの装置が一番敏感だったから、そこに溜まって、目に見える形になっただけなんです」


「……この街の、土台から」


 ガルドが、自身の足元の石畳を不安げに見つめた。

ゼノリスの耳には、事件が解決した喜びの声に混じって、地底から響く不気味な低音が、依然として消えることなく響き続けていた。


 エテルナをむしばもうとする不協和音との戦いは、まだその序章を終えたに過ぎないのだ。


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