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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
運命の種火
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第1章:黄金の麦畑と嵐の夜の授かりもの

 星が止まったあの日から、三つの実りの季節が過ぎ去った。


 八つの国の地図からも忘れ去られた、大陸の最果て。幾重いくえにも重なる険しい山なみに守られたこの場所は、今年も豊かな黄金色の波に包まれている。地平線の先まで続く麦の海。その中を、まるで泳ぐようにして元気に駆けていく、ひとりの幼い子がいた。

「ゼノ、そっちは危ないわよ! あまり遠くまで行かないでね」

 あたたかな日差しの中、透き通った声が響く。声を上げたのは、母親のミリアだった。かつて王宮の深い地下で、誰にも知られてはいけない大切な本を守っていたその手は、今ではすっかり農家の暮らしに馴染んでいる。少しだけたくましく、けれど相変わらず白く美しいその手は、いまは土の匂いに包まれていた。彼女は腰を伸ばして、額の汗をぬぐいながら、麦の穂の隙間からひょこっと飛び出した小さな頭を、愛おしそうに見守った。

「大丈夫だよ!母さん、お花、きれいだよ!」

 振り返った幼い子―ゼノリスが、おひさまのような笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。三歳になった彼は、よく食べ、よく眠り、驚くほどの速さですくすくと育っていた。右の瞳には、陽だまりのような黄金の星。左の瞳には、吸い込まれるような深い夜の闇。その不思議な瞳を初めて見た村の人たちは、最初こそ驚いていたけれど、彼の無邪気な笑顔と、両親の深い愛情に触れるうちに、いつしか「幸せを呼ぶ、星の瞳」として、村の宝物のように大切に思うようになっていた。

 ゼノリスがミリアの足元までたどり着くと、彼は大切そうに両手に抱えていたものを差し出した。それは、この季節には咲くはずのない、鮮やかな青色をした名前も知らない野花だった。

「これ、あげる。母さんに、とっても似合ってるよ!」

「あら……まあ、なんて綺麗。ありがとう、ゼノ」

 ミリアは花を受け取り、ゼノリスをぎゅっと抱きしめた。その小さな体からは、おひさまのようなぬくもりと、かすかに森の奥深くにある、きれいな川の流れのような、不思議な香りがした。ミリアはふと、ゼノリスが走ってきた足跡を振り返る。そこには、彼が踏みしめた場所にだけ、次々と小さな芽が吹き出し、あっという間に花が咲き誇っていた。

「(……また、力がこぼれ出しているのね)」

 ミリアは微笑んだまま、胸の奥で小さくため息をついた。ゼノリス自身は気づいていない。彼が「きれいだ」と感じたもの、彼が「生きてほしい」と願ったものが、彼の思いとは裏腹に形になってしまう。それはかつての帝国でも、どこの国の王様であっても、決して許されることのない、神様にしか許されない不思議な力。

「ミリア、ゼノ。そろそろ家に戻ろうか。空の様子が少しおかしいんだ」

 麦を刈る手を止めて、父親のロランが近づいてきた。彼はたくましい腕でゼノリスをひょいと肩車に乗せると、目を細めて北の空を見上げた。さっきまでの抜けるような青空が嘘のように、山の向こうからどす黒い雲が、ものすごい速さで迫ってきている。

「風が泣いている……。これは、ただの雨じゃなさそうだ」

 ロランの言葉通り、風が急に冷たくなり始めた。黄金色に輝いていた麦の海が、ざわざわと不穏な音を立てて波打ち始める。ゼノリスは、父さんの肩の上で、一点をじっと見つめていた。

「……誰か泣いてるよ」

「え?ゼノ、いま何て言ったんだい?」

「お山の向こう。だれかが、怖いよって、泣いてるんだ。父さん」

 ゼノリスの小さな指が、嵐の向こう、険しい山道を指差した。ロランとミリアは顔を見合わせた。魔法の心得があるふたりでさえ、まだ何も感じ取れてはいない。けれど、ゼノリスの「左の瞳」が、何かを恐れるように深く沈み、「右の瞳」が助けを求めるように激しくまたたいていた。


 その夜。村を、今まで誰も経験したことがないほどの大嵐が襲った。激しい雨が屋根を叩き、雷が夜の空を真っ白に引き裂く。ロランは、怯えて眠るゼノリスをミリアに託すと、厚手のマントを羽織って外へ出ようとした。

「ロラン、行かないで! 外はあまりにも危険よ」

「……いや、ゼノの言った通りだ。さっきから、山道の方で悲鳴のようなものが風に乗って聞こえてくる。誰かが行き倒れているはずなんだ」

 ロランは壁に掛けていた古い剣を手に取った。それは農家として生きるようになってから、一度も抜いたことのない、かつて帝国の重要な書物を守っていた『書架騎士しょかきし』の誇りそのもの。知恵を蓄え、剣を振るう、選ばれた者だけが持てる武器だ。彼はミリアの肩を優しく叩くと、嵐の闇の中へと飛び出していった。

 ぬかるむ山道を駆け抜け、ロランがたどり着いたのは、崖崩れで動けなくなっていた一台の立派な馬車だった。あたりには、悪い者たちに襲われた形跡があり、馬車を守ろうとした者たちが、静かに倒れていた。激しい雨の音だけが、虚しく響いている。

「……間に合わなかったか」

 ロランが悔しそうに呟き、立ち去ろうとしたその時。激しい雷の光があたりを照らし出し、壊れた馬車の瓦礫がれきの下から、小さく、けれど力強い赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「――っ!?」

 ロランは夢中で瓦礫をどかした。そこには、冷たくなってしまった女性の腕に抱かれるようにして、ひとりの赤ん坊がいた。赤ん坊を包んでいたのは、泥に汚れながらも、隠しきれないほど気品のある絹の産着。そしてその胸元には、ロランの心臓を射抜くような、あの「紋章」が刻まれていた。

「八星の王族……いや、これは……」

 ロランはあたりの様子を素早くうかがい、赤ん坊をそっと抱き上げると、自分の服の中に隠して嵐の山道を駆け下りた。この子が生きていると知られれば、間違いなく追っ手が来る。けれど、見捨てることなんてできなかった。この赤ん坊の泣き声が、家で待つゼノリスの叫びに重なって聞こえたからだ。


 家に戻り、ずぶ濡れのロランが赤ん坊を差し出したとき、ミリアは声も出せずに立ち尽くした。

「ミリア、すぐにあたたかいお湯を。……この子は、とてつもない運命を連れてきたようだ」

 ロランが赤ん坊をベッドに寝かせると、それまでうなされていたゼノリスが、ふっと目を覚ました。彼はよろよろと歩み寄り、不思議そうに、けれどとても優しい顔で赤ん坊を見つめる。

「……あ、いたんだね」

 ゼノリスが、そっと赤ん坊の小さな手に触れた。その瞬間、家を揺らしていた激しい嵐が、まるで嘘のように、ぴたりと止んだ。雲の切れ間から、やわらかな月の光が窓から差し込み、ふたりの子供を静かに照らし出す。

「この子は……そう、フィリーネ。今日から、君の大切な妹だよ」

 ロランの言葉に、ゼノリスはこっくりと頷いた。赤ん坊――フィリーネは、ゼノリスの指をぎゅっと握り返し、安心したように深い眠りに落ちていった。

 窓から差し込むやわらかな月の光は、ただ静かに、寄り添うふたりの小さな寝顔を包み込んでいた。


 明くる朝。ゆうべの嵐がうそだったかのように、空はどこまでも高く、澄み渡っていた。窓の外に広がる麦畑は、雨のしずくをきらきらと受けて、まるで宝石をちりばめた海のように輝いている。

 ゼノリスは、まだひんやりとする木の床をはだしで踏みしめ、そっと、寝室のベッドのそばへ歩み寄った。そこには、ゆうべ父さんが抱えて帰ってきた、小さなお客様が眠っている。

「……起きてる?」

 ゼノリスが小さな声でささやくと、白いシーツに包まれた赤ん坊が、もぞもぞと動いた。ふっくらとした、桃のような頬っぺた。ぎゅっと結ばれた、小さな、小さな、もみじのような手。ゼノリスは、息を止めてその顔を見つめた。自分よりもずっと小さくて、壊れてしまいそうなほど、はかない命。

 そのとき、赤ん坊がゆっくりと目を開けた。透き通るような、けれどどこか寂しげな深い色の瞳が、じっとゼノリスを見つめ返す。次の瞬間、赤ん坊の顔がくしゃりとゆがみ、小さな唇がふるえ始めた。

「ふ、ふえぇ……っ、うわぁぁぁん!」

 静かな朝の部屋に、元気いっぱいの泣き声が響きわたる。ゼノリスはあわてて両手を動かした。どうしたらいいのか分からなくて、けれど「泣き止んでほしい」と、心から願った。

「泣かないで、いい子、いい子だよ。……よしよし」

 ゼノリスが、母さんの真似をして、赤ん坊の胸のあたりをそっと叩いてあげる。すると、彼の指先から、ほんのりとあたたかな、黄金色の光がこぼれ出した。それはお日さまの光をぎゅっと集めたような、とても優しい輝きだった。

 赤ん坊は、その光に包まれると、不思議そうに泣き止んだ。それどころか、ゼノリスが差し出した人差し指を、小さな手でぎゅっと握りしめたのだ。

「あ……笑った」

 ゼノリスの胸の中に、今まで感じたことのない、むず痒いような、けれどとてもあたたかな気持ちが込み上げてきた。この子を守ってあげたい。この子を、ずっと笑わせてあげたい。三歳のゼノリスの心の中に、初めて「兄」としての誇らしい気持ちが芽吹いた瞬間だった。

 台所から、朝ごはんを準備するあたたかな湯気の香りが漂ってくる。ミリアがそっと部屋を覗くと、そこには赤ん坊の顔を覗き込みながら、一生懸命に自分の知っている歌を歌ってあげているゼノリスの姿があった。

「ゼノ、もうお兄ちゃんをしているのね」

「母さん! この子、ゼノの指、つかまえたんだよ! とっても、力持ちなんだ!」

 自慢げに話す息子の姿に、ミリアは微笑みながらも、夫のロランと視線を交わした。赤ん坊のそばでゼノリスが笑うたび、部屋の隅に置かれた観葉植物がぐんぐんと背を伸ばし、見たこともない色の花を咲かせている。

 ゼノリスの中にある「魔王」と「勇者」の力。そして、この赤ん坊―フィリーネが背負っている、帝国の重すぎる血筋。このふたりを一緒にしておくことは、いつか世界を敵に回すことになるかもしれない。けれど、見つめ合って笑う幼いふたりの姿は、そんな不吉な予感を吹き飛ばしてしまうほど、清らかで、美しかった。

「父さん、母さん。ゼノ、この子、だいすき」

 ゼノリスは、フィリーネの額に、自分の額をこつんと合わせた。二人の小さな魂が触れ合った瞬間、村を囲む黄金の麦畑が、祝福するように大きく、静かに揺れた


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